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359 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(12)
「熊襲」とはどこか(3)
2005年8月11日(木)


 わたしは「戦死」の方だ、と思う。この点、あるいはある人々には、論証などなくとも、 直観の力で賛成していただけるかもしれぬ。しかし今必要なのは、論証だ。煩をいとわず、 吟味してみよう。

 古田さんは他の説話の例も援用して「二つのフィルター」越しの論証を展開しているが、 その部分は割愛して先に進む。
 仲哀が賊の矢に当って戦死したとすると、橿日宮の地で、仲哀は賊と「接戦」していたことと なる。とすれば、南九州の熊襲とどうやって接戦できるのであろう。橿日宮と南九州との間の戦 場名など一切出現しないのであるから。とすると、「熊襲=南九州」という先入観なしに、端的 にこの説話内容自身を読めば、この熊襲は〝北九州の存在″に見えてくるだろう。もっと切りつ めていえば、博多湾岸(太宰府、基山付近をふくむ)を本拠とする熊襲に対し、近畿から襲来し た仲哀軍が、博多の東の側面に当る橿日宮領域まで接近し、そこで「接戦」した。そしてその接 近戦の中で、指揮者仲哀は戦死した。――このように考えると、この説話はまことに 現実的(リアル)な、緊迫力を帯びてくるのではあるまいか。

 熊襲=南九州ではつじつまの合わないことが、仲衷・神功の説話の中にもう一つある。
 『書紀』本文によると、仲哀の死の前、神功皇后が神がかりしたとき、神はつぎのようにいった という。

 〝熊襲討伐がうまくいかないといって心配することはない。この国以上の宝ある国が海 の向こうにある。新羅の国だ。自分(神がかりした神)をよく祀ったら、平和的にその国は従うだ ろう。そしてまた、熊襲も自然に従うだろう。″

 いいかえれば、熊襲討伐がうまくいかないのは、新羅がその背後にあるからだ、といわんばかりの 口吻である。少なくとも全く無関係の二国ではないように見える。
 では、〝新羅と熊襲を結ぶ″具体的な関係はなんだろうか。たとえば、軍需や物資の交流があ ったのだろうか。そしてなによりも、そのさいの地理的関係はなんだろう。
 このさい、かりに熊襲を南九州の存在とした場合を考えてみよう。はるか九州の西方海上を通 じて連絡しあっていたのだろうか。それではあまりにも、迂遠な関係であり、「熊襲討伐難渋」 の背景とはなりにくい。
 それに対して、この熊襲を博多湾岸に本拠をもつ存在として考えてみよう。

狗邪(こや)韓国(釜山近辺) ― 対海国(対馬) ― 一大国(壱岐) ― 末盧(まつろ)国(唐津)  ― 伊都(いと)国(糸島郡)

を結ぶ、古来の幹線道路(『三国志』魏志倭人伝)があって、博多の西側に通じている。 だから、いくら仲哀軍が東から切迫して攻撃しても、この西のルートの確保されている限り、熊 襲は容易に陥らないのである。こうしてみると、〝熊襲討伐の難渋″から、その背後の新羅の存 在へと目をむける、いわば必然性があるのではあるまいか。

 このようにみてくると、旧来の〝熊襲=南九州″説に立った場合、この説話の全体はなにかピ ントがボケている。ちょうどわたしたち素人が時々やらかすピンボケの写真でも見せられている ように。ところが、いったん〝熊襲=北九州(博多)″という目から見た瞬間、説話全体はにわ かに生動し、各部分は必然の脈縛をうちはじめる。 ― それをわたしは疑うことができない。

360 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(13)
「熊襲」とはどこか(4)
2005年8月12日(金)


 熊襲三説話のうちの第二の説話「日本武尊の熊襲暗殺説話」の論考に 進む。
 これは、小碓(おうす)命が熊襲国へ行き、少女に変装してその国の首長の 酒宴にもぐりこんだ。そして油断に乗じて熊襲の首長兄弟を刺殺した、 という話だ。この説話には「地名」は出現しない。 (『書紀』の場合、熊襲の首長は「川上梟帥(たける)」と呼ばれているが、 この「川上」についてはのちにのべる)。
 この説話では注目すべき点として次の二点を挙げている。

第一
 熊曾建〈『古事記』〉が死のまぎわに、暗殺者である小碓命に「倭建命 (日本武尊)」という名を贈ったという点。
第二
 『古事記』によると、熊襲国の統治形態が兄弟統治であったという点。  第二点については古代史の問題を解く大きな鍵の一つとして、吉本隆明 さんも注目していた。(第335回・7月18日)

 さて、第一の点の何が問題なのか。このくだりの「記・紀」の記事は次の ようになっている。

①熊曾建白す、「西の方に吾二人を除き、建く強き人無し。然るに大倭国に 吾二人に益して建き男坐しけり。是を以て吾、御名を献(たてまつ)らむ。 今より後は、応(まさ)に倭建御子と称すべし」と。是の事白し訖(おわ) れば、即ち熟?(ぼぞち)の如く振り析(た) ちて殺すなり。〈景行記〉

②即ち啓(もう)して曰く、「今より以後、皇子を号して応に日本武(やま とたける)皇子と称すべし」と。言ひ訖(おわ)りて及ち胸を通して殺しき。 〈景行紀〉

 暗殺されたものが暗殺者に称号を献上したという行為がもんだいなのだ。 「記・紀」には他に例がない。当然学者たちもこの点に注目した。しかし、 この問題についても「定説」は「後代の大和朝廷の官人の造作」であった。

 『記・紀』において名前が「A→B」と渡される場合は、「上位者→下位者」 という一方向の例にみちている。その中で、なぜ、後代の官人がこれに反する 話を造作したのか。それが問題である。七、八世紀段階で〝地方豪族が天皇に 名前を献上する″といった慣例ができていた様子もないから、これは変だ。 〝日本武尊の方が相手(またはその子)に熊襲建という名前を与え、以後、 彼等はよく服従した″といった話なら、いい。だが、これは話が逆なのである。 この点、「後代造作」説には、致命的な矛盾があるのではないだろうか。

 では古田さんはこの問題をどう読み解いているか。
(一)
 まず、〝名前の献上″というときのの「献上」という言葉。先にあげた例 (前回に掲載した)で、中国の天子から「朝貢」をもってきた、と書かれて いた。これと同じく、天皇家の方が〝得た″ものは、『記・紀』ではすべて 「献上」なのである。だから、このような大義名分上のイデオロギー用語 を根拠にして、両者間の実際の上・下関係を論ずることはできない。

(二)
 だから、要は「熊曾建→小碓命」という方向で、名前(日本武尊)が贈られ たのである。

 (三)
 このことは、『記・紀』全体の授号の定式(上位者→下位者)から見ると、 この説話は〝熊曾建(川上梟帥)が上位者であり、小碓命(日本武尊)が下 位者である″という上・下関係を背景にして成立していることとなる。

 これは、従来千有余年の天皇家至上主義の「常識」から見れば、まことに 驚倒すべき〝非常識〟であろう。しかし、〝古代説話は古代通念の中で理解 する″――これを、わたしは自明の真理と考える。そしてこの場合の「古代 通念」とは、『記・紀』の示すところ、〝名前は上位者から下位者に与える″ という不動の命題にあった。
 『記・紀』だけではない。中国の天子にとって、夷蛮の王に「称号を与え る」ことは、その重要な権限だった。このことは、「漢の委奴(いど)の国 王」という志賀島の金印や「親魏倭王」という卑弥呼への称号授与の例に見 る通りだ。そして他の何人にも天子はこの権限を許さなかった。『三国志』 によると、遼東の公孫淵がみずから「百官を置い」たとき、魏の明帝は断乎、 これを討伐したのである。
 これと同じ例は『記・紀』自身の中にさえ見出される。菟狭の川上にいた 「鼻垂(はなたらし)」は、「妄(みだ)りに名号を仮した(勝手に名前を名 乗り、授けた)」として討伐されたのである(景行紀12年項。この点、のちに 再びのべる)。

 このような「古代権力社会における厳格な授号の論理」から見ると、わたし は「日本武尊」の名号問題も、この論理にもとづいて考えるほかはない。

361 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(14)
「熊襲」とはどこか(5)
2005年8月13日(土)


 「日本武尊の熊襲暗殺説話」の第二の問題、『古事記』によると「熊襲国の統治形態が兄弟統治であった」という点 についての論考を読む。

(天皇)「西の方に熊曾建二人有り……」……爾に熊曾建兄弟二人、其の嬢子を見感でて……。

 前回の暗殺場面でも熊曾建は「吾二人」と言っている。

 古田さんはこの説話の内容を、『盗まれた神話』の前著『失われた九州王朝』で明らかにしたという九州王朝の史実と 比べている。(『失われた九州王朝』を入手できず、まだ読んでいない。とりあえず「九州王朝の史実」の論証を正し いとして読み続ける。)
 まず、九州王朝は、中国の天子に対して「臣」と称しながら、国内に対しては「仮授の権(称号や名前を授ける権限)」 を行使していたことを指摘している。例として、『宋書』倭国伝の倭王武の上表文の一説をあげている。(「倭王武」 はヤマト王権の王ではなく、九州王朝の大王である。(「第348回・8月1日」参照)

窃(ひそ)かに自ら開府儀同三司を仮し、其の余は咸(み)な仮授(ヽヽ)して、以て忠節 を勧む。

 つまり、熊曾建が小碓命に「ヤマトタケル」という称号を贈ったとして、熊曾建を「仮授の権」の所持者として 描いていることとよく相応しているという。
 つぎに兄弟統治の件についても、九州王朝は「兄弟執政」をその政治形態の一つの特徴としていたという。 また、卑弥呼が「男弟」と共に統治していたことは周知の事実だ。(卑弥呼の「邪馬() 国(やまゐ)」は現在の博多あたりにあった。(古田さんの著書『「邪馬台国」はなかった』参照。この本は読みました。 この本の論証も見事なものです。)次のような例文をあげている。

(1)名づけて卑弥呼と曰う。……男弟有り、佐(たす)けて国を治む。〈『三国志』魏志倭人伝)
(2)(倭国の使者言う)「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、 伽扶(かふ)して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と」〈『隋書』倭国伝〉
(3)戊寅(558年)、兄弟と改元す。〈『海東諸国記』〉

 (1)は卑弥呼の「姉弟統治」として著名の一節である。
 (2)は九州王朝七世紀前半、「日出ずる処の天子」の自称で有名な多利思北孤(タリシホコ)の使 者の言である。兄は未明の宗教的祭祀権、弟が昼の行政権をそれぞれ分担しているさまが描かれ ている。
 (3)は、前著『失われた九州王朝』で明らかにした「九州年号」の一つである。

 このような「兄弟執政」の点もまた、九州王朝は熊襲説話の所伝とよく一致しているのである。

 以上によって、
(一)地理的位置(北九州博多湾岸)
(二)大義名分(授号権)
(三)統治形態(兄弟執政)
の三点とも、中国史書の中から分析された史実としての九州王朝と、『記・紀』の所伝の熊襲の性格と、両者 一致していることがハッキリした。

 なお、問題点をさらに立ち入って追跡しよう。
 この説話が「日本武尊の熊襲征伐」と呼ばれることがしばしばある。わたしのように戦前に小 学校を出た者には、ことに教科書で〝おなじみ″の表現だ。しかし、これは「神功皇后の三韓征 伐」と同じく、説話内容の事実からはなれた、いかにも軍国主義好みの〝誇大宣伝″だ。天皇家 の皇后や皇子に、やたらといさましい「征伐」を行なわせたいのだ。
 ことにこの日本武尊の場合、単独でのりこんで「刺殺」したのであるから、〝遠征軍を派遣し て攻略する″意の「征伐」とは、およそかけはなれている。要するに「熊襲の首長暗殺譚」なの である。

 さて、「暗殺」のさいの「公理」はつぎのようだ。
 AがBを「暗殺」するとは、第一にAの実力はBより劣であり、第二に、したがってAは通常 の方法(大軍派遣)による攻撃を、強力なるBに対してなしえない。そういうときに行なわれる 行為ではないだろうか。つまり「征伐」と「暗殺」とは、その意味では反対語なのである。
 いいかえれば、この段階では、天皇家は実力においていまだ熊襲に及ばなかったのである。つ ぎの段階の仲哀でさえ、遠征軍を主導したけれども、勝つことができず、みずから「敗死」して しまったのである。すなわち、筑紫の九州王朝は近畿の天皇家に対して、大義名分をもつととも に、軍事力においてもまた、まさっていたのである。
 さらに、暗殺に関する第二の「公理」がある。〝暗殺によって大義名分は移動しない″。これを わたしは自明の真理だと考える。すなわち、

(一)
 この暗殺によって大義名分は近畿天皇家(近畿の強大豪族)に移動しはしなかった。つまり、依然として、 この後も、客観的には大義名分は熊襲の側にとどまっていた。
(二)
 ただ、この伝承は〝この事件によって大義名分は天皇家側に移ったのだ″と、天皇家側が主観的に主張しようと している説話なのである。そこに、瀕死の熊曾建に苦しい「断末魔の授号」を行なわせねばならなかった、この 説話の苦肉の秘密がある。

362 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(15)
「熊襲」とはどこか(6)
2005年8月14日(日)


 今回から、熊襲説話の中では一番年代の古い「景行天皇の熊襲大遠征」の解読だ。
 この説話は、これまでの二つの熊襲説話とは全くちがった性格が二つある。

第一
 「景行天皇の熊襲大遠征」は『書紀』にだけあって、『古事記』には全くない。
第二
 「仲衷・神功の熊襲遠征説話」ではただ一つであり、「日本武尊の熊襲暗殺説話」では皆無 であった地名が「景行天皇の熊襲大遠征」ではやたらと出てくる。
 発進地の周芳(すおう)の娑麼(さば)(山口県防府市佐波付近)をはじめ、九州内部約20 個の地名が進路順に次々とハッキリ書いてある(下の地図参照)。

景行紀

 この点について古田さんは次のような戸惑いを述懐している。

 後代の研究者であるわたしたちにとって大変ありがたい話なのだが、実はそのことが変なので ある。なぜなら、時代的にあとに出てくる日本武尊(景行天皇の代)や仲哀・神功の方に地名が たった一つしかあらわれないのに、より古い景行の方はこんなに詳細をきわめているとは! 率 直にいえば、日本武尊や仲哀・神功の方はたしかに古代説話らしい無邪気な大らかさ(粗放さ) をもっているのに、こちらの方はこれではまるで逐一の〝遠征記録〟だ。少なくとも伝承の素朴 と記録の精緻と、両者はすっかり性格がちがうのである。

 以上の二点の特徴に加えて、古田さんは「景行説話」の内容上の問題点を四点あげている。

その一 「筑紫の空白」問題。
 景行の遠征路ほぼ九州の全域にわたっているのに筑紫だけはほとんど全く立ち入っていない。 それも、筑紫南辺はくりかえし往復していながら、肝心の筑紫中心部へは入っていない。『「こ の奇怪な「筑紫の空白」は一体どうしたことだろう。』

その二 「浮羽ー日向」間の大飛躍問題。
 『「娑麼――浮羽」間は、順を追って進む地名が約20も列記されている。ところが、最終点の浮 羽に来て突如、「天皇、日向より至る」〈景行紀19年項〉という文面に転換している。「浮羽 - 日向」間は距離も相当遠い上、その間は阿蘇山地にさえぎられている。そ れなのに、途中のルートや経過地を全く書かず、いきなり「日向より」では、あまりにも唐突だ。 これまでの詳密な地名列記と、鋭い断層がありすぎるのである。これも奇怪というほかはない。』

その三 「討伐と巡行」問題。
 この説話の遠征路は前半(討伐)と後半(巡行)に分かれている。
[討伐]=娑麼(山口県)→襲の国(鹿児島県)→日向(宮崎県)
[巡行]=日向→葦北(あしきた)(水俣市付近)→高来県(たかくのあがた) (島原半島)→浮羽(福岡県)
 『つまり、前半の九州東・南岸部は「討伐」、後半の九州西岸部は「巡行」という形である。 これは変だ。なぜなら、もし近畿の都を原点として見た場合、この逆ならば自然であろう。より 近い地域が巡行、より遠い辺境が討伐となるべきだからだ。』

その四 「日向、非聖地」問題。
 神武東征の出立地、つまり「ヤマト王権」発祥の地である日向へ来ても、景行は何の感慨も持 たない。『一度もそれらしい言葉をのべないのだ。シーザーの名句「来た、見た、そして勝 った!」ではないが、〝わたしは今、わが祖先の発進の聖地に来た!″ こういったたぐいの 感激の辞が一行くらいあってもいいではないか。ところが、一片すらない。』

 これらの疑問点については、とうぜん、従来の論者たちもふれている。その理論と古田さんの 批判は次のようである。
 まず「その一」について。

 従来の論者も、この間題に時としてふれている。そしてつぎのようにいう。〝筑紫はもはや天 皇家にとっては安定した勢力範囲となっていたので、今回の討伐の対象ではなかったからだろ う″と。しかし、この理由づけは、よく考えると一層おかしい。なぜなら、近畿からの遠路の征 討軍だ。筑紫がそんなに安定した領地だったのなら、まずここに立ち寄り、遠路の疲れをいやし、 補給をすませ、ここを根拠地として、九州の東・南部への征討に出発するのが当然ではないか。 また、もしかりに先を急いで筑紫に立ちよらず、直ちに九州東・南部で征討戦を行なった、とし よう。それなら、それが完了したあとは、その〝安定した領域″たる筑紫へ堂々と凱旋して、当 地の大歓迎をうけるべきではあるまいか。それもせず、目と鼻の先の「浮羽(うきは)」から、 そそくさと日向へひきかえすとは! 不自然きわまりない。こう考えると、従来の論者の説明は、 率直にいって〝説明になっていない″のではあるまいか。
 しかも、大切なのはつぎの点だ。すなわち、このような大矛盾は、例の津田学説――戦後史学 の得意とする後代造作説をもち出してみても、なんの解決にもならない、という一点である。 〝7、8世紀の大和朝廷の史官など、こんな矛盾にも気づかぬ、そんな程度の頭のやからだ″ ――もし、こんな〝軽侮″の概念をもちこんで解決するとしたら、それは史料解読上、フェアで はない。

 次に「その二」について。

 津田左右吉も、この点を疑い、「あの物語を書きとめた人の頭には、さういふことが思ひ浮ば なかったものと見える」(『古事記及び日本書紀の新研究』514ページ)といっているが、 『記・紀』の中でもっとも印象的な大叙述「神武東征」の発進の地について、「思い浮ばなかった ものと見える」という、安易な消し方で果たしてすむことだろうか。ここには重大な謎がいまだ に生きているのである。
 また、この景行紀に日向聖地記載のないことから、神武東征説話の方が新しい成立である証拠 だ、とする方法もある。つまり、古く景行説話が成立した時点には、まだ神武東征説話は成立し ていなかったのだ、とするのである。この見地は、たしかに深い示唆をふくむ(この点、以下の論 証で明らかにされる)。
 しかし今、〝では、7、8世紀の『記・紀』の作者はなぜ、そこに「造作」の手をのばし、前 後つじつまのあうようにしなかったのか?″と聞かれれば、たちまち窮しよう。またもや津田流 の〝思い浮ばなかった″説に逃避するほかはない。この点、7、8世紀の「後代造作説」の論者 にとって〝自縄自縛の謎″となるのである(従来、日向の地とされてきた「天孫降臨説話」から も、同じ問題がおきよう)。
 それなのに、津田の論断に安住して、〝すべて解決ずみ″のように見なしてしまい、これを再 び疑いかえすことがないとしたら、それは探究心の大いなる怠慢というほかないのではあるまい か。

 古代史学会の「権威」・「定説」がこんなに稚拙な論理で組み立てられていたとは! 学閥という轍に足を取られた学者たちの情けないことこの上ない。
363 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(16)
「熊襲」とはどこか(7)
2005年8月15日(月)


 以上の謎を解く鍵を古田さんは「景行紀」の次の一節の中の「巡狩」という 概念に見出した。

十八年春三月に、天皇、将(まさ)に京に向ひ、以て筑紫国を巡狩せんとす。

 「巡狩」とは「天子が辺境を巡行すること」であり、中国の史書に頻出する 言葉だという。(岩波の日本古典文学大系「日本書紀」では「巡狩す」を「めぐりみそな はす」と読んでいる。)

 さて、導きの糸はこうだ。この「京」は、近畿の都のことだとすると、近畿 を原点として、「筑紫国」を「巡狩」する、というのなら、当然筑紫国自体を 「辺境」と見なしていることとなる。とすると、筑後から筑前にむけて、つま り筑紫国を南北に巡るのでなければ、この語の内容にふさわしくない。
 ところが、巡行の事実は、熊本県から島原半島へ行き、このあと「筑紫の 南辺」(福岡県の南辺)を往復しているのである。「筑紫の南辺」だけをめぐ ることが、なぜ「筑紫国巡狩」となるのだろうか。変だ。
 この問いを正確に見つめて、論理的におしつめてゆくと、その帰着は意外な 地点にゆきつく。――これは、筑紫の中央部(たとえば太宰府近辺)を原点 として、筑紫国の辺境(ヽヽヽヽヽヽ)たる「南辺」 を「巡狩」しているのではないか、と。そう考えると、「巡狩」の語の用法に まさにピッタリだ。すなわち、この場合「京」とは、筑紫の中央部(ヽヽヽヽヽヽ) にあるのである(この文は、率直にいって、「京」に向かう、その行路の途中 に「筑紫国南辺巡狩」がある、そういった感じだ)。

 以上の「巡狩」をめぐる考察から、いままでにあげられてきた問題点・疑問点は 次々と解きほぐされてくる。
 第一、「筑紫の空白」は当然だ。この謎の遠征軍の、真の出発地は「筑紫」 そのものだったのだから。筑紫を「本国」とする遠征軍なのだ。筑紫は現在 の福岡県が示しているように奇妙な形をしており、その東端は関門海峡にと どいている。当然、この海峡をおさえるため、両岸を占拠していたであろう。 とすると、その東岸(山口県西部)に「周芳の娑麼」という、この遠征軍発 進地があったこととなるのである。

 第二に、九州東・南岸は「討伐」、九州西岸は「巡狩」という形態もなんら 不思議ではない。この筑紫国は、熊本県をすでに「安定した領域」としており、 未征服地たる東・南岸を討伐するのが、この遠征軍の目的なのである。

 第三に、「浮羽」がこの大遠征の終着点になっているのも当然である。 「辺境巡狩」はここで目的を達した。あとは辺境でなく、「京」である筑紫 中央部(たとえば太宰府近辺)に入れば、それでいいのだから。すべてきわ めて自然な巡路だ。いきなり阿蘇山地群を大飛躍して「日向」から再出発す る必要などいささかもない。

 第四に、「地名の詳述」という点。日本武尊命や仲哀天皇・神功皇后の説話 は明らかに近畿天皇家を原点とする説話だ。出現地名も乏しい。ところが、そ れと全く異質の地名群詳述。それは異質の系列の説話記録であることを物語る。 つまり、これは筑紫を原点とする、筑紫の王者の九州東・南岸平定譚だ。 だから、九州内部地名にきわめて詳しいのも当然なのである。

 さらに第五に、以上の〝景行天皇の熊襲遠征説話は本来近畿天皇家の説話で ないものを、あとからはめこんだものだ″という命題には、最大の証拠がある。 それは、この説話が『古事記』に全く出現しない、という、その一事である。  考えてみよう。この説話は『記・紀』の中で全く異色の存在だ。なぜなら 「神武東征」をのぞけば、近畿なる天皇家にとって、天皇自身による、最初に して最大の遠征譚、しかも唯一の完全勝利譚だ。先にのべたように、日本武尊 の場合は「暗殺譚」にすぎない。仲哀遠征の場合は「天皇敗死譚」だ。これら に比べて景行遠征の場合は文句のつけようがない〝輝かしき大武功〟だ。
 それなのに、なぜ『古事記』はこれを載せないのだろう。もし、この伝承が 真に「近畿天皇家内伝承」として七、八世紀まで伝承されていたのなら、 なぜ、だれが、これを削除するだろうか。近畿天皇家自身の庭の真只中で。
 天武天皇が「削偽定実」だ、といって削るだろうか。この「実」とは天皇家 中心主義という大義名分上の「実」である。それなのになぜ、この輝く大武功 を削る必要があろうか。稗田阿礼が暗誦し忘れたというのか。考えられない。 太安万侶が独断で削ったのか。それも到底許されることではない。
 その答えは一つ。一この説話は本来、近畿天皇家内の伝承には存在し なかったのである。それは、先にあげた「利害のフィルター」を通して見ても、 疑いえぬ、自明の帰結である。
 では、どこから〝取って″こられたのか。それはこの説話内容の示すとこ ろ、筑紫を原点とする「九州王朝の説話」でしかありえない。すなわち、まず 筑紫を基盤とし、その上でさらに九州一円を勢力範囲におさめた、その時点の 征服譚にほかならないのである。