2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(5)

「君が代」問題(2)

 前回引用した辺見さんの論説は次のように続いている。

 翻(ひるがえ)って、象徴天皇制下にして不敬罪もないはずのいま、八木英三先生のような教員が、ほぼ絶滅しかかっているのはなぜなのだろう。それどころではない、1999年の「国旗・国歌法」採択以来、学校では現行憲法がうたう「良心の自由」など、事実上否定されているに等しいではないか。新聞やテレビではあまり詳しく報じられていないけれども、入学式や卒業式での日の丸掲揚や「君が代」斉唱に逆らう教職員らが、このところ多数処分されている。胸に抗議のリボンをつけただけで、地方公務員法の職務専念規定違反だとして戒告されたりしてもいる。そればかりではない。マークシート方式で日の丸・君が代に対する教員らの意識調査というより思想チェックをやってみたり、一部には陰湿きわまりない監視までなされている。

 これに加えて、小中学校で2週間、高等学校で1ヵ月間の奉仕活動を行い、やがて満18歳の国民すべてに1年程度の奉仕活動を義務づけるといった、「教育改革国民会議」の提案も、現場教員らのとまどいのもとになっているという。さらには、中曽根元首相や「新しい歴史教科書をつくる会」などがしきりに唱える「公の観念」の発揚なども、教育現場への精神的圧力になっている。復古調の教育指針を押しつける側にも、それに抗う側にも、心の閉塞はあっても、どうやらユーモアもヘチマもありはしないようなのだ。

 さて、どうだろう、2001年のせんせいたちも、八木先生にならい、「君が代」じゃないぞ、「我が代は千代に八千代に」だぞと、教室でもいい、職員会議でもいい、敢然といい放ってみたら。そこて盛り上がれば、「わあがよおはー」とみんなでうたうも結構、うたわぬも結構。それだけのことで、もしも、いちいち処分がでるとするならば、この国は90数年前と同じということではないか。思えば、教育への強権的な干渉者たちは「オッペルと象」のオッペルに似てきている。"象"にはオッペルを踏みつぶす力もないのだけれども。

 「マークシート方式で日の丸・君が代に対する教員らの意識調査」が行なわれていたとは知らなかった。こんな憲法違反の調査は全員で拒否してしかるべきだ。

 また、「奉仕活動の義務づけ」の目論見は「自衛隊への入隊体験」にまで拡大される危険をはらんでいる。まさにこの国の支配者どもはオッペルである。

 ちなみに、青空文庫では宮沢賢治の全ての作品を読むことが出来る。「オッペルと象」を紹介しておこう。
『オツベルと象』

 さて、辺見さんがここで「オッペルと象」を引き合いに出したのは何故だろう。私の蔵書の中に『宮沢賢治童話集1』(中央公論社版 「オッペルと象」「注文の多い料理や」を所収、宇野重吉・米倉斉加年の朗読レコード付)がある。ここから賢治がこの寓話に込めた思いを読み解いている堀尾青史さんの解説を転載しておこう。

 本巻1の二篇は、非道なブルジョアジーに対する怒りと抵抗を宗教的郷土的情念でファンタジー化した作品で、構想、表現の秀抜なこと、子どもの興味をひきつけることで広く知られている。

 「オッペルと象」は牛飼いが話すスタイルなので、七五調を主体の韻文形式になっており、語り聞かせというこのレコードの目的にもってこいの作品だ。

 オッペルはマニュファクチュア初期資本主義の、特に地主タイプのたいしたものとしてあらわれる。(もちろんこれが反語的な意味だということはあとでわかるが。)このオッペルは、白象を労働力としてとりこむためにブリキの時計や紙の靴のアクセサリーをやり、にげないように四百キロの分銅をくさりでつなぎ、はじめは十把のわらを与え、つぎつぎと減らしていく一方、仕事は税金が高いといってどんどん量をふやし、結局動けなくなるまで働かせてゆく。このあたり、資本家の搾取ぶりをこれほど判りよく書いた童話はまたと無い。

 白象には賢治の労働観があらわれている。労働はもともと本能であり苦痛ではなかった。原始人には遊戯とひとしく享楽でもあった。ところが人間が人間を支配し、労働者が人間性を犠牲にして生産に仕えざるを得なくなると苦痛となる。白象が労働本能を利用され徹底的に搾取され死に到ろうとしたとき、圧迫者であるオッペルは否定されねばならず、それには集団の力しかないと考えられる。そしてここでは象の仲間がまっ黒に吠えて沙羅の木の山を下り、オッペルのピストルの玉をはね返し、くしゃくしゃに踏みつぶしてしまう。このあたりの描写はすさまじいエネルギーの奔騰であるし、一切の存在に仏性を見て愛憐止むことのなかった賢治が一片の同情すら与えていないのも見のがせない。

 が、これで解決したのではない。助けられた白象はなぜかさびしく笑う。力による力の否定はやむを得ないかもしれない。が、白象はさびしい。労働がそれ自身善となる世界を考えるモリスやトルストイ、無抵抗の平和を訴えるガンジイなどを下敷きとし、世界全体幸福にならないうちは個人の幸福はないといい、無償の行為に生涯を終えた賢治の世界観が白象に表徴されていて、現実とのひずみに嘆かう。農民が仲間として組みこまれていないのも白象の生き方を原点とした作品だからである。

 この作品はのんのんのんといった擬態語、雑巾ほどあるオムレツといった形容詞が豊富である。最後の「おや、君、川へはいっちゃいけないったら」は牛飼いが語り了え、聞き手がわかれて川へ入ろうとするのを止めたのだが、これが何の意味かよく判らないとたずねられる。この不明の聞き手であり書き手である人物は、「風の又三郎」の中で子どもたちに「あんまり水をにごすなよ、いつでもせんせいうでないか」とはやされて川へ入るのを止めた洋服にわらじばき、手にステッキみたいなもの(多分ピッケル)をもった不明の人物を思い出させる。すぐ川へ入りたがるのは稗貫郡土性調査で「渓流に腰まで浸って」(書簡53番)石の標本さがしに夢中だった賢治のくせで、ここにもチョッピリ登場させているのをわたくしは笑ってしまう。

 テーマとはいささか逸脱するが、「無償の行為に生涯を終えた賢治の世界観」で思い出したことがある。次の過去記事を紹介しておこう。


「ほんとうの考え・うその考え」―宮沢賢治の実験(1)』 ~  「ほんとうの考え・うその考え」―宮沢賢治の実験(8)』

 もう一つ、「オツベルと象」「オッペルと象」の二通りの表題が使われているが、私はオツベルには初めて出会った。ネットで調べたら、「宮沢賢治の作品のオツベルと象は、本当は、オツベルなの?それともオッペルなの?」という質問をしている方がいて、それに次のような回答が寄せられていた。紹介しておきます。

 「オツベルと象」は、雑誌『月曜』の大正15年1月の創刊号に掲載されたものが初出です。
 「オッペル」と書かれたものの初出は、その同月、大正15年1月29日付『中央新聞』夕刊の中での評論にあった、「宮沢賢治氏の『オッペルと象』は全くすばらしい読物だ。」という一文。

 賢治の死後、賢治全集の編集時に「オッペル」という誤記があったことから長く「オッペルと象」のタイトルで広まったのですが、そのミスの指摘があってそれ以降は「オツベル」に変更されています。

 生前に発表された作品であり賢治本人がこの掲載時の「オツベル」という表記に異議を示した記録もないため本人が容認している形になるとみなされ、現在では「オツベル」が正しいタイトルとされています。
 死の寸前まで自分の作品の推敲重ね続けたことで知られる賢治ですが、この「オツベルと象」の草稿は残されておらず、雑誌初出時のものが「原本」の扱いになっています。

 ただ、「オッペル」とされていた時期が長いためにこの表記を支持する人も少なくなく、絵本などで出版する上であえて「オッペルと象」としている本も見受けられます。

永遠の不服従のために(4)

「君が代」問題(1)

 1999年に成立された悪法の中の一つが「国旗・国歌法」だった。このとき凡人・小渕首相は「決して強制するものではない」と答弁している。それが現在では人の心を圧殺するような法律になっている。このように本来の意図を隠してウソをつくのは政治権力の常套手段である。いま無知にして無恥な安倍首相が強行採決を目論んでいる「共謀罪法」でも、「テロ等準備罪法」と名称を変えて、「決して一般人を対象とする者でない」などと臆面も無く繰り返しウソを重ねている。

 私はこのホームページを始めたとき、その表題を『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』とした。「日の丸・君が代の強制」がテーマだったので、はじめの頃はそれに関連した記事をたくさん書いてきた。必要に応じて、それらの記事を利用しよう。

 さて、辺見さんは「君が代問題」の表題を「わあがあよおはー」として、枕に次の文を引用している。
『賢治が小学校時代もっとも影響を受けたのは3、4年担任の八木英三先生で、(中略)この人はのちに早稲田大学を出て中学の教師となったが、「君が代は」じゃない「わが代は千代に八千代に」といって問題をおこし、警察に引っぱられたことがあり、敗戦の時まで終始にらまれていた。(堀尾青史「年譜 宮澤賢治伝」から)』
 そして、本文を次のように始めている。

 なるほど、「銀河鉄道の夜」のカムパネルラにもジョバンニにも、「君が代」などおよそ似つかわしくない。セロ弾きのゴーシュだって、国を背負ったりしていない。「グスコーブドリの伝記」のブドリを、「よき臣民」に見たてるのにはどうしたって無理がある。宮沢賢治の作品群には、つまるところ、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(大日本帝國憲法・第一章第一條)だの「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(同第三條)だのといった当時の強圧的制度が、いうもおろか、いかなる影も落としてはいない。土台、国籍不明といっていい作品さえ多々あるし、人と宇宙への無限に深いまなざしが、たとえば「皇統連綿」などという概念を、(彼は一度だってそう書きはしなかったけれども)ちっぽけで怪しげなものとして、はるか彼方に遠ざけてしまうのである。

 でも、なぜそうできたのか。彼の内宇宙は、国家や神聖天皇制により無化されるのでなく、逆に内宇宙のほうが、あたかもブラックホールのように、それら共同幻想を手もなく呑みこんで、気がつけば、無と化してしまっている。なぜそれが可能だったのか。彼の作品群を組み立てている銀河系規模といっていいほどの大きな観念に触れるたびごとに、私は不思議に思ってきた。

 とても自由な心の持ち主だったという八木英三先生との出会いを例に、右のわけをいくらかは説明してみたい衝動にかられもするけれども、そうしたくたって、八木先生と賢治にまつわる話というのがそれほど多く残つているわけではない。賢治たちを受けもったとき、先生はまだ十九歳であったこと。教室でエクトル・マロの『家なき子』の翻案である『まだ見ぬ親』(五来素川 ごらいそせん)などの童話を読んで聞かせ、賢治が熱心に耳かたむけていたこと。後に賢治が先生に邂逅(かいこう)した際、自分の童話には先生の話が影響しているとして感謝したといわれること。あらまし、その程度の伝聞にすぎないのだ。

 にしても、「わが代は千代に八千代に」とは大した傑作ではないか。堀尾さんの文をはじめて読んだとき、花巻の尋常小学校の木造校舎で、賢治少年らが八木先生の音頭にり、「わあがよおはー」と大口開けてうたっている図を、私はどうしても想像してしまい、まことに感に堪えなかったものである。この文脈からすると、八木先生が警察に引っぱられたというのは中学教師拝命後と思われるから、厳粛なる「君が代」ならぬ「わが代」斉唱は、残念ながら、賢治の小学時代になされたものではなさそうなのである。いや、そもそも斉唱されたことなどあるのかどうか、じつのところ、まったく不分明なのだ。  問題は、しかし、「わが代」斉唱の歴史的事実いかんではない。「君が代は」じゃない、「わが代は千代に八千代に」だといい放つような教師が、大逆事件より前の1905年ごろ、この国の東北地方に実在し、その先生を小学生だった賢治が好いていたということがより重要ではないか。しかも、皇室に対し「不敬ノ行為」をなした者は、3ヵ月以上、5年以下の懲役に処するとされていた神聖天皇制下の時代に、である。

 もうひとつ注目すべきは、「わが代は千代に八千代に」に漂う、どこか不敵なユーモアである。替え歌といっても、たったの一個所、「君が」を「わが」に替えただけで、趣旨を完全に一変させてしまう智恵と茶目っ気が素敵である。「わが」のところに、「人民」とか「民衆」とかをあてるという政治的発想もあって当然だけれど、そのような紋切り型は、こうした場合、洒落にならない。「わが代」が、あくまでも個人的に、「石の巌となりて苔のむすまで」栄えるという、なんの根拠も屈託もない自己賛歌ぶりが、かえって笑えるのである。

 「君が代」の本歌は古今和歌集の巻第七「賀の歌」の冒頭の歌(題しらず・讀人しらず)であるという説が定説になっている。その本歌は「君が代は」ではなく「わがきみは」で始まる。
「わがきみは千世にやちよに さゞれいしのいはほとなりてこけのむすまで」

 私は『真説・古代史』で『「君が代」は九州王朝の賛歌』という記事を書いている。一部を転載しておこう。まず、次の文は古田武彦さんの著書『古代史の未来』の「第二部の5:君が代」の全文である。

 1990年、興味深い発見に遭遇した。「君が代」の成立をめぐる問題である。「君が代」の歌詞は、福岡県の福岡市と前原市、すなわち「博多湾岸とその周辺」の中の地名・神社名・祭神名から成り立っていることが判明したのだ。

A 「千代」―福岡市福岡県庁付近(千代町。海岸部は「千代の松原」)
B 「さざれ石」―前原市細石神社(三雲遺跡の裏)
C 「いわほ」―前原市井原(いわら)遺跡(三雲遺跡とならんで著名)
D 「苔のむすまで」―苔牟須売神(こけむすめのかみ。志摩町、桜谷神社の祭神)

 ここで、若干の注記が必要だ。
a 「八千代」は「千代」の美称。
b 「いわほ」は岩穂。岩が語幹、穂(あるいは秀)は接尾辞。「いわら」は岩羅。早良が沢羅、磯良が磯羅であるのと同じ。「羅」は接尾辞。「そら」「うら」「むら」等。古代日本語の原型のひとつ。
 一方、志賀海神杜(福岡市)の「山ほめ祭」では「君が代」が〝地歌″〝風俗歌″として述べられる(「歌われる」わけではない)。その言詞(禰宜〈ねぎ〉による)には、
「あれはや、あれこそは、我君の、めしの、みふねかや」
という言葉が登場する。「我君」は対岸の「千代」(博多湾岸)からこちら(志賀島)へ渡ってこられる。― そういう設定の台詞の一節である。船が渡るのは博多湾。「我君」とは筑紫の君なのである。
 つまり、「三種の神器」の分布する博多湾岸、弥生の「黄金地帯」に連綿と伝統してきた行事、その中に「君が代」の歌詞があった。その歌詞は、その「黄金地帯」内の地名や神社名や祭神名を〝連ね合わせ″て作られていた。これは偶然だろうか?

 否、必然だ。弥生の「黄金地帯」を、第三の従属国としての「奴(な)国」などではなく、第一の倭国、その中心領域として認めないかぎり、「君が代」は、口には丸暗記で暗唱できても、歴史の心からは遥かに遠いのである。

 最後に私は次のような文で締めくくっている。
『古事記・日本書紀が九州王朝の神話・説話を多く剽窃・改竄・接ぎ木している(「真説古代史」参照)が、現代の天皇の誉め歌も、もとは九州王朝のものだったとは、何たる皮肉!もっともこの場合は、意図的な選択ではなく偶然の結果ではあるが、なんという皮肉だろうか。はからずも、天皇家はいまだに本流・九州王朝の威光から逃れられないでいるということになる。』
永遠の不服従のために(3)

ジャーナリズムの死

 今回から『不服従』を読んでいこう。
 冒頭の記事は「裏切りの季節」と題して、枕に丸山眞男の『自己内対話』から次の一文を引用している。
「知識人の転向は、新聞記者、ジャーナリズムの転向からはじまる。テーマは改憲問題。」

 辺見さんは、この一文の解釈を端緒にして、マスコミのていたらくぶりを摘出している。その批判の核心を紫陽花(アジサイ)に対する辺見さん特有の思いを比喩に用いていて面白くかつ奥深い論説となっている。その全文を転載しよう。

 アジサイは嫌いでないけれども、アジサイを見ていると、いつもなんだか不安になる。幾百もの手まり形の花が咲き群れる景色は、先に跳ねる色のしぶきで、目の玉も脳髄も青く染まってしまいそうなほど、妖しく美しい。だが、本音をいうと、いずれも青ざめた、たくさんの生首たちが一堂に会して、ざわざわとよからぬことを話しているようにも、あれは見える。そんな描写をいつかなにかで読んだからそう思うのか。東京・荒川区の小塚原の刑場跡近くに長く住んだ経験が、そう意識させるのか。わからない。ただ、アジサイを内心どこかで忌み、警戒する年来の癖が、このところ高じている。

 「転向」についての丸山眞男のメモを読んだとき、ふと生首、いやアジサイを思った。とくに、ガクアジサイ。白色だったはずが、いつの間にやら紫色になって、群れて騒いでいる。でも、ガクアジサイたちも、それを見るわれわれも、変色に心づくのは、ごく稀である。やっかいなのは、そのこと。無意識の、はっきりした痛覚もない変身であり変心なのだ。それがいま、この国の湿土のほうぼうで生じつつある。いわば、空前の「裏切りの季節」にわれわれは生きているのではないか。

 歴史が重大な岐路にさしかかると、群れなす変節の先陣を切るのは、いつも新聞なのだと、丸山はいささかの怒りと軽蔑をこめて記したのである。改憲問題とあるから、いまのことかと錯覚しそうだが、丸山逝ってはや五年目の夏だから、さにあらず。丸山眞男は自社55年体制発足の翌年の手帳に、すでにしてこれらの言葉を書きつけていたのだ。

 彼はなにをきっかけにこんなメモを残したのだろうか。以下は私の想像と付会である。

 1956年、鳩山首相が国会で現行憲法への否定的考えを明言し、
「飛行基地を粉砕しなければわが国の防衛ができないという場合には、その基地を侵略してもよい(後に「侵略」という言葉だけを訂正)」
などとぶちあげて審議がストップした。自民党の「解釈改憲」戦術の嚆矢(こうし)ともいわれるとんでもない暴言事件だが、新聞各紙の論調は、むろん、いまよりはよほど政府に対して厳しいものであった。丸山はそれでも、でたらめな解釈改憲を許す一部新聞論調に、背理と「転向」のにおいを嗅いだということなのかもしれない。

 新聞の「転向」に関するこのメモの前に、丸山は米国の哲学者・詩人ジョージ・サンタヤーナの言葉を、英文で同じ手帳に記している。訳せば、
「過去に学ばぬ者は、それ(過ち)を繰り返すよう運命づけられる」。
 過去とは、いわずもがな、戦前・戦中のことである。ジャーナリズムとは過去に学ばないものだ、という丸山の嘆息が聞こえてくる。2001年のジャーナリズムは、しかし、もっと学んでいない、と私は確信する。すなわち、このアフォリズムのとおりに、重大な過ちを繰り返しつつある。権力をチェックするのでなく、権力を翼賛する古くて新しい過ちを。解釈改憲も改憲そのものの動きも、いまや56年当時とは比べものにならないくらいに拡大し、加速もしている。ジャーナリズムの抵抗の水位は、だが、戦後例を見ないほど低い。

 にしても、記者風情がまがりなりにも「知識人」の範躊に入れられ、赫々たる学績の主によって、「転向」などという奥深い思想の言葉で難じてもらえたのだから、50年代の記者はまだ幸せみたいなものではあった。基軸になる思想(土性骨でもいい)がもともとない者たちには、「転向」などしたくてもできないのである。それこそが、いまという不幸な時代のマスメディアのありようであろう。「転向」も「非転向」も廉恥もなく、裏切りもまた自他ともに感知されない。哀れといえば哀れ、惨めといえば、人としてこれほど惨めなことはない。激突などさらになく、論点も徐々に溶解し、無と化してしまう。表面、穏やかなこのなりゆきこそ、新しい時代のファシズムの特徴のひとつだと私は思う。

 アジサイ話に戻れば、変色を常とするのはなにもガクアジサイにかぎるわけではなく、土壌の酸性度によっては他の種類でも花色が変化するのだそうだ。「酸性度が高くなると鉄およびアルミニウムが多く溶け出し、ことにアルミニウムが吸収されると花色は青色が強くなる。逆の場合は桃色が強く出る」(『世界有用植物事典』)。ああそうか、変色のわけをアジサイ本体に求めるのでなく、土質のせいにすることもできるのだ。

 世間の多数が小泉内閣に歓呼の声をあげている。あからさまな弱者切り捨て政策に、己が排除されようとしているにもかかわらず、どう勘ちがいしてか、決して強者ではない層までもが賛成している。共産党支持層の七割もが小泉内閣支持という、絶句するほかない調査結果もでた。ひとつの芝居が、もはや喜劇の域を越えて悲劇に変じつつある。メディアは、ここは敢えて花色を変えず、時代の病理を執拗に摘出すべきなのだが、反対に、時代とどこまでも淫らなチークダンスを踊るばかりなのである。民衆意識という社会的土壌の酸性度が異常に高くなったことにたやすく応じて、そこに咲き狂うアジサイならぬマスメディアの徒花(あだばな)が、ためらいもなく、いみじき変色をしてしまったというわけだ。

 きょうびのこの国は、けだし、満目(まんもく)不気味な背理の風景ばかりではある。マスコミだけではない。政党が党員を、労働組合が組合員を、宗教団体が宗徒を、教員が生徒を、司法が憲法を、弁護士が被告人を、言葉が現実を、歴史学者が歴史を、哲学者が自身を、それと意識せずに裏切りつづけ、かと思えば、関係が転倒し、逆に裏切られつづけてもいる。

 50年代と変わらないのは、たぶん、メディアの寵児たちの、妙に自信たっぶりで不遜な口吻(こうふん)であろう。そして、いまも昔も、時代と和解的な評論家や学者たちは、みずからの変節にまったく臆するということがない。アジサイの花言葉も、そういえば、「高慢」であった。問題は、裏切りの花たちの花期だ。それが果てたなら、いったいどんな風景が立ち上がるのだろうか。

 「ジャーナリズムの死」を推し進めているのは、いま流行語になっている言葉で言えば、支配階級への忖度である。もう一つ、右翼団体による暴力を伴った脅しも指摘しておきたい。私は《『羽仁五郎の大予言』を読む》で連載した「ジャーナリズムの死」の(7)から~(13)で「戦後の言論弾圧」を取り上げている。『ジャーナリズムの死(7):戦後の言論弾圧(1)』

の冒頭部分を転載しておこう。

 大日本帝国時代の言論弾圧の悪法の親玉「治安維持法」は敗戦直後の1945年10月15日にGHQの命令により廃止された。また同時に、その法律による弾圧先鋒をになった冷酷な執行者「特別高等警察」も解散を命じられた。さらに、新聞・書籍に対する弾圧法(新聞紙法・出版法)も1949年5月24年に廃止された。

 では、敗戦後の日本国では言論は自由になったのか。否否、大日本帝国の弾圧法はなくなったが、GHQによる弾圧が行われている。当初は占領政策の批判や軍国主義的な発言に対する検閲,統制を実施していたが、冷戦が本格的になってきた1950年以降は共産主義に対する弾圧(レッドパージ)が徹底された。レッドパージは7月28日には新聞・通信・放送にまで及んでいる。そして、GHQによる事前検閲や事後検閲は6年8ヵ月にわたる占領期間を通して行われた。

 では、サンフランシスコ講和条約が発効(1952年4月28日)し、主権が回復した以降の新生日本における言論の自由はどのようであっただろうか。新聞法や出版法のような政治権力によるあからさまな弾圧法は作られなかったが、政治権力による脅しや懐柔策は時に応じて行使され続けてきた。この手の言論弾圧は現在のアベコベ政権や自民党に限ったことではない。もう一つ、右翼による暴力をともなった脅しも挙げておくべきだろう。右翼の脅しは自民党政権の言論弾圧の先鋒役を果たしている。その結果、一部のジャーナリズムは「政治的中立」というまやかしの大義名分を身にまとって、萎縮し続けてきた。

永遠の不服従のために(2)

1999年問題

 辺見さんが前回で紹介したような激しい本を書き始めたきっかけは1999年に急変した政治情勢にある。『どのような時代』の対論は「1999年問題の重大性」を論じることから始まっている。辺見さんは「1999年問題の重大性」について次のように発言している

 じつは僕、しきりに「1999年問題」と言ってるんですが、これはある意味で戦術的な言い方です。99年の諸問題は、もちろん、ここに至る長いプロセスがあって、突然に降ってわいてきたわけではないですから、結果だけを論じることはできないのです。ともあれ、僕としては99年問題の重大性を最大限強調したい。年表で言えば、ここはいちばん太いゴチックにしておかないとまずい。それも私としての責任であるわけです。ほかの人たち、表現者、マスコミ、政治家、1999年の夏に立ち会ったすべての人たちの責任を問いたい気持ちもないではないのですが、僕はさしあたり、私個人の身体的年表のなかで私の責任を考えようと思ってるんです。象徴的には、この年の第145通常国会で成立した「周辺事態法」、「盗聴法」、「国旗・国歌法」、「改正住民基本台帳法」を、私は私の内面との関係でかつてなく重大視している。これらがこの国の短、中期的未来に向けた法制的かつ思想的祖型になることは、私の表現行為にとって耐えがたい圧迫なのです。つまり、これらの国家主義的浸透圧を、私の身体はとても不快に感じている。

 1999年問題については過去にも取り上げたことを思い出した。調べたら、2007年1月12日の「今日の話題」『戦後民主主義は決壊した。』だった。そこでは、『抵抗論』から「1999年の重大性」を具体的により詳しく語っているくだりを引用した。再掲載しておこう。

 まず、1999年夏の第145通常国会で、ガイドライン関連法案、いわゆる「周辺事態法」ができました。
 それから「盗聴法」というのも通ったわけです。「盗聴法」というのは「通信傍受法」ともいわれましたけれども、これは憲法第21条第2項の「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」に明白に違反するわけで、とんでもない法律だと私は思っています。
 それから「国旗・国歌法」というものもできました。これもまた、憲法第19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」に抵触するものではないかと思っています。99年のときには、まだ海のものとも山のものともわからないという高を括った気分も一般にありましたが、いまや大変強圧的法律として定着しつつある。この法律が、とりわけ教育界にもたらした悪影響は計り知れません。
 さらに、「改定住民基本台帳法」というものも通ってしまいました。この法律が施行され、皆さんのところにも、人間を10桁の番号で表す、いわゆる住民票コードというものが送られてきているはずです。

 また、「国会法」を改正して、「憲法調査会設置法」というものもできました。この法律は、2000年の通常国会から施行され、早くもこの間、「答申」のようなものが提出され、過半数の議員が「憲法」改定を考えているということがはっきりしてきました。これにともなって、戦後の日本ではかつてなかったことですが、「有事法制」というものをなにはばからずいえる雰囲気が、99年ころからでてきました。
 そして、これは95年に起こったオウムの地下鉄サリン事件がきっかけになっているのですが、「団体規制法」(「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」)というものも、同じく99年に成立したわけです。他の事件やたくさんの法案がありましたから見過ごされていますけれども、これも大変な法律です。つまり、捜査令状無しに、宗教団体その他に踏みこむことができる。しかも、警察ではなくて、公安調査庁にその権限があるという、いわば何でもできるという法律だと思います。これを拡大し、援用していくとどういうことになるのか、考えるだけでぞっとする法律です。

 こういう大きな流れを見て、99年のその時点で、私は戦後民主主義という堤防が完全に決壊し、反動の濁流が押し寄せてきている、これからはもっとひどくなるぞといろいろなところで申し上げてきました。当時の私の発言は悲観的過ぎるとかオーバーだとか、ずいぶん反発もされたわけですが、いまの事態は、皆さんよくご存知のとおり、99年の第145通常国会のころどころの騒ぎではないですね。いったん決壊した堤防は、土嚢を積み上げることすらできなくて、もう濁流に身をまかせるしかないような状態を生みだしてしまった。私の予言はまったく不幸にして当たったのです。

 1999年の「反動の濁流」は、田中真紀子に凡人と揶揄された小渕恵三によって始められた。そして今、恩師の加藤節(成蹊大学名誉教授)から「安倍晋三くんは無知で無恥なずるい政治家です」と喝破された「アベコベ軽薄姑息うそつきカルト」首相がどす黒く汚れ切った「反動の濁流」を欲しいままに垂れ流している。念のため、その濁流が流した悪政として、まず第1次政権の時の教育基本法改悪が挙げられるが、現在では枚挙にいとまがない。取りこぼしがあるかもしれないが列挙してみる。全て1999年夏に成立した諸法案が源流となっていることがよく分かる。
集団的自衛権
テロ資金提供処罰法
非正規推進
生活保護・社会保障削減
原発推進
日本版NSC(国家安全保障会議)
特定秘密保護法
マイナンバーの導入
武器輸出三原則撤廃
消費増税
通信傍受法改悪
70兆円を越えるバラマキ外交
高江・辺野古での新基地建設強行

 そして更に次の悪法の成立を目論んでいる。
種子法廃止法
水道民営化法
家庭教育支援法
親子断絶防止法
共謀罪法
医療ビッグデータ法(本人の合意なくビッグデーター化)
放射線防護基準緩和障害防止法改悪

 さらに、戦前の教育を復活させようと、時代錯誤の教育破壊を目論んでいる。
体育科目に銃剣道導入
道徳科目に教育勅語の復活

 辺見さんは2004年の段階で「もう濁流に身をまかせるしかないような状態を生みだしてしまった。」と強い悔悟の念を表しているが、今の状態をなんと言い表したらよいのだろうか。そして、この状況を克服する道はあるのかを考えると絶望的な気持ちが沸き上がってくる。しかし、その困難の道を求めて行こうと思う。そのためには「反動の濁流」の底に何があるのか、より深く見極める必要がある。次回から「反動の濁流」の底を辺見さんの著作を頼りに見ていくことにする。
永遠の不服従のために(1)

ご挨拶

 前回の更新から1週間が過ぎてしまった。新しく連載を始めることにします。まずはご挨拶。

 私がブログ「自由のための不定期便」を始めたのは2004年8月15日だった。それから約12年7ヵ月が経過した。私が敬服している人たちの言説を紹介するだけの受売りブログだけれど、よく続いたなあ、と自ら感心している。これもブログを読んで下さる人たちがいることが励みになっているからだ。今月中にはアクセス数は延べ87万を超えそうだし、拍手数はこの3月に7200を越えた。改めてお礼を申し上げます。ありがとうございます。

 さて、私が敬服している人たちで、はじめの頃にお世話になった方に辺見庸さんがいる。2004年8月23日の記事『教育とは何か』の「孔だらけにしてしまえ」を、『私たちはどのような時代に生きているのか』(辺見庸×高橋哲哉)の中の補足記事<新しい「ペン部隊」について>の最後の節を引用して始めている。そのとき私は
「辺見氏は、絶望的な状況の中で真正面から権力と向き合い、孤立無援の闘いを闘っている数少ないジャーナリストの一人である。」
と紹介した。ここで辺見さんの論説についてもう一つ付け加えたいことがある。辺見さんは時代の先を見据えて、先々の時代状況を的確に捉えている。私にはまるで予言者のように思えてくる。今、改めて辺見さんの本を読み直してみようと思い立った。

 私の蔵書の中に辺見さんの本は『私たちはどのような時代に生きているのか』(初版2000年2月10日 角川書店刊)の他に5冊(いずれも毎日新聞社刊)ある。その中に「抵抗三部作」と呼ばれているエッセイ集がある。
『永遠の不服従のために』(初版2002年10月10日)
『いま、抗暴のときに』(初版2003年5月15日)
『抵抗論 国家からの自由へ』(初版2004年3月30日)
 他の二冊は
自分自身への 審問』(初版2006年3月10日)
今ここにあることの 恥』(初版2006年7月30日)
で、脳出血で倒られた後の発刊である。
(以後、それぞれを『どのような時代』・『不服従』・『抗暴』・『抵抗』・『恥』と略記する。

 これから『不服従』を読みながら、必要に応じて他の4冊から関連記事で補充していくことにする(もしかすると『不服従』だけで終わってしまうかもしれませんが)。それで、今回から始める連載のカデゴリー名は「永遠の不服従のために」とすることにした。

 以上、まずはご挨拶、でした。