2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(28)

大日本帝国の植民地(11)

戦時下の植民地(8)


 朝鮮、台湾におけるファッショ的人民支配の強化と「皇民化」政策の強行は、朝鮮、台湾の人民を日本の侵略戦争に動員するための施策に他ならなかったが、それは大日本帝国本国で行われていた戦時体制を強固にするための政策と並行しながら行われていた。

 今回は、次のテーマ(第二章第三節「労働力・兵力動員と強制連行」)に入る前に、本国で行われていた人民統制と搾取の実態について知っておきたいと思い、それを取り上げることにしました。
 しかし、そのあらましを知ればよいと考え、年度別に重要項目だけを列挙してまとめることにしました。(もし必要が起こればその項目ごとに詳論することにします。)

 資料としては『日本史総合図録(山川出版)』の「恐慌と統制経済」というページ掲載されている年表[戦時体制と統制]をもとに、『戦争意志とは何か』
に掲載した「昭和の15年戦争年表」などから補充して作成しました。以下に掲載します。(月日は省略します。順序は月日順になっていません。)

年表「大日本帝国本国での戦時的収奪」

1936年
  二・二六事件勃発
  メーデー禁止通達
1937年
  文部省 「国体の本義」を学校などに配布
  臨時資金調達法・輸出入品等臨時措置法公布
  軍需工業動員法適用
  国民精神総動員中央連盟結成
  全日本労働総同盟大会、事変中の罷業絶滅と戦争支持決議
  内務省、検閲方針をさらに強化
1938年
  国家総動員法施行
  文部省、集団的勤労作業運動実施を通達(勤労動員始まる)
  産業報国連盟創立
  筆禍事件、「生きている兵隊」(石川達三)・「麦と兵隊」(火野葦平)発禁
  ガソリン切符制実施・国内向け綿製品の製造販売制限・鉄鋼配給統制規則公布
1939年
  国民職業能力申告令公布
  国民精神総動員強化方策決定
  全国の招魂社を護国神社に改称
  国民徴用令施行
  興亜奉公日制定
  満蒙開拓青少年義勇軍の計画発表
  「青少年学徒に賜はりたる勅語」を下賜
  国民精神総動員委員会・「生活刷新案」を閣議決定。(男子の長髪及び女子のパーマネントを禁止している)
  国民徴用令公布
  「賃金統制令」・「価格統制令」公布
  米穀配給統制令法」を公布
  国民へ「白米禁止令」公布
  石油・国内の木炭が統制品となり、配給制となる
  製鉄不急品回収
1940年
   紀元2600年祝典
  大日本産業報国会創立
  経済新体制確立要綱案発表
  内務省、「不敬な」名前の芸能人十六名に改名を指示
   米の強制出荷、砂糖・マッチ切符制を実施
   日本労働総同盟解散・大日本農民組合解散
   国民精神総動員本部、東京市内に 「贅沢は敵だ!」の立看板を立てる
   立憲民政党解散、議会制民主主義が実質上停止
  大政翼賛会発会
  ダンスホール閉鎖
1941年
  国民学校令公布
  文部省、「臣民の道」を学校などに配布」
  全国の映画館でニュース映画強制上映開始
  情報局が各総合雑誌に執筆禁止者の名簿を示す
  改正治安維持法公布、予防拘禁制を追加
  貿易統制令・重要産業団体令。・金属類回収令公布
  生活必需物資統制令公布
  六大都市で米穀配給通帳制実施(一日2合3勺)
  酒切符制実施
1942年
  大日本翼賛壮年団結成
  大日本婦人会発会
  翼賛選挙実施
  翼賛政治会結成
  企業整備令公布
  塩通帳制配給実施
  衣料・味噌醤油切符制実施
  金属類回収令により梵鐘など強制供出
1943年
  大学予科・高校高等科の修業年限1年短縮
  学徒勤労動員計画決定
  徴兵猶予停止による学徒出陣
  徴兵年令を19才に引き下げ実施
  戦時衣生活簡素化実施要綱決定

明治150年、何がめでたい(27)

大日本帝国の植民地(10)

戦時下の植民地(7)


 朝鮮、台湾における人民支配と戦争への動員体制は徹底した「皇民化」政策によって推進されたということでした。
 今回は、朝鮮・台湾での人民支配の実態を詳説している第二節
 「朝鮮、台湾における「皇民化」政策の展開
を読んでいきます。

[「朝鮮での皇民化」政策]

 朝鮮では、日中戦争が開始されると、朝鮮総督府はただちに精神総動員運動にのりだし、37年8月から朝鮮各地で時局巡回講演や時局座談会を開催し、朝鮮人にたいする戦争宣伝の吹聴に全力をあげた。
 さらに10月には「皇国臣民の誓詞」(一般用と児童用の二種)を制定し、児童には、
「一、私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス。一、私共ハ心ヲ合セテ天皇陛下ニ忠義ヲツクシマス。一、私共ハ忍苦鍛錬シテ立派ナ国民ニナリマス。」
という文句を学校の朝会などで斉唱させ、一般の朝鮮人にたいしても同趣旨の「誓詞」を官庁・会社・職場その他のあらゆる集会で斉唱するよう強要した。

 一方、「皇民化」政策の一環として、朝鮮人を兵力として動員するため38年2月朝鮮人にたいする陸軍特別志願兵令が勅令で公布され、翌年4月から実施された。
 この実施にあたって末端では地方官憲による半強制的な動員が行われた結果、のちに1943年朝鮮に徴兵制が施行されるまでに志願者総数は80万2047人に、うち訓練所入所者は1万7664人におよんだ。

 志願兵制度の実施と関連して、同年3月には朝鮮教育令が改訂された。朝鮮語は随意科目に入れられ、学校での朝鮮語の使用は事実上禁止された。また各教科の重点ももっぱら天皇崇拝思想の注入におかれ、一切の民族教育は剥奪された。

 このほか総督府は国家神道によって朝鮮人に「国体観念」を浸透させることを目的として、改正神社規則(1936年8月)による一面(村)一神詞設置を強行するとともに、すべての朝鮮人に神社参拝を強制した。
 またキリスト者から信仰の自由を奪い、38年9月には全朝鮮キリスト者の6割を占める長老会の平壌総会に神社参拝支持の声明を出させた。

 このような一連の形式的画一的な「皇民化」政策の強行に加えて、さらに朝鮮人民にはかり知れない苦痛を強いたのは、総督府が「内鮮一体」の名の下に断行した、いわゆる「創氏改名」であった。

(「創氏改名」は『戦争意志とは何か』『昭和の15年戦争史』で取り上げていますが、ここではより詳しく解説されているので、重複を厭わず全文転載しておきます。)

 すなわち1939年2月の改正朝鮮民事令(制令一九号)は、朝鮮人の姓名制を廃止し、氏名の称呼を使用することを命ずるとともに、
「氏ハ戸主之ヲ定ム」「朝鮮人戸主ハ本令施行6月以内二新二氏ヲ定メ之ヲ府尹又ハ邑面長ニ届出ルコトヲ要ス」
と定め、その一方で天皇の
「御歴代御諱又ハ御名ハ之ヲ氏又ハ名ニ用フルコトヲ得ス」(制令二〇号)
と指示し、さらに総督府の通牒をもって「創氏改名」に具体的な制限を加えた。

 これにもとづいて翌40年2月から実施された「創氏改名」は、朝鮮人の家系伝統を根柢からくつがえし朝鮮人の民族性を抹殺するものとして朝鮮人民の怨嗟の的となった。
 しかし総督府は警察行政権力のすべてを動員して期限内の「創氏改名」を強要し、申告しない者には子弟の入・進学の拒否、就職の不採用・解雇などのあらゆる迫害と差別を加えた。

 その結果、期間内の創氏届出は317万戸(総戸数の75%)にたっしたというが、その一方、「創氏改名」を断固として拒否したり、激しく抵抗した朝鮮人も少くなかった。
 その一人、李甲基は
「氏ノ創設慫慂(しょうよう)ハ率直ニ云へハ朝鮮人ノ大ナル恥辱ニシテ朝鮮ノ旧習ニ従へハ姓ヲ変更スルコトハ自己の親ヲ更フルニ等シ、誰カ喜ンテ姓ヲ更フルモノカアラウ」
と批判し、また創氏を届出た者でも、たとえば田柄夏は「天皇陛下」をもじって「田農丙下」と改名し、文人の金文輯は「犬糞食衛」という氏名を届出て官憲の激しい問責をうけた。
 また詩人として知られた金素雲は、「鉄甚平」(自己の姓である金を失っても甚だ平気なりの意という)と創氏改名し、なかには全羅北道の中地主薛鎮泳や同南道の柳健永のように死をもって抗議した朝鮮人もいた。

 以上のような、おどろくべき無法かつ非合理な「皇民化」政策を中心的に推進するための官製ファッショ団体として、すでに38年7月に総督府学務局(局長塩原時三郎)を中心に国民精神総動員朝鮮連盟が発足していた。同連盟は下部組織に道・府郡島・邑面・町洞里部落の行政区域ごとの地方連盟と、官公署・学校・会社その他団体別の各種連盟を設け、その基底組織として愛国班(約10戸をもって構成)をおいた。愛国班は宮城遙拝・勤労貯蓄を必行事項とし、毎月一日を「愛国日」と定め、国旗掲揚、神社参拝、日本語常用、「皇国臣民の誓詞」斉唱、勤労奉仕などを通じて日常生活の末端レベルで「皇民化」運動に朝鮮人を動員した。

 1940年10月、朝鮮連盟は日本の大政翼賛会の成立にあわせて国民総力朝鮮連盟(以下、総力連盟と略す)と改称し、運動目標に挙国一致・堅忍持久・尽忠報国・皇国臣民化を掲げるとともに、1932年以来の農村振興運動をもくみ入れ、国民運動の一元的組織体制をととのえた。そして運動の眼目は、
「朝鮮同胞に皇国臣民たるの自覚を向上せしめ、道義の確立を期する奉仕的実践運動とし、内地に於けるが如き政治運動たる色彩を包合せざること」
とされる一方、その組織は中央から末端にいたるまで総督府の各級行政機構との表裏一体化を実現した。また総力連盟への改組時の愛国班数は約38万、班員は各世帯主たる代表班員のみで約530万余を算え、全愛国班員の「実数は半島住民の全部を包含して余す所がない」といわれた。

 かくて総力連盟への改組は、「満州国」の場合と同じく、朝鮮においても総督府と総力連盟の二位一体による一元的指導体制の下に朝鮮の全人民にたいするファッショ的支配がいちじるしく強化されたことを意味したのである。

[「台湾での皇民化」政策]

 植民地人民を戦争へ動員するための「皇民化」政策は、台湾においてもまた強力に推進された。
 すでに1936年7月台湾の軍官民有力者によって開催された民風作興協議会の答申は、
 「国体観念ヲ明徴ニシ国民精神ノ作興ヲ期スルト共ニ同化ノ実ヲ徹底セシムル為」
の民風作興が「刻下ノ急務」であるとし、国民教化の具体策として
 「敬神思想の普及」・「皇室尊崇」・「国語(日本語)の普及常用」・「国防思想の涵養」
などをあげ、台湾における「皇民化」政策の基本方向をうちだしていたが、日中戦争の勃発はその政策が本格的に開始される契機となった。

 まず37年7月17日台湾総督府は「時局ニ対処スル為精神動員ノ徹底ニ関スル件」を地方長官に通達し、ついで9月には中央に国民精神総動員本部を、各州庁に支部、市郡に支会、街庄に分会を設置して、
「国民精神総動員週間」(37年10月)・「経済戦強調週間」(38年12月)・「日本精神発揚週間」(39年2月)
などの各種の週間行事にあわせて勤労奉仕作業などに台湾人民を大量に動員した。

 台湾人民の「皇民化」のためにとくに重視された日本語普及運動は、すでに1931年から10ヵ年計画として実施されていたが、37年からは国語講習所・簡易国語講習所などの増設によってさらに促進され、日本語普及率は形式的には37年の37.8%から42年には約60%に達したといわれた。

 また台湾でも国家神道に対する信仰が強要されたが、そのために台湾人の土着信仰の対象たる寺廟整理が強行され、代って神社増設による神社参拝が強制されたところに特徴があった。

 さらに朝鮮の「創氏改名」と時を同じくして、40年2月台湾の戸口規則が改正され、台湾人から民族固有の姓名を奪い日本式の氏名に改めさせるための「改姓名」が実施された。ただし画一的強制によって強行された朝鮮の「創氏改名」と異なる台湾の「改姓名」の特色は、
「一、国語常用ノ家庭デアルコト、二、皇国民トシテノ資源涵養ニ努ムルノ念厚ク且公共的精神ニ富メル者タルコト」
の二要件を充たす者に「改姓名」を認めたことである。

 こうして「改姓名」運動は台湾人の「皇民化」促進の手段として実施され、改姓名者は1941年末までに9547戸、7万1785人におよんだが、その数は当時の台湾人総戸数・総人口の約1%にすぎなかった。ここには中国民族の一部たる台湾人民の「改姓名」にたいするかくれた抵抗をみることができよう。

 「皇民化」運動を推進する全国組織の結成も台湾ではやや遅れ、ようやく日本の大政翼賛会成立から半年後の1942年4月に皇民奉公会として発足した。皇民奉公会は朝鮮の総力連盟と同じく、最初から一切の政治性を否定された精神総動員組織とされ、総督府の行政機構との完全な表裏一体のもとに組織された。総裁には総督(長谷川清海軍大将・1940年11月就任)が、中央本部長には総務長官(斎藤樹)が任じ、各級地方行政組織に一致した下部組織(州庁支部・市郡市会・街庄分会)の長には当該行政機関の長が就任した。また市支会・街庄分会の下にそれぞれ区会・部落会をおき、その下に区域居住者を網羅する末端組織として奉公班をおいた。
 このほか奉公会の傘下団体として台湾連合青少年団・産業奉公団・商業奉公団などが結成され、さらに台湾人を南方進出の人的要員として養成するため奉公会によって拓南農業戦士訓練所(各州7ヵ所)・拓商工業戦士訓練所(台北)・海洋訓練隊が設置された。

 皇民奉公会結成直後の第二回地方長官会議で長谷川総督は奉公会についてのべ、
「本運動は島民各々その職分に奉公し、挙国一致臣道を全うし国防国家体制の確立東亜新秩序の建設を目的とする」
と語ったが、この方針にそって奉公会は、青年訓練の実施、指導者の養成のほか、各傘下団体を通じて生産増強や物資配給等の戦時行政に台湾人民を組織的に動員する体制となった。
明治150年、何がめでたい(26)

大日本帝国の植民地(9)

戦時下の植民地(6)


第二章の表題は
植民地におけるファッショ的人民支配と戦争動員
です。

 ファッショ的人民支配政策は満州と朝鮮・台湾では異なる方法が執られていました。
 満州における人民支配の特質は協和会の「建国」イデオロギーにもとづく人民のファッショ的組織化と人民総服役制の完成にありましたが、これに対して、朝鮮、台湾における人民支配と戦争への動員体制は徹底した「皇民化」政策によって推進さました。
(「協和会」は前回で満州国の治安機構の一つとして取り上げられましたが、今回ではその実態が詳説されています。)

 では、満州での人民支配の実態を詳説している第一節
 「満州国の人民総服役制」
を読んでいきます。

 日本帝国主義の戦時植民地支配は、戦争遂行に必要な植民地資源の収奪にとどまらず、さらに植民地人民の戦争への動員体制の全面的な強化をもたらした。

 植民地人民の戦争への動員は主として人民のファッショ的組織化とイデオロギー的統合を通じて推進された。
 まず植民地人民のファッショ的組織化がもっとも先行したのは「満州国」においてであった。満州では、すでに満州事変前から満鉄中堅社員を中心とする満州青年連盟が満蒙権益擁護の活動を展開し、事変後は関東軍に協力して「建国」工作に従事する一方、山口重次、小沢開策らの幹部は関東軍参謀の石原莞爾らと結託して独自に満州協和党の設立を準備し、一国一党的政治組織による「満州国」統治を構想した。
 しかしその構想は中央集権的官僚支配による「満州国」統治を基本とする日系官僚のつよい反発にあって挫折した。

1932年7月 「満州国」協和会の結成
 この協和会は満州青年連盟が事実上の母体であったが、いわゆる「王道主義・五族協和」の「建国」イデオロギーを指導理念とし、執政薄儀(1934から皇帝)を名誉総裁に、関東軍首脳部と政府官僚を役員に配した官製団体である。

「満州国」の設立後まもなく協和会のような官製国民組織が結成されたのは、中国の国民革命に対決しつつ複雑な民族的構成と人口三千数百万におよぶ満州社会を「満州国」に統合するためには、満州各地の土着支配層を基盤とした協和会のごとき組織が必要とされたからである。したがって結成後の協和会の主な役割は、関東軍の治安工作に協力する一方、土着の中国人地主・商人層を組織した末端の分会活動を通じて民衆にたいする治安宣撫工作と行政の浸透をはかることにあった。

1936年7月 協和会の改組
 その後「満州国」の中央地方の官僚的支配機構が整備されるとともに、協和会に対する日系官僚の指導権は強化され、おりから日本の総力戦準備に即応する「満州国」の戦争準備体制の一環として、協和会は満州人民を戦争政策に動員するための画一的なファッショ的国民組織に改編された。

 また同時に会員の大衆化方針により住民の入会が積極的に奨励された。その結果、36年9月に約44万人であった会員数は、38年2月に100万人をこえ、さらに41年6月には200万人を突破し、急速な膨脹を示した。
 しかしその反面、精鋭会員の後退による協和会の指導力の弱体化を招き、これ以後協和会は会の大衆的拡大と指導性の弱化の相克に終始苦悩しなければならなかった。

37年4月 青年訓練の実施開始
 改組後の協和会は「挙国一致ノ実践組織体」(綱領)として国民動員を工作目標の一つに掲げ、青年訓練を実施した。
 青年訓練は、
 「青年の心身を陶冶して健全なる国民を育成し、警備並びに国防の維持能力の増強に資する」
ことを目的とし、16~19歳の青年を対象に青年訓練所において「建国」イデオロギーの注入と軍事訓練を施し、青年層の戦時動員への組織化の基礎となった。

 日中戦争勃発後、協和会は国家総動員の要請に応えて青年訓練をさらに発展させ、青少年の全国的動員組織としての協和青少年団の結成に着手した。

1938年6月 「青少年組織大綱」を発表
 この「大綱」は、
 「全国青年に建国精神を継承体得せしめ、……国礎の強化、国力の発展に資」
するため、16~19歳の青年を協和青年団に、10~15歳の少年を協和少年団に組織する方針を明らかにした。
 これによって協和会は指定された全国各市・街・村の行政区域ごとに当該協和会分会を基礎に協和青少年の組織化をすすめ、翌39年3月全国一斉に結成式を行った。
 その後、協和青少年団は結成時の概数3000団・60万人から42年1月には6800団・235万人に急速に組織を拡大するとともに、各種の国策事業に勤労奉仕として大量に動員されていった。

1938年12月 協和義勇奉公隊の結成
 最初に主要都市に結成された同奉公隊は、協和青少年団とならんで、「満州国」の戦時動員組織として重要な役割を担った。
 この奉公隊はさきに制定された国家防衛法を基盤として、
 「協和会組織と有機的関連において民族一体の協和義勇奉公心に基く警備動員並訓練組織」
とされ、20~35歳の青壮年男子を組織対象とし、その構成は総隊の下に地域区隊・分隊と特設区隊(官庁・会社等)をおき、その他特殊警備隊・消防隊・自動車隊等の特殊隊を設け、平戦両時に即応する民間警備活動を重要な任務とした。
 また奉公隊は協和会の総括的指導下におかれて隊勢をしだいに拡大し、40年2月には64総隊・25万人となり、43年には80総隊・52万人にたっした。

 こうして「満州国」における戦時動員組織の結成を推進した協和会は、その過程で政府の官僚支配との癒着をいっそう強めていった。

 協和会ではすでに1934年以来、中央地方の連合協議会を開催し、分会代表として参加した地方の土着支配者層を通じて「満州国」の施策の一般民衆への浸透をはかる一方、日本の植民地支配が生み出す満州の民衆との摩擦対立をある程度まで濾過吸収することに努めてきたが、35年から連合協議会の議決方式を当初の多数決制から満場一致制にきりかえて政府と協和会との形式的一体制の確保をはかった。
 しかし日中戦争開始後の戦時統制政策の強化は民衆の不満を反映する地方分会代表と政府との軋轢を増大させ、もはや満場一致制による連合協議会の運営は不可能となった。そのため協和会は、39年の第7次全国連合協議会から政府との一体的関係をさらに強化するための新たな議決方式として衆議統裁制を採用した。
 衆議統裁制とは、
 「議長において構成員の意見動向を達観しつつ国家並びに国民を貫く建設的目的意識の下に統裁帰一」
するものとされたが、このような全体主義的指導者原理による衆議統裁制の採用によって連合協議会は協和会による民衆支配のためのファッショ的機関に転化するとともに、政府の完全な翼賛組織になったのである。

1940年12月 「国民隣保組織確立要綱」を策定
   連合協議会の翼賛化につづいて、「満州国」政府は、戦時行政を末端の民衆レベルにまで浸透させるため農村における屯・牌、市街地における班・組を国民隣保組織として編成し、その指導に協和会員を当らせることとして「…要綱」を策定し、翌41年2月から実施した。

 さらに協和会では、同年4月の改組を通じて協和会の省・市・県・旗各級本部長と当該行政機関の長との兼務を制度化し、いわゆる政府との二位一体制を確立した。

 このような官僚組織としての政府と国民動員組織としての協和会の二位一体的指導体制によって「満州国」におけるファッショ的人民支配はいちじるしく強化されたが、それは同時に満州の植民地人民の戦争への総動員体制、いわゆる人民総服役制実施の前提であった。そして、その人民総服役制は次の様な経緯を経て実施された。

 「満州国」における兵力動員は、すでに「満州国」の設立と同時に関東軍の指導下に募兵方式による「満州国」軍が編成され、日中戦争には一部部隊の出動も実施されたが、戦争の長期化はさらに満州人民の兵力としての強制動員(徴兵制)を必要とした。

1940年4月 国兵法が公布実施される
 これは人民総服役制の一つの柱とされた法である。
 同法の骨子は兵役期間を3年とし、満19歳に達した青年に壮丁検査をうけさせて入営させ、また戸長に対しては壮丁適令者の本籍地市街村長への届出義務を課すことなどを規定した。そして第一回国兵検査は41年2月より4月にかけて全国的に実施された。

 しかし「満州国」における徴兵制の実施は容易ではなかった。たとえば佳木斯市では壮丁適齢者784名のうち、指定された3月末までに届出た者はわずかに24名にすぎず、満州人民の中に徴兵を忌避する傾向が強くみられたのである。

 もう一つ、「満州国」における労務動員政策上の問題もあった。
 日中戦争の勃発による華北からの出稼中国人労働者の激減に対処するための労働力の需給統制機関としての満州労工協会の設立(38年1月)、労働力移動防止のための「労働票発票規則」の制定(同6月)につづき、39年2月に新たに労働統制法が制定され、緊急時には平時においても行政機関を通じて割当募集による労働力の強制動員を可能にする道がひらかれたが、満州における中国人労働者の極端な低賃金と劣悪な労働条件は労働者の移動率を増大させたばかりでなく、さらに40年6月為替管理法の改正により円資金の国外流出を防止するため華北中国人労働者の送金額を最高50円に制限した措置は、40年下期に中国人労働者の入満数の激減、離満者の急増を招き、労働力不足に拍車をかけた。
 その上、41年7月、関東軍が対ソ戦準備のための、いわゆる「関特演」の実施に当って要求した莫大な労働力の緊急供出に応えるためにも、従来の「満州国」の労務動員政策はすでに限界に達していた。このため1941年9月「満州国」政府は、「労務新体制要綱」にもとづいて従来の労工協会を労務興国会に改組拡大する一方、労働統制法の改正によって新たに民生部大臣に人民徴用の強力な権限を与えた。

1942年10月 国民勤労奉公法・国民勤労奉公隊編成令の制定
   この制度は太平洋戦争開戦後の臨戦体制下で急増する労働力需要を充たすために制定された。
 その骨子は20~23歳の満州青年のうち健康で兵服に服さないすべての青年に通算12ヵ月以内勤労奉公隊に入隊し、軍事施設・鉄道道路の建設その他政府の指定する労働に服役する義務を課し、学生にも「学生勤労法」による毎年30~40日の労働を強制した。また勤労奉公隊の編成に際しても、各行政区域ごとの協和青年団が母体となって隊員の動員編成がおこなわれた。

 この頃既に、大日本帝国はミッドウェー海戦敗北(1942年6月)・本土初空襲(同年4月18日)…と降伏寸前の状況にあった。にもかかわらず、満州国の人民支配と人的搾取の強引な政策がなお続けられた。

 こうして先に実施された国兵法とならんで、「満州国」の人民総服役制の双璧をなす国民勤労奉公制は、43年に一部省市で、44年から全国的に実施され、43年に協和会の指導で勤労奉公隊に動員された青年は10万人におよび、44年には24万人の動員が計画された。また勤労奉公隊による動員に行政供出・一般募集を加えた労働力の総動員は、中央地方の労務動員計画にもとづいて各省に割当てられ、44年の動員数は延べ250~260万人にもおよんだ。

 かくて全国的国民組織である協和会を基盤とし、国兵法と国民勤労奉公制を二本の柱とする人民総服役制の実施によって、「満州国」における植民地人民の戦争への全面的な動員体制が完成されたのだった。
明治150年、何がめでたい(25)

大日本帝国の植民地(8)

戦時下の植民地(5)


抗日民族運動の展開(前回の続き)

 前回に確認したように、東北における抗日運動は持続的に展開されていた。これは日本の「満州国」支配の最大の桎梏となったが、これに対する日・「満」当局の対応は次のようであった。

 1937年以降も治安対策に最重点をおき、「満州国」の一般会計歳出額でも治安費は毎年総額の30~40%と最高の比重を占めた。このような厖大な予算を投入してあらゆる治安工作が試みられ、とくに「匪民分離」のための集団部落の建設はその数・規模ともに拡大され、39年末には累計1万3451ヵ所におよんだ。

 さらに日・「満」側は、39年10月から吉林・間島・通化三省の抗日勢力を一掃するために「東南部治安粛正工作」を実施した。
 以後二年半にわたるこの工作には、3000万円の予算と20万以上の兵力が投入され、三省討伐司令部(司令官野副昌徳少将)の下に日満軍警・司法行政機関・協和会など「満州国」の全治安機構が動員された。

 すでに日本の各種の治安工作によって困難な闘争を強いられていた抗日連軍は、この工作によってさらに大きな損失をうけた。

1940年2月
 第一路軍総指揮の楊靖宇が吉林省濠江県の山林中に包囲されて戦死し、各軍も多数の幹部と兵士を失った。その結果、抗日連軍の結成時には約2万6000人と推算された全満の抗日勢力は40年5月末にはわずか2000人までに減少したともいわれた。

1940年3月
 抗日連軍第一路軍は吉林省樺甸県頭道溜河で軍長会議を開き、今後の方針として民衆工作に主力を注ぎ党組織を整備するとともに、軍を小部隊に分散し、北上して第二・三路軍との合流を図る政策などを決議した。

 また、さきの 「東南部治安粛正工作」によっても日本側がついに捕捉しえなかった朝鮮人民革命軍が安図県大馬鹿溝で「満州国」警察討伐隊を襲撃し、前田武市中隊長以下56名を全滅させるなど、依然として活発な遊撃活動を展開していたが、日本側の治安強化に対処するため同年8月敦化県小哈爾巴嶺での軍政幹部会議から小部隊編成による地下工作に移り、ひきつづき間島省一帯と朝鮮内に潜入して抗日闘争を不断に継続した。

1941年1月
 前年3月の軍長会議後に第三路軍は各支隊に改編されたが、そのうち第一支隊(隊長徐沢民)は浜江省の肇州・肇東・肇原の平原地区で地下活動に従事していた。
 ハルビン郊外王崗の「満州国」軍第三飛行隊における84名の兵士の反乱事件(王崗事件)は、同支隊の工作によるもので日・「満」当局を震撼させた。

 以上は満州国での抗日運動のあらましでした。それには朝鮮人民革命軍も加わっていますが、朝鮮内での抗日運動はどうだったのでしょうか。

 朝鮮での抗日運動

 朝鮮内では組織的な民族抵抗運動はほとんど不可能にされていた。

1936年12月
 朝鮮総督府は新たに朝鮮思想犯保護観察令を制定し、日中戦争開始後は治安体制を全面的に強化していた。

 それにもかかわらず日本帝国主義の支配と収奪に対する朝鮮人民の抵抗を排除することはできなかった。
 朝鮮人労働者の争議…小作争議は、軍の資料によっても、
 1937年 79件・参加人員9148人…24件・2234人
 1938年 90件・参加人員6929人…30件・1338人
、1939年 146件・参加人員1万128人…28件・1401
 と、労働者の争議はむしろ漸増し、小作争議もほぼ持続的に展開された。

 また日本官憲による朝鮮人思想犯罪検挙数は、
 1937年~40年間に134件(1637人)・145件(1348人)・95件(1042人)・103件(1193件)を記録しているが、これらの数は、日本の徹底した取締りにもかかわらず、むしろ朝鮮人民の間で民族思想運動がたゆまず続けられていたことを示すものといえよう。

 さらに朝鮮の独立を求める一般民衆の民族意識も消えることはなかった。たとえば当時平壌駅構内の便所に、
「日本人ヨ殺サルル前ニ日本ニ帰レ、来ル暁ニ見エルハ朝鮮独立ダ」
と落書され、またソウルのある下請工場の脱衣場に、
「若イ青年ヨ、少年ニ独立ノ道ヲ教へヨ」
との落書が発見されたのは、それを示すわずかな例にすぎない。

台湾での抗日運動

 一方、台湾では日中戦争が自民族に対する新たな侵略戦争として台湾人民に大きな衝撃をあたえた。

 台湾では、日中戦争開始直後の台湾地方自治連盟の解散を最後に公然たる民族運動は不可能とされた。しかし日中戦争に対しては、1937年7月からわずか半年間に1000件以上の「流言蜚語」事件が日本官憲によって探知され、さらにその後一時台湾南方の枋寮地方に上陸した日本軍を中国軍の台湾進攻と誤認する流言が発生し、またたく間に全島に伝播した。

 これらの流言に示された台湾住民の民族意識の動きにつよい不安と衝撃をうけた日本当局は、台湾人民の抵抗を未然に弾圧するため、いわゆる「東港事件」を捏造した。
 この事件は、1941年前後に、かつての台湾独立運動の指導者であった欧清石、郭国基、呉海水らが澎湖・高尾・東港地方で多くの漁船を集め、また住民から資金を徴募し、東港・枋寮方面の海岸で国民政府軍の上陸作戦に合流を企てたという全く架空の理由で、欧清石、郭国基らをはじめ1000人以上の住民を逮捕し、欧の死刑をはじめ多くの住民を重刑に処した事件である。

 このとき中国大陸では、台湾出身の中国人による民族運動が積極的に展開されていた。台北州出身の李友邦(李肇基)は、日中戦争勃発後、新江省金華で在中台湾人を主体とする台湾独立革命党を組織し、さらに38年1月には福建省崇安で在中台湾人400人からなる台湾義勇隊と台湾少年団を結成し、みずからその指導にあたった。また日中開戦後に台湾を脱出した謝南光は重慶その他で抗日団体を組織して活動を展開した。

1940年には国民政府の援助によって在中台湾人抗日団体が統合され、重慶において謝南光を主席とする台湾革命大同盟が結成され、太平洋戦争の開始後、日本の戦局の悪化にともなって在中台湾人民の民族運動はあらたな高揚をむかえるのである。

(以上で「抗日民族運動の展開」を終わります。次回から著者が第二の課題に挙げていた「戦時体制下の植民地人民に対するファッショ的支配と戦争動員の特質」を取り上げます。)
明治150年、何がめでたい(24)

大日本帝国の植民地(7)

戦時下の植民地(4)


抗日民族運動の展開

 前回で取り上げたように、大日本帝国は総力戦体制の一環として植民地支配を全面的に強化した。
 当然のことながら、その結果として植民地各地で強力な抗日民族運動が展開され、日本はそれに対する対応に苦慮することになった。

 まずは満州国での展開を時系列に追って見ることにする。
(ちなみに、私は「ここ読んで」というソフトを使って資料の原文をブログ用文章に変換していますが、今回の原文は地名・人名などで正しく変換できない常用漢字外の漢字が多く使われています。漢和辞書などを調べて復元して何とか読めても、私の知らない地名・人名が多くなんとも厄介な記事です。しかし全体の概略がつかめればよいとして、そうした人名・地名にはこだわらずにそのまま転載することにしました。)

 日本が満州占領し「満州国」を樹立(1932年3月)して以来、「満州国」支配の最大の課題は反満抗日勢力に対する治安対策の強化であった。「満州国」政府によるその政策の変遷はおおよそ次のようである。

1932年9月
 暫行懲治叛徒法、暫行懲治盗匪法、治安警察法などを制定し、治安法体系を整備する。
1933年12月
 住民の相互監視と連座制を義務づけた暫行保甲法を制定して治安体制を強化した。

 このような法的規制を強める一方、関東軍による武力討伐も間断なく実施している。その結果、抗日勢力のうけた打撃は大きく、李杜、王徳林らの旧東北軍は1933年頃までに衰退していった。

 しかしこの間、吉林・間島地方を中心に主として共産主義者の指導の下に結成された各種の赤色遊撃隊はひきつづき反満抗日の闘いをつづけた。
 これらの抗日遊撃隊は33年以降しだいに民衆との結合をつよめて統一戦線を拡大しつつ東北人民革命軍に改編され、さらに35年からは、より広汎な抗日勢力を結集して東北抗日連軍に成長していった。

1936年1月
 黒竜江省湯原県で開かれた連軍幹部と民衆団体代表による東北抗日連軍軍政拡大会議で東北抗日連軍の正式成立を宜言。
 11箇軍からなる連軍の総司令に第三軍長趙尚志が就任。

 抗日連軍の成立によって各軍の出身構成もいちじるしく改善され、従来多数を占めた兵士出身者に代わって労働者・漁民・知識分子が多数を占め、東北民衆との結合が強化された。漁民・知識分子が多数を占め、東北民衆との結合が強化された。

 また抗日連軍には当時間島地方を中心に抗日武装闘争を展開していた多くの朝鮮人も参加していた。なかでも金日成らの抗日遊撃隊は抗日連軍第二軍に属して遊撃活動を続けた。
(金日成というなじみの名前だ出てきた。念のためネットで調べたら、朝鮮民主主義人民共和国 の初代国家主席を務めた金日成と同一人物だった。)

1936年2月
 この抗日遊撃隊は寧安県南湖頭での幹部会議で朝鮮人民革命軍と改称するとともに、白頭山一帯の国境地帯に遊撃根拠地をつくり朝鮮解放のための武装闘争を国内に拡大する方針を決定した。

1936年5月
 祖国光復会を結成
1937年1月
 朴達・朴金喆らが朝鮮民族解放同盟を組織化。
1937年6月
 朝鮮人民革命軍による普天堡(咸鏡南道甲山)攻撃が軍事的成功を果たし、朝鮮の民族解放勢力は大きく前進した。

1937年7月
 大日本帝国主義が中国に対して全面戦争を開始。
 東北抗日連軍はこの新たな局面に対処するため、中国共産党中央の指示により二個軍を三路軍編成に改編し、
 第一路軍(第一、二軍・総指揮楊靖宇)は奉天省東部山地一帯を、
 第二路軍(第四、五、七、八、一〇、一一軍・総指揮周保中)は吉林省東部山地と松下江下流、ウスリー江左岸を、
 第三路軍(第三、六、九軍・総指揮張寿?[竹冠に銭という漢字で手元の漢和辞典にはなかった])は黒竜江省の山地平原一帯を
 それぞれ活動区域として果敢な遊撃活動を展開した。

 中でも第一路軍の楊靖宇部隊約500人は、38年3月通化県一二道溝附近のトンネル工事場を襲い、7月には同県七道溝の満州鉱山会社を襲撃したが、当時日本は東辺道地区(通化・安東両省とこれに隣接する地域を指す)の開発に主力を注いでいただけに、日本当局のうけた衝撃は大きかった。

 これらの例は当時の東北抗日連軍の活動の一端を示すにすぎないが、当時の日本側の資料によっても、「匪賊」現出回数は
1937年2万5487回、
1938年1万3110回、
1939年6547回
と記録され、その回数は日本の治安強化によって激減しているとはいえ、当時の抗日遊撃活動のはげしさを自ら物語っている。

(次回に続く)