2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(48)

アフガニスタンにおけるアメリカの戦争犯罪(4)

 前回、飢餓に苦しむアフガニスタンに対して行なったアメリカによる残酷な飢餓戦略による攻撃の全貌を知ったが、実はこのアフガニスタンの飢餓を作り出したのもアメリカだったという。[3]は「アフガニスタンの飢餓は、未曾有の干ばつを利用してアメリカが作り出したと言っても過言ではない。」と書き始めている。
[3] 一般市民もろとも、タリバンを飢餓地獄に陥れる ―― 一貫した米の政策

 ここで改めてアフガニスタンの飢餓を深刻化させた米の「国連制裁」の意味を問題にしなければならない。

 アフガニスタンの飢餓は、9・11テロ事件以前も以後も、そしてタリバン政権後の現在も依然深刻なものとして存在している。しかし、その政治的意味は変化している。共通しているのは、アメリカ帝国主義が飢餓を生み出してきたという事実である。タリバン政権に対する兵糧責め、飢餓戦略、すなわち、タリバン政権を、一般市民もろとも飢餓地獄に陥れる追いつめるという戦略はアメリカの対タリバン政策として一貫していた。

 制裁がもたらした影響については、報復戦争当初では推測にすぎなかった事柄が、アフガニスタンに詳しい人たちのレポート、証言によって明らかにされている。それを紹介しよう。


 1998年8月のトマホーク爆撃、あるいは1999年11月国連制裁発動から、2001年1月まで。米が国連に恫喝をかけて、未曾有の干ばつのもとでアフガニスタンへの「人道援助」を縮小、停止させ、タリバン政権を崩壊させるために、飢餓を作り出した。その経緯を詳しく追ってみる。

 98年8月、アフガンへのトマホーク撃ち込み。その直前に、国連職員の退避勧告と8ヶ月間に及ぶ待避。「オサマビンラディンを引き渡すなら、人道援助する」との米によるアフガンへの恫喝。米の政治的「人道援助」に反発して多数の国連職員の辞職。
 さらに翌1999年年3月、米は国連への「事前通告なしの軍事行動をとる可能性がある」と国連に警告。すなわち、アフガンに人道援助を続けているならば、突然米の爆撃に曝される危険性があると恫喝。さらに99年11月に国連第一次制裁。米が執拗に国連の「人道援助」を妨害。国連職員さえ、米による「報復」の危険を犯すことなく人道援助を進めることは困難になった(以上、山本芳幸著(2001.11.)『カブール・ノート 戦争しか知らない子供たち』より)。


 2001年1月の国連追加制裁から、2001年9月11日まで、①の継続、強化として、歴史的な干ばつの被害が飢餓、餓死、凍死の拡大として顕在化していた厳冬時期に国連制裁を発動する。詳しくは次の通りである。

 2001年1月国連制裁が発動されるやいなや、アフガン市民、アフガン避難民支援を進めていた国連や国連系NGOなどが一斉にアフガン国内を脱出し、国外難民支援に移った。アフガンに残る人々は放置され、国連は「さあ出てこい、さあ出てこい」と難民を待ち受ける側に変わった。その政治的意義は計り知れない。同時にマスメディアから、「タリバン圧制で難民流出」の記事がながれはじめた(中村哲著(2001.10)『医者 井戸を掘る』より)。


 9・11から10/7までの、米の報復戦争準備によるパニックの引き起こし、及び10/7以降11/14迄の徹底した空爆と破壊による一般市民を巻き込んだ、飢餓、兵糧責め。


 撤退したタリバン支配地域への兵糧責めの拡大と、食料略奪、強奪。群雄割拠、無政府状態の出現による食糧供給の不能。

 もちろんわれわれは、国連援助が持っている限界や、政治的意義も確認しなければならない。また飢餓や難民を自己の組織の存続、メシの種にするという体質は、マフマルバフの映画『カンダハル』撮影をめぐるエピソードによく現れている。すなわち、彼が世界から見放されたアフガンの飢餓の危機を撮るために、「早ければ早いほどいい」と国連オフィスに相談したところ、「今はあまり餓死者はいませんから。来月、もっと寒くなればずっとたくさんの死者がでます。2月にいくことをお薦めしますよ。あなたの映画がもっと興味深くなるでしょう。」(モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』 現代企画室)

親米でない国の政府と国民は存在する権利がないのか

 アフガニスタンの干ばつが、先進工業諸国による産業活動に起因した地球温暖化がもたらしたものであるという点は置くとすれば、アフガニスタンの飢餓は、自然災害である。しかし、自然災害としての干ばつによっては、数十万、あるいは100万人もの人々が餓死し、また、数百万の人々が難民になるということはなかったであろう。中村哲氏とペシャワール会が繰り返した「一人も餓死者、凍死者をだすな」というよびかけは、単なる希望ではなく、援助によってそれが可能であるという確信に裏打ちされたものである。

 もちろん、タリバン政権でなければ、アメリカと「国際社会」の制裁はなかったとすれば飢餓はなかったし、タリバン政権によって死ぬはずのない大勢の人々が犠牲になったと言うことは可能である。しかしそのような形でタリバンを非難するのであれば、世界の国々の国家は、アメリカが許容する親米政権でなければ、国家としても、その国民も生きながらえる権利はないということになる。国と国民が餓死の危機に瀕しているとき、親米でないという理由だけで、援助の手をさしのべないどころか、逆に制裁を加えられ、爆撃が加えられるのだろうか。

 本人さえも半ばアフガニスタン人化していると認める中村哲氏のような人だけではなく、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のカブール事務所長の肩書きの人が、米の締め付けを批判し、飢餓回避のために「タリバンはよくやった」と賞賛するような、アフガニスタンで生じた事態をもっとリアルにとらえていきたい。彼はまた、ダボスの反グローバル運動への弾圧を「特権クラブが奴隷の反乱を鎮圧する」と比喩し、「テロに戦争が挑んでも勝ち目はない。なぜならテロにはルールがなく、戦争にはルールがあるからだ。戦争が勝つとしたら、それがテロに変質する時だ」と書いている。まさにアメリカのアフガニスタン戦争はテロに変質したのだった。

コントロールの効かない飢餓状態を作り出したアメリカの責任

 次回に詳述するが、次のことを指摘しておこう。
 冬を越すのに必要な2億ドル・6億ドル・10億ドルとアメリカが爆撃のために使った20億ドルを考えるとき、アフガニスタンの飢餓は政治的につくられたものであり、タリバン政権の徹底した配給体制のもとであれば援助によって餓死者を一人も出さないことは可能であったと言わざるを得ない。

 アメリカはおそらく、タリバンの崩壊と同時に食糧供給を加速し、米の人道援助と飢餓の緩和を宣伝しようと考えたに違いない。しかし、意に反して、内戦の危機が日程に上っている現在、本当のどうしようもない、コントロールのしようのない飢餓、餓死が迫っているのではないだろうか。そのような状態をアメリカの空爆は作り出してしまった。このアメリカの責任を徹底して追及しなければならない。

永遠の不服従のために(47)

アフガニスタンにおけるアメリカの戦争犯罪(3)

 論文『アメリカの5つの戦争犯罪…』はアフガニスタン戦争を「報復戦争」と呼んでいる。勿論これは9・11テロはアフガニスタンを本拠地とするビン・ラディンが率いるアルカイダの犯行であるとするアメリカの公式見解を踏まえたときの言い方である。これまでネットにアップされている9・11テロについての記事をいろいろと読んできた結果、私はアメリカによる内部犯行説が正しいと確信しているので、「報復戦争」を「侵略戦争」で置き換えることにする。
 なお、つい先日内部犯行説を説く新しい記事に出会ったので紹介しておこう。
『米政府トップ内部告発者:ビン・ラディンは2001年に死亡・9・11は内部犯行』

 では、[2]を読んでみよう。

[2]

飢餓に瀕する国への戦争

 すでに戦争が始まる前に、600万人、700万人が飢餓線上にいた。そして、戦争準備と空爆によって多数の難民が生じると予想されていた。しかし、意外にも多くの人々の予想したようには「大規模難民」は生み出されず、身よりのない人、金のない人、体力のない人、要するにもっとも弱く生活力のない人々がカブールに取り残された。このような状況の下でアメリカは、食糧戦略=飢餓戦略ともいえる戦略を採った。兵糧責め=飢餓戦略は地域への水や食糧補給を絶ち、食糧供給施設を破壊し(井戸に毒を入れる、穀倉を焼き討ちにする、田畑を焼き払う等)、孤立化させ、戦士を飢えさせ、戦意を喪失させ降伏、投降に追いやる残忍な戦略である。

・アメリカは、空爆2日目の10/8に地雷撤去の国連系NGO事務所にミサイルを撃ち込み、国連の食料援助活動を震え上がらせ、爆撃の危険なしに食料援助をできないことを国連とNGOに知らしめた。11/20には国際赤十字の食糧倉庫が爆撃された等々。

・米の食糧投下作戦は、食糧供給=味方、爆弾投下=敵という構図を破壊し、現地の食糧供給活動に大混乱をもたらした。クラスター爆弾と食糧パッケージの色が黄色で同じであったというオチまでついた。また、地雷原にこの食糧は大量にばらまかれ、子供たちへの地雷被害を拡大した。地雷被害は、侵略戦争開始前の4割も増加した。
・投下食糧が人々の頭を直撃し、死亡させた。
・タリバンがWFPの食糧倉庫を掌握した等と非難された。もちろん戦闘部隊が、食糧を優先的に配給、調達し戦争に動員するのは不可避である。

 総じてこれらは、タリバンを疲弊させ、破壊するために、一般市民を巻き込んで飢餓地獄へ陥れるという兵糧責めであった。タリバンがこもった洞窟には食べられた野ネズミの死骸があったとされている。圧倒的な物量によって行われた空爆による兵糧責めが、タリバンのカブール陥落を予想を超えた早さでもたらしたのは間違いない。

 スターリングラードが、ヒトラードイツの900日の包囲を耐え抜いた話は有名である。しかし、もともと食糧や生活物資を「援助」に頼らざるを最貧国に、包囲に耐えうる蓄えなどなかったということである。

 カブール陥落によって飢餓と戦火からの脱出に一縷の望みを見いだし多くの市民がそれを歓迎したとしても不思議ではない。にもかかわらず、カブールでは北部同盟の略奪・暴行の復活を危惧する声が聞かれたのである。

むき出しの飢餓戦略

 カブール陥落(11/13)後、米はオブラートで包んだ兵糧責めから、むき出しの兵糧責めへと転換した。カブール陥落後は、マザリシヤリフ虐殺も含め侵略戦争の局面の中でももっとも残虐で残忍な戦争が繰り広げられた。

 米はタリバンの最後の砦カンダハルへ通じる幹線道路を封鎖し、軍用、民生を問わず、動いている車体は何でも空爆するという形で、トラック、トラクター、食糧輸送車、タンクローリー、ランドクルーザー等々を爆撃した。もはや狙い撃ちしたことを公言した。食糧、燃料、日常品、医薬品等一切の補給路を絶ち、タリバンが干上がるのを待った。

無政府状態、内戦の危機のもとで拡大する餓死、凍死の危機

 現在、食料略奪がアフガン全土で起こり、飢餓は続いている。もっとも激しい戦闘が行われたカンダハルでは、食糧、燃料はじめ一切の補給が止まり、物価が高騰し、23万人の市民は餓死の危機に瀕している。一方、タリバン政権崩壊直後、飢餓の危機が去ったかに思われたカブールと北部地域においても、略奪、強奪、部分的内戦が勃発し、国連職員が引き上げ、食糧配給が滞り、大混乱が生じている。12/3には北部同盟内部の銃撃戦が始まり、国連職員の退去が命じられた。現在一時的な飢餓の危機が緩和されているとすれば、タリバン政権崩壊直後数日にカブールに運び込まれた備蓄があるからに他ならない。良心的なNGOやタリバンが協力することによってようやく維持されていた「食糧配給システム」が破壊され、一時的場当たり的な援助物資が各軍閥の思惑によってもてあそばれているのである。アメリカは「パンドラの箱をあけて」しまったのであり、アフガニスタンを20年以上にわたって荒廃させてきた内戦の再発の危機をもたらそうとしている。

 *ユニセフ(国連児童基金)は11月20日、冬を前に12万人のアフガン児童が飢えや病気、寒さに直面しており、援助をしなければ死亡すると語り、時間との戦いを強調した。
 *ペシャワール会は、「迫り来る飢餓と無政府状態」というレポートを、11月29日に発表した。それによれば、11月13日の北部同盟カブール進駐以来、カブールを除く全アフガニスタンで治安が急速に悪化し、各国の救援団体、WFP(世界食糧計画)、国連組織は、カブール市以外の地域で困難に直面している。厳冬を迎えてアフガニスタン全土が恐るべき状態に陥っている。東の最大の町ジャララバードでは、11月15日から「防衛隊長」ハザラット・アリの率いる北部同盟軍民が闊歩し、PMS(ペシャワール会医療サービス)とDACAAR(デンマーク救援会)以外の全ての外国団体、国連系の事務所が略奪された。11/21にはペシャワール会の事務所が略奪されている。
マラリア、ポリオの復活。空爆は医療機関、設備、医薬品供給を破壊してしまった

 アフガニスタンでは、ポリオワクチン接種のための3日間の空爆停止キャンペーンが進められてきたが、世界の他の地域ではほとんど見られなくなった致死率が高いポリオがアフガニスタンで再発している。WHO(世界保健機関)はラグマン州でポリオによる子供2人の死亡を確認した。今年に入って同国南部でポリオ患者9人が発見されたが、これが他の地域へと広がっている。

 また、熱帯(脳性)「マラリアによりラグマン州で子供20人を含む計24人が死亡した。病院への搬送が遅れたために治療できなかったと言われている。もちろん、空爆と医療施設の破壊、医療器具、医薬品の不足が状況を悪化させている。

 避難民キャンプでは、急性呼吸器疾患、下痢、結核、栄養失調が拡大しているといわれている。特に下痢は子供の場合危険である。埃、風、寒さも避難民の健康に大きな影響を与える。

永遠の不服従のために(46)

アフガニスタンにおけるアメリカの戦争犯罪(2)

 私はアフガニスタン戦争の詳しい実態を知らなかったが、私が注目した二つ目の論文『アメリカの5つの戦争犯罪:アメリカの対アフガニスタン戦争の被害について』を読んでそのおぞましさに慄然としてしまった。

 論文はまず序文で次の5点の戦争犯罪を指摘している(それぞれを丁寧に解説しているが、後ほど詳しい論考が行なわれているのでここでは簡単に列挙をしておく)。
[1]捕虜虐殺問題
[2]飢餓の国に対して行った生活基盤の破壊
[3]このアフガニスタンの飢餓は「国連制裁」によって作り出されたものであるという問題
[4]飢餓戦略と結合されて行われてきた空爆による全被害の実態。
[5]アフガニスタンを非人道的な新型兵器の実験場にしてきたという問題。

 そして序文を次のように締めくくっている。
『我々は、これらの米の戦争犯罪の責任を世界の反戦、反グローバリズムの闘いとともに追及していきたい。アフガンの本当の惨状がこれから始まるように、われわれの活動もこれから始まる。ここで紹介する被害と戦争犯罪の報告は全体のごくごく一部にすぎない。これからもフォローを続けていくとともに、この事実を多くの人たちに暴露・宣伝していく活動を続けていきたい。』

 では[1]から読み始めよう(行換えの変更や補足語の追記をしています)

[1]

 捕虜収容所丸ごと爆撃、殲滅する残虐行為

 マザリシャリフ西方カラハンギ要塞にある収容所で、11/25から始まった捕虜の「暴動」に対する鎮圧は、収容された捕虜を丸ごと空爆によって爆撃し一人残らず虐殺し、殲滅するという例をみない残虐行為である。これは捕虜への虐待を禁じたジュネーブ協定に明白に違反した正真正銘の戦争犯罪である。捕虜のほぼ全員の400人あるいは800人の捕虜が死亡した。アムネスティ・インターナショナルも緊急調査を要求し、事態の経過と責任の所在を明らかにするとことを決定した。

発端から、虐殺まで、すべてアメリカに責任がある

 この暴動の発端は、アメリカの責任であり、その虐殺もアメリカが遂行した、徹頭徹尾アメリカが行った暴挙である。ブッシュ政権が直接に責任を負わなければならない。
 北部同盟(アフガニスタン暫定政府)の捕虜収容所に、CIA工作員がおり、捕虜に尋問したことがきっかけだった。「何のためにきたんだ」との問いに「おまえを殺しにきたんだ」と答えた捕虜の一人をCIA工作員が射殺したことが、暴動の引き金となった。
 あるいはパキスタン・チェチェン人・アラブ人の外人部隊のタリバン兵の捕虜は、本国への強制送還をおそれたとも言われるが、また、11/13のカブール陥落時100人あるいは600人の少年兵が無条件に処刑されたことから、処刑をおそれ反乱をおこしたとも言われている。いずれにしても、首都制圧への米・CIA・特殊部隊の主導、タリバン兵・捕虜に対する残虐行為が引き金になった。

 この事件の直前にラムズフェルトは「捕虜をとるつもりはない」「外国兵は祖国に帰ることは望まない」と発言を繰り返し、捕虜の出国を拒否していた。母国への強制送還を主張する北部同盟とも対立する形で、事実上捕虜としての存在を否定し、捕虜殲滅を示唆していた。

繰り返された捕虜虐殺

 マザリシャリフは米の残虐行為の一端にすぎない。暴動と空爆ののち捕虜の逃げ込んだ地下室に水を流し込み、あるいは油を流して火をつけいぶりだし、死体の散乱する現場を戦車で踏みつぶして砲撃する等々最後の最後まで残忍な手口で虐殺した。

 マザリシャリフは、米マスコミでも「これまでのアフガニスタンの軍事作戦でもっとも血塗られた場面」というほど凄惨なものである。しかし、偶然起こったものではない。タリバン人捕虜や投降兵に対する残虐行為は、一貫して行われていた。先に指摘したとおり11/13のカブール陥落時には、戦闘意欲を喪失した17~18歳のタリバンの少年兵を100人あるいは600人を処刑した。また、アムネスティがマザリシャリフ事件を調査するよう指示した11/28日にもカンダハルにおいて、160人のタリバン兵が処刑された。さらに11/30、マザリシャリフの学校収容の捕虜67人が殺害されている。

 タリバンやアフガン人民、アラブ人民を家畜のように扱う許し難い事件である。これらの虐殺の責任を徹底して暴露、追及しなければならない。

永遠の不服従のために(45)

アフガニスタンにおけるアメリカの戦争犯罪(1)

 これまでに紹介してきたように、辺見さんはならず者国家アメリカのアフガニスタン侵略とイラク侵略に激しい批判を続けているが、アフガニスタンには実際に足を運んでいる。そのときの記録が第3章の奈落の次に置かれている「カブール(アフガニスタンの首都)」である。また、前回の文中にあったようにイラク侵略についてはノーム・チョムスキーと実際に会ってインタビューをしている。その時の記事は第6章に置かれている。第6章は「アフガニスタン…」が終わった後で読むことにする。

 「カブール」はカブールで見た奇っ怪な夢と、その夢に導かれるように登ったスマイル山で出会った人たちとのおかしな交流と、その過程で辺見さんの心や頭の中の動きを記録する形式で記述されている。従ってアフガニスタンにおけるアメリカ軍の犯罪の具体的な記述はない。そこでアフガニスタンでのアメリカ軍の犯罪を記述した論文を検索した結果二つの論文が目にとまった。

 なんと一つは辺見さんが2002年1月8日に朝日新聞に書き送った①『これは「戦争」ではない……カブールで考えたこと』という論文だった。これまで何度か利用させてもらったサイト「阿修羅」に「dembo」という方が投稿していてインターネットに残ったのだった。

 もう一つは②『アメリカの5つの戦争犯罪:アメリカの対アフガニスタン戦争の被害について』という論文だった。大変詳しく書かれていて、私は信頼できる記録だと確信している。どのような方が書かれたのか知りたい思ったら、文末に『copyright c 2001 アメリカの「報復戦争」と日本の参戦に反対する署名運動 事務局』とあった。その後に<Home>というクリックボタンがあったのでクリックしてみたが、このサイトはすでに閉鎖されているようで
Not Found
The requested URL /stopUSwar/General/TopPage.htm was not found on this server.
だった。

 まず①を読み、次回から②を読むことにする。

『これは「戦争」ではない……カブールで考えたこと』 辺見 庸

 この身で風景に分け入り、ありとある感官を総動員して紡ぐ言葉と、書斎で想像をたくましくして紡ぐ文言の「誤差」が、どうも気になってしかたがなかった。だから、私はカブールに行ってみた。果たして、誤差はどうだったのか。ほんの短期間の取材だったけれども、米軍に寄るアフガニスタン報復攻撃につよく反対する私の考え方には、毫も変化がなかった。この点、修正の必要はない。イヤ、アフガン取材後、非道な報復攻撃への憤りは、かえっていやましにつのった、といっておこう。ただ、もともとの想定を改めざるをえない点、そして、風景の細部なのだけれど私にとっては大きな発見が、いくつかあった。

 ターコイズブルーの絵の具を塗り、上薬をかけ、さらに布で丁寧に磨きあげたようなカブールの空に、私はいつも見愡れていた。市内のアスマイ山頂から見はるかす街並も、賢者たちの設計による中世の都市の遺跡に似て、何やら夢見心地になるほど美しい。そう、この街を見る時に、ふさぎこまないですむやり方を私は考え出そうとした。いわば、悲しみを避けるための遠近法だ。それは、空を見上げているか、もしくは、なるべく遠めに像を見ること。

 だが、そんな遠近法は、実際には、荒ぶる風景にたちまちにして壊されてしまう。国連機でカブールのバグラム空港に降り立ったその時から、怒り、悲嘆、疑問が、胸底でたぎりはじめるのだ。空港で私の荷物チェックをしたのは、アフガンの係官ではなく、米海兵隊員とその軍用犬であった。いかなる手続きをへて米国がそうした権限を得るにいたったか問うても、まともな答えは返ってこないであろう。武力で制圧した者が、ここでは「正義」なのである。

 遠目にしていようという心の声を振り切って、私の眼はたくさんの人の眼に吸い寄せられていった。例えば、米軍による誤爆現場で生き残った幼児のまなざし。ものすごい爆裂音で鼓膜も破れてしまったその子は、精神に変調をきたし、絶えず全身を痙攣させながら声を立てて笑っていた。他のショック死した多くの赤ん坊や老人にくらべれば、その子はラッキーだったと言えるだろうか。眼が、しかし、笑ってはいないのだ。血も凍るような光景を瞳に残したまま、これ以上はない恐怖のまなざしで、頬と声だけがへらへらと笑っているのである。ジョージ・W・ブッシュ氏のいう「文明対野蛮」の戦争の、まぎれもない実相がここにある。全体、だれが野蛮なのか。

 カブールが「解放」され、女性達がブルカを脱ぎはじめているというテレビ報道があった。しかし、この遠近法には狂いがある。ほとんどの女性はブルカを脱いではいない。やはりもっと近づいて見た方がいいのだ。ある時、私は煮染めたような色のブルカをきた物乞いの女性に近づいてみた。凍てついた路上に痩せこけた半裸の赤ん坊を転がして、同情を買おうとしていた。顔面中央を覆うメッシュごしに、彼女の眼光が煌めいた。案外に若い女性であった。これほど強い眼の光を私は見たことがない。その光は、哀願だけでない、譴責、糾弾、絶望の色をこもごも帯びて、私をぶすりと刺した。ブルカは脱ぐも脱がないもない、しばしば、生きんがための屈辱を隠してもいるのだと知った。

 夜の帳につつまれると、カブールではひどくたくさんの犬が遠吠えをする。何を訴えたいのか、ただ飢えているだけなのか、長い戦乱の果ての廃虚で、またタリバ-ン兵の死体が多数埋まっているという瓦礫の上で、犬達が臓腑を絞るような深い声で鳴き続ける。じっと聞いていると気がふれそうになるから、時々両手で耳を覆いつつ、私は考えた。戦争の定義が、武力による国家間の闘争であるなら、これは断じて「戦争」ではない、と。だれに訊ねても、激しい抗戦などほとんどなかったというのだ。それでは、米英両軍によってなされたこととは、いったいなんだったのだろう。それは、国際法も人倫の根源もすべて無視した、計画的かつ一方的「襲撃」だったのではないか。

 クラスター爆弾の不発弾が無数に散乱するカブール郊外の麦畑で、私はひとしきり想像した。まったく同じ条件下にあるならば、米軍はアフガンに対して行ったような理不尽きわまりない空爆を、ボンやリヨンやメルボルンに対し、やれるものであろうか、と。クラスター爆弾だけではない、戦術核なみの威力のある大型爆弾(デイジーカッター)を、アフガンより数百倍も生活の豊かなそれらの現代都市に投下することができるか。おそらく、やれはしないであろう。そこにも、アフガンへの報復攻撃の隠された犯罪性があるのではないか。このたびの報復攻撃の裏には、冷徹な国家の論理だけではない、だれもが公言をはばかる人種差別がある、と私は思う。それにあえて触れない報道や言説に、いったいどれほどの有効性があるのか――私は怪しむ。

 それにしても、米国の支援でタリバ-ン政権を倒した北部同盟軍の規律のなさはどうだろう。まるで清末の腐敗した軍閥である。幹部が昼日中から街のレストランに居座り、飢えた民衆を尻目に盛大に食事をしている。子細に見ると、それら幹部は、いまのところ形勢有利なタジク系のスンニ派であり、かつてタリバ-ンを形成していたパシュトゥン人らは肩を落とし、小さくなっている。だが、北部同盟軍の将兵らには何ヶ月も給料が支払らわれていないという。彼らは、かつてタリバーン兵がいた兵営で、なにするでもなく暮らしており、一部は夜盗化しているともいわれる。勝利の分け前を主張する北部同盟各派の内訌は必至であり、本当の和平と国家再建には、なおいまだしの感がある。

 ある日、米軍特殊部隊や北部同盟兵士らが、空爆で殺した兵士の遺体から、指を切り取って集めているという噂話しを耳にした。米側がDNA鑑定をして、オサマ・ビン・ラディンやその側近の者か、確かめるためだという。山岳部を中心に猛爆撃を加えては、死体の指を切り落とし収集するという、およそ文明とも文化ともいえない作業を想像して、私は身震いしたことだ。

 この冬、飢え死にしかかっている何万ものアフガン民衆のことなどまったく眼中にない、ひたすら無気味な報復の論理だけが、ここには、まかりとおっている。

 私はカブール滞在中に、日本でのいわゆる、「不審船」騒動を知った。冷静な分析を欠いた過剰かつ居丈高な反応が相次いだ。その時、脳裏をかすめたことがある。不審船の出所とみられる国への、有無をいわせぬ「米国方式」の軍事攻撃である。杞憂であろうか。いや、アフガンにおける米軍の傍若無人のふるまいを見るならば、この暴力方式の他地域への適用は、現実的といわなくてはならない。いまからつよい反対の声を挙げておくにしくはないのだ。

永遠の不服従のために(44)

年若い死刑囚A君(7)

 前回の記事によりA君が起こした事件のことが少し詳しく分かった。まとめてみよう。
 コバーンが自殺をしたのは1994年4月5日だから、A君が事件を起こしたのは1992年ということになる。また、『年若い死刑囚A君(2)』では一緒に食事をした少女の母と祖母が殺されたとなっていたが、実際には数人が殺されていたと書かれている。そして、相変わらず不可解なことに、その時その少女がA君の車に同乗していたようだ。辺見さんは「事件の鍵をにぎる少女」と書いているが裁判記録には全く登場しないという。(これまでに分かった事から「死刑確定囚リスト」の中に該当者らしい人が見つかったが、確定はできないのでこれ以上は深入りするのはよそう。)

 さて、③「夢の通い路」は日本の拘置所の非人道的しきたりを論じている。そして、その非人道的閉空間の中でも読書に打ち込むA君の心に、辺見さんは自分の心を寄せていく。
 ではこれを読んで「年若い死刑囚A君」を終わることにする。

咎人(とがにん)の首を打つ役人が、大刀を振りかざしつつなにを口にするものか、ずっと気になっていた。観念せよ、か。ちがうのだ。「まだ間があるぞ、まだ間があるぞ」というのだそうだ。まだ間があるぞと、咎人を油断させておいて、一気に首を斬り落とす。間なんかじつはないのだ。 (拙著『独航記』「刑場跡にて」から)

 運動不足ゆえに肥えに肥えてしまった私の年若い友人Aが医務官から痩せるようにいわれた、という話を以前書いたことがある(『いま、抗暴のときに』22頁)。いわゆる確定死刑囚のAはさぞやその指示に反発しているだろうと私は想像したのだった。時いたれば縊(くび)り殺すというのに、痩せろも太れもないだろう、と。まったくお上のやることときたら気が知れないが、拙文を読んだらしいAがごく最近、手紙で反応してきた。彼らはなぜ痩せろと命じるか。Aはいう。「それは(絞首刑執行後)重い私の死体を運ぶのが大変だからでしょう」。この期におよんでまだ恰好をつけて笑うに笑えないジョークを飛ばしてみせるAの性格を私は好んでいる。この手紙は直接私のもとに届いたのではない。彼が母堂にあてた手紙のなかで記していたのである。死刑が「確定」すると通常一定の親族としか手紙のやりとりも面会も許されなくなる。軍事独裁国家顔負けの非人道的制度である。母親に手紙をしたためるのも一通につき便せん七枚以下と決められている。私はしたがってもう一年半もAに会えず、手紙も交わしていない。その間に拘置所は四百億円以上かけて建て替えられ、彼は新しい監房に移された。建て替えられたそれは遠くから見るとホテルみたいに立派だが、なかは地獄という話がもっぱらだ。古い監房の窓からは外の植物や高速道路などがわずかに見えたが、いまは窓と居房の間に巡視路が故意に設けられ、草木一本眼にすることも移ろう四季を感じることもできなくなった。「なかから覗かれたくないとの要望が周辺住民からあったため」と役人は説明するが、外界との完全な遮断による心身の障害は増える一方だと聞く。運動場も変わった。いまはコンクリートの床と壁に囲まれて、見えるのは虚空のみ。国連の被拘禁者最低規準では「毎日少なくも一時間の戸外運動」が保障されているはずなのに、Aのいる拘置所ではコンクリートの狭い閉鎖空間で週に2、3回、たった30分の「運動」が許されているだけだ。Aは面会室で待つ母に会うのに施錠された4つの鉄のドアを通らなくてはならないのだという。監獄や拘置所といった公的閉域のありようは国家の貌をなにがしか象徴するものだ。Aのいるそこも見てくれは上等だが内実はとても非人間的という点で、この国の娑婆と相似形をなす。ともあれ、私はAから遠ざけられた。そう思っていたのだが、彼のほうはめげずに私との交信を求めているようだ。母堂あて(というより事実上私あて)の手紙によると、Aはこの連載も、これを単行本化した『永遠の不服従のために』も、ノーム・チョムスキーと私のやりとりも、端から端まで、(はっきりいって担当の編集者以上の集中力で)まるで舐めるようにして読んでいたのだった。私はなによりそのことを光栄に思う。このたびの手紙では、米英のイラク侵略以前に行った私のインタビューでチョムスキーが当時からどれほど的確に不当な軍事攻撃の実態と背景を見抜いていたかを、Aは現在のイラクの風景に照らし、いちいち発言個所を引用して証明しようと試みていた。それらのなかには、「ああ、そうだったか」とわれ知らず感嘆の声をあげてしまうほど見事な論証もあった。拘置所の入り口から数えればおそらく七つ前後の鉄の扉に隔てられているであろうこの世の最奥の絶対的閉域で、かつて複数の人間を酷い死にいたらしめた男により、こんなにまで深く静かな思念がなされているという事実に私は撃たれる。「意外」ということでは、それはないのだ。むしろ腑に落ちるのである。そして、いま書くということ、表現するということ、伝えるということ。じつのところ、それは、のっぴきならないことだ、抜き差しならないことなのだ、ぞっとするほど怖いことなのだ、と躯中の肝(きも)で感じたことだ。

 さて、そのAは以前の手紙で私の夢を見たとほのめかしてきたことがある。いい換えれば、私は彼の夢に入りこんだことがある。つまり、私の魂は私の躯からでて最奥の閉域を難なく侵し、そこで眠っていた彼の夢のなかでひとしきり遊んだのである。めったには明かしたことがないが、私にはそうした特技というか癖というか病気がある。六条御息所(ろくじょうのみやすどころ源氏物語に登場する女性)のような特定の対象への憑依(ひょうい)めいた話ではない。夜半に私の魂が、じゃ旦那、ちょいとばかり行ってきますねとかなんとかいって躯から抜けでて、まことに無遠慮なことには不特定の他人の夢に入りこんではさんざ遊びまくったすえ、朝まだきに私の躯に帰ってくる、離魂病に似た煩(わずら)い。魂は他人の夢のなかでどんな悪戯をしてきたのかいちいち私の躯に報告しはしない。ただ、薄汚く老いた獣の剥製のように寝床にじっと横たわり魂の帰還を待つ私には大体の察しがついている。私の躯に戻ってくるときの魂のあの襤褸綿(ぼろわた)のようになった疲れぐあい。あれは、他人様の夢のなかで、夢の主に対し、醒めては口にするのが憚られるようなひどく下卑た言葉を浴びせて糾弾しつづけた証拠である。逆に歯が浮くような気障(きざ)で偽善的な言葉で夢の主をほめそやしたりもしているようだ。あるいは、老若の別なく異性の夢に入りこんでは、人外(にんがい)ここにきわまるといった名状もできないほど淫らな行為におよんだこともあったようである。私の魂は夢の主とともにおおかたは「悪夢」をこしらえているようだ。その被害者はたぶんA一人にとどまるまい。たまにわけありげな面差しの人間に会うとき〈この人は羞ずかしくて口にこそしないが、俺をたっぷり夢のなかに入れてしまったことがあるな〉と私は確信に近く感じとることもある。というわけで、"夢侵犯"の被害は拙稿の読者たちにも広くおよんでいるとみるのが自然かもしれない。連載の最後にあたり、加害者としてこの点を一応お詫びしておきたい。でも、今後二度とこれを繰り返さないかといえば、なにしろ気侭(きまま)な魂の所業ゆえ、獄中のAにも獄外の読者たちにもまったく保障のかぎりではない。一方で私には読者と私をつなぐ夢の回廊を、それがどんなにふしだらで淫らで危うくていわゆる「反社会的」であるにせよ、スパッと断つのではなく、やめようとしてやめられない毒薬のように秘やかに保持していたいという思いもある。なにしろ、この夢の通い路をひとり行くならば、世界最奥の薄明で浅い眠りを眠るAにも会える。眼には視えない日常という監房にいらだち、ときに世界へのろくでもない破壊衝迫や殺意を感じて、よせばいいのに夜半にひとりうち震えたりしているあなたとも会えるのだから。夢の回廊は、より深く病み、微熱を帯びてぼうっと緑青色の光を闇に浮かべている魂の根っこと繋がっている。いつかまた、私の魂は蹌踉(そうろう)とそこに通うことになるだろう。あなた、待っててくださいね、すぐに着きますからね。猫なで声でそう呟き呟き私の魂は悪い夢へと赴く。金輪際、合唱しない、唱和しない、シュプレヒコールしない、朗読しない、読経しない。そう誓いたがっているあなたの夢に、いつかするりと入っていく。「まだ間があるぞ」なんていったって、もう間なんかないことを、私は首筋のあたりで感じている。ああ、駆け足になる。

 余分事ながら、六条御息所について知りたい方に次の記事をお薦めします。
『源氏物語と女性(四)憑依の女性 六条御息所』