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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(11)

死刑廃止論(1)

 今回の辺見さん記事の表題は「ストラスブールの出来事」である。ストラスブールはフランス北東部のドイツとの国境近くにある都市である。そこで欧州評議会(CE)の議場を会場として第一回死刑廃止世界会議(2001年6月21日)が開かれた。辺見さんはその会議の最終宣言の中から次の一文を枕として掲載している。

『死刑は司法に対する復讐の勝利を意味し、人間の第一の権利である生命権を侵すものである。極刑が犯罪を防止したことはないのである。(中略)死刑を行う社会は、象徴的に、暴力を奨励している。』

 辺見さんは本文を次のように始めている。

 この国のマスコミが、あたかも各社鳩首凝議(きゅうしゅぎょうぎ)した結果でもあるかのように、決して大きく継続的にはとりあげないテーマがある。死刑問題がその一つだ。ために、この国には死刑制度が存在するという事実さえ知らない若者もいる。国家が、どこで、どのような手段で、死刑囚を殺しているのかについては、さらに多くの者が知らない。確定死刑囚が現在何人いて、どのように遇されているかにいたっては、新聞記者すら知らない場合が多いという体たらくである。

 なぜなのだろうか。国家や天皇制がからむ、まがことらしい暗部には近づかないというマスメディアの習性もあろう。マスコミが日々去勢され、年々歳々体制内化していく一方で、法務当局が死刑に関しては徹底的な「密行主義」を貫いているということでもあろう。この国の死刑は、だから、いまも不可視の暗部でありつづけ、またそれゆえに、確定死刑囚55人の一人、大道寺将司氏は、近著『友へ 大道寺将司句集』で、かくも鮮やかに詠んだのである。

 花影や死は工(たく)まれて訪るる

 死刑に関するかぎり、この国とそのマスコミは、言葉の最も悪い意味で、"社会主義化"してしまっている。ほら、すぐ近くの某人民共和国顔負けなのだ。国際社会の非難も勧告も聞くものではなく、国内で議論すること自体、なにかとんでもない禁忌を犯しているかのような雰囲気がいまだにあるではないか。

 こうした事情から、冒頭の宣言どころか、第一回死刑廃止世界会議(2001年6月21日)がフランスで開かれたという事実そのものが、日本ではあまり知られていない。欧州ではもう旧聞に属するこの会議の意味は、しかし、じつに大きい。やや大げさにいうなら、これほど本格的規模の死刑廃止国際会議は有史以来はじめてであり、会議が死刑制度という視座から21世紀の国民国家のありようを問うたこと、とりわけ、死刑制度存置国・日本の前近代性が炙(あぶ)りだされたこと――などは特筆に値すると思う。

 このまま黙殺されては悔しいので、改めてなぞれば、会議の主催者はアムネスティなどの市民団体だが、ニコル・フォンテーン欧州議会議長やラッセル・ジョンストン欧州評議会(CE)議長らが後援者として名を連ね、フランス・ストラスブールのCE議場が会場となるなど、死刑廃止を加盟条件としているCE(43ヵ国加盟)主導で議事が進められたようだ。参加者800人、発言者120人、取材記者150人というのも空前の規模である。日本からは、冤罪の元死刑囚・免田栄さん、犯罪被害者遺族の原田正治さん、菊田幸一・明大教授、社民党の福島瑞穂議員、弁護士の田鎖麻衣子さんらが出席、それぞれ日本の死刑制度の実情につき発言している。

 上の記事中の「犯罪被害者遺族の原田正治さん」が私の目を引いた。新聞報道など知る限り、殺人事件の被害者の遺族の多くは犯人の死刑判決を望んでいるようだ。私は死刑廃止問題を考えるとき、被害者遺族の方々のそうした怒りの気持ちをどのようにサポートするのかという問題を避けることが出来ないと常々考えていた。その観点から、死刑廃止国際会議に被害者遺族の方が参加されていることに大きな関心を持った。

 今回のテーマ「死刑廃止論」について詳しい資料が欲しいと思いネット検索をしていて、アムネスティ・インターナショナルのサイトの記事『死刑廃止 - なぜ、アムネスティは死刑に反対するのか?』に出会った。以後、この記事を利用することにした。(その記事から直接文章を転載するときは「なぜ、アムネスティは…」と略記する。)この記事を読んでいたら、原田正治さんのことを取り上げていたのだった。さっそく転載する。


 「犯罪で家族を亡くされたすべての方にとって、死刑がもっとも納得いく刑罰に違いない」と思われている方も、いらっしゃいます。

 しかし、必ずしもそうとは限りません。というのも、凶悪犯罪の被害者が、加害者を死刑に罰することに対し、反対する場合もあるからです。当事者の受けとめ方には多様性があるということ、また、時間のながれの中でも変化するものであるということも、知っていただきたいと思います。

 米国では、9.11に触発された犯罪が多発しましたが、その被害者の一人であるバングラデシュ移民のレイス・ブイヤンさんは、自分を撃った犯人の減刑を求めました。「私が信仰する宗教には、いつでも寛容は復讐に勝るという教えがあるのです」と、彼は述べています。

 また、娘を殺害された米国の犯罪被害者の遺族マリエッタ・イェーガーさんは、「自分の娘の名において、もう一つの殺人が行われることを、娘が望んでいるとは思えない」とおっしゃっています。このように、死刑が解決につながると考えない被害者遺族も、多くおられるのです。

 1983年1月に、弟を保険金詐欺のために殺害された遺族の原田正治さんは、さまざまな苦悩をへて、のちに加害者と面会をするまでになりました。しかし、2001年、加害者が死刑を執行されます。その時、原田さんは、加害者が処刑されても、我が家は何一つ変わらないと実感したそうです。「被害者遺族のために」と言われる死刑執行が、自分にとっては何のけじめにもならないと、原田さんは痛感したといいます。

犯罪によって大切な家族を失った遺族が、長期間の苦悶を通してたどり着く「答え」の重み。その中に、感じ取るべきことは多いと思います。

永遠の不服従のために(12)

死刑廃止論(2)

 辺見さんの論考は次のように続く。

 冒頭に引用した最終宣言やフォンテーン、ジョンストン両議長らのあいさつ、CE議員会議の決議などで、私がとくに注目したのは、欧州各国が死刑制度というものを、単にそれを存続させている国々の内政問題としてでなく、温暖化問題などと同じく、人類社会共通の病弊として非難する姿勢を以前より一段と鮮明にしつつある点だ。そして、死刑制度を存置している日本と米国(制度が州により異なる)に対し、これまでより強い口調で廃止を求めたことも見逃せない。

 ちなみに、いわゆる先進国で死刑制度を存続し続けている国は日本とアメリカだけである。内閣府の世論調査では、「死刑を容認する人が80.3%、廃止を求める人は9.7%」だという。死刑容認者の論拠は次の2点に絞られる。

① 「死刑には重大犯罪を抑止する力となっている」

 実際はどうなのか。「なぜ、アムネスティは…」この問題を詳細に論じているが、殺人罪の発生率は死刑廃止とは関係ないという数値を転載しておこう。
『2010年の統計の人口10万人あたりの殺人発生率は、1位のオーストリアが0.56、2位のノルウェーが0.68、3位のスペインが0.72で、いずれも死刑廃止国です。この統計資料は、死刑を廃止しても、治安の悪化には直結しないことを示唆しています。』

② 「被害者家族が死刑を望んでいる」

 これについては前回、死刑を望まない被害者家族の方たちのことを取り上げたが、その後出会った「死刑廃止論」を訴えているブログ記事をもう一つ紹介しておこう。
『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と書いた人に訊きたい』
 このブログ記事は2012年に行われた森達也さんと勝間和代さんの「死刑廃止論」を論じた対談に対して、ネットやツイッターにほとんど罵倒のような激しい批判が書きこまれたという。森さんがそれに対して書いた反論である。その反論は直接読んで戴くことにして、ここでは死刑賛成者たちの「罵倒のような激しい批判」だけを転載しておく。

「この人らに聞きたい。被害者遺族のことは考えているのか?と」

「身内殺されてもこんなこと言ってられるのかね こういう人達は」

「自分の身内殺されて同じせりふ吐けるなら尊敬するよw」

「被害者遺族はガン無視ですか?」

「親・兄弟・友人・恋人…。そういった人が殺されても同じことが言えますか?「言える」のなら人間性を疑います」

「まずは自分の身内が殺されたことを考えてみ!」

「言うなら『私の子どもが殺されたとしても』って前置きしなよ」

「あの世に行って、被害者の前で頭を垂れろ」

「この二人はゴミだね。被害者遺族の身になれw」

「もし家族がだれかに殺されたら(事故ではなくね)、その犯人には死刑になってもらわなきゃ気がすまない」

「人の命は、たとえ犯罪者でも、その犯罪者に蹂躙され、ゴミクズのように葬り去られた被害者よりも重いですか?」

「犯人が死刑になると被害者遺族がスッキリする」

「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」

「この二人はカスだ。死刑制度がある理由は一にも二にも被害者遺族のためだ」

「被害者遺族の前で言ってこい! もともと死刑は復讐権の代替手段ってことを理解してないんだな」


 発言者たちは正義を擁護代弁しているつもりなのだろうが、私にはこれらの言葉は被害者家族が抱く深い悲しみや憤りに寄り添っているとはとうてい思えない。むしろ、まるでその苦悩や寂寥を弄んでいるようだ。

 死刑廃止に向けて考えるべき問題がもう一つある。被害者家族の方々への支援である。「なぜ、アムネスティは…」はこの問題についても詳しく論じているが、その基本的な理念についてまとめている部分だけ転載しておこう。

 アムネスティは、死刑判決を受けた者が犯した罪について、これを過小評価したり、許したりしようとするわけではありません。しかし、被害者とその遺族の人権の保障は、死刑により加害者の命を奪うことによってではなく、国家が経済的、心理的な支援を通じ、苦しみを緩和するためのシステムを構築すること等によって、成し遂げられるべきであると考えます。

 最後に、死刑は国家による殺人であることを強調しておこう。現在問題になっている共謀罪と同様、国家による恣意的な死刑適用の可能性もある。私は憲兵隊司令部で甘粕憲兵大尉に虐殺された大杉栄・伊藤野枝・橘宗一(わずか6歳の少年)や、特高警察の拷問によって虐殺された小林多喜二などを思い出している。こうした問題の関連記事も「なぜ、アムネスティは…」から、これも一部だけ転載しておこう。
『世界で死刑を存置している国は、2012年6月末現在で57ヵ国です。そのうち、殺人などの人の生命を侵害する犯罪以外に死刑を用いる国が多くあります。そして、その罪状は、反乱罪など、政府に批判的な人びとに向けられているのです。』

 辺見さんの論考に戻る。

 死刑廃止世界会議の閉会を受けて行なわれたCE議員会議では
「議員会議は日本とアメリカ合衆国に対し、以下のように要求するものである。
ⅰ 遅滞なく死刑執行の停止を実施し、死刑廃止に必要な段階的措置をとること
ⅱ 直ちに死刑囚監房の状況を改善すること」
という、かなり強硬な決議を採択している。これは、日米両国がCEのオブザーバー国であるにもかかわらず、死刑制度を依然存続させているからであり、2003年1月1日までに著しい改善が見られない場合は、CE議員会議として、両国のオブザーバー資格につき異議を唱えるとまで明言している。

 つまりは、経済、軍事、環境、文化にわたる米国主導のグローバル化やいわゆる米国スタンダードの拡大に反発を強める欧州各国が、死刑制度という近代国民国家の暴力的規範のありようについても異議を申し立てたわけである。もはやあらゆる意味合いで帝国主義化しつつあるブッシュ大統領下の米国とそれにただひたすら追従する日本を加えた、欧州対日米連合という外交上の新しい対立構図が、ここでも浮き彫りになったかっこうだ。

 フォンテーン欧州議会議長は、死刑廃止世界会議でのあいさつで
「死刑には重大犯罪を抑止する力がない、という共通の認識が欧州中に浸透しつつある。人命は尊いという原則を侵すことなく重大犯罪から身を守る効果的な方法が現代社会には存在する。死刑は『目には目を、歯には歯を』という古い復讐法の遺物である」
と指摘し、死刑の適用は「生命の聖なる本質を汚すもの」と強調している。こんなことも野蛮な日米両国にはわからないのか、といった高みからの口ぶりにも聞こえぬわけではないけれど、様々の曲折を経て、死刑制度廃止を達成した欧州の自信と、人間と国家を論じるときの、ブッシュ氏や小泉氏には残念ながら逆立ちしても真似のできない格調というものが、ここにはある。

 これに対し、日本政府はどうしたか。会議に参加した「フォーラム90実行委員会」発行のニューズレター『FORUM90NEWS増刊号』によると、死刑は国内問題であり、存廃は世論と国内犯罪状況によって判断されるべきだ、という趣旨の、英文でたった十行ほどの意見書を会議場で配り、顰蹙(ひんしゅく)をかったのだそうだ。このあたり、首相の靖国参拝や教科書問題に関する諸外国からの批判への、居直ってみたり、凄んでみたりの排外主義的対応と変わりがない。にしても、死刑廃止世界会議から帰国したメンバーのだれもがいうのだ。日本ではまだ死刑制度があるのかと欧州各地で驚かれた、と。秘密主義は国内だけでなく、国外でも奏功しているというべきか。

 第二回の死刑廃止世界会議を日本で開く計画があるという。CEオブザーバー国・日本は、直ちに死刑執行を停止し、会議に全面的に協力すべきではないか。

 この会議が日本で行なわれれば、多くの人が死刑廃止の是非を考えるきっかけになったと思うが、残念ながら、第二回の死刑廃止世界会議は日本ではなく、モントリオール(カナダ)で行われている。

 最後にもう一つ、殺人のような重大犯罪をなくす道を考える必要があろう。その道は、これまでの政治を振り返ればただただ絶望するほかないのだが、政府が犯罪の大きな要因となっている貧困や差別や憎悪などがはびこる社会構造を改善していくことに尽きると思う。そのためにはどのような社会が望ましいのか。とても長いのですがカテゴリ「『羽仁五郎の大予言』を読む」の中の「社会主義」を紹介しておきます。

『終末論の時代(19):社会主義(1)』

『終末論の時代(35):社会主義(16)』
永遠の不服従のために(13)

ディストピア

 ディストピアは、ユートピア(理想の社会)とは正反対の社会のことである。ユートピアについては『吉本隆明の「ユートピア論」』という表題で取り上げたし、この言葉は色々な記事で使ってきた。ディストピアという言葉を用いるのは今回が初めてである。

 今回読む辺見さんの論考は「二重思考(ダブルシング)」という表題が付けられている。そして、枕にはジョージ・オーウェル著『一九八四年』(新庄哲夫訳)の次の一文を用いている。

『平和省は戦争、真理省は虚構、愛情省は拷問、豊富省は飢餓を所管事項としている。これらの矛盾は偶発的なものではなく、また通常の偽善から発生したものでもない。孰れ(いず)も二重思考の意識的な実践なのである。それというのも、ただ矛盾を調整させることによつてのみ権力は無限に保持して行けるからだ。』

 「二重思考」の意味は『一九八四年』中の文を引用すると「相殺し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉する」思考能力のことである。オセアニア(小説の舞台になっているディストピア国)が社会を支配するために住民に実践させている。

 では、辺見さんの論考を読んでいこう。
 かつてソマリアを取材したとき、国連の「平和執行部隊」に所属する米軍が、病院に平気でロケット弾をぶちこんだり、罪とがない市民を射殺したりするような乱暴狼籍を重ねているのを知って、なにが「平和執行」なものかと、怒りが収まらなかったことがある。

 次元はまったくちがうが、この国の「動物愛護センター」なる自治体の施設が、捨て犬、野良犬をたくさん殺すのを業務としていたりもする。はたまた、「人権救済機関」が、権力介入誘導機関となったりもする。言葉と現実が裏腹であり、名辞が概念を裏切り、実態が名称をあざける。警察に盗聴捜査を許す法律を「通信傍受法」といいなすのも、名称と実態の大いなる矛盾だ。言葉の堕落もここまでくると倒錯としかいいようがないのだが、困ったことには、眼と耳が慣らされると、堕落とも倒錯とも感じなくなる。消費者金融関係のまことに明るく、お優しい商品名がそうだ。

 これらは、オーウェルが未来小説『一九八四年』で予言的に描いたとおりだ、などと、いまさらいいたくはない。この小説の発表以来、半世紀以上にわたり、ときに反共主義者が旧ソ連や中国を非難するよりどころとし、またときには、リベラリストが管理社会を難じる際に牽強付会の材料としつづけた、いわば手垢のついた手法だからだ。ただ、ひとつの国家における法律や制度、組織の美名が、実態と裏腹であればあるほど、その国の国家主義的な病は、なべて重篤なようではある。まさに、オーウェルが『一九八四年』で極端化してみせたとおりなのだ。

 思えば私がこのブログを始めた動機は、この国の「国家主義的な病」をえぐり出すことであった。『一九八四年』の文を引用している記事もある。しかし私の『一九八四年』からの引用は決して「牽強付会」ではないと自負している。それは次の記事です。
『石原が恋い焦がれている「国家」』 (同じ文を
『大日本帝国皇軍の惨状』
でも用いている。)
『「君が代日の丸」が「考えるな、服従せよ」と恫喝する』

 続けて辺見さんは「国家主義的傾向が加速している」一例として「個人情報保護法」を取り上げている。

 その伝でいえば、日本もこのところ、国家主義的傾向が加速している。名称と実質がまるっきり異なる法案を、またぞろ政府が通そうとしているのだ。「個人情報保護法」が、それである。ほら、一見、ほんとうに良さそうな名称でしょう。ところが、全六十一条で構成されるこの法案、よく読むと、「個人情報の保護」どころか、戦後例を見ない規模の言論規制を細かに明文化しており、国家による社会全域の情報管理・統制をねらったものとしか解釈できないようなシロモノなのだ。

 同法案第五章の「個人情報取扱事業者の義務等」に注目したい。
① 個人情報を扱う事業者は利用目的を明確にし、本人にも通知しなければならない
② 第三者への提供が利用目的を超え、個人の権利、利益を侵害する恐れのあるときは本人の同意をえる
③ 第三者から情報を取得することが必要かつ合理的な場合を除き、原則として本人から同意をえる
④本人の求めがあれば、開示や訂正、利用停止、消去をしなければならない
―等々とある。悪徳名簿業者らの存在を前提にすれば、一応、なるほどという法案のようだが、かりに、私か政治家や官僚の不正疑惑について取材、発表しようとしたら、彼らにその目的を通知しなければならない、というわけだ。記事として発表するにも本人の同意が必要となる。さらに、本人から記事内容の訂正を求められたら、それに応じなければならず、拒否すれば主務大臣から勧告または命令がだされ、これに背けば、六ヵ月以下の懲役か三十万円以下の罰金刑に処せられる。これでは、ろくな取材も発表もできるわけがない。

 ただし、「放送機関、新聞社、通信社その他の報道機関」が「報道目的」で個人情報を使用する場合は、右の規定は適用されない。国家権力に和解的で、体制内化したような大マスコミは、記者個人がよほど跳ね上がったりしなければ、お目こぼしというわけだ。いわゆる報道機関以外の「個人情報取扱事業者」が対象なのだが、これに明確な定義はなく、私のような作家やフリーライターはもとより、NPOもNGOも企業も市民運動組織も、要するに犬やハムスターなどを除けば、論理的には、だれもがこの法律の適用対象となる可能性がある。

 そのことも恐ろしいのだけれども、もっと戦慄するのは、この法案が、政府各機関、警察など公権力が抱えている膨大な個人情報に関して、保護義務を課していないということだ。国家はあらゆる個人情報を専有し、それをどのようにでも使用できる ―― と宣言しているようなものではないか。一説によると、法案の究極目的は、日々乱れ飛ぶインターネット情報の完全な国家管理だともいう。国家の統制機能というのが、過剰情報化社会という今日的風景に合わせ、不気味に強化され、拡大しつつあることは疑いない。

 これに対し、お国からお目こぼしの恩恵にあずかる新聞、放送メディアは、いまのところ、おありがとうござーい、というわけで、大きな反発を示していない。「報道と人権委員会」(これも、『一九八四年』的な、内容と裏腹の美名である)といった"報道検証機関"をこれ見よがしに設けたり、しきりに殊勝顔をしてみせて、全体としては、やるべき報道をやらない自己規制に傾いているメディアが増えている。げに、世も末である。

 「個人情報保護法」は2003年5 月23日に成立した。この「過剰情報化社会」の行き着いた地点が2015年に成立した「マイナンバー」制度だ。「マイナンバー」と言っているが、ここにも言葉の詐術がある。これは個人情報管理のために押しつけられた「ユアナンバー」だ。私はこんなもの使わないし「マイナンバーカード」の申請はしない。この問題については、「澤藤統一郎の憲法日記」のとっても為になるブログ記事を紹介しておこう。
『マイナンバー さわらぬかぎりは 祟りなし』

 さて、辺見さんの論考は次のように締められている。

 冒頭の引用に戻ろう。『一九八四年』が描いた全体主義国家では、報道や教育、娯楽、芸術は、すべて「真理省」の管轄である。わが方の情勢にぐいっと引きつけていえば、新聞もテレビも文部科学省も、「真理省」に属するというあんばいだ。そこでは、「真実」が国家管理下におかれ、政府に不都合な歴史的事実、統計などは、消去されたり、変造、捏造されたりする。個人が過去を正しく記憶したり、反省したりするのは「思想犯罪」にあたるのだ。一方、党員たちは、「二重思考」、すなわち「一つの精神が同時に相矛盾する二つの信条を持ち、その両方とも受け容れられる能力」を身につけなければならない。白を黒といいはり、本気でそう信じるのは、大事な能力なのだ。言語も改造されており、「新語法(ニュースピーク)」ですべての表現を簡略化し、人間の意識、感情の量はできるだけ減らすべきこととされる。

 やはり、『一九八四年』の全体主義国家は、くやしいけれど、どこかの国に似ている。いや、どこかの国がこの小説に似てきているのだ。新聞社やテレビ局のビルの壁に、真理省のこんなスローガンが大書されていないか、われわれはいま、しっかり眼を凝らす必要がある。

 戦争は平和である
 自由は屈従である
 無知は力である
永遠の不服従のために(14)

不敬(1)

 前回で第1章が終わり、今回から第2章に入る。ほとんどの節は数ページの短い文章で成り立っているが、第2章の第1節は3つの項目に分かれていて計14ページある。全体の表題は「不敬」であり、項目名はa/b/cでありそれぞれに枕となる文章が付されている。では、aから読んでいこう。

 a
 そこでお尋ねしますが、あなたがいま、天皇ないし皇族の身体にかかわるテーマを小説に書いたとしたら、その掲載を引き受ける雑誌、あるいは刊行を引き受ける出版社があるでしょうか?
(T氏の私に対する質問から)

 本文は次の様に始まる。

 その質問は、私がたちのよくない夏風邪を引いて、いくぶん治りかげんのころに、Eメールで送られてきたのだった。つるつるの乾ききった画面に、およそそぐわない、際どくて陰湿かつ深微な内容である。読んだら、熱がぶり返した。百日紅(さるすべり)のあの淡紅色の花だって、ちりちりに焦げ落ちてしまいそうなほどの猛暑であった。なのに悪寒はつづいた。夏風邪がその後、嘘のように消えたのといっしょに、質問も失念した。ところが、つい先日、ふと思い出してしまった。ずっと忘れたままでいたかったのに。気がつけば、もう秋なのだ。そろそろ、いやでも質問に答えなくてはならない。

 私は、天皇の身体にかかわることを、これまで小説に書いたことはない。より正確にいえば、確定死刑囚・大道寺将司氏の俳句(『友よ 大道寺将司句集』、ぱる出版)に喚起されたこともあって、東アジア反日武装戦線"狼"による「お召し列車爆破未遂事件」(虹作戦、1974年8月)と彼の句境の関連などについて、ずいぶん抽象的に論じたことはある(『眼の探索』の補遺「虹を見てから」)。だが、これは小説ではないし、別して天皇をテーマにしたものでもない。では、将来書くことはあるだろうか。わかりかねるけれど、さしあたり私の体内につよい動機がないことはたしかだ。したがって、この質問はあくまでも仮定のそれなのである。
 「東アジア反日武装戦線"狼"」を私のブログで何度か取り上げている。その中から大道寺将司さんを取り上げた記事を紹介しておこう。

『春疾風なお白頭に叛意あり』

 しかし、書く気がないのだから回答する必要もない、というわけにはまいらない。書こうが書くまいが、これは、しっかりと答えをださざるをえない性質の問いなのである。質問には、
「かつて『風流夢譚』事件というのがありました。表現の自由と天皇という、憲法に深くかかわる事件ですが、この事件については憲法も沈黙してしまうような気がしてならないのです」
という前置きがあった。先に引用した「そこで……」以下は、その前置きからすぐつづくのである。じっくりと考えれば、問いには一定の答えがすでにして想定されていることがわかる。その想定の上で、おそらくは、憲法21条(表現の自由)の、こうした場面での驚くべき無力とそのわけについて語れ、とT氏は私に求めているのであろう。賢くも怖い質問ではある。

 申し遅れたが、T氏とは、法律専門月刊誌『法学セミナー』の編集者である。T氏の想定とは、あらまし、こうであろう。
 出版社は(むろん、新聞社はとくに)、そうした小説の掲載や刊行を容易には了承しない。万一、引き受ける場合でも、問題部分の書き換えを著者に要請する。なぜならば、右翼団体のつよい抗議と不測の事態も考えられるからだ。だとしたら、憲法21条とはいかなる意味をもつのか。深沢七郎の小説「風流夢譚」(『中央公論』1960年12月号)に端を発し、右翼少年が二人を殺傷する事件(1961年)が起きたが、以来40年、この国の言論状況は少しでも好転したのか。すなわち、21条は実現されているのか。

 私はまだ最終的な答えをだしていない。胸の底のうす暗がりで、T氏の質問と彼が想定しているであろうことを、繰り返しなぞり、ぶつぶつと自問自答している。言論状況は好転どころか、著しく悪化している。天皇、いわゆる「従軍慰安婦」、死刑制度という三大テーマは、かつてよりよほど語りにくく、身の危険を覚悟することなしに、公然と本音をいいはなつことは難しい。事実、まっとうな議論を臆せずしたがために、理不尽な攻撃を受けている人々がいまもいる。「自由とは、人の聞きたがらないことをいう権利である」とジョージ・オーウェルは語ったけれど、その意味で、この国に言論の自由はない。21条は実現されていない……などと。

 T氏は、しかし、こんな愚痴のような答えでは納得してくれないであろう。なぜなのですか、みんな、なにに怯えているのですか ― と、たたみかけてくるにちがいない。なにに怯えているのか。そうなのだ、そこに問題の底暗い根っこがある。

 ここから先は、私のやや朦朧(もうろう)たる想像でもある。この国では、じつのところ、とうの昔に廃棄されたはずの旧刑法74条「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ不敬ノ行為アリタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役二処ス」が、どっこい生き残っており、無期限の見えざる実定法として、いまも一部でつよい精神的有効性を保っている。また、いわゆる"不敬者"を、公権力になりかわり、肉体的、精神的に痛めつける、不可視の組織が、この社会のどこかに常に存在する。小泉首相および公権力を握る者たちの全般的エトスは、旧刑法74条に大きくは矛盾しない。だから、"不敬者"に対する右翼ないし視えざる組織による暴力の摘発に、公権力は一般に消極的なのである。これらの問題は、この国の連綿たる情念領域に属し、濡れた菌糸のようなその均質的情念は、マスメディアをも広く侵している。いまや、ますます深く、ほとんど骨髄にいたるまで侵している。言論への暴力は、抵抗しないかぎり、今後さらに増えるにちがいない――というのが、私の暫定的な答えである。

 T氏はどう思うだろうか。かくいう私も、ほんとうのところ、怯えているのです、と告白したら、驚くだろうか。

 私は右翼の理不尽な暴力についても何度か取り上げている。その中から右翼の理不尽な暴力と真っ正面から対峙した人に、『噂の真相』の編集長だった岡留安則さんを取り上げた記事を紹介しておこう。

『マスゴミの中にて光る真のマスコミ(1)』

『マスゴミの中にて光る真のマスコミ(2)』

永遠の不服従のために(15)

不敬(2)


"不敬者"を、公権力になりかわって痛めつける不可視の組織 ― その所在を、どこまでもたどつていくならば、もしかしたら、私自身の神経細胞に行き着くのではないでしょうか。(T氏のメールから)



 編集者T氏から再びメールが入った。前回の私のエッセイを読んでの感想である。まったく予想もしない内容であった。「"不敬者"を、公権力になりかわり、肉体的、精神的に痛めつける、不可視の組織が、この社会のどこかに常に存在する」と、前回、私は書いた。T氏はそこに集中的に反応してきた。そのような組織などこの国には存在しない、と反論してきたのではない。視えざる組織の存在は、私同様、彼にとっても思念の前提であるらしかった。私か舌を巻いたのは、その先である。

 断っておかなくてはならないが、彼は私と同世代ではない。たしかめたわけではないけれども、私より十歳は若いのではないか。法学部をでて法律専門誌を編集しているのだが、法曹界のにおいを感じさせるのは、野暮ったい形(なり)くらいなもので、法律については、当方から尋ねでもしなければ、ろくに語ることもない。おそらく心の底からの興味はないのであろう。ただ、たまに、セシル・テイラーの何年何月だかの演奏がいかにずぬけているかとか、じつはジャズ喫茶のマスターになるのが夢だとかを、まるで国家の最高機密でも打ち明けるように、身をよじりよじり披瀝するときに、T氏の声調はやや高くなり、眼は不思議な光を帯びるのである。

 そんなT氏からきたメールを順を追って、考えてみる。彼によれば、前回の私への質問は、「万が一、天皇ないし皇族の身体にかかわるテーマを書きこんだ、辺見さんの原稿を受け取った場合、自分はどうすべきか」という自問でもあった、という。問うたびごとに、不可視の者たちによる監視と暴力を想像し、怯えた。だが、自分は、かりそめにも、憲法を精神的支柱とする法律専門誌の編集者である。「不敬」は法的には断じて成立しないはずであり、しかも、憲法21条というものがあるではないか。後退してはならない。そういい聞かせても、やはり怯(ひる)んでしまう。この怯えとは、いったい、なんなのだろ ― メールの前段はこのような展開であった。ここまでは、乾いた言葉でも、ま、説明できる。しかし、この先は、湿り絡まり粘りつく、ゼリー状の表現とならざるをえない。

 T氏はいう。
「怯えをふりきって、踏んばろうとしても、日常生活の思わぬところに伏兵が潜んでいるのではないか、いや、それどころか、自分自身も、蓋を開けてみれば消極的であれ積極的であれ、伏兵の側に与していて、自分自身に裏切られることになるのではあるまいか、と考えてしまいます」。
 彼は自分という井戸の底を、長い時間、覗きこんだのであろう。そうした上で「私は想定せざるをえないのです」と切りだし、冒頭に抜きだした重大な推論となるのである。

 読んでいて気息が乱れた。たまげたのである。私より、一世代若い編集者までが、こうした怯えをもっていることに。そして、そのことを少しも隠さなかったことに。いや、もっと、目玉が飛びでるほど驚いたのは、"不敬者"への監視とテロルをもっぱらにする、不可視の組織への、T氏の見事というほかない想像力に、である。その言を私なりに敷衍(ふえん)すれば、こうなる ― 透明な気根のように、不気味に生えでた不可視の組織の末端を、おそるおそるたぐり寄せてみると、外部にあるとばかり思っていたそれは、あろうことか、わが体内の闇の神経細胞にもつながっているらしい。

 いうまでもないことではあるが、T氏はたとえ生まれ変わったって、赤字つづきのジャズ喫茶のマスターではありえても、意識的な天皇制主義者にはどうあってもなりえない人物である。したがって、彼のいう「神経細胞」とは、直接に、彼の「内なる天皇制」を指すのではなかろう。また、「一木一草に天皇制あり」(竹内好)といった意味合いでの神経細胞でもなさそうだ。では、不可視の組織につながる自身の神経細胞とは、ぜんたい、なんであろうか。

 それは、否応なく実質上の天皇制国家に生きるわれわれが、それと気づかず体内の情念領域に胚胎(はいたい)し、育てている「幻想の抑止機制(システム)」のようなものではないだろうか。この幻想の体内機制が、自ら己の"不敬性"を、ほとんど無意識にチェックし、公権力になりかわり、それを懲らしめてしまうのである。換言すれば、「自己抑圧装置」でもあり、これが、怯えの発生源となる。意識的な天皇制主義者は、むろん、こうした幻想の体内機制をもつ必要がない。彼らは機制を常に露出させているのだから。幻想の体内機制は、じつのところ、天皇制を決して支持はしないけれど、それと身を賭して闘いもしない知識層の体内深くに埋めこまれている、と私は目星をつけている。とりわけて、マスメディアで働く人間たちの大半が、そうなのである。目先では天皇制反対をいう学者たちにも、おそらく、こうした者が少なくない。

 いわゆる「慰安婦」問題におけるこの国の非道や、昭和天皇の戦争責任を堂々と論じたために、不可視の監視・暴力組織が動きだし、勇気ある論者たちを、陰に陽に痛めつける事件は、マスコミで大きく報道されないにせよ、いまも引きつづいて発生している。これに対し、「闇の神経細胞」すなわち幻想の体内機制をもつ者たちは、一応は憂い顔をしてみせ、結局のところ、見て見ぬふりをするのである。甚だしくは、暴力にさらされている彼ら彼女らを「やりすぎ、いいすぎ」と見なし、なにもしない自己を、内心、正当化したりもする。T氏のいう「伏兵」とは、このことであろう。「伏兵」は、外部だけでなく、自己体内にも潜んでいるということだ。

 私はT氏を非難しているのではない。まったく逆である。外在する不可視の監視・暴力組織と自己体内の神経細胞の意外な関係性を見きわめて語ること、それ自体が大した勇気である。怯えを隠さず表現すること、それは断じて怯儒(きょうだ)ではない。怯えの根源を徹底的に解析し、体内の抑止機制を徐々に解体しなければならない。それは、とりもなおさず、象徴天皇制下における途方もない暴力の存在を明らかにすることになるだろう。口先で、「表現の自由」を喋々(ちょうちょう)するだけなら、この益体もない憲法違反列島においては、昼下がりの茶の間で一発ケチな屁をひるくらい、造作も意味もないことなのだ。

 メールはまどろっこしい。今度は、直接T氏と会って話そうと思う。

 赤字部分の様な「闇の神経細胞」は私の体内にもあると自覚している。しかし、《『羽仁五郎の大予言』を読む》の中の記事『ジャーナリズムの死(7):戦後の言論弾圧(1)』に出てくる赤尾敏の講演に拍手を送る人たちほどには病んでいない。なお、前回「右翼の理不尽な暴力と真っ正面から対峙した人」として岡留安則さんを取り上げた記事を紹介したが、上に紹介した記事の中の矢崎泰久さんの右翼青年との対応も見事である。