FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(6)

1932年(1)~(3)
(1932年は取り上げる事件が8項目もあるので2回に分けて掲載します。)

 満州事変後、政府を無視した陸軍の暴走はますます激しくなっていた。

(1)1月18日
第1次上海事変の内幕


「われわれの陰謀は功を奏し」

「準備もほぼととのった1月18日夕方、江湾路にある日蓮宗妙法寺の僧侶が托鉢寒行で廻っているのを、買収した中国人の手で狙撃させた。2名が重傷を負い、1名は後に死亡したが、中国側巡警の到着がおくれたために、犯人は捕まらなかった。待ちかまえていた日本青年同志会員30余人が、ナイフと棍棒をもって、犯人が隠れていると主張して、三友実業社を襲って放火し帰路警察隊と衝突して死傷者を出した。これが上海事件の発端である」

 当時上海駐在武官補佐官であった田中隆吉が書くところの、第一次上海事変の内幕である。1932年のこと。満洲に上がった戦火から世界の視線をそらすために、この戦闘は仕組まれた陸軍の陰謀であった。

「1月28日、日中両軍は戦闘を開始して本格的な戦争になって来た。3月3日停戦協定成立となったが、われわれの陰謀は功を奏して、列国の眼が上海に注がれている間に、満洲国は3月1日に独立してしまった」
 と誇って書いている。

 いまは何ということかと嘆ずるほかはないが……。

(2)2月22日
肉弾三勇士の「美談」


「廟行鎮の敵の陣」

 戦前の国語の教科書に忠勇なる三勇士の「美談」としてのっていたので、記憶している人は多いであろう。映画に舞台に、上海事変の肉弾三勇士として銅像もつくられていた。長田幹彦作曲、中山晋平作曲による戦時歌謡もあった。
 廟行鎮の敵の陣  我が友隊すでに攻む  ………

 すなわち、混成第24旅団が廟行鎮の中国軍への総攻撃を開始したとき、久留米工兵第18大隊は、前面の鉄条網を破壊し、歩兵の進路を確保する任についていた。そのとき江下武二、北川丞(すすむ)、作江伊之助各一等兵が破壊筒もろとも爆死、身を捨てて任務を果たした。ということで、3人とも2階級特進し、彼らの母には陸軍から金一封が贈られた。昭和7年2月22日、上海事変でのことである。

 ところがいまは、作られた美談ということになった。作江が早く敵弾に当たり攻撃は成功せず、未帰還となったのを、果敢に突入しての敵陣爆破と認定したものであったという。およそ歴史に「美談」はないのである。

 満州事変のフェイクニュースに熱狂する国民はこのような作られた美談にもたやすく騙され喝采し、擬似愛国心に引き込まれていく。

(3)2月29日
リットン調査団の来日

(この項は『残日録』にはないので『探索2』と『史料集』を利用する。

 まず、『探索2』より。

 上海に北満に、戦火はひろがる一方である。1月25日、国際連盟理事会が開会されたとき、日本代表団はまたしても10年1日がごとき空手形の演説をくり返すだけである。
 「わが国は満州において領土的意図を有するものではありませぬ。また、既存の諸条約は申すにおよばず、門戸解放、機会均等の主義を尊重することは、もちろんのことであります」

 国連理事国の代表団はひとりとして、さすがにもう日本のいうことを信じるものはなかった。その国連理事会が決定した満州の現状を調査するための委員会が日本に到着したのは、1932年2月29日のことである。イギリスのビクター・リットン卿を団長とするいわゆるリットン調査団(ほかに米・独・仏・伊の委員で構成)である。

 だれの手も借りず、満州問題を自力で処理せんとする気運が高まっている日本国内は、一行の到着を複雑微妙な気分で迎えた。軍部ははげしい敵意を抱いた。その一部は、一行にコレラ菌をつけた果物を差し出し、ひそかに一行を病気にして殺そうという恐るべき謀略を実行に移そうとしたものがあったという。はたして本当かどうか。

 また、こんな話が残されている。調査団到着の数日前に、駐日イギリス大使が外務次官有田二郎を訪ねてこういった、という。
「一行が日本にやってくれば、暴力団が決起して、リットン卿をはじめ主なものを暗殺するとか、また、内田良平というような国粋主義的な連中が、満州国承認問題について国民大会を催すとか、そういう噂もある。だいぶ危険な空気がみなぎっているようだが、大丈夫であろうか」
 これによっても殺気立つ国内の雰囲気がよくわかる。ほとんどの日本人がそこまでは考えていないとしても、悪意の冷淡さをもって調査団を迎えたことは事実なのである。

 大阪朝日新聞は3月8日の社説「連盟調査委員を迎う」でこう虫のいいことを訴えた。
「吾人は調査委員が10日間の日本滞在によって、よく日本および日本人を理解し、やがて渡支の後において現実に即して比較考量され、これによって日本の支那における行動を公正に判断し、悪宣伝などに惑わされることなく、もって権威ある調査報告書を作成されんことを衷心から希望するものである」

 一部をのぞいてジャーナリズムは、この朝日の論説に代表されるような、なんとか調査団をとおして日本国民の平和意思を伝え、よい報告を期待しようではないか、という姿勢をとっていたのである。ただ石橋湛山だけは違っていた。3月5日付の論説で、かれは説いている。日本帝国は欧米列強に追随して帝国主義的な政策を信奉しているのではない。資源なき一小島国が、世界列強の帝国主義に伍していくいわば自存自衛のために、やむなくとっている手段なのである。それを決して是認するものではないが……と湛山は苦衷をにじませて懸命に日本の立場を訴えている。

 リットン調査団はその調査の報告書(緒言と10章よりなる)を10月2日に連盟に提出した。その報告書のあらましを『史料集』では次のように解説している。
第4章、柳条湖事件関係の結論。日本の自衛権発動と認めず、計画的行動とした。
第6章、満州國の結論。満州国の政治・行政・軍事の実権は日本人の手にあり、日本の傀儡政権だとしている。
第9章、解決の原則及条件の一節。この他、ソ連邦の利益への考慮、現存諸条約との一致、将来の紛争解決規定の全10項目をあげている。その一つで「団内部の治安は憲兵隊で外部侵略には軍隊撤退と不侵略条約の締結によれ」としている。

 上の三つの章の原文(『日本外交文章』からの抜粋)が掲載されているのでそれを転載しておく。

(第4章)
 9月18日午後10時より10時30分ノ問ニ鉄道線路上若(もしく)ハ其ノ付近ニ於テ爆発アリシハ疑(うたがい)ナキモ、鉄道ニ対スル損傷ハ若(も)シアリトスルモ、事実長春ヨリノ南行列車ノ定刻到着ヲ妨ゲザリシモノニシテ其レノ軍事行動ヲ正当トスルニ十分ナラズ。同夜ニ於ケル叙上日本軍ノ軍事行動ハ合法ナル自衛ノ措置ト認ムルコトヲ得ズ。

(第6章)
「政府」及公共事務二関シテハ、仮令(たとえ)各部局ノ名義上ノ長官ハ満州在住ノ支那人ナリト雖(いえど)モ、主タル政治的及行政的権カハ日本人ノ官吏及顧問ノ掌中ニ在リ。……吾人ハ「満州国政府」ハ地方ノ支那人二依リ日本側ノ手先ト目セラレ、支那側一般ノ支持ナキモノナリトノ結論ニ到達シタリ。

(第9章)
 満足ナル解決ノ条件
一 支那及日本双方ノ利益ト両立スルコト。…… 四 満州ノ自治二於ケル日本ノ利益ノ承認。…… 五 支那及日本間二於ケル新条約関係ノ設定。…七 満州ノ自治。…… 八 内部的秩序及外部的侵略ニ対スル安全保障。……
九 支那及日本間二於ケル経済的接近ノ促進。…… 十 支那ノ改造二関スル国際協力。……

昭和の15戦争史(7)

1932年(4)~(8)

(4)3月1日
満洲国の建国


「五族協和」

 戦前の昭和日本は大ざっぱにいえば、満洲国の存立と権益をめぐって、当事国の中国と小ぜり合いをつづけ、諸外国とも衝突、調整のつかぬままに孤立化し、世界大戦への道をたどっていった、といっていい。その新生国家の満洲国が建国されたのが1932年3月1日である。

 独立宣言はこの日に発せられ、新首都ときめた長春を新京と改名、年号は大同とされた。つまりこの日が大同元年の第1日目。国旗は五族協和をあらわす五色旗である。ちなみに五族とは漢、満、蒙、鮮、日をいう。そしてこの五族協和が日本の大理想としてしきりに叫ばれる。

 日本の新聞は一貫して満洲新国家の成立をたたえ、国際連盟を中心とする国際的影響など眼中にはなかった。満洲国が関東軍の工作によって生まれた傀儡国家であるとする見方を「皮相の観察」と一蹴し、
「(日本の行動が)満蒙三千万民衆の心にひそめられた積年の希望を実行するに資したものであることは、中外のひとしく諒解するところである」
 そして
「生命線へ花嫁を男子と手を携えて満蒙の新天地へ」
とうたいあげた。

 この年には、軍の暴走を後押しするように、擬似愛国心にかぶれたテロリストがさらにはびこっていった。

(5)3月11日
井上日召の自首


「一人一殺」

 この年の2月9日、前蔵相井上準之助射殺さる。3月5日、三井合名の理事長団琢磨射殺さる。ほか暗殺目標としては政治家の犬養毅、若槻礼次郎や幣原喜重郎、財界からは池田成彬、岩崎久寿弥太、そして天皇側近の西園寺公望、鈴木貫太郎、牧野伸顕らの名があがった。

 この暗殺計画実行の指揮統制をとったのが井上日召である。警視庁は必死に日召を追いかけた。結局、自首ということになり、3月11日、新聞によれば「悠々と警視総監邸へ行き、大野総監に自首した」。まさに「国賓なみの逮捕劇」で、血盟団による「一人一殺」の暗殺事件は幕となる。

 日召の下にテロリストは13名いた。かれらは日召の説く革命的急進主義を信奉した。政党・財閥ならびに重臣たちは結託して私利私欲に没頭し、国家存立の大義を誤らしめている。これら諸悪の根源ともいうべき連中を「一人一殺で殺せば、世の中は良くなる」と信じたのである。

 いまの日本の、政党・財界・官界の腐敗の惨状をみると……。いや、世はなべてこともなし、か。いや、いや、何やら不穏な……。

 擬似愛国心に囚われた国民の悲劇は次のような戦争協力会を生むことにも現れている。

(6)3月18日
大日本国防婦人会の第一歩


「銃後の守り」

 1931年秋の満洲事変いらい、日本は戦時下になった。召集令状がしきりに出された。大阪の井上清一中尉に赤紙が届けられたとき、夫に心残りをさせないためと妻が自害、軍国主婦の鑑と大いにもてはやされた。

 井上中尉と親類筋にあった大阪港区の安田せい(金属部品工場主の妻)が、この事実に感激し、友人や隣組の婦人たちに呼びかけ、女だけの会の結成をよびかけた。これが国防婦人会の発足なのである。

 それは1932年3月18日のこと。白エプロンにたすきがけの女性40名近くが、新聞記者を前にさかんに気勢をあげる。
 「銃後の守りは私たちの手で」
 それが会の目的である。そのために出征兵士の見送りや慰問をすすんでやるとした。喜んだのは軍部である。女性のほうから積極的に戦争協力を推進するというのであるから。
 7ヵ月後には大日本国防婦人会へと拡大。やがて会員も700万人を超えるようになる。

 恐るべし、女性の力。

(7)5月15日
5・15事件のウラ


「話せばわかる」

 この日夕刻5時半ごろ、首相官邸に海軍士官が車で乗りつけ、首相犬養毅への面会を強要した。食堂にいた首相は逃げようともせず、彼らを迎えて、手をあげておだやかにいった。
「まあ持て、撃つことはいつでもできる。話を聞こう。話せばわかる」
 そして応接間に案内し、たばこに火をつけて話そうとしたとき、あとから入ってきた海軍士官が、
「問答無用、撃て」
といい放って老首相を撃ち倒した。昭和7年5月15日のこと、いわゆる5・15事件で、「話せばわかる」「問答無用」で有名である。

 しかし、一説に、この話にはウラがある、という。満洲の軍閥張学良の家から犬養の怪しげな領収書がでてきて、海軍士官が「キサマも張学良からカネをもらっておろうが」と詰問した。犬養首相が「そのことならば話せばわかるから」といったが、いまさら弁解無用とばかりに撃ち殺された、というのである。

(8)10月14日
満州開拓移民はじまる


「当初は係累のない者を送る」

 満洲(中国東北地方)開拓移民の源流は、日露戦争後にはじまるが、国家的規模でどんどん送り込まれたのは、1931年の満洲事変の後からである。のちには、疲弊する農村の救済と、満洲支配という隠された国策によって、"百万人移住計両″のもとに強力に推進された。

 その計画にもとずく第一陣の「満洲自衛移民」が、海を波って、満洲国北部のチャムスに着いたのは、1932年10月14日。「移住後、後ろ髪を引かれるような者は、思うように活躍が出来ぬことゆえ、当初は係累のない者を送る」ということで選ばれた約500名である。

 しかし、理想の国土のスローガンをよそに、その夜、彼らを迎えたのは反日ゲリラの襲撃であった。そして彼らは、先住の中国人400人を1人5円で立ち退かせたあとの土地に住み着いた。のちの「弥栄(いやさかえ)村開拓団」である。

 こうして1945年までに開拓団として、881団、約27万人余の日本人が満洲に渡った。その人たちが敗戦後に昧わった悲惨については、すでに多く語り尽くされている。国家の無責任さについては言葉を失う。

 前回から私は「擬似愛国心」という勝手に自作した熟語を用いてきたが、国家から煽られてのめり込む愛国心はすべて擬似愛国心ではないだろうか。

 私は「営業せきやんの憂鬱」というブログを愛読しているが、そのブログの2017年10月24日付の記事が、私が「『昭和の15戦争史(5)』で紹介した『戒厳令下のアキバ 「安倍辞めろ」を完全封殺』 を取り上げていた。その中に次のような文が引用されていた。

「愛国心とは、ならず者達の最後の避難所である」(サミュエル・ジョンソン)
「ナショナリズムは小児病である。それは国家の麻疹である」(アルベルト・アインシュタイン)
「愛国心とは喜んで人を殺し、つまらぬことのために死ぬことだ」(バートランド・ラッセル」

 この知の偉人たちは「愛国心」とは全て「擬似愛国心」なのだと見抜いていたのだと、私は読み取った。
昭和の15戦争史(8)

1933年(1)~(5)

 日本は1933年に国際連盟を脱退し国際社会から孤立する。そしてのち、1940年にドイツ・イタリアと同盟を結び世界大戦へと突き進んでいく。また、戦争遂行に向かって思想・教育への統制・弾圧もあからさまになってくる。従って今回からは国際的な政治の動向や文化への統制・弾圧の動きにも目を向けることになる。『残日録』からの選ぶ項数が多くなるので、1933年も2回に分けて掲載しよう。

(1)1月30日
ヒトラー、首相に就任


「われわれが彼を雇った」

 ナチスは1928年には国会にわずか12議席しかもたなかった。翌30年にはこれが一挙に107議席に。さらに32年には賠償などによる経済危機が決定的な後押しとなって、議席はなんと230にまでのぼった。

 これぞドイツのナチスの躍進ぶりなのである。  こうなってはヒンデンブルグ大統領も、「ベーメンの兵長」とよんで軽べつしていたヒトラーを首相に任命せざるをえなくなる。1933年1月30日、ヒトラーは首相に就任する。

 このとき保守主義者たちは、大衆的人気者であるチョビ髭のヒトラーを、うまくおだてて利用したつもりでいた。
 「われわれが彼を雇ったんだよ」といって。

 しかし、政治というものの魔力を彼らは根本的に見誤っていた。ヒトラーは首相になると同時に国会を解散、総選挙をやると宣言する。あらゆる宣伝力を駆使し、選挙でナチスが圧倒的勝利を収められるという計算のもとに。そして事実そうなった。その瞬間からヒトラーの独裁がはじまるのである。

 ここで私は安倍総理と同程度に無知にして無恥な麻生副総理の「ナチスの手口に学べ」という発言を思い出した。ヒトラーの突然の国会解散と今回の安倍による国会冒頭での国会解散が同じ手口じゃないかと思った。

 麻生の発言については植草一秀さんが詳しく論じているので紹介しておこう。(麻生の発言の全文も読むことができる。)
『麻生太郎氏ナチスに学べ発言擁護論の意味不明』

 さて、理不尽な遣りたい放題は軍だけではなく、警察も加わっていった。

(2)2月20日
小林多喜二殺される


「身体中を紫色に滲ませて」

 「数日後に、身体中を無情な紫色に惨ませて殺されて帰った。久しぶりに、しかし変った姿で自分の部屋に帰ってきた小林多喜二は、私たちのシャツを脱がす下から、胸も両股も全体紫色に血のにじんでしまった苦痛のあとを、私たちの目と電灯の下にさらした」
 作家佐多稲子『私の東京地図』の一節である。  『蟹工船』や『党生活者』などでプロレタリア文学の先頭をきっていた作家小林多喜二が、築地警察署で長時間の拷問をうけて死んだのは、1933年2月20日午後7時。築地署は心臓マヒのため死亡と発表し、遺骸は三つの病院から解剖をこばまれた。

 佐多稲子は、さらにそのさきのことを書いている。
「小林の家に集るものは、逆に警察に検束されてゆき、葬式にさえ私たちは加わることが出来なかった」
 このため杉並署の留置場はいっぱいとなり、剣道場まで検挙者であふれた。大正末期から昭和へ、あれほど盛んであったプロレタリア文学運動は、小林を失って崩壊していく。ひどい時代であったことよ。

 戦争への道まっしぐらを最も強く煽ったのはマスゴミ(糞バエ)達であった。

(3)2月24日
日本、国際連盟を脱退


「脱退するまでもない」

 1933年2月24日、国連総会で、"満洲から撤兵"するように、という対日勧告案が、42対1で可決された。反対の一票は日本のもの。つまり日本のとってきた政策が、全世界の国々から「NO」といわれたのである。日本全権松岡洋右たちは「サヨナラ」を正式に表明し退場した。日本が栄光ある「世界の孤児」になった瞬間である。

 昭和天皇はずっと、連盟脱退には反対の意見をもちつづけていた。脱退ときまってからも「脱退するまでもなかったのではないか」といいつづけた。

 しかし、世論は強硬な新聞の論調にあおられ、孤立何するものぞと、大歓声をもって連盟脱退に賛成した。松岡全権が帰国したとき、まさかと思うほどの「万歳」「万歳」の歓呼をもって迎えられた。

 こうして日本国民は、一方的かつ確信的な新聞報道に吹きこまれ、被害者なのに国際的に"かがいしゃ"として非難されていると信じ、孤立にともなう強烈な危機感と、それにもまして排外的な感情とをつのらせていった。そのことが後に何をうんだか、昭和史が示すとおりである。

(4)2月27日
ドイツ国会議事堂の炎上


「国民と国家防衛のため」

 1933年1月30日、ヒトラーを首相とする連立内閣が成立した。ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)の一党支配をもくろむヒトラーは、3月5日投票の総選挙にすべてを賭けて戦った。強敵はドイツ共産党であった。激しい選挙戦がくりひろげられている真っただ中の2月27日、ドイツ国会議事堂が60数ヵ所から火を発し、紅蓮の炎でベルリンの夜空を真っ赤にこがして燃え落ちた。

 首相ヒトラーの指揮をうけた警察は、犯人としてオランダ人の共産党員ルッペを現場で逮捕する。警戒厳重な議事堂に、いっぺんに大きな建物を燃え上がらせるほどの放火材料を、ひとりの男がもちこめるか、また60ヵ所のいっせい点火が可能なのか、そんな疑問は頭から無視された。

 事件は共産主義者の企てと宣伝され、翌日には「国民と国家防衛のため」の緊急令が交付された。これが歴史の転換点となった。これで共産党員をいつでもその名目によって処罰・追放できることが可能になったのである。共産党の選挙運動は、結果として、自由を奪われることとなり、ヒトラーのナチ党の勝利は確実となった。この日、絶望した劇作家ブレヒトはベルリンを脱出、デンマークに亡命していった。

 厚顔無恥の政治権力者が発するフェイクニュース(偽ニュース)が大手を振って流布されるのは現在でも同じだ。今日(10月29日)の東京新聞の日曜版が「世界中で拡散 フェイクニュース!」という特集を組んでいて、現在のフェイクニュースの事例を掲載している。フェイクニュースは今、インターネット(特にツイッター)内でもたくさん飛び交っている。ご用心!ご用心!

 次の記事はさらなる国家の教育支配の始まりを取り上げている。

(5)4月1日
国定教科書の改訂


「サイタサイタ サクラガサイタ」

 教育学者の唐沢富太郎の評によると
「この時代からはっきりと、教育目的は『臣民の道』の教化と、軍国における『忠君愛国』の精神の鼓吹にあることを示した。そしてこの教科書は、従来の国家主義的な教育にいっそう深い哲学的基礎を与えて………『肇国(ちょうこく)の精神』が唱導され、神国観念が強調されているのである」
ということになる。つまり、日本の軍国主義化はここに始まると。

 まあ、こんなふうに悪評高い教科書なんであるが、われら昭和っ子には困ったことに、それだけひどく懐かしくもある。
「サイタサイタ サクラガサイタ」
「ススメススメ ヘイタイススメ」
と一年坊主はまず「国語」で習ったのである。国花のつぎが兵隊と、なるほど「忠君愛国」の鼓吹は徹底化している。

 国定教科書の第4期にあたるこの教科書改訂の実施は、1933年4月1日から。そして1940年まで使われた。寿命は短かったが、影響力は目茶苦茶に大きかった。それにつけても、日本の明日のため教科書は大事なものと思う。

 こうした問題に興味をお持ちの方に紹介しておこう。
 このブログでは、戦時下の教科書については『国民学校の教科書』
で取り上げている。
 また、大事な教科書が現在も危機にさらされているが、この事については『『羽仁五郎の大予言』を読む』の(18)~(50)で「権力が教育を破壊する 教育反動」という表題で取り上げているが、その部分だけを取り出したものを紹介しておきます。
『権力が教育を破壊する』
昭和の15戦争史(9)

1933年(6)~(11)

 国家権力の教育破壊の魔の手は大学にまで及び、学問の自由を崩壊した。

(6)4月22日
滝川事件が起こった日


「邪魔者以外の何ものでもない」

 黒澤明監督の終戦直後の映画「わが青春に悔なし」に、心の底から感動した記憶がある。"国賊"として迫害されるなかで、あくまでも戦いぬく幸枝役の原節子がまぶしいくらい美しかった。これは1933年4月22日に起こった京都大学の滝川幸辰(ゆきとき)教授事件に題材をとっていた。

 この事件は、その著書や講演が危険な内容をもち大学教授として適格でないとして、国家意思の統一を目指す文部省(文部大臣鳩山一郎)が、小西重直京大総長に滝川の辞職を要求したことに発する。たいして法学部教授会は大学の自治、学問の自由をおかすと反対、文部省に真っ向から対立し大騒動になった。結果的には、官憲の弾圧があり、夏休みに入るとともに、滝川をはじめ末川博、佐々木惣一たち6人の免官という形で一応の終止符がうたれた。

 戦後の滝川の手記がある。
「暗黒時代における他学部の態度は、法学部の邪魔者以外の何ものでもなかった」
と。すでに国家権力の前に他学部すなわち大学全体は無力そのものであったのである。

 学問の自由はかくて崩壊する。

(7)5月10日
ナチス・ドイツの「焚書」


「将来の告発者として居あわせたい」

 ヒトラー独裁下のドイツ・ベルリンで、中世さながらに焚書の愚挙が再現されたのは、1933年5月10日のこと。非ドイツ的・マルクス的・ユダヤ的なものとみなされた書物が、炎のなかに投げこまれた。アインシュタイン、フロイト、トーマス・マン、ツヴァイクなどの著書2万冊が灰と化す。

 同じように火あぶりの刑に処せられたものに、作家ケストナーの著書もふくまれていた。かれはまた『エミールと探偵たち』『空飛ぶ教室』など児童文学も数多く書いているが、容赦なく火にくべられた。
「将来の告発者としてこの場に居あわせたい」
と決意したかれは、多くの作家が亡命するなかで、ベルリンにとどまっていた。そしてこの日、わざわざ自分の本が燃やされる現場に見に出かけた。
「私たちの本がめらめらと燃える炎の中に投げこまれるのを見、うそつきゲッベルス(ナチス・ドイツの宣伝相)の長広舌を聞いた」
 その『日記』に書かれたこの個所を読むたびに、この作家の精神の強さにはげしい感動をおぼえる。

 次の項は軍が絶対の権力を振るっている時にも堂々とそれに抗っている人がいたという感動の事例である。

(8)6月17日
ゴー・ストップ事件


「軍人だろうと街では市民である」

 この年の6月17日の昼ごろ、事件は起こった。事の起こりはまことに他愛もないあきれた話である。

 大阪天神橋6丁目の交差点で「とまれ」の赤信号を無視して横断しようとした兵隊を、交通整理の巡査が制止した。そして巡査は、「巡査の指図は受けぬ」と反抗する兵隊を交番に連行し、ここで格闘となった。

 この信号無視の小さな騒ぎが、軍部と警察がたがいに意地とメンツにかけて一歩も引かずやり合う大事件にまで発展する。そして結果的に、日の出の勢いで台頭する軍部に歯止めをかけられるか否か、戦前自由主義の最後のレジスタンスといえる事件、ともなった。

 このとき、奔馬(ほんば)の如き陸軍の前に大手をひろげて立ちふさがる豪胆さを示したのが、警察部の部長粟屋仙吉。
「軍人だろうと私人として街へでたときは一市民であり、巡査の命令に従うべきだ」
といいきった。事件は5ヵ月後に宮内省から荒木貞夫陸相への働きかけで解決するが、粟屋部長は最後まであっぱれな頑張りを示す。のち部長は広島市長として原爆死した。

 次はマスゴミの中で光るジャーナリストのレジスタンスである。

(9)8月11日
気骨ある新聞人桐生悠々


「関東防空大演習を嗤(わら)う」

 勇気ある新聞人として桐生悠々(きりゅう ゆうゆう)の名は、戦後になって有名となった。信濃毎日新聞社の主筆として、防空演習がいかに愚劣かを主題とした「関東防空大演習を嗤う」という社説を書き、軍部と衝突、一歩も退かなかった気骨ある態度が、ひろく知られたゆえである。

 軍部が第一回関東地方防空大演習を行ったのが1933年8月9日からで、桐生の社説発表は8月11日のこと。これはもう桐生の批判がもっともなことで、東京の空に敵機を迎え撃つなんてことは、日本の大敗北を意味する。紙と木だけの東京の惨状は言語に絶することになる。
「従ってかかる架空的な演習を行っても、実際には、さほど役立たないだろう」
と桐生が書いたのは正しいのである。事実、1945年のB29による日本本土空襲がそれを証明する。

 ところが、陸軍は当然カッとなった。桐生に弾圧の手をさしのばした。新聞社に累を及ぼすことを恐れて桐生は退社する、「生贅(いけにえ)の報いられずして梅かほる」の一句を残して。これも自由主義最後のレジスタンス。

 北朝鮮の脅威を煽って、バカバカしい避難訓練を行なったアベコベ政府に辛辣な記事を書いた新聞はあっただろうか。

(10)8月
「東京音頭」の大流行

「ヤットナー、ソレ、ヨイヨイヨイ」

 東京がそれまでの15区から35区へと拡大されて、「市民500万」「世界第2位の大都市」と誇りだしたのは1932年10月の市区改正のとき。わたくしの生まれた東京府南葛飾郡大畑村が向島区吾嬬町になったのもこのとき。

 そして1933年夏から秋へ、世界的大都市誕生を祝するかのように突如として起こったのが「ヤットナー、ソレ、ヨイヨイヨイ」の一大狂騒曲。つまり「東京音頭」で、その人気は昭和1936年に及んでもやまなかった。

 なぜに、そんなものすごい国民的熱狂であったのか。当時の日本人が先行きに不安を感じ出したときであるため、と観察できる。国際連盟脱退やら京大の滝川事件、関東地方防空大演習で関東平野が真っ暗……世にいう非常時。ほんとうなら「ヨイヨイヨイ」とやっているときではなかった。いや、それゆえに……。

 社会的不安や国際的孤立感やら緊張をほぐすためには、お祭りが一番なのである。歌って踊ってすべてを忘れる。それはいつの世でも変わらない。幕末の「ええじやないか」を思い出せば了解できる。国家は、いつだって祝祭によって人心を一つにまとめて挙国一致体制をつくっていく。

 ここでまた私は、オリンピックを東京に招致するための演説で福島の放射能汚染は「アンダーコントロール」とウソをついたアベコベを思い出した。ウソをついてまでオリンピックを招致しようとする魂胆は明らかだ。今日本中がオリンピックまで1000日などと浮かれているが、私は一貫して2020年オリンピックには反対の意見を持ち続けている。
 この問題については水島宏明(上智大学教授)さんの論考を紹介しておこう。
『安倍首相が五輪招致でついた「ウソ」 “汚染水は港湾内で完全にブロック” なんてありえない』

1933年の記事は「文化への統制・弾圧の動き」から始まったが、最終記事も「文化への統制・弾圧」である。

(11)11月22日 「源氏物語」の上演禁止


「非常時」

 1932年11月に編成された1933年度予算は22億3800万円という巨額になった。新聞は「日本はじまって以来の非常時大予算」と伝えた。これが「非常時」という言葉のはじまりらしい。

 目ざとい陸軍はここから「非常時」と吼えだした。1933年になると、軍警当局は非常時宣言の音量をあげる。とにかく何から何まで「非常時だからガマンせよ」であった。

 ついに11月22日、古典「源氏物語」の上演に警視庁が待ったをかける。坪内逍遥、藤村作(つくる)の両博士が顧問で、光源氏に坂東蓑助、ほか演技陣も豪華キャストで11月26日から新歌舞伎座で上演の予定であった。
「脚本は、光源氏を中心として、当時の人たちの姦通など、徹頭徹尾恋愛物語に終始し、風紀上大いに害がある。非常時日本にふさわしくない」

 藤村博士が抗議して、
「どこがいけないか指摘してくれ。直すなり削るなりするゆえに」
といえどダメの一点張り。いつの時代でも、非常時には文化などどうでもいい、というお話である。

昭和の15戦争史(10)

1934年(1)~(4)

 『残日録』から取り上げる事件は3項目だけだが、他の史料から国際的な政治の動向の一つとしてナチスの記事を一つ追加することする。

(1)3月1日
溥儀が満洲帝国の皇帝となる


「やむを得ず屈服した」

 満洲国の首都新京郊外の杏花村で、清朝独特のシャーマンの儀式による神事にのっとり、竜袍に身を包んだ溥儀執政は天壇に登り、王位についたことを報告した。

 しかもこの儀式を終えて溥儀は大いに満足し、執政府に戻ると大元帥服を着て、改めて皇帝の即位式に臨んだ。溥儀は新国家の皇帝たるよりも、滅びた清王朝の正統の後継者たらんとしたのである。

 この日、1934年3月1日、満洲国は帝政を実施し、満洲帝国となり、康徳と年号を改元した。執政府は宮内府となった。溥儀は皇帝となった喜びで、夢のなかにいるように一日中はしゃいでいたという。

 しかし、戦後の東京裁判の証人となった溥儀は、皇帝となることを承諾したか、という検事の質問に、「拒絶した」と答え、さらに、
「武力的圧迫と、生命に危険があるから承諾せよとの顧問たちの勧めで、やむを得ず屈伏した」
と、自発的意思は一片だになかったとぬけぬけといい放ったのである。聞いていた日本人は、脅迫的洗脳の恐ろしさを痛感せざるを得なかった。

 私は1990年頃、『世界の歴史』(現代教養文庫版)を購入した。随分古い本だが、その第12巻の「二十世紀の世界」を参考書の一つとして加える。次の記事はその本を利用している。

 1933年1月、突然の国会解散・総選挙で圧倒的処理を得たヒトラーのその後の権力固に向かう暴走を追ってみよう。

(2)8月
ヒトラー、総統に就任


 3月21日、新国会の開会式がベルリン近郊ポツダムの守備隊付属教会堂でひらかれた。ここはホーエンツォレルン家にゆかりがふかく、フリードリヒ大王の墓所でもある。しかも3月21日は、ビスマルクが1871年ドイツ帝国議会をはじめてひらいた日であった。

 この日、ポツダムは明るい春の日にめぐまれ、家なみには「黒白赤」の旧帝政旗と、「鉤(かぎ)十字」のナチ党旗とがならんで掲げられていた。教会には旧帝政軍服に身をかためた将軍たちがいならび、玉座が設けられ、そのすぐうしろには前皇太子が坐っていた。そして、広間には褐色シャツのナチ党議員、その横に国家人民党と中央党の議員がならんでいた。

 ドアが開くと、モーニング姿のヒトラーと軍服姿のヒンデンブルク大統領が、閣僚をしたがえてはいってきた。大統領は、玉座と前皇太子に元帥杖で敬礼した。大統領の短い挨拶にこたえてヒトラーはいった。
「……ここ数週間のうちに、われわれの国民的名誉は回復され、元帥閣下のおかげで、昔ながらの偉大さと新しい力の結合がここに祝福されました……。」
 そして大統領に進みより、低く頭をたれて彼の手をにぎった。つづいて大統領はフリードリヒ大王の墓にもうでるが、外では礼砲がとどろき、国防軍、突撃隊、鉄兜団の行進がはなばなしくりひろげられていた。夜になると親衛隊の炬火(たいまつ)行列がつづき、オペラ座ではフルトヴェッグラーがワーグナーの「マイスター・ジンガー」を指揮していた。

 そして二日後(3月23日)、クロル・オペラハウスで国会がひらかれた。議場の外では黒シャツの親衛隊員が、スクラムをがっちりと組み、内には褐色シャツの突撃隊員がかためていた。そして鉤十字の大きな旗を背景にヒトラーは「全権委任法」を提案した。これはナチ党に独裁権をあたえることになら法律であった(民主的なワイマール憲法はそのままとして)

 この提案にたいして、社会民主党オットー・ヴェルスは敢然と反対した。突撃隊の連中は「われわれはその法案をもとめる――さもないと放火と殺人だ」とどなった。ヒトラーは演壇にかけ上がって悪態をついた。投票の結果、賛成441票、反対94票で可決された。ナチ党員はとび上がり、腕をあげて党歌「ホルスト・ヴェッセル」をうたった。

 こうしてヒトラーの独裁権力はエセ「合法的」に成立したのだ。というのは、このとき不当に逮捕されていた一部の社共両党の議員は出席できず、しかも共産党議員団には登院停止の措置がとられていたからである。

 ヒトラーはやがて諸政党を解散して、ナチー党独裁をうちたて、1934年8月、ヒンデンブルク大統領が世を去ると、この地位を兼ねて総統(フューラー)とよばれた。そして全体主義的な統制と再軍備政策をもって、また対外的にはヴェルサイユ体制の打破によって、政権をかためてゆくのである。

「ナチスの手口」に学んでいるアベコベ政権が成立を企んでいる「緊急事態法」はまさに「全権委任法」に匹敵するのではないか。

(3)8月29日
松田文相のとっぴな発言


「パパ・ママを使うのはいかん」

 皇国日本が叫ばれている時代を象徴するような一席を――。

 われら東京の下町の悪ガキどもは昭和10年代には、トオチャン・カアチャンであった。少しく長じると、オヤジ・オフクロ。山の手のお坊っちゃま君たちが「パパ・ママ」なんてほざくのを聞くと、ヘドが出そうになったものである。

 それより少し前にこんな愉快な出来事があったのである。1934年8月29日、当時の文部大臣松田源治が、家庭でパパ・ママという言葉がはやっていることについて、新聞記者に語ったというのである。
「日本人はちゃんと日本語を使って、お父さん・お母さんといわねばいかん。またはお父さま・お母さまだ。舌たらずのパパ・ママを使うのは、そもそも日本古代よりの孝行の道の廃れるもととなる」
 これが新聞に出て、近くパパ・ママ呼称禁止令が発表されるといううわさが広まった。がぜん論争が巻き起こった。家庭内の呼称にまで文相の権限は及ばぬ、いや、文相には日本の孝道発展の責任がある、と喧々囂々(けんけんごうごう)。なんとも平和にして程度の低い時代でありましたな。

 いや、今も程度の低い時代ではないだろうか。つい最近、道徳教科書検定で「パン屋」を「お菓子屋」に替えた問題があったではないか。毎日新聞のデジタル記事を紹介しておこう。
『道徳教科書検定 「パン屋」怒り収まらず』

(4)10月1日
軍事国家へのスタート

「戦いは創造の父、文化のは母」  昭和日本が軍国主義化していく背景に、第一次世界大戦後に形成された新しい戦争観がある。これからの戦争は、戦場に動員された兵数や大砲の大きさではなく、政治・経済・外交・文化・思想など民族の総力をあげた戦争になるという認識である。世界大戦でドイツ帝国は武力においては敗れなかったが、経済戦および民衆の厭戦思想によって敗れた。日本の軍部はこの新しい戦略思想を信じこんだ。

 これからの戦争は国民をまきこんでの国家総力戦になると。それゆえに、明日の国防を考えるとき、あらゆる物的資源、国力、そして機能を戦争に奉仕させねばならぬ、とした。その軍の意志を強く表明したのが、1934年10月1日に陸軍省新聞班から発表された「国防の本義とその強化の提唱」、いわゆる陸軍パンフレッドである。

 「戦いは創造の父、文化の母である」という有名な文句で始まるこの文書のもと、さまざまな批判と異議を浴びつつ、ここから軍事国家的な統制体制がつくられていった。子供たちの間で戦争ごっこがはやりだしたのも、このあとからである。

 ウイキペディアによると、「陸軍パンフレッド」の内容は北一輝の『日本改造法案大綱』をより具体化したようなものだという。『史料集』の「ファシズムの進展と思想統制」という節に『日本改造法案大綱』からの抜粋文(出典は「現代史資料)と解説があるので、それを転載しておこう。

 まず日本改造法案大綱」は1919(大正8)年、北一輝が上海で執筆したもので、緒言と巻8及び結言からなる。ファシズムの聖典とされてきた。


日本改造法案大綱

 今ヤ大日本帝国ハ内憂外患竝ビ到ラントスル有史未曾有ノ国難ニ臨メリ。国民ノ大多数ハ生活ノ不安ニ襲ハレテ一ニ欧州諸国破壊ノ跡ヲ学バントシ、政権軍権財権ヲ私セル者ハ只竜袖(りゅうしょう, 天皇の袖。天皇の権威をかりること)ニ陰レテ惶々其不義ヲ維持セントス。……全日本国民ハ心ヲ冷カニシテ天ノ賞罰斯クノ如ク(この前の省略部分で「日本ハ彼ニ於テ充実ノ五ヶ年トシテ恵マレタリ」とし、第1大戦中国力が充実したことを述べている。)異ナル所以ノ根本ヨリ考察シテ、如何ニ大日本帝国ヲ改造スベキカノ大本ヲ確立シ、挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ、全日本国民ノ大同団結ヲ以テ終ニ天皇大権(明治憲法に認められた天皇天皇特有大権)ノ発動ヲ奏請シ、天皇ヲ奉ジテ速カニ国家改造ノ根基ヲ完(まっと)ウセザルベカラズ。

憲法停止
 天皇ハ全日本国民ト共ニ国家改造ノ根基ヲ定メンガ為ニ、天皇大権ノ発動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ両院ヲ解散シ全国ニ戒厳令ヲ布ク。……
華族制廃止
 華族制ヲ廃止シ、天皇ト国民トヲ阻隔(そかく)シ来レル藩屏(はんぺい)ヲ撤去シテ明治維新ノ精神ヲ明ニス。……
普通選挙
 二十五歳以上ノ男子ハ大日本国民タル権利ニ於テ、平等普通ニ衆議院議員ノ被選挙権及ビ選挙権ヲ有ス。……
私有財産限度
 日本国民一家ノ所有シ得ベキ財産限度ヲ壱百万円トス。……

 1934年の事件でもう二つ「中国共産党の長征開始」と「ワシントン軍縮条約の廃棄」を取り上げる予定だった。この二つの事件も『残日録』では取り上げていないので前者は『世界の歴史12』を、後者は『昭和史探索3』を利用することにしていたが、かなり長くなるので、次回に掲載することにした。


 『残日録』から取り上げる事件は3項目だけだが、他の史料から国際的な政治の動向の一つとしてナチスの記事を一つ追加することする。

(1)3月1日
溥儀が満洲帝国の皇帝となる


「やむを得ず屈服した」

 満洲国の首都新京郊外の杏花村で、清朝独特のシャーマンの儀式による神事にのっとり、竜袍に身を包んだ溥儀執政は天壇に登り、王位についたことを報告した。

 しかもこの儀式を終えて溥儀は大いに満足し、執政府に戻ると大元帥服を着て、改めて皇帝の即位式に臨んだ。溥儀は新国家の皇帝たるよりも、滅びた清王朝の正統の後継者たらんとしたのである。

 この日、1934年3月1日、満洲国は帝政を実施し、満洲帝国となり、康徳と年号を改元した。執政府は宮内府となった。溥儀は皇帝となった喜びで、夢のなかにいるように一日中はしゃいでいたという。

 しかし、戦後の東京裁判の証人となった溥儀は、皇帝となることを承諾したか、という検事の質問に、「拒絶した」と答え、さらに、
「武力的圧迫と、生命に危険があるから承諾せよとの顧問たちの勧めで、やむを得ず屈伏した」
と、自発的意思は一片だになかったとぬけぬけといい放ったのである。聞いていた日本人は、脅迫的洗脳の恐ろしさを痛感せざるを得なかった。

 私は1990年頃、『世界の歴史』(現代教養文庫版)を購入した。随分古い本だが、その第12巻の「二十世紀の世界」を参考書の一つとして加える。次の記事はその本を利用している。

 1933年1月、突然の国会解散・総選挙で圧倒的処理を得たヒトラーのその後の権力固に向かう暴走を追ってみよう。

(2)8月
ヒトラー、総統に就任


 3月21日、新国会の開会式がベルリン近郊ポツダムの守備隊付属教会堂でひらかれた。ここはホーエンツォレルン家にゆかりがふかく、フリードリヒ大王の墓所でもある。しかも3月21日は、ビスマルクが1871年ドイツ帝国議会をはじめてひらいた日であった。

 この日、ポツダムは明るい春の日にめぐまれ、家なみには「黒白赤」の旧帝政旗と、「鉤(かぎ)十字」のナチ党旗とがならんで掲げられていた。教会には旧帝政軍服に身をかためた将軍たちがいならび、玉座が設けられ、そのすぐうしろには前皇太子が坐っていた。そして、広間には褐色シャツのナチ党議員、その横に国家人民党と中央党の議員がならんでいた。

 ドアが開くと、モーニング姿のヒトラーと軍服姿のヒンデンブルク大統領が、閣僚をしたがえてはいってきた。大統領は、玉座と前皇太子に元帥杖で敬礼した。大統領の短い挨拶にこたえてヒトラーはいった。
「……ここ数週間のうちに、われわれの国民的名誉は回復され、元帥閣下のおかげで、昔ながらの偉大さと新しい力の結合がここに祝福されました……。」
 そして大統領に進みより、低く頭をたれて彼の手をにぎった。つづいて大統領はフリードリヒ大王の墓にもうでるが、外では礼砲がとどろき、国防軍、突撃隊、鉄兜団の行進がはなばなしくりひろげられていた。夜になると親衛隊の炬火(たいまつ)行列がつづき、オペラ座ではフルトヴェッグラーがワーグナーの「マイスター・ジンガー」を指揮していた。

 そして二日後(3月23日)、クロル・オペラハウスで国会がひらかれた。議場の外では黒シャツの親衛隊員が、スクラムをがっちりと組み、内には褐色シャツの突撃隊員がかためていた。そして鉤十字の大きな旗を背景にヒトラーは「全権委任法」を提案した。これはナチ党に独裁権をあたえることになら法律であった(民主的なワイマール憲法はそのままとして)

 この提案にたいして、社会民主党オットー・ヴェルスは敢然と反対した。突撃隊の連中は「われわれはその法案をもとめる――さもないと放火と殺人だ」とどなった。ヒトラーは演壇にかけ上がって悪態をついた。投票の結果、賛成441票、反対94票で可決された。ナチ党員はとび上がり、腕をあげて党歌「ホルスト・ヴェッセル」をうたった。

 こうしてヒトラーの独裁権力はエセ「合法的」に成立したのだ。というのは、このとき不当に逮捕されていた一部の社共両党の議員は出席できず、しかも共産党議員団には登院停止の措置がとられていたからである。

 ヒトラーはやがて諸政党を解散して、ナチー党独裁をうちたて、1934年8月、ヒンデンブルク大統領が世を去ると、この地位を兼ねて総統(フューラー)とよばれた。そして全体主義的な統制と再軍備政策をもって、また対外的にはヴェルサイユ体制の打破によって、政権をかためてゆくのである。

「ナチスの手口」に学んでいるアベコベ政権が成立を企んでいる「緊急事態法」はまさに「全権委任法」に匹敵するのではないか。

(3)8月29日
松田文相のとっぴな発言


「パパ・ママを使うのはいかん」

 皇国日本が叫ばれている時代を象徴するような一席を――。

 われら東京の下町の悪ガキどもは昭和10年代には、トオチャン・カアチャンであった。少しく長じると、オヤジ・オフクロ。山の手のお坊っちゃま君たちが「パパ・ママ」なんてほざくのを聞くと、ヘドが出そうになったものである。

 それより少し前にこんな愉快な出来事があったのである。1934年8月29日、当時の文部大臣松田源治が、家庭でパパ・ママという言葉がはやっていることについて、新聞記者に語ったというのである。
「日本人はちゃんと日本語を使って、お父さん・お母さんといわねばいかん。またはお父さま・お母さまだ。舌たらずのパパ・ママを使うのは、そもそも日本古代よりの孝行の道の廃れるもととなる」
 これが新聞に出て、近くパパ・ママ呼称禁止令が発表されるといううわさが広まった。がぜん論争が巻き起こった。家庭内の呼称にまで文相の権限は及ばぬ、いや、文相には日本の孝道発展の責任がある、と喧々囂々(けんけんごうごう)。なんとも平和にして程度の低い時代でありましたな。

 いや、今も程度の低い時代ではないだろうか。つい最近、道徳教科書検定で「パン屋」を「お菓子屋」に替えた問題があったではないか。毎日新聞のデジタル記事を紹介しておこう。
『道徳教科書検定 「パン屋」怒り収まらず』

(4)10月1日
軍事国家へのスタート

「戦いは創造の父、文化のは母」  昭和日本が軍国主義化していく背景に、第一次世界大戦後に形成された新しい戦争観がある。これからの戦争は、戦場に動員された兵数や大砲の大きさではなく、政治・経済・外交・文化・思想など民族の総力をあげた戦争になるという認識である。世界大戦でドイツ帝国は武力においては敗れなかったが、経済戦および民衆の厭戦思想によって敗れた。日本の軍部はこの新しい戦略思想を信じこんだ。

 これからの戦争は国民をまきこんでの国家総力戦になると。それゆえに、明日の国防を考えるとき、あらゆる物的資源、国力、そして機能を戦争に奉仕させねばならぬ、とした。その軍の意志を強く表明したのが、1934年10月1日に陸軍省新聞班から発表された「国防の本義とその強化の提唱」、いわゆる陸軍パンフレッドである。

 「戦いは創造の父、文化の母である」という有名な文句で始まるこの文書のもと、さまざまな批判と異議を浴びつつ、ここから軍事国家的な統制体制がつくられていった。子供たちの間で戦争ごっこがはやりだしたのも、このあとからである。

 ウイキペディアによると、「陸軍パンフレッド」の内容は北一輝の『日本改造法案大綱』をより具体化したようなものだという。『史料集』の「ファシズムの進展と思想統制」という節に『日本改造法案大綱』からの抜粋文(出典は「現代史資料)と解説があるので、それを転載しておこう。

 まず日本改造法案大綱」は1919(大正8)年、北一輝が上海で執筆したもので、緒言と巻8及び結言からなる。ファシズムの聖典とされてきた。


日本改造法案大綱

 今ヤ大日本帝国ハ内憂外患竝ビ到ラントスル有史未曾有ノ国難ニ臨メリ。国民ノ大多数ハ生活ノ不安ニ襲ハレテ一ニ欧州諸国破壊ノ跡ヲ学バントシ、政権軍権財権ヲ私セル者ハ只竜袖(りゅうしょう, 天皇の袖。天皇の権威をかりること)ニ陰レテ惶々其不義ヲ維持セントス。……全日本国民ハ心ヲ冷カニシテ天ノ賞罰斯クノ如ク(この前の省略部分で「日本ハ彼ニ於テ充実ノ五ヶ年トシテ恵マレタリ」とし、第1大戦中国力が充実したことを述べている。)異ナル所以ノ根本ヨリ考察シテ、如何ニ大日本帝国ヲ改造スベキカノ大本ヲ確立シ、挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ、全日本国民ノ大同団結ヲ以テ終ニ天皇大権(明治憲法に認められた天皇天皇特有大権)ノ発動ヲ奏請シ、天皇ヲ奉ジテ速カニ国家改造ノ根基ヲ完(まっと)ウセザルベカラズ。

憲法停止
 天皇ハ全日本国民ト共ニ国家改造ノ根基ヲ定メンガ為ニ、天皇大権ノ発動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ両院ヲ解散シ全国ニ戒厳令ヲ布ク。……
華族制廃止
 華族制ヲ廃止シ、天皇ト国民トヲ阻隔(そかく)シ来レル藩屏(はんぺい)ヲ撤去シテ明治維新ノ精神ヲ明ニス。……
普通選挙
 二十五歳以上ノ男子ハ大日本国民タル権利ニ於テ、平等普通ニ衆議院議員ノ被選挙権及ビ選挙権ヲ有ス。……
私有財産限度
 日本国民一家ノ所有シ得ベキ財産限度ヲ壱百万円トス。……

 1934年の事件でもう二つ「中国共産党の長征開始」と「ワシントン軍縮条約の廃棄」を取り上げる予定だった。この二つの事件も『残日録』であ取り上げていないので前者は『世界の歴史12』を、後者は『昭和史探索3』を利用することにしていたが、かなり長くなるので、次回に掲載することにした。