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昭和の15年戦争史(50)

降伏文書調印式(2)

 降伏文書調印の日本代表重光が天皇への内奏に際してしたためた案文を掲載する。
                        臣 葵
 大命を奉じ将に東京湾上米艦に到り、天皇及日本政府を代表して降伏文書に署名調印せんとす。之に依ってポツダム三国宣言の受諾は正式に確定する次第にして、今後日本及日本国民上下の忍苦は長期に亘りて極めて深刻なるものあるべし。聯合軍は既に上陸を開始し空海は急速に其の管理に帰しつつあり。
 ポツダム宣言なるものは其の内容は概括的にして其の運用は敵側の意図如何によって伸縮の余地多し。若し占領軍に於て我方の誠意に疑問を有つに至らは、事態は直に悪化し其の結果は計り知り得ざるものあり。
 一旦受諾したる義務を忠実に履行することは、国際信義の上より当然の事なるのみならず、此の当然の義務を最も明瞭に誠意を以て果すや否やは今後我国の死活の懸る岐るる所となれり。
 而して我の受諾したるポツダム宣言なるものの内容を検するに、今後の日本を建設する上に於て何等支障となるものを含まざるのみならず、過去に於て犯したる戦争の過誤を将来に於て繰返さざるべき重要なる指針を包蔵す〔る〕ものなり。
 蓋し帝国今日の悲境は畢竟帝国の統治が明治以来一元的に行われざりし点に其の源を発せることを認めざるを得ず。
 天皇の御思召しは万民の心を以て基礎とせられ、陛下が国民の心を以て心とせられることは我々の日常拝承せる処にして、一君万民は日本肇国以来の姿なるが、何時の間にか一君と万民との間に一つの軍部階級を生じ、陛下の御意は民意とならず、民意は又枉げられ、国家全体の充分関知せざる間に日本は遂に今日の悲運に遭遇せり。
 若し日本が将来一君万民の実を挙げ、陛下の御心を国民の心とし、国民の意のある所を以て陛下の御思召しとなすに於ては肇国の姿は還元せられ、ポツダム宣言の要求する民主々義は実現せらるべし。言論、宗教、思想の自由と云い、基本的人権の尊重と云い、総て我国本然の精神に合する次第で、明治維新に依って已に其の実現の巨歩を進め、今日は更に其の完成に邁進すべき時に到遂せる次第なり。
 然れども、今日は明治当初とは世界の情勢を異にし、我敗戦の規模は未曾有の事に属す。而已(のみ)ならず、戦勝を以て我に臨むものは単に民主々義国たる米英等に止まらず、共産主義国たる蘇聯をも含む。現に蘇聯が民主々義の名の下に欧亜の諸国を実力を行使して共産蘇聯化しつつある政策は、已に余りに世人の耳目に顕著なり。此点に於て今帝国は内外に亘りて長く危局に面する次第なり。
 帝国は宜しく活眼以て世界戦後の新情勢を洞察して、国を挙げて更始一新、勇断、邁進、明治当初に倍する革新的努力を以て、デモクラシ社会に進出するに非〔ざ〕れば、恐らく外に対して国際的に進路を開拓するに由なく、内国民をして萎縮退嬰せしめ、遂に国家として将来の希望を喪失するに至るべし。
 仍(より)て今日に於てポツダム宣言の忠実確乎たる実施によって国際信用の回復を期し、他方国民精神の高揚を計り、新時代の要求に副う新日本の建設に対し新たなる決意を要すと思考せらる。

 この案文に沿った内奏が行われた。降伏文書調印式に臨む手記は次のように続く。


 陛下は記者のメモによる内奏を御聴取りになり、力強く、外務大臣の言葉は完全に朕の意に叶うものである。其の精神で使命を果して貰い度い。と仰せられた。之れで記者も愈々万事、心用意は整った訳である。
 鈴木前内閣総辞職の際、迫水〔久常〕書記翰〔官〕長の取り計いと見え、記者を貴族院議員に推薦任命されたが、記者は今日専心終戦の任に当って他を顧みることが出来ぬのみならず、已に上奏をもなした如く終戦に依って日本の更始一新を要する機に臨み、日本の政治機関中最も改革を要するものの一つたる貴族院に列するの矛盾を感んじ、直に辞任するに至った。

 九月二日午前三時起床、竹光秘書同伴、総理官邸に向った。
 出発前筆を揮って、
  ながらへて甲斐ある命今日はしも しこの御楯と我ならましを
  願くは御国の末の栄え行き 吾名さげすむ人の多きを
と書き残して置いた。
 集まるものは梅津全権の外、随員として外務省からは岡崎〔勝男〕終戦事務局長官、加瀬〔俊一〕情報部長〔内閣情報局第三部長〕、太田〔三郎〕終戦事務局部長の三名、陸軍より参謀本部第一部長宮崎〔周一〕中将の外、陸軍省永井〔八津次〕少将及杉田〔一次〕大佐、海軍から横山〔一郎〕、高〔富〕岡〔定俊〕両少将〔柴勝男大佐帯同〕であった。
 朝食後午前五時首相官邸出発、見渡す限りの焼野原を見て横浜に向う。   薄暗き朝まだき出で横浜の 沖に向へる人言葉なし
 六時過神奈川県庁着。
 鈴木九万公使等の連絡官に迎えらる。
 横浜桟橋に出て、鈴木公使等と分れて米軍側日本語を解する将校の案内にて、六時四十五分米駆逐艦ランスダウン号に移乗して港外に向う。東京湾上に向って走ること小一時間、濤声舷を打ち、旭光漸く海波を照す。海上無数の大小敵艦を見る。
  二百十日横浜沖に漕いで出で
 プリンス・オブ・ウェールスの姉妹艦キング・ジョージ五世も白く塗った巨駆〔躯〕を横えて居る。九時十分前米海軍旗艦「ミズリー」号に到着す。更にランチに移乗してミズリーの艦側に近付くことが出来、それから記者を先頭に舷梯を攀じた。艦に上る時に衛兵の敬礼を受けた。
 更に上甲板の式場へと梯子を攀じて上った。式場外は立錐の余地なき迄に参観の軍人や新聞記者、写真班等を以て埋められ、大砲の上に馬乗りに跨かって列をなして居る。
 上甲板の式場には、正面に敵側各国代表が已に堵列して居った。左側は写真班、右側砲塔側には参観の将官等重なる軍人が列んで居る。其の中には比島で俘虜となったウェーンライト将軍やシンガポールで降伏したパーシバル英将軍も並んで居た。
 中央に大テーブルあり、マイクは向う側に立つ。我等は之に向って止まり、列んだ。艦上声なく、暫時我々を見つめた。室外なれば着帽の儘で敬礼等の儀礼はー切なし。
  敵艦の上に佇む一と時は 心は澄みて我は祈りぬ
 九時マッカーサー総司令官簡単なる夏服にて現われ、直ちに拡声器を通じて二三分間の演説をなす
。   戦争は終結し、日本は降伏条件を忠実迅速に実行せざるべからず。
  世界に真の平和克復せられ、自由と宏量と正義の遵奉せられんことを期待す。
との趣旨を述べた。
  全権委任状の提出、天皇の詔書写を手交し、先方の用意してある降伏文書本文に記者が調印を了したのは、九時四分であった。
 マッカーサーは聯合軍最高司令官として、日本の降伏を受け入れる形を以て、文書に署名した。マッカーサーの署名に対し、副署の意味で各国代表が又順次に署名した。米、支〔中国〕、英、蘇、濠州〔オーストラリア〕、加奈陀〔カナダ〕、仏蘭西〔フランス〕、和蘭〔オランダ〕、ニュージーランド等なり。
 全部の署名が終って、マッカーサー元帥は、回復せられたる平和の永続を祈って、式は終了した。
 加奈陀代表の署名の場所が違って居たので、世話役のサザランド参謀長に訂正して貰って大分時間がかかった。
 ペルリ提督日本遠征の際に檣旗として掲げた星条旗を博物館から持って来て、ミズリー号式場に飾ったのは、占領政策の政治的意義を示す用意に出でたものと認められた。
 退艦も乗艦の時と同様な儀礼にて、ランチに移り、駆逐艦に移乗し、湾内を巡視して埠頭に帰り、接伴員に慇懃に分れを告げて、神奈川〔県〕庁に帰着した。米国側の取扱は総て公正であった。
 帰路東京湾中より富士見事に見ゆ。
 首相官邸に帰り着いたのは已に十二時過ぎで、直に総理宮に報告を了し、昼食を了りて、一行を解散した。
 其の日午後一時半参内。総理宮侍立の上、両全権の名に於て、記者より予而用意した加瀬部長の起草にかかる降伏文書署名の報告文を奏上した。陛下も御安心の御様子であって、慰労の御言葉があった。
 陛下は記者に対して、軍艦の上り降りは困っただろうが、故障はなかったかと御尋ねになった。記者は先方も特に注意して助けて呉れて無事にすますことを得た旨御答えし、先方の態度は極めてビジネスライクで、特に友誼的にはあらざりしも又特に非友誼的にもあらず、適切に万事取り運ばれた旨の印象を申上げた。
 此日、一つの爆弾身辺に破裂するものなきのみならず、誰やらは「敗戦による勝利」であると連(しき)りに論じた。是れから日本は立派なものとなってやって行けるのである。
 九月二日降伏文書調印の大任を終わり、終戦一段落と思って、ホテルで夜疲れてこれから寝ようと思って居ると、外務省関係の数氏(松本〔俊一〕、曾根〔曾禰益〕、岡崎〔勝男〕、渋沢〔信一〕、安藤〔安東義良〕等)が次ぎ次ぎにやって来て、非常情報を齎らした。占領軍司令部に於ては日本に軍政を布き、行政各部門を統治する為め軍布告を発したとの事で、横浜鈴木公使は其の布告文写を入手した、と云うのである。之は容易ならぬ情報である。之では日本政府もなくなり、日本は完全に主権を掠奪されて、占領地行政の下に置かれることになると云うので、政府初め各方面に異常な衝動を与え、宮中及召集された計りの議会をも震駭せしめた。
 記者は明早朝横浜に至り、マッカーサー司令官と直接交渉するの決意を固めたが、外務省や内閣其の他の心配せる方面からの電話や来訪客は夜遅く迄絶えなかった。記者は自室の鍵をかけて蚊帳床の中に入った。

 上記引用文の最後に出て来るアメリカ占領軍の「軍布告」の何が「各方面に異常な衝動を与え…議会をも震駭せしめた」のだろうか。日本が占領軍の属国あるいは植民地となることに対してだろう。これが私に新たな問題提起をしてくれた。

 戦後処理として、敗戦国が国家主権を獲得して新たな自立国家となること以て戦争終了と考えれば、降伏文書調印を以て「昭和の15年戦争」は終わったしてきた私の考えは早計だったことになる。もしも、戦後処理として日本が占領軍の属国あるいは植民地だったのなら、実質的にはまだ戦後ではなかった。
昭和の15年戦争史(49)

降伏文書調印式(1)

 日本は8月14日にポツダム宣言を受託して無条件降伏を受け入れたが、これで日本の降伏が決定したわけではない。連合国との間で降伏文書調印を行って初めて正式に日本の無条件降伏が決定する。つまり、「昭和の15年戦争」はそこで 終わる。この調印は9月2日、東京湾に停泊していたアメリカの戦艦ミズーリ号上で行われた。

 ポツダム宣言受託から降伏文書調印式迄の間、降伏に反対する人たちの騒動が数多くあったようだ。また、日本政府では、特に誰を調印式の日本代表するかという問題で、相変わらずのごたごたが続いていた。最終的には当時東久邇宮内閣の外相を務めていた重光葵(まもる)に決まった。重光は『重光葵手記』(伊藤隆、渡辺行男編 昭和60年11月20日発行 中央公論社)を書き残しているが、その手記の中の降伏文書調印式に関する記録が『探索 6』に掲載されている。これを読んで、重光という方はすばらしい人であり、調印式の日本代表の人選は最善だったのではないかと思った。

 さて、この重光手記を2回に分けて転載して,カテゴリ『昭和の15年戦争史』を締めくくることにしよう。(なお、文中の〔〕内の文言は編者による注のようだ。もう一つ、この文書の書き手として、一人称を用いないで、自分のことを「記者」と表している。)

帝国ホテルの暁夢

 戦争断末魔の空襲は連日連夜に亘って、記者は最早東京に用事がないので、熱海に避難、大観荘に留まった。十五日の玉音放送は熱海に於て服装を正して謹んで聴取したのであった。其の後の激変を大観荘に於て暫く静観して居た。

 然るに、鈴木内閣は総辞職して、遂に皇族内閣が出現して、東久適宮〔稔彦王〕殿下に大命が降った。木戸内府が予而(かねて)云って居た様に、終戦の時に軍部を押える為めに最後の伝家の宝刀が出されたのである。即ち新内閣の使命は終戦と云う難事を、直接天皇陛下の代理として立派にやる事にあるのである。東久邇殿下は赤坂離宮を組閣本部として、近衛公の補佐に依りて組閣を進められた。組閣本部を訪れた人々の名前が次ぎから次ぎに報ぜられた。有田八郎〔元外務大臣〕君の名前も出たが、入閣を辞したとの事であった。一六日に至って記者に出京を促して来た。一七日に組閣本部に至って宮殿下や近衛公及緒方〔竹虎・情報局総裁〕氏に会見して、組閣の趣旨を聴取した記者は、対外関係はこの際は占領軍との接触を主とする事となる訳であるが、此点は特に注意して総て交渉は一途に外務当局の手を通して統制して行うこととせねば思わざる不結果を招く事と思うから、特に此点を注意する必要のあることを力説して念を押して、入閣することを承諾した。新内閣は直に成立し、即日宮城宮内省の建物内で親任式が挙行されて、終戦の仕事に取りかかった。その際は近衛兵の叛乱は已に鎮定されたが、二重橋前の終戦反対者の割腹騒ぎや、代々木原頭の暁明の抗議自殺や、愛宕山の国粋派の立て籠り騒動も続いて居り、厚木の海軍特攻隊本部からは毎日飛行機が命令に反して東京上空に飛来して、宮城上や総理官邸を中心とする官庁街の上から戦争継続、挙国玉砕の宣伝ビラを散布して居た。形勢は容易ならぬものがあった。最も懸念された事は海外にある軍隊の動向であった。終戦に関する天皇の命令は遺漏なく全将兵に伝達された。陛下は更に四宮殿下を満州軍其の他各部隊に派遣されて命令の徹底を期せられた。

 内閣は準備を急いだ。

 マッカーサー元帥が聯合軍の総司令官として敵側の陸海空軍を統轄して終戦の処理をすることが発表され、降伏準備の為めに日本側から予備委員を打ち合せの目的を以てマニラに特派すべき旨、マニラに於けるマッカーサー司令部より通告を受けた。此通告は前内閣の受取った処であるが、前内閣は其使命に付て反問する所があった。敵は之を以て日本の国情を反映する遷延策であるとなし、マッカーサー司令官は「遷延を許さず」との趣旨を回答して来たので、我方は軍使として陸軍参謀次長河辺寅〔虎〕四郎中将を派遣することにした。記者は外務省情報部長〔調査局長〕岡崎勝男氏(湯川〔盛夫〕事務官帯同)を同行せしむることとした。海軍からも代表委員が加った。一行は一九日飛行機でいえ島〔沖縄県伊江島〕を経てマニラに飛んだ。先方の要求書を受領し、準備を打ち合せて帰路についた。途中天竜川口に不時着したりしたが、二十一日午前八時無事東京に帰着した。使節の待遇は総て公正であった。

 軍使の持ち返(ママ)りたる文書は、
 天皇の布告文
 降伏文書
 一般命令指令第一号
の三つであった。而して降伏文書の調印は八月三十一日を予定して居るとの事であった。
 天皇の布告文とは云う迄もなく終戦と同時に発布すべき詔書の事である。その内容を指示して来たのである。  降伏文書とは日本の代表者が正式に調印を要する文書で、其の調印によってポツダム宣言を受諾して日本が敵国に降伏することを意味するものである。一般命令第一号の内容は軍隊の無条件降伏及武装解除の即時着手から日本が使用した戦争手段の一切の休止を命ずるものであって、苟も軍需品の製作に関係した工場の活動停止をも之に含まって居る。

 内閣は直に其の処理に着手したが、尚此際に於ても従来の惰性に依って日本「降伏」の意義に付ての感得に付て人々に厚薄があった。記者は此際は完全に対抗意識を捨て去り、完全に無条件に先方の指示を受け入れ、「降伏」の実を示すことが、日本を将来に向って生かす所以であると同時に、即ち敗戦を完全に認識することを総ての前提条件とするの方針に出づると同時に、国家としても個人としても敗者は敗者としての気品を維持し、徒らに責任を回避して敵の憐憫を請い、卑屈の態度に出づることは絶対に防がねばならぬ、要するに日本人は飽く迄日本人としての気魄を堅持せねばならぬ、之が結局敵の尊敬と信頼とを得る訳である、と云う趣旨であった。

 閣議は軍使の持ち帰った三つの文書を無条件に引(ママ)け入れることを承認して、直にその準備に取りかかった。

 閣議では、降伏文書と云う、降伏と云う文字は如何にも屈辱であるから何とか別の文字を用いる事は出来ないものかと云い出した軍人出身の閣僚もあった。降伏と云う文字を避ける為めに軍部の係り官は外務省当局に大分厳談したのであったが、外務省当局は不愉快な文字には相違ないがsurrenderと云う英語は変える訳には行かぬ、サレンダーは日本語では飽く迄「降伏」であり、単なる「終戦」ではない。降伏は事実であり、事実を事実として承諾することから出発して初めて終戦後の日本の生きる途があると云って軍部の要請に応ぜなかった儘、之が閣議に出たのであった。無論日本は降伏したのである。夫れは三千年の歴史に於て初めて行われた極めて恥すべき不祥事が起ったのである。日本人は此事実を直感して、之に相当する責任を感じ、自省を行い、忍従に耐え苦痛を忍び、努力を倍加せねばならぬのである。此未曾有の国難に際会して、少しでも大なる犠牲を払うことを誇とする人程日本人として価値ある人であるのである。「降伏」文書は「降伏」文書で差支ないのである。其の徹底した認識の上に将来の日本人は生き得る。

 閣議は連日開催せられ、降伏文書を受け入れる手続きを完了する為めに、枢密院会議の開催が必要であり、又議会の召集も必要であった。之等の国内手続を完了する為めには宮様を総理とすることは非常に便宜であった。

 降伏文書に何人が調印するかは最も重要な事柄であった。先方は天皇及政府を代表するものと統帥部を代表するものとの調印を求めて居るが、其の員数は指定して来て居ない。

 降伏文書調印に何人が当るかを決するには、当時可なりの困難があった。ポツダム宣言を日本が受諾して、之を完全に履行すると云う誠意を披瀝する為めには、其の調印者は責任の最高の地位にあるものより之を選ばねばならぬのは条理であるが、当時の空気では日本開闢以来の不名誉なる文書に氏名を乗することは、政治家としては其終焉を意味し、軍人としては自殺を強いられるものと思われた。

 記者は外務大臣として非常に苦心した。木戸内府は政府よりは外務大臣、統帥部よりは両総長の内一人が適当であるとの意向を記者に漏らして居た。

 梅津参謀総長は記者に対し、終戦に至る迄の彼れの立場を詳細に述べて、自分は降伏に反対し玉砕を主張したものであるから、降伏文書の調印者としては不適当である、寧ろ此際は降伏に賛成した前閣員、鈴木海軍大将又は東郷前外相をして之に当らしめる事が至当である、軍人としては米内海相が最も適任である、自分は已に辞職を決したるも参謀総長は陛下の幕僚長であって辞職も内閣大臣の如く自由ならずして今日に及んだ、若し強いて自分に行けと云うならば、そは御前は自殺すべしと云うと同様の事なり、と苦衷を述べて、記者の人選に当らざらんことを懇望した。此問題では数回に亘って近衛公と協議した。記者は再三近衛公の出馬を要望し、之迄日本の指導に密接の関係を有する近衛公の挺身は敵に対してのみならず、国内に対しても、最も好評を博すべし、不肖記者は及ばず乍ら責任を頒つ為めに御伴致すべし、と切言したが、近衛公は総理宮が総理として又軍人として最も適当であるとして、記者の推挙を排除して、殿下に相談をすると云って隣室である総理室に入った。暫くして近衛公は坐に帰り、記者に対して、殿下は勅裁に依って決した終戦の代表としては高松宮〔宣仁親王〕を煩わすのが最も適当である、後刻内奏の際陛下の御許しを得ることにしようとの事であったと報告した。然し降伏文書調印の仕事は素より政府の仕事であって、皇室を煩わすべき事ではなかった。

 八月二十七日閣議に於て、総理宮は降伏文書署名使節として、陛下の御思召しによって、天皇及政府の名に於て重光外相、大本営の名に於て梅津大将を指名された。

 調印日取りは八月三十一日から九月二日に延期することにマッカーサー司令部より通達があった。二百十日も近付いて天気模様が悪く、準備が出来ぬ為めであるとの事であった。二百十日は九月一日である。

 記者は渾身の意気と忠誠とを以て降伏文書調印の大任に当らんことを翼い、八月二十八日夜行で伊勢大廟を拝すべく西下した。伊勢大神宮の参拝は日本人の宗教上の儀式であり、日本精神の問題である。

 翌朝山田に着いたが、山田市は既に其の三分の二は跡かたもなく焼失して居た。沿道皆荒廃。破壊、焼失を免れたもの少し。東京、川崎、横浜、平塚、沼津、豊橋、静岡、名古屋、津、四日市等見る影もなし。日本全国の大中都市は全部潰滅したのである。それを知らずして打った電報を持って、戸田屋の主人は古市の大安に連絡を取って置いて呉れた。此所で斎戒沫浴して外宮より内宮へと参拝した。已知の皇宮警視に其の後の様子を説明されつつ参入した。日本歴史始まって以来の出来事である降伏文書の調印を前にして心を籠めて祈願した。感慨頗る深し。何処もここも緊張して居た。

 我国を造りましたる大神に 心をこめて我は祈りぬ

 古市の大安を出でて再び夜行にて帰京の途につく。三十日朝車窓より相模湾頭無数の敵艦船の居列ぶを見る。敵機は既に京浜上空を蹂躙、示威しつつあるを目撃した。八月三十日朝は已に東京に帰って居た。

 最高戦争指導会議は終戦処理会議と改名して、終戦処理に付て政府及統帥部連絡の最高会議となって、閣議と共に殆んど連日開会された。出席者は総理宮及近衛副総理の外、安〔阿〕南陸相〔当時下村定〕、米内海相、緒方翰長〔内閣書記官長〕国相、梅津、豊田の陸海両総長及外務大臣としての記者の八名であった。東久邇宮総理の宮はさすがに宮殿下として裁決流るるが如く、終戦事務を適当に処理して行かれた。

 九月一日御召しによって宮中に参内、拝謁。左の如き勅語を賜わった。

 重光は明日大任を帯びて終戦文書に調印する次第で、其の苦衷は察するに余りあるが、調印の善後の処理は更に重要なものがあるから、充分自重せよ。
 世流に押されて早まった思いつめた事のない様にとの優渥なる御諭しであったのである。恐らく梅津参謀総長の「自分に自殺を強いるものである」と云う語〔言〕葉が何時の間にか陛下の御耳に入ったものの様である。記者が退出した後に、梅津大将も召されて同様な勅語を賜わった模様である。天恩無際、至れり尽せりである。

 記者は愈々敵側総司令官の示した降伏文書に調印すると云う日本歴史始まって以来の使命を果たさねばならぬこととなった。政府のみならず直接天皇を代表する訳であるから、記者は其の使命に付て篤と陛下の御思召を拝し、事態の重大なるを明確にして、将来如何なることが起っても之に善処し得る様にして置かねばならぬと考え、先ず左の通り意見を口頭を以て内奏した。其の案文は左の通りである。

 「其の案文」は次回に。
昭和の15年戦争史(48)

1945年(17)~(20)

 1945年2月から7月までの経過あらましをまとめてみよう。

 「戦争終結策を至急に講ずる要あり」という近衛文麿の進言に対して、自己保身を優先した天皇ヒロヒトは「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と返答していた。1945年2月のことである。

 その後、東京大空襲(3月10日)をかわきりに沢山の都市で多く国民が死亡し、都市が焦土と化していった。そして太平洋の各地で日本軍の敗北が続き、多くの兵士が戦死した。にもかかわらず、日本政府は連合国が与えてくれた終戦の恰好の機会であったポツダム宣言(7月26日)を無視した。

 こうした結果がアメリカの残忍な原爆投下を引き寄せてしまった。今回はその原爆投下から。

(17)8月6日
広島に原爆投下さる


「なんの良心の呵責を感じない」

1954年8月刊の『アサヒグラフ』から。

 あの日、1945年8月6日、エノラ・ゲイ号に搭乗、広島へ原爆を落とした戦士たちは、9年後のこのころにどう語っていたか。
 機長ティペッツ大佐は、
「原爆投下になんの罪悪感ももっていない」
といい、
「あれよりも千倍も恐ろしい水爆を落とす必要に迫られたとしても、なんの良心の呵責を感しないだろう」
といいきって平然としている。
 ベーサー中尉は何万人もの人びとを一挙に殺したことにたいして、
「まったく気にしていない。今でも任務でやったという感じしかもっていない」
と答えた。
 ドウゼンべリー軍曹も、
「後悔の気持ちはまったくもっていない。私はこれからでも同じことをやってのけられる」
とぬけぬけという。
 ガロン軍曹は
「戦争に人情などありはしない」
といい、
 ネルソン上等兵は
「道徳上の問題はわれわれの念頭に少しもなかった」と。

 そして50年後1995年にも、ティベッツ元機長は同じ言を吐いた。これらにたいしては、いうべき言葉もない。

 前回、「戦争にのめり込んだ人間が冷酷無殘になる」と書いたが、そうした人たちの劣化した精神的背景として私は「凡庸な悪」という言葉を思い浮かべていた。「凡庸な悪」とはハンナ・アーレントがナチスのアドルフ・アイヒマンへの評語として使った言葉である。私が「凡庸な悪」という語を用いた記事がかなりあるが、ずばりそれをテーマにした記事を紹介しておく。
『「凡庸な悪」について』

(18)8月9日
長崎に原爆第二弾投下さる


「いまだ、目視攻撃だ」

 1945年8月8日、テニアン島では極秘野戦命令第17号が発令された。原爆第2弾の投下命令である。主目標は小倉、第2目標が長崎。はじめの予定は11日が攻撃日とされていたのを、日程は無理に早められる。広島爆撃のとき観測機として参加したスウィニー少佐指揮のB29が原爆投下機となった。

 9日午前3時50分離陸、原爆機は第1目標の小倉に向かったが、上空に達したとき天候が急変し、厚い雲が一面に覆っていた。目標上空を旋回して投下の機会を待ったが、雲は切れぬばかりか、遠くに日本軍戦闘機の姿をみとめた。やむなく第2目標の長崎へ転進した。

 長崎上空も雲に覆われており、原爆機はここでも上空を旋回して雲の切れ間を探し求めた。運命はこのとき長崎を見捨てた。燃料の関係で時間ぎりぎりのとき、雲が切れて市街が姿を現すのをスウィニーは見た。ほんの数秒間……。
「いまだ、目視攻撃だ」
 11時2分。第2の原爆は7万5千人以上の人間を地上より消し去った。

 原爆機はテニアンまで戻れず、沖縄の基地までたどりつくのがやっとであった。

 日本がポツダム宣言を受託するに至った理由は原爆だけではなく、ソ連の宣戦布告もその大きな理由の一つだった。

(19)8月9日
ソ連が満洲へ侵攻


「日本人民を救いだすために宣戦」

 8月8日午後5時(モスクワ時間)駐ソ大使佐藤尚武は、外相モロトフからいきなり宣戦布告状をつきつけられた。外相はいう。
「ドイツが無条件降伏を拒絶したのちに味わったような危険と破壊から日本人民を救いだすため」ただちに戦争状態に入る政策をとる、と。

 佐藤大使が日本大使館に帰りつくよりさきに、電話線は切られ、無線機は秘密警察の手で没収された。大使はやむなく通常の国際電報によって、ソ連の参戦を日本外務省に伝えた。

 それから数時間後の1945年8月9日午前零時(日本時間)、佐藤よりの電報よりさきに、日本がソ連からうけとったものは、ソ満国境を越えて、無数の砲口から放たれた砲弾である。戦車の侵攻である。日ソ中立条約のあと1年の有効期間など完全に無視されていた。

 午前5時、私邸へかけつけてきた外相東郷茂徳を前に、首相鈴本貫太郎がぽつんといった。
「この戦争は、この内閣で結末をつけることにしましょう、1日も早く。いいですね」

(19)8月15日
終戦の詔書の中に


「為萬世開太平」

 8月は遠い敗戦を思う月である、とは作家大岡昇平の言葉である。6日の広島、9日の長崎、そして満洲へのソ連侵攻、15日の天皇放送と、あの惨めであった日々を私も思い起こさずにはいられない。新人類たちに「じいさん、そんな昔話、いい加減にしなよ」「タマオト放送? まあ、エッチな人……」などといわれても、1945年8月の、この三つの歴史的な日付は死ぬまで消し去るわけにはいかない。それは戦争に生き残ったものの務めである。

 私は毎年8月には、終戦の詔書のなかの「戦陣ニ死シ職域ニ殉ジ非命ニ斃(たお)レタル者及其ノ遺族ニ想ヒヲ致セバ五内為ニ裂ク」をぶつぶつ経文のようにとなえて起きるのを、毎朝のしきたりにしている。

 そして8月1日から15日まで、終戦時の首相鈴本貫太郎の達筆で「為萬世開太平」と書かれた扇子を一日中はなさずに持ち歩くことにしている。いうまでもなく「萬世ノ為メニ太平ヲ開カント欲ス」と詔書にある言葉である。

 戦争終結と永久平和希求の決意のこめられた美しい言葉を原点に、新しい日本は今またこの日を迎える。

 私は終戦の詔書に対して半藤一利さんの様な感慨を全く持ちえない。保身のために終戦をずるずると引き延ばしておいて「為萬世開太平」と、よくも臆面もなく言えたもんだ。私はとんでもない臍曲がりなのだろうか。

 ちなみに、終戦の詔書について、私は『「終戦の詔書」を読み解く』という記事を書いている。10年ほど前に書いたかなり長い論説だが、改めて読んでみたら、敗戦濃厚な時からポツダム宣言受託に至るまで経緯と、日本の支配層たちの国体護持を巡っての混乱ぶりが詳しく書かれている。

(20)8月15日
大日本帝国の降伏


「号泣、それから虚脱」

小林桂樹(俳優)
 愛知県で本土決戦に備えて穴掘りをしていた。玉音放送で戦争が終わったことはわかった。泣いた記憶はある。生きて帰りたかった。陸軍兵長。

林家三平(落語家)
 千葉県で本土決戦用の穴掘りをしていた。放送を聞いて、中隊百人とともに号泣。それから虚脱状態に。恐怖感がわいた。陸軍上等兵。

丹阿弥谷津子(女優)
 下伊那に疎開して、近所にいた岸田国士氏から戯曲集を借りて読みふけっていた。

丹波哲郎(俳優)
 立川航空整備隊所属の陸軍少尉だった。ボクは本来楽天家だから、その場その場でうまくやっていたよ。

 加藤芳郎(漫画家)
 二十年九月半ばまで、八路車の進撃を阻止しようとする蒋介石軍の計画で、北京の北の古北口にとどまって、忙しかった。芸能班の一員でもあった。陸軍一等兵。

 淡谷のり子(歌手)
 公演旅行で山形県にいて、演奏が中止になってホッとして、宿でぼんやりしていた。

 この年の8月15日のそれぞれの回想である。

昭和の15年戦争史(47)

1945年(13)~(16)

 沖縄を本土防衛のための捨て石にした日本政府は「本土決戦」を推進するため、「一億玉砕」法とも言うべきばかげた法律を制定した。

(13)6月23日
国民義勇兵役法の議会通過


「秦の始皇の政治に似たり」

 1945年6月、沖縄失陥ののち本土決戦を指向した軍部の強い意思のもとに、鈴木貫太郎内閣は戦時緊急措置法と国民義勇兵役法を議会に提出した。この法案は法律なんていうものではなく、一億国民の生命財産をあげて生殺与奪の権を政治に一任するという白紙委任状そのものであった。「秦の始皇の政治に似たり」と悪評さくさくであり、鈴木首相は議員の質問がしつこく、うるさくなると、
「どうも耳が遠くてよく聞こえません。こんど耳鼻科にいって診てもらいましょう」
と、とぼけた。が、政府は強引に23日に通過させた。

 これによって、女子も含めて、15歳から40歳までの日本人は必要によって義勇召集を受け、国民義勇戦闘隊を編成せねばならなくなった。こうして一億が「兵隊」になった。

 お陰で全国の村々では村民総出の竹ヤリ訓練がはじまる。「気をつけいッ」の号令に、顔を真っ赤に身体をもじもじさせたおばさんが
「オファ、子ども産んでからおかしいの、こらえると小便でちまってよゥ。こんなこんで勝つずらかァ」
とぼやく。

 いまになると喜劇としか言いようがないが、本当の話である。

 降伏以外には選択の余地は皆無の状況でなおも、後世から観ると「喜劇としか言いようがない」悪あがきを続ける日本であったが、国連は太平洋戦争終了後の国際社会の構築を議論していた。

(14)6月26日
国連憲章が調印さる


「戦争の災害から新しい世代を……」

 この日はいま国連デーにもなっている。1945年6月26日、サンフランシスコのオペラ・ハウスで、国際連合憲章の調印が行われた。参加国家は50である。

このころ日本帝国は、連合艦隊は全滅、沖縄も陥落し、全世界を敵としてアップアップしながら最後の抵抗をつづけていた。

 そのときに、戦争の災害から新しい世代を救い、基本的人権を再確認し、条約や国際法を尊重し、社会的進歩をはかり生活水準を向上させることなどを目的とする国連憲章を、世界50の国がこれからの世界の理想のあり方として、喜んで受け入れていた。一億玉砕で戦う日本が、関知しないことであったが……。

 戦後日本は、6年後に同じオペラ・ハウスで、対日講和条約の調印をする。そしてやがては許されて、すでに出来上がっている国連に加盟する。

 なんとなくトントンと加盟できたために、日本人はほとんど国連憲章に無知である。この日を記念して目を通してみるのもいいかもしれない。111条もあってとても読めないよ、などといわずに。

 「国連憲章」をネット検索すると実に沢山のサイトがヒットする。「国連憲章」以外にも重要な史料が沢山観られるので『核絶対否定のHP』さんの紹介を兼ねて、そのサイトの「資料一覧」中の「国際連合憲章 全文」を紹介しておこう。
『国際連合憲章 全文』

(15)7月16日
史上第一回の原爆実験


「日本に二発の原爆を落としたら」

 1945年7月16日、午前5時30分、それは秒読みの三、二、一、ゼロとともに起こった。巨大な火球が爆発しキノコ雲となって10キロ以上の高さに沸騰し、5トンの爆弾をのせた34メートルの鋼鉄の塔は完全に蒸発した。
 火の雲が消えたとき、特別装備の戦車が動き出す。その1台には物理学者フェルミ博士が乗っている。かれらが実験場でみたものは想像を超えた死の谷そのもの、アメリカの"ヒロシマ"である。誰もが息をのむばかりで、しばし声もでなかった。爆弾の破壊力はTNT火薬2万トンに相当すると観測された。

 実験の指揮をとったファーレル准将が、物理学者のオッペンハイマー博士に言った。
「戦争はこれで終わりだ」
 彼らを迎えた原爆製造計画の総指揮官グローブス少将が、ニッコリ笑ってあっさりそれに答えた。
「イエス、われわれが、日本に2発の原爆を落としたらな……」

 米本土ニューメキシコ州アラモゴードで、人類初の原爆実験の行われた日の、冷酷無殘ともいえる会話である。

 戦争にのめり込んだ人間が冷酷無殘になる例は枚挙にいとまが無い。日本での最も冷酷無残な例としては731部隊がよく取り上げられるが、私が全く知らなかった事例を東京新聞(2018年1月21日)の「こちら特報部」が取り上げていた。「九大生体解剖事件」と呼ばれている。その事件のあらましを特報部は次のように解説している。
 1945年5月、熊本、大分県境で撃墜された米空軍のB29爆撃機の搭乗員のうち捕虜となった8人が、陸軍によって九大医学部に連行され、実験手術を受けて死亡した事件。本土決戦での輸血に備えて海水を代用血液として使えるか、片肺を切除してどれだけ生きられるかなどが実験された。
 関与した軍や九大関係者は戦犯として起訴、48年の横浜軍事法廷で絞首刑5人を含む23人が有罪判決。50年の朝鮮戦争勃発にともなう恩赦で減刑された。主に執刀を担当した第一外科教授は収監中に自殺、軍部と九大を結び付けた軍医は戦時中の空襲で死亡しており、真相究明に影響した。

 記事のリードは次のように述べている。
 終戦間際の九州帝国大(現九州大)医学部で、生きたままの米兵八人に生体実験を行い、死なせたとされる「九大生体解剖事件」。その最後の生き証人、東野利夫さん(91)…福岡市…が昨年12月、最後の仕事として自伝を自費出版した。タイトルは「戦争とは敵も味方もなく、悲惨と愚劣以外の何物でもない」。戦争にともなう狂気への恐れを失った、今の日本人への警告だ。(大村歩)

 記事全文を読み取って紹介しようと思っていたが、念のためネット検索をしてみたら、沢山の記事に出会った。知らなかったのは私だけかしら、と思った。 2015年12月13日にNHKの「ETV特集」でも取り上げられていた。その番組のことを知った。「テレビのまとめ」というサイトのその番組の概略をまとめている記事を紹介しておこう。
『九州大学生体解剖事件 ~医師の罪を背負いて~ |ETV特集』

 横道が思いがけず長くなってしまったが、『残日録』に戻ろう。

(16)7月26日
ポツダム宣言の発表


「迅速かつ完全なる壊滅あるのみ」

 数年前にベルリン南西郊外にあるポツダムの、ツエツィリエンホフ城を訪れたことがある。1945年7月17日から8月2日まで、スターリン、トルーマン、チャーチル(後半はアトリー)がここで会議をひらき……左様、世にいうポツダム宣言(日本への降伏勧告)は、会期中の7月26日にここから発せられた。

 宣言は、日本軍隊の無条件降伏、日本軍国主義の永久追放、戦争犯罪人の処罰など降伏8条件をあげて、
「右以外の日本国の選択は迅速かつ完全なる壊滅あるのみとす」
 と、原爆投下を予告していた。しかし、日本政府と軍部は……。

 いずれにせよ歴史の現場に立つつもりで赴いたのに、世は無情、三巨頭の歴史的会談の行われた接見室は、放火により炎上、真っ黒焦げのままで、観光客は立ち入り禁止というお粗末。
 聞けば、放火は7月26日から27日にかけての夜という。「お前がやったな」と帰国後にその話をすると疑われたが、ゼッタイにわたくしではない。でも、犯人は昭和史にくわしいヤツかもしれぬと思った。

 ポツダム宣言を読んでみて、これも読んでおくに値すると思った。紹介しよう。(以下は『史料集』を用いている)

 ポツダム宣言は13条から成るが、1~4条は、
「米英中三国は、日本に戦争終結の機会を与えること、 日本に最終的打撃を加える態勢をととのえること、軍事力の最高度の使用は日本軍と国土の完全破壊を意味すること、日本帝国の滅亡か「理性ノ経路」かを決定すべき時がきたこと」を述べている。5条以下を転載する。


 吾等ノ条件ハ左ノ如シ
 吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルヘシ。右ニ代ル条件存在セス吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ス


 吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ、平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ、日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ、永久ニ除去セラレサルヘカラス


 右ノ如キ新秩序カ建設セラレ、且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ、連合国ノ指定スヘキ日本国域内ノ諸地点ハ、吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ


 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク、又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ


 日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後、各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ


 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ、又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ、吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ、厳重ナル処罰加ヘラルヘシ。日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ。言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ

 十一
 日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ。但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス。
右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許サルヘシ。日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ

 十二
 前記諸目的カ達成セラレ、且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ連合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ

 十三
 吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ、且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス。右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス

 無条件降伏後の国家再建の方針をも示しているが、その通り国家再建がなされていれば、世界で最もすばらし国家になっていたはずである。残念ながら現在の日本国の状況は、それとはほど遠いまるで戦争直前の国家になっていると、私は思っている。その思いが「昭和の15年戦争史」を始めた動機であった。

 最後に、『史料集』の解説を転載しておく。
 ポッダム宣言はソ連の対日参戦前のため、米英中三国共同宣言として出された。宣言は日本の無条件降伏を要求したものだが、第613条を読んで、降伏条件、戦後における軍国主義の除去と民主化の基本方針を確認してほしい。一政府首脳が唯一の条件とする天皇制護持については、その廃止などの要求は含まれておらず、アメリカが早期に日本降伏を実現しようとする意図を含んでいることがうかがえる。日本政府は当初宣言を黙殺する態度をとったが、原爆投下・ソ連参戦によりついに受諾するに至った。なお、最後の第十三条の結末で「右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミ」と、原爆投下を予告するような表現がある点にも留意したい。

昭和の15年戦争史(46)

1945年(5)~(12)

 今回はヨーロッパでの第2次世界大戦の結末とそれに関連した記事から。

(6)4月25日
米ソ両軍将兵のエルベの誓い


「ふたたび戦うことのないように」

 前年の6月にノルマンディ上陸に成功した連合軍はパリを解放し、ドイツ軍を追って東へ東へと猛進撃をつづけた。いっぽう、スターリングラードでドイツ軍の進撃を阻止したソ連軍は反撃にでて東ヨーロッパの諸国を解放し、ドイツ国内に入りさらに西へ突進していった。

 この両軍が東西から1945年4月25日午後4時40分、ベルリンの南約75マイルの地点、ザクセンのトルガウ市郊外を流れるエルベ河の破壊された橋上で出会った。米軍のロバートソン少尉と、ソ連軍のアンドレーエフ軍曹の握手をきっかけに、両軍の将兵はわれを忘れて歓声をあげ抱きあった。そして勝利は目前にあることを喜びあったのである。

 それから10年たった5月に、かつてエルベで出会った米ソの元兵士たちがモスクワで再会した。米ソの冷戦が雪どけを迎えはじめたころである。
 彼らは感激をあらたにして、
「我々の子供がふたたび戦うことのないように」
と誓いつつ杯をあげた。

 続く二つは独裁者たちの最後の記事。

(7)4月28日
逆さにつるされたムッソリーニ


「最後までついてきたでしょう」

 ドンゴという小さな村の農家の一室で、イタリアの独裁者であったムッソリーニ首相と、その愛人クララは、パルチザンの手によって捕らえられた。二人は車で運ばれ、村はずれの木立の陰に隠れた山荘の門の前に立たされた。

 クララがムッソリーニにささやいた。
「最後までついてきたでしょう。うれしくはなくって」
 いや、別の証言では
「いけない、この人をそんなふうに殺すのはいけない!」
と叫び、かばうように立ちはだかったという。しかし、猛りに猛った民衆に容赦はなかった。パルチザンの銃が一瞬早く、火を吹いた。ムッソリーニはときに61歳。1945年4月28日のこと。

 翌日、二人の死体はトラックでミラノヘ運ばれた。この日、中央駅に近いロレッタ広場には黒山の群衆が集まっていた。構築中のガソリン・スタンドの鉄の梁(はり)に、ムッソリーニの死体は逆さにつるされた。隣にクララ。

 20年余もシーザー気取りで君臨してきたムッソリーニを哀惜するイタリア人はほとんどいなかった。
(8)4月30日
ヒトラー自決す


「ナチス運動の再生となり……」

 20世紀をひっかきまわしたヒトラーとは何者か、という問いに簡単に答えられるようなら、これまで世界中で2千冊におよぶ"ヒトラー伝″が書かれるはずもない。この独裁者は一筋縄でとらえられるような人物にあらず。

 そのヒトラーが1945年4月30日に自決した総統官邸跡を、わたくしはベルリン旅行のとき訪れてみた。地下6メートルの壕(ごう)の、彼が死んだ書斎、その死骸が焼かれたと思われる場所に立ってみると、風にのって、ヒトラーの遺言が聞こえてくるような気がした。

「このような大きな犠牲がそのまま空しく終わるとは信じられない。わが将兵と私との同志愛によってまかれた種子は、いつかドイツの歴史の中に花を開いて、ナチス運動の再生となり、やがて真に統一した国家をつくりあげるであろう」

 ソ連当局は墓をあばき遺骸をソ連にもちさったというが、新しいナチスの聖地がつくられるのを恐れ、その後の詳細をいまだに発表していない。ヒトラーは、いや、その思想は、ヒトラーの言葉どおりいまも生きているのであろうか。

 いま、ヨーロッパには極右のネオ・ナチがうごめきだしているという。

(9)5月2日
ソ連軍、ベルリンに突入


「赤旗はテーブルクロス」

 4月28日、ムッソリーニは銃殺され、30日、ヒトラーは自殺。5月2日、ベルリンの国会議事堂の屋上に、赤旗がひるがえった。ヒトラーの後継者となったデーニッ ツ提督はこの日、ヒトラーの死を全国民に放送し、米英軍にのみ降伏すべきことをドイツ国防軍に命じた。なんとか米英とソ連との離間を期待していたからであるという。しかし、すべては空しかった。
 1945年の劇的な数日間である。第2次大戦のヨーロッパ戦線はこうして終結に向かった。

 そして、最近まで、このときの勝利を象徴するものとして、ソ連兵が議事堂の屋上に赤旗をかかげる迫真の写真が、いろいろなところで使われてきた。
 が、これがあとからの演出であった、と、これを撮った写真家バルディが、つい最近ばらした。
「赤旗はテーブルクロス、兵士の腕にあった二つの腕時計の一つが略奪行為の証拠を残さぬため修整で消された。砲煙もうまく形を修整した」と。
 だから歴史的名写真になった、ともいえる。

 5月にドイツが無条件降伏をして、ヨーロッパでの第2次世界大戦は終わったが、太平洋戦争での悲劇はまだまだ続く。

(10)5月25日
空襲で宮城炎上


「明日から困るだろうから」

 それは5月25日の深夜である。東京はB29五百機機以上の爆撃をうけ、焼け残っていた西部、北部そして中央部が灰燼に帰した。午前1時ごろ、直接的な攻撃を受けなかった宮城もまた炎上した。皮肉にも、宮城本殿を焼いたのは、参謀本部からの飛び火であった。満州事変を起こし、日中戦争を拡大し、日本帝国を破局に導いた陸軍横暴の歴史を、象徴するかのようである。

 明治21年10月に完工した表と裏とをあわせて大小27棟の、歴史を誇った美しい宮殿は、4時間近く燃え続けて完全に焼け落ちてしまった。必死の消火に当った皇宮警察官や近衛師団の下士官兵の、殉職者は33人にのばった。  火災の状況は、宮内省の防空本部から電話で逐一お文庫に報告された。その時に、昭和天皇はいったという。
「私の御殿は焼けてもよい。それよりも局(つぼね)たちの御殿にまだ火がついていないならば、全力を尽くし助けてもらいたい。局たちは丸焼けになったら明日から困るだろうから」

 1945年5月、困っている者は局たちばかりではない、日本中に山ほどいた。そして、これからもぞくぞくとふえていった。

 私は東京空襲のとき、宮城も燃えたということを知らなかった。それにしても東京中が燃えているのに自分の身辺への心配しか思いが及ばないヒロヒトには改めてあきれ返えってしまう。ヒロヒトの発言であきれ返った例を二つ思い出した。
 一つは広島の原爆被災についての発言で
「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。」
 もう一つは戦争責任に就いての発言で
「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。」
 この二つ目の発言については『詩をどうぞ』
の(2)でこの発言を厳しく批判している茨城のり子さんの詩『四海波静』を紹介した。

 『残日録』の続く二つの記事は沖縄戦での惨劇である。

(11)6月6日
大田実司令官の報告


「沖縄県民斯ク戦ヘリ」

 1945年6月6日付けの、沖縄方面海軍特別根拠地隊司令官の大田実少将が発した海軍次官あての長文の電文を読むたびに、粛然たる思いにかられる。これほど尊くも悲しい報告はないと思われるからである。
 その一部を――。 「沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来、陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ、県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ。然レドモ本職ノ知ル範囲ニ於テハ、県民ハ壮青年ノ全部ヲ防衛招集ニ捧ゲ、残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋卜財産ノ全部ヲ焼却セラレ………」

 にもかかわらず、沖縄県民が総力をあげて軍に協力し、敵上陸いらい戦いぬいている事実を、大田少将はくわしく記して、最後をこう結んだ。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
 軍は沖縄防衛戦において、共に戦い共に死なん、と呼号して、非情にも県民を戦火の中にまきこんで戦った。そのときに非戦闘員にたいするかくも美しい心遣いを示した軍人のいたことを誇っていい。

 そしていま、はたしてわれわれは沖縄の人々に「特別の高配」をしているであろうか。

(12)6月23日
沖縄地上部隊の最後


「閣下は極楽、私は地獄」

 歴史はときに残酷な顔をみせる。沖縄防衛の第32軍が南部集結による持久抗戦をきめた5月下旬、大本営は沖縄での決戦をあきらめ、総力を本土決戦に傾注することに戦略を切りかえていた。一言でいえば沖縄を見捨てたのである。そうとも知らず、第32軍の将兵は5月30日午前零時、最南端の摩文仁をめざして出発した。そこには10数万もの住民が逃げのびて集結していた。

 沖縄戦はそれから20数日間つづけられる。組織だった戦闘といえるものではなく、沖縄県民をまきこんでの"火と鉄の暴風"による虐殺に近かっか。県民の死者は軍関係1万4千8百、一般県民15万をこえる。

 こうして1945年6月23日、軍司令官牛島満大将と参謀長の長勇(ちょういさむ)中将は、敗戦の責任を負ってならんで自決した。長中将が「お先に」といい、そして苦笑しながらつけ加えた。
 「そうか、閣下は極楽、私は地獄。お先に失礼してもご案内できませんな」
 大本営が「本土防衛のための捨て石にする」とした沖縄戦はこの日に終わった。
なお"虐殺"は各所でつづけられていたが。

 沖縄での惨劇については『沖縄に学ぶ』
の(7)~(10)で取り上げている。それを紹介しておこう。
『琉球処分から沖縄戦まで(1) 』
『琉球処分から沖縄戦まで(2) 』
『琉球処分から沖縄戦まで(3) 』
『琉球処分から沖縄戦まで(4) 』