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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
恥を忍んで、自作品の公開

詩文編(1)

 前回で「作詞作曲編」が終わりました。今回からは詩文の公開をすることにします。

 「赤ん坊のやつめ」を作詞作曲したことが切っ掛けとなり詩を書く楽しみを覚えて、書き継いだ詩は百篇ほどになるでしょうか。その書き溜めた詩文を詩集として纏めてみようと思い至り、「蜥蜴(とかげ)」と題した初めての詩集を作ったのは1965年6月の事でした。

 勿論ささやかな自費出版であり、近所の印刷屋さんに相談して、印刷と製本をしていただきました。40ページほどの小冊子で、部数はごく親しい方たちへの報告ということだったので20部くらいだったと思います。

 その翌年(1966年)に同様の趣旨で、「影」と題した詩集を自費出版しました。今度はそのころ付き合っていた親友が全体の装丁をして下さり、詩文もすべてカラーのガリ版刷りの見事な筆跡でまとめて下さいました。

 そしてその翌年(1967年)、「日ごとの葬送」と題した詩集を自費出版しました。今度は親しく付き合っていた青年が装丁をしてくださいました。

 そしてその11年後(1978年)に 最終の詩集「母の沈黙 あるいはふるさとのありか」が、なんと書肆山田から出版されました。どうしてそういうことになったのか、詳しい経緯は全く覚えていません。詩集のあとがきを読むと、どうやら書肆山田の出版担当の方が強く仲介してくださった御蔭だったようです。
 どのくらい売れたのか知る由もありませんが、書肆山田のホームページで調べたところ、当然のことながらとうの昔に絶版になっているようです。その検索のときたまたま《古書・古本通販 『古書サーチ』》というホームページの記事に出会ったのですが、そこの在庫一覧の中に「母の沈黙 あるいはふるさとのありか」がありました。「あゝ、全く売れなかった訳ではないんだな」と、ホットしました。

 さて、読み直してみると自費出版の詩集は大半が自ら駄作だと思ってしまう詩が多く、これを直接取り上げることは止めることにしました。最後の書肆山田から出版された詩集は全体が二部構成になっていますが、その第一部は上の自費出版の三詩集からの抜粋詩で構成されています。第二部は全く新たに作成された詩で成り立っています。ということで、最後の詩集を用いて私の詩文の公開をすることにしました。

 まずは次のような「序詩」を掲げています。

序詩
こころを病むこころのことは捨てはてつ
とうそぶくわが安逸
の辺境へとなおも牽引されるこのこころの
業の風は止むすべもなく
想実の相剋いんいんと甦えれば
ついに捨て得ぬ生命(いのち)の
片言隻語

 (では第一部(1964~1967)の詩作品を転載します。)

Ⅰ 日ごとの葬送(1)

  病気の母

    病人は くるしいと つぶやいた
   おれは 外の遠い景色を ながめていた
  病人は ふたたびくるしいと つぶやいた
  おれは
  幼いおれが小さなシャベルをあやつるのを
  ぽろぽろ砂がこぼれるのを ながめていた
  病人は ひとすじ 涙を流した
  おれは
  時空のひろがりを 美しく酷いと思った

流れ星

  子供よ、しっかりした足どりで歩きなさい。星はもうあんなにたくさん見えるけど、まだ勢揃いしてはいないのです。

   とうさん、ぼくはくたびれた。星がたくさん見えるのに、まだ夜ではないのですか。野山がこんなにもとっぷりとしているのに、まだ 夜ではないのですか。

  子供よ、夜はもう大空を、野山を、海を、地の中をさえ夜の色でいろどっています。しかし、星はまだ勢揃いしてはいないのです。さあ全部揃うまでもう少しだ。がんばりなさい。

  でもでもとうさん、星が揃うことはあるの。一つが現れれば、一つが消えるのでしょう。

  あゝ子供よ、お前は正しい。しかし待たなければいけない。全部が揃うまで、私たちは眠ってはいけないのです。今はまだ、一層心をとぎすます時なのです。

  とうさん、ぼくの足はもうこんなに血だらけなのに、どうして星は
   ……あっ! とうさん、いま流れた星はなに?

  あ……あれは……子供よ (マタ一ツ落チテシマッタ。)

私の悲喜劇

  私の暦は
  いつでもくるっていた
  それが私の喜劇だった

  私の暦は
  遅すぎたり早すぎたりした
  それが私の悲劇だった

  たとえば
  草の芽がふくらみ初める頃の野に
  真夏の太陽を持ちこんだり
  未練もなく去ろうとする病葉のかげに
  春の花を咲かせようとしたり

  その度に 私は
  苦い想いにうちひしがれた
  私の暦を正そうと焦った

  その度に 私は
  正された暦に 安息を覚えた
  私はその時私ではなくなっていたのに

  昨夜
  酒を酌みつつ華やかに笑ったものは
  気がつくと一年前の花であった
  一年前
  私の心に咲きつづけるものと思って
  私の心が摘んだ花だった

  今朝
  自らのうかつさに腹立ち
  後もどりした暦をちぎっていったら
  一年先まで進んでしまった
  私の暦はまだくるっている

   
恥を忍んで、自作品の公開

詩文編(2)

 前回から最終詩集の詩の紹介を詩集の順序通りに始めたのですが、詩の本意を知っていただくためには詩の底流を流れている私の死生観(あるいは人生観)を直接知っていただくのがよいのではないかと思い至りました。
 そこで今回は順序を変えて、私の死生観(人生観)を直接語っている最終詩集の第1部と第2部の最後の詩文を転載することにしました

 そこでまず最初に、詩集の表題として用いている「母の沈黙 あるいはふるさとのありか」(第2部の最終詩文)を紹介することにします(少し長いですが、一気に転載します)。

「母の沈黙 あるいはふるさとのありか」
地の中に眼がある
拒むこと以外に 死を
死に続けるすべをもたない夥しい屍体の。
腐蝕し土と化した肢体の痛みを
一点に凝縮して腐触を拒み
あらゆるモニュメントを拒み
歴史へのいかなる記載をも拒み
数であることを拒み
大きく見ひらかれたまま
閉じることを拒み
無駄死を強い続ける卑小な生者のための
奈落への心やさしい道づくり。
数千年の眼孔の堆積は巨大な穴となり
ふるさとの墳墓
あるいは忿怒は増殖する。

<ふるさともとめて 花一匁>

o    o    o    o    o    o

戦闘宣言

 みなさま、今度はおらの地所と家がかかるで、おらは一生けん命がんばります。公団や政府の犬らが来たら、おらは墓所とともにブルドーザの下になってでも、クソぶくろと亡夫が残して行った刀で戦います。
 この前、北富士の人たちは、たった二十人でタイマツとガソリンぶっかけて戦っただから、ここで三里塚反対同盟ががん張れねえってことはない。ここでがん張らにゃ、飛行機が飛んじゃってしまうだから。

 おら七つのとき、子守りにだされて、なにやるたって、ひとりでやるには、ムガムチューだった。おもしろいこと、ほがらかに暮したってことなかったね。だから闘争が一番楽しかっただ。
 もう、おらの身はおらの身であって、おらの身でねえだから、おら反対同盟さ身預けてあるだから、六年間も同盟や支援の人達と反対闘争やってきただから、だれが何といっても、こぎつけるまでがん張ります。みなさんも一緒に最後まで戦いましょう。
一九七一年。小泉よね。六十三歳。
 よねさんは最下層の貧農に生れて、七つの時に年貢代りに地主の家へ子守りに出され、年ごろになると料亭づとめに出た。だからほとんど字が読めない。
 敗戦直後、夫を病で失う。子供はいない。二アールほどの田を耕し、近所の農家の手伝いをしてほそぼそと暮してきた。おかずがなく、ご飯に塩をかけて食べたこともあったという。

 成田空港反対闘争を通して、よねさんは得がたいものを得た。「貧者」へのあわれみと軽蔑でしか接してくれなかったこれまでの 周囲の者にくらべ、新しい仲間はまともにつき合ってくれた。六十余年の人生でそれはおそらく初めての経験だった。九月初め、よねさんの 「戦闘宣言」が垣根の上に立てられた。
 人民の虐殺と共同幻想の操作とをセットにした巧みな戦術が国家権力がその延命をはかるための常套手段である。成田の第二強制執行は警察官二名死亡、学生一名瀕死の重傷という犠牲を強いて完遂された。日常を覆っている平和という幻想のベールがひととき破れて、日常的なジェノサイドの進行が露呈する。昭和の十五年戦争を中心とする<自らのものでない死>の列は今なお連綿と続いている。

 第二強制執行で残されたよねさんの家は、流血をさけるためという名目で、予定を繰り上げて抜き打ち的にとりこわされた。よねさんの家は土間と六畳一間、押入れだけの掘立小屋のような母屋であった。借地に住んでいたよねさんの補償金は八十万円たらずだという。これはかけがえのない一人の全生涯の掠奪である。欺瞞にみちた言葉しか持たない支配者らの口もとに卑しいうすら笑いがうかんでいるのを、そのときぼくは確かに見た。

o    o    o    o    o    o

 ぼくは母の出自についてほとんど何も知らない。母がどんな娘時代を過ごしたのかは勿論のこと、いくつの時に結婚したのかすら知らない。戦災で焼け残った写真の中に母の若い頃のものが一葉あった。丸髭を結い、地味な着物を着て正座し、お針仕事をしている。結婚後に写したものであろう。初々しく美しい写真であった。しかしその写真の母はぼくがなつかしく想い出す母とは遠い。

 敗戦のときぼくは七歳であった。何ごとにも奥手であったぼくのそれまでの記憶は貧しい。その記憶の中では母はほとんど影のようであり、確かな像を結ばない。ぼくは十人兄弟の下から二番目で、長姉とは十五歳ほど年が違う。その姉がぼくをたいへん可愛がってくれて、母親代りをしてくれたようだが、そんなことも敗戦前の母の記憶が薄い原因かもしれない。ともかくぼくの記憶の中で母の像が鮮明になるのは敗戦後のものである。

 母はあけっぴろげな下町風の気質で、厳しいところもあったがたいへんやさしく冗談などもよく言う明るい人だった。1899年生 まれで、ごたぶんにもれず充分な教育を受けていなかった。新聞をどうにか読めるぐらいの文字は知っていたが、数字などはいくら注意をしても十五を105と書いてしまうほどだった。そんな母がぼくは大好きで、母にあからさまに甘えるのを気恥ずかしく思う年頃になっても、弟が何の屈託もなく母に甘えまとまわりついてふざけ合っているのを一種の嫉妬をまじえてうらやましく眺めていたものだった。

 敗戦前の家庭生活についての記憶は、疎開先でのものを除けば概して明るいものが多い。しかし九人もの子供(十人のうち三男は幼い頃に死んだ)をかかえての暗い時代の生活であるから、実際には母にとってはたいへん苦しいものだったに違いない。母は泣きごと一つ言わず、黙々と子を育て家庭を守ってきた。この母が丹精をこめて築いたものが戦争によりあとかたもなくなってしまった。家を焼かれ、家財道具もほとんど残らなかった。敗戦とともに父は今までの安定した職を失い、以後転々とする。家もそれまでの大きな家から八坪ほどの長屋の一棟に変わる。11人もの家族が住むにはあまりにも小さい。劣悪な環境の中で、家計を担えるほどに大きくなっていた長男と長女と四男が、敗戦後わずか数年の間に、次々に病で死亡した。(この兄姉の死は勿論のこと父母の死も国家権力による殺され死だとぼくは思っている。) 家庭は悲しみと貧しさの極みにいたり、瓦解寸前の状態が長く続く。だがやはりぼくは母の泣きごとを聞いたことがない。
 母は家計のやりくりが下手だった。というより金銭に対してたいへん大様で、毎日あしたの衣食をどうするかを考えねばならず借金に借金を重ねるような状態であったのに、幼い子供には情ない思いをさせたことがなかった。少なくともぼくにはそうした経験がない。やりくり下手は、これも母の子供への慈しみだったのだろう。

 ぼくが家庭の貧乏のほどをはっきりと自覚したのは、実際にはもっとずっとあとのことで、中学校を卒業する頃だろうか。父が老年のため働けなくなり、兄や姉の収入だけで家計がまかなわれるようになり、次姉が家計をあずかることになって絶望的な経済状態が明らかになった。それとともにそれまでに積み重なってきたさまざまな問題が一気に噴出し、家族の間にいさかいが絶えなかった。姉が母を激しくなじりとがめることもしばしばあった。ぼくは母が可哀そうでならなかった。結婚をほとんどあきらめて一家を立て直そうとしている姉を非難することもぼくには勿論できない。ぼくは自分の家の貧乏のほどを知らされた。(そんな状況のなかで、ぼくを大学へまで行かせてくれたのは姉である。) ぼくの半生の中で最もやりきれなくつらい日々であった。母の頭が目に見えて白くなってきたのはその頃のことだ。母は相変らず黙々と家事をつづけた。

 敗戦後20年、ぼくの家庭もいくらか余裕がでてきて、兄(二男)と姉(二女)は遅くはあったがそれぞれ結婚した。次の兄と姉が家計を担い、貧乏の中にも拘らず大学まで行かせてもらったぼくも職についた。父も母も年以上にすっかり老いていた。その年父が死んだ。徐々に疲労と心労を重ねてきた母は、それを追うように、持病のぜんそくを悪化させ結核を併発して翌年入院した。髪はもう真白で、生活の苦労を深く刻んだ顔も家事と育児ばかりで忙しかった身体もずいぶん小さくなったようだった。
 最後に母に会ったのはぼくだった。勤めの帰りに見舞に寄った。母は数日前から酸素吸入をしていて会話は大儀そうだったので進んで話しかけることはしなかった。ひどく衰弱していたが、今日明日ということはないだろうと思った。母は「兄弟仲よくね」と言っただけで、あとは天井の一点を見つめるばかりで無言だった。それに答えることもできず、ぼくも黙ってただ側に坐っているほかなかった。
 翌日の夕刻、十人の子を生み、四人の子と夫に先立たれ、泣きごと一つ言わずに黙々と家庭を守り子を育ててきた母、愚直でいちずな生涯を送った典型的な庶民の母、ぼくの母は小さな白い病室でだれにも見とられずひとり淋しく死んだ。子供たちの間にのこしたわだかまりに最後まで心を痛めて。ぼくらは親不孝な子だったようだ。

 天下国家のことにたずさわることと、一人の子を育てることとどちらが重いか、断じて同じである、といったのは小林秀雄だったか。この断定をぼくは諾う。否、母の事業の方が重いと言おう。母の死により、雑多な観念でごちゃごちゃなぼくの内部で何かが始まった。自らの生存の根拠が見え初めた。
 あの時母は病室の天井に何を凝視していたのだろうか。あの長い沈黙はどんなことばでいっぱいだったのだろうか。ぼくは母が凝視したものを見なければならない。ぼくは母の沈黙を聞かねばならない。

o    o    o    o    o    o

 白髪がばらりと顔面にたれ、凄惨な表情で機動隊員につれだされるよねさん。新聞に報道されたよねさんの写真、その十糎四方ほどの写真一杯にあふれているよねさんの全生涯をぼくははっきりと見た。ぼくはその生涯を畏怖し、胸が熱くなり戦慄した。
 『代執行がはじまると、よねさんは脱穀機のエンジンをかけ、稲こきをはじめた。報道陣のカメラの放列にとり囲まれ、始終無言だ った。機動隊員に連れ出されそうになり、地べたに寝ころんだ。寝ころんでも無言だった。手足をかかえられ、自宅から遠ざけられる間も一言もしゃべらず、ただ機動隊員をカッとにらみつけていた。』(朝日新聞より)
 これはもうほとんどぼくの母である。

o    o    o    o    o    o

<ふるさともとめて花一匁>

数千年の眼孔の堆積は巨大な穴となり
穴の上に塔は立つ バベルの。
生れおちた土地で生れおちた時から
ぼくはその世界の異邦人だったと気づいた。
今は少女たちの遊戯のように
手をつなぎ声を合せてうたうことを望んではならぬ。
ひとり立つためにひくくつぶやけ。
死者たちの見ひらかれた眼孔が
静かに閉じられるために
死者たちが真の死を再び死んで
ぼくのふるさとへの愛の
肥沃な土壌となりうるために
虚構の世界はまず
ぼくの中で廃墟であらねばならぬ。
廃墟の世界を掘りおこし
ふるさともとめて醒め続けるために
ぼくの言葉は自らのこころに苦しく刺す
ついに咲かぬかも知れぬ茨の花一匁。
恥を忍んで、自作品の公開

詩文編(3)

 最終詩集の第1部の最後の詩文は教え子への追悼文で54年ほど前に書いたものです。その生徒と深く関わった級友たちの名前が出てきますが、私にとっても懐かしい名前だしそれを迷惑に思う級友は皆無だと思います。当時の文をそのまま全文転載します。

「もう一つの死――U・Rに――」

 彼女は9月に九州の高校から転入学してきた。入学して間もなくのこと、学校になれたかいと声をかけると、にこにこ微笑みながらこっくりとうなづいた。素直な明るいほほえみといくぶん子供っぽいしぐさ。弟二人・妹一人をもつ長女であったが、家庭ではおそらく一番の甘えっ子だったのだろう。級友にもすぐ好かれるようになった。リキちゃんと呼ばれ、皆に親しまれた。

 彼女は9月の末頃から足の痛みを訴えていた。「発育のアンバランスから起こる青少年にはよくみられることでたいしたことはない、しばらく患部を湿布していれば直るだろう。」と医者は言っていた。
 彼女はいつも左足の脛に包帯をまいていた。しかし足の痛みは一向にとれず、むしろ悪くなっていくようであった。2学期の末頃には通院のため時折学校を休まなければならなかった。期末試験をすませてからはずうっと休んでいた。

 二学期の終業式の前日、彼女はお母さんと一緒に学校へやってきた。私が応接室に入って行った時、彼女はいかにも甘えっ子らしくお母さんにもたれかかるようによりそって坐っていた。私が二学期の成績をほめると、はずかしそうに体をくねらせていた。成績表を手渡すと、うれしそうに見入っていた。
 足の痛みはその後、レントゲン検査によって、そのつもりで見なければ見落してしまいそうなほど小さいものであったが脛骨に腫瘍が見いだされ、骨腫瘍のためのものであることが判明した。その治療のため2ケ月ほど学校を休まなくてはならないとのことだった。長く休むため2年に進級できなくなってしまうのではないかと彼女は心配していた。早くよくなって3学期の期末試験だけでも受けに来たいと言っていた。
 彼女は墨東病院に入院した。

 私はさっそく彼女のことをクラスに報告した。級友たちはみな彼女のためによくやってくれた。特に石田・宮本・村上・山崎・栗林 ・仁野・山口などが最後まで献身的につくしてくれた。彼らは見舞に行ってくる毎に、私に様子を伝えてくれた。

 2月の初め、お母さんが学校へ訪ねてこられた。私たちの知らぬうちに、彼女の宿命は思わぬ方向へと転回していた。その後の経過は思わしくなく、もはや左足を切断しなければならないことになってしまっていた。
 初めは簡単な手術ですむとのことで、実際に患部をけずる手術が行なわれたが治癒しなかった。そのうち詳しい検査によって悪質な腫瘍であることが分ってきたので、大事をとって病院を東大の整形外科に変えた。しかし東大の教授たちの間では彼女の病気に対する見解が一致せず、その治療の方法もなかなか決定しなかった。それでも股(もも)のつけ根を切り開いて、そこの大静脈から強力なクスリを流しこむことが行なわれた。これが直接の原因かどうかは分らないが、まもなく腫瘍が左足全体に拡がってしまった。こうなってはもぅ猶予はならない。左足を切断する外はなかった。しかし度々の手術で彼女は衰弱していた。食事も進まない。その彼女が足を切断する大手術に耐えられるだろうか。だが腫瘍をからだの他の部分へ拡げぬためには体力の回復を待つ余裕はなかった。

 私はやりばのない憤懣で一杯だった。医学のことは分らないが、早く適切な処置が取られればこんな大事にはいたらなかったのではないか。私の怒りはおそらく医学の限界をたてに良心の疾しさをこれっぽちも感じていないであろう医師たちに向う。現在の医学の限界として簡単にかたづけられないものを強く感じた。彼女は病院では実験動物にすぎなかったのだ。医師たちにそのつもりがなくとも私には彼女がそう扱われていたとしか思えない。結果は同じであったにせよ、せめて彼女を一個の病気としてではなく一人の人間として扱ってくれたらと思う。私が見舞ったとき、彼女は言っていた。 
<私はモルモットよ。>

 2月5日朝、宮本と石田が職員室へやってきた。今日手術が行なわれる、手術の前に会いたいから行かせてくれとのことだった。彼女らは泣きながら学校を出て行った。彼女の左足は股の下10糎ほどを残して切断された。

 その日私は授業をしながらも3日前に見舞った時の彼女を思い出ださずにいられなかった。身体は衰弱していたが、あいかわらず明るい様子だった。いや、不安と悲しみを秘めてつとめて明るくつくろっていたのだろう。無残にいためつけられた心に、それでもけなげな決心をしていた。
<私はこれからは、うんと勉強をして、それで立っていかなければならないんだわ。>
 私が何かほしいものがあったら言ってごらんと言うと、いたずらっぽく笑いながら答えた。
<欲しいものあるんだけど、変なものなので笑われちゃう。……犬のぬいぐるみがほしいの。>
 私と前後して見舞いに来た原田と小堺にたせた細った腕を見せておどけた調子で言った。
<スマートになっちゃった。うらやましいでしょ。>
 そうしたうちにも彼女は学校のことを心配していた。試験を受けなくとも2年に進級できるから心配しないようにと私は伝えた。彼女は松葉杖をついてでも学校へ通いたいと言った。また学校の話をさかんにに聞きたがっていた。クラスの男子のいたずらぶりを話すところころと笑っていた。

 誰かの発案でホ-ムルームの時間に全員で千羽鶴をを折った。彼女が欲しがっていた犬のぬいぐるみも級友たちのカンパによって買った。それらを持って大勢の級友が見舞いに行った。にぎやかな見舞いだった。後で彼女はこう言っていたそうだ。
 <こんなに楽しく笑ったのはほんとに久しぶりだわ。>
 お母さんも大変感謝されていた。
 私たちに出来ることといえば、これぐらいのことしかなかったのだ。彼女やお母さんの感謝がかえって私の胸を苦しく刺す。

 手術後の経過は思わしくなかった。切口のガーゼを取り換える度に、その痛さのため押さえているお母さんや看護婦をはねのけるほど泣きもがいていた彼女が、ある日から突然苦痛を示さなくなった。下半身が麻痺してしまったのだ。
 からだが衰弱しているままに無理をして行なった手術であったのに、その手術はすでに遅すぎたのだ。腫瘍の病源はすでに上半身に移っていた。胸に、そして致命的なことには脊髄にも腫瘍ができてしまった。このための麻痺であった。もはや手の施しようはない。彼女の希望もあって、病床は自宅へ移された。
 家へ戻ってからいくらか元気を取り戻したようであった。彼女は自分の病気の本当の状態を知らないままでいた。だんだん良くなってきていると聞かされていた。しかし腫瘍は彼女のからだをますます深く蝕んでいった。なんとなく気づいていたのであろうか、死ぬのはいやだ、死ぬのは怖いというようなことを特に親しくしていた級友には言っていたとのことだ。

 4月の初め、私が石田・宮本・山崎らと一緒に見舞ったときには彼女のほほえみにはあの子供っぽさが消えていた。長い間生死の境を生きてきた彼女はすっかり大人になってしまったのだろうか。またたいへん疲れている様子だった。それでも私たちとの話しを楽しんでいるようだった。2年の新しいクラスの話しをすると、せっかくいい先生のクラスに入ったのに学校へ行けないと残念がっていた。早く学校へ行きたいと心から言っていた。また2学年を休学しようかすまいかということまで心配していた。まもなく学校へ通えるようになるという希望をまだ持っていたのだ。
 私が帰り際に、元気を出しなさい、と声をかけると、明るくほほえんで、しかし力なくこっくりとうなずいた。それが私の見た最後のリキちゃんだった。

 1964年4月11日12時25分、リキちゃんは死んだ。17回目の誕生日を迎えてから4日後のことであった。
 私たちが彼女と出会ってから、わずか8ケ月間ほどのことであった。

告 別

君の前には大勢の友らが集っています。
皆 君のことで胸が一杯です。
やがて友らの悲しみは忍び泣きとなり
その悲しみの波が君の柩をつつみます。
君のお父さんは静かに合掌しています。
君のお母さんや
弟や妹はただうつむいています。
静かなそれらの姿に
やりばのない悲しみがいっぱい溢れています。
今にも崩れいでそうな慟哭を
身をかたくしてこらえています。
こぼれる涙をぬぐおうともしません。
君の同胞(はらから)の嘆きより
君の友らの悲しみより
さらに深く大きい君自身の
嘆きや悲しみが
君の前に坐っている私の心に
はっきりと響いてきます。

柩の上の君は微笑んでいますが
柩の中の君のまぶたの底には
誰にも伝えられず
君一人で秘めていた
苦しみや悩みや不安が
心残りや嘆きや悲しみが
いまわの際(きわ)に涙となって
流れいでようとしても
流れいづることのできぬままに
冷たく滞っているのです。

やがて出棺の時となれば
君の友や同胞(はらから)は
最後の別れを告げようとして
柩の中のもの言わぬ君を見て
さらに激しく悲しみます。
しかし私は
柩の中の君を見まい。
柩の中の君を私は堪えられない。
私の見た最後の君は
明るくほころんだ笑顔なのだ。
柩の中の君を見まいとしてのがれた私の目に
畠中に群れ遊ぶ白鷺が映ります。
恥を忍んで、自作品の公開

詩文編(4)

 詩文編は最終詩集の第一部の最初の三作品を転載することから始めました。そこに戻って、その次の作品の紹介をしていきます。

 大學卒業後、私の最初の勤務校は隅田川の近くにありました。勤務校に歩いて通える所ということで、白髭橋の近くのアパートの一室を借りました。勤務校からアパートまでの道筋の丁度中央辺りに居心地の良い酒場があり、そこを夜食の店として利用することにしました。

 なんとも気ままな情けない生活ですが、その中で墨田川の川沿いの道を言問橋まで、のんびりと往復するのがとても楽しい一時となりました。その頃、二十代前半の青年が創った妄想のような詩が三篇あります。それを紹介します。


隅田川異影

夏の夕べはレモン水
下弦の月は二日酔
川面のネオンは友禅流し

   突然衣(ぬの)をちぎって疾走するふんぞり返ったモーターボート。
   ひげのはえた源五郎です。
   その後をちぎれた衣をつむぐようにすべるエイト。
   女性ばかりのあめんぼうです。

二日酔の半月が
ふっと一息ためいきつくと
あめんぼうも源五郎も
風のように闇に溶けた

   流れにゆらめく友禅をからませて、
   そのときぼくの死骸が浮びます。
   水にふくれたぼくの死骸は、
   ぼっくりと、流れるようで流れません。

夏の夕べはレモン水
下弦の月は二日酔
川面のネオンは友禅流し


雨の隅田川

雨は冷たく
私の身体をぬらしても
私は冷たさを感じない。
雨はしんしんと降るのである。
川岸にたたずむ私の
うるおいのない瞳にも
雨はしんしんと降るのである。
この夕べの風景がこんなにも明るいのは
向岸のネオンのせいではない。
この音のない風景がこんなにもリズミカルなのは
川面におどる波紋のせいではない。
私は知っている。
この風景を覆っているのは
ただに
存在への
くったくのない
もの静かな抗議らしいもの。
虚飾のない
心からの無言の愛慕。
希求の叫喚。
なのに川は泣かない。
涙はない。
雨がしんしんと降るのである。


私のための賛歌

よどんだ川面をみつめ
川岸を行き来しながら
私の想いは
まだ誰もたどったことのない
深淵をくだっていった
夜のような汚濁の川底をぬけると
ほの青い広々とした海底であった
そのはるか彼方には
もう一人の私がいるのであった
私は私を待っているようでもなく
つつましく漂っていた
私も私を求めているようでもなく
軽ろやかに泳いでいた
いずれ私たちの出会いは……いや私の
と 川岸を歩いている私がつぶやいた
私のその遊泳と無為とが
すでに生への意欲だったのか と

隅田川はだんだんきれいになるようだ
恥を忍んで、自作品の公開

詩文編(5)

 気ままな情けない生活を続ける青年にも人並みに人を恋い慕う時がやってきます。時にはなんとも切ない片思いの嘆き節を口ずさみます。青年前期の詩作品にはそのような詩が時々混じってくるのはいたし方ないことでしょう。


秋の歌

かすみのような秋の中に
私はたたずんだ。
いまにもこわれてしまいそうな
こわれれば私もこわれてしまいそうな
かたみの愛のような
にがいものを手のひらにそっとつつんで。
そのもののぬくもりが私の心にあふれた時
私は考えた。

  「これはこのままのみこんでしまう
  のがよいのだ。
  紅い秋の日ざしがぷっつり消えて
  胃や腸までが滅入ってしまうまえに
  のみこんでしまおう。
  しばらくは私の胃に
  にがいものが重たいだろうが
  私は旅にでよう。
  胃の重み以外に
  私の記憶がよみがえることのない
  童話のような森の地方へ。
  そしてその時には
  私の偏屈な自尊の心の糧として
  私の青春もまたのみこんでしまおう。」

それでもそのものは
虫の音のようにせつなかったので
私はそれを手のひらにつつんだまま
なおもたたずんでいる
と 秋の風が静かに渡って
私のたなごころに
憧れた死のような白い花が咲いた。
涙ではない白い花が咲いた。


波の歌

冬の浜辺は刃物のように静かで
渚にうずくまる若ものの背を
まっすぐな哀感が貫く。 もの思うわけでなく
若ものは砂を重ねる。
もうそれ以上はただくずれるばかりなのに
繰り返し繰り返し砂を盛る。
この瞳のきれいな青年を
町の人は狂人とよぶ。
こんなにもきれいな瞳に
映るものといえば砂の中の夢だけだった。
だから若ものは
繰り返し繰り返し砂を盛る。
もの思うわけでもなく
ただくずれるばかりの砂を盛る。
寄せるともない満ち潮が
音もなく
盛られた砂を不意にのんだ。
手にした砂の落とし場をとられて
我に返った若ものの瞳を
冬の夜がさえぎっていた。
いつしか冬の夜の白波は
猛々しくほえていた。
砂を握ったままの若ものは
闇の波のほえ声に聞きいった。
衷しそうでもなくうれしそうでもなく
ましてや悲壮そうな風もなく
瞳ばかりがただきれいで
ふかぶかと闇を分け
波の音に聞きいりながら
もの思うわけでもなく
若ものは静かに海に入った。

さざんか

ひとには死のほか
たしかなものはない
というけど
ぼくがそこへ到る道の
さざんか
さざんかの白さは
信じてよくはないか
T ―― おばかさん

惨めな一日のしめくくりに
別れを麻酔しても
朝にはむなしい
いまでなくここでなく
あるものであるのではなく
さざんか
黒いさざんかを
おもうのは卑しくないか
T ―― おばかさん

かなしいひとでなく
若くきれいなひとを
想えと
言われるのはかなしいことだ
ひとはひとを贖えるのか
さざんか
さざんかの白さが
おまえの胸をささないか
T ―― おばかさん

たしかにあることを
いつでもたしかめないと
不安だから
たしかなものはたしかにある
のかないのか
さざんか
さざんかの白さのために
ぼくは自ら死のうか
T ―― おばかさん