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第785回 2007/05/01(火)

「真説・古代史」補充編

オノゴロ島はどこか(2)


 オノゴロ島を能古(のこの)島と断じる論証を追う。

 『その島に天降りまして』、つまりイザナギ・イザナミは「天国」 から離れてこの島へやってきた。だから、当然この島は「天国」では ない。しかも途中の経過地はない。だから、「天国」の海域に近接し ている地点である。すなわち、筑紫か出雲か韓地、この三領域の中の どこか、ということになる。

 『記・紀』はともに、「AのBのC」といった地名表記のルールを厳格 に守っている。だから、そのルールに厳格に従って、大領域(A)、中 領域(B)などをきめていき、当の地点(C)を比定することができる。 その際、その地点に現存の地名があるか、または『和名抄』の中の地 名に該当するものがあれば、その比定は適切だと言える。

 ただし、「日本旧記」(日本書紀でいう「一書」)の記述では、その本拠地 筑紫の中の地名には(A)の「筑紫の…」は省略されている。同じように 近畿のヤマト王権によって作られた文書ではその限りではない。

 例えば「日本旧記」で「日向の高千穂の…」と言うときの「日向」 は筑紫の「ひむか」であるし、日本書紀の本文にある「因りて日向の吾平 の山の上(ほとり)の陵に葬る。」(神代紀)と言うときの「日向」 は「ひゅうが」(宮崎県)を指す。神武紀では「長じて日向国 の吾田邑の吾平津媛を娶る」と明解である。

 すると「出雲のオノゴロ島」「韓地のオノゴロ島」との記述は全くなく、 全てが単に「オノゴロ島」と書かれていることから、オノコロ島は 筑紫にあることになる。

 イザナギは、黄泉国から「筑紫の日向の橘の小戸」へ帰ってくる。 とすると、イザナミが黄泉国へ行ったとき、それを迫ってイザナギも 黄泉国へ行ったが、その出発点(オノゴロ島)もまた「筑紫の日向の 橘の小戸」つまり博多湾岸である。つまり、「オノゴロ島」は博多 湾内にある島だ。とすると、それは金印で有名な志賀島 か「能古(のこの)島」どちらかということになる。

 つぎに「オノゴロ島」という地名の成り立ちを考えてみる。

 「オ」は地名接頭辞、「ロ」は地名接尾辞である。すなわち、固 有の地名部分は「ノコノ島」である。

 たとえば、博多湾外〔西北〕に「小呂島」がある。沖ノ島には 「御前」という磯がある。この地域にも「オ…」という接頭辞は数多 い。また、「末盧国」は「松浦」だとすると、この場合の「ロ」も また、地名接尾辞であると考えられる。

 以上より、「オノゴロ島」に比定さるべきものは「ノコノ島」で あるという結論に至る。
第786回 2007/05/04(金)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:考古学が指し差すところ


 シュリーマンのトロイ遺跡の発見は神話の記述と考古学の成 果が一致したことを示した。つまり、神話は歴史的事実をもと にして描かれていることを明らかにした。このことはギリシャ 神話に限ることだろうか。

 そんなはずはない。人間は全くの白紙状態からは何の想像も生み出す ことはできない。どんな荒唐無稽なフィクションも何らかの体 験がもとになっている。もちろんここでいう体験とは実生活に おける現実の体験に限らない。他者からの伝聞や映画・ドラマ ・読書などによる見聞や追体験も含めた意味の体験を意味する。

 そして神話の場合は全くの荒唐無稽ではありえない。氏族 あるいは部族の集団的記憶にマッチするという正当性がなけれ ば、その集団の物語として受け入れられないし、広く流布する はずもない。当然その集団の歴史的な事実をふまえたものでな ければならない。ならば逆に考古学の中にも神話の痕跡が 現れるのも当然なことだろう。

 記紀の神話の解読も考古学(時には地質学も)との一致に よってこそ、その正当性が保証される。しかし、多くの考古 学者は記紀や風土記や伝承には無頓着のようだ。古田さんは 『今の考古学者や教科書は、「神話・伝承オンチ」「記紀神 話オンチ」「風土記神話オンチ」』 (「古代史の未来」より)と手厳しい。

 では逆に、『記紀』の神話から歴史を掘り起こしている古田 さんの古代史は考古学や地質学と一致するのだろうか。 『天皇制の基盤を撃つ―真説・古代史』ではこの点については 詳しくは触れなかったので、改めて補充しようと思う。

 もう一つこれを機会に、考古学者による神話解読、という よりはアカデミズムという呪縛の中での思考の典型として、 森浩一さんの『日本神話の考古学』を読むことにする。 そして、森さんの解読と古田さんの解読との対比を通して、 古代史の真実をより深く掘り下げることを試みたい。

 まず、『大八洲(おおやしま)』の問題から。

 次の図はともに日本書紀の本文に現れる地名を地図上に比定 したもので、上が古田さん、下が森さんによるものだ。





 まずすぐに気がつく大きな違いの一つは「筑紫洲」だ。 古田さんが福岡県(網掛け部分)とするのに対して、森さんは 九州全体としている。それぞれがそのように比定する論理的根 拠を比べる前に、考古学・地質学上の事実を指摘しておきたい。

 1975年頃から鹿児島県で縄文時代草創期の遺跡が次々と発掘 されてきている。そのうちの2例を挙げてみる。

1975年 栫ノ原(かこいのはら)遺跡
 炉跡(ろあと)、集石(しゅうせき)、煙道付き炉穴 (えんどうつきろあな(連穴土坑(れんけつどこう))など の遺構や、隆帯文(りゅうたいもん)土器が約1000点、石鏃 (せきぞく)、磨製石斧(ませいせきふ)(磨いてある石斧) などが発見された。この遺跡は南九州を代表する縄文時代 草創期の遺跡として、1997年に国の史跡に指定された。

1990年 掃除山(そうじやま)遺跡
 桜島が噴出した薩摩火山灰(約11,500年前) 層の下から、大量の遺物とともに2軒の竪穴住居跡や屋外炉、 蒸し焼き調理場(集石)や燻製(くんせい)施設(炉穴(ろ けつ))など種々の調理場の整った集落が発見された。旧石 器時代が終わり、縄文時代が始まった直後の鹿児島の地には、 すでに定住のきざしが見える集落が誕生していたことが判明 した。

 縄文文化は「東高西低」という従来の常識を覆すとともに、 鹿児島にはすでに縄文時代草創期に定住集落圏があったことを 示している。

(以下「古代史の未来」による。)

 また、掃除山遺跡は桜島の噴出した薩摩火山灰層の下から 発掘されたとあるが、それより以前約12,000年前に、西日本 全域に大きな被害をもたらした大噴火があった。鬼界カルデ ラと呼ばれている硫黄島の噴火である。鹿児島県東部や宮崎 県の人たちは、そのときの火山灰を「アカホヤ火山灰」と呼 んでいる。

 その火山研究の結果、次の地図Aのような「アカホヤ火山灰」 による被害の程度が明らかになった。 (町田洋氏による地図。「縄文文化の先進地!鹿児島」で新東 晃一氏が引用)



 鬼界カルデラを中心とする卵形の部分は火砕流により住民が 即時に全員死亡した地域。次の鹿児島県北部-高 知県足摺岬を結ぶ線の範囲内は30cm以上の火山灰が積もった地域 で壊滅状態。次の実線は20cm線であり、20cm~30cmの範囲での 生死の確率は5割ほどであった。その実線の外側、20cm以下の 地域では死者を出すほどの被害はほとんどなかった。

 次の地図Bは鹿児島での最近の発掘調査も加えた「アカホヤ 火山灰降灰以前の縄文土器分布図」(新東晃一氏による)である。



 地図Bの実線部分内の地域から地図Aの火山灰20cm以上の範囲の 地域を除いてみてください。「B-A」。これは「アカホヤ火山灰」の被害を ほとんど受けずに、縄文文化をそのまま継承できた地域というこ とになる。

九州……長崎県、佐賀県、福岡県
中国地方……山口県(2/3ほど)、島根県、鳥取県(西半分ほど)

 それぞれ筑紫(福岡県)・出雲(島根県)を中心とした地域で ある。そう、記紀神話の舞台だ。古事記の神話に出てくる地名の 頻度は一位が出雲で、二位が筑紫。日本書紀ではその逆となって いる。これに「アカホヤ火山灰」による被害が半壊ぐらいで 生き伸びた地域を加えると、「大八洲」の舞台ということに なる。

 記紀神話は弥生文化の所産だから、上の事実は同時に、 縄文文化の長い蓄積のうえに弥生文化が花開いたことをも 示している。

 さて、考古学・地質学は「筑紫洲」が九州全域ではなく、 福岡県であることを指し示している。


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第787回 2007/05/07(月)

「真説・古代史」補充編

ヤマト王権一元論の迷妄の深さ


 改めて、『紀』本文の「大八洲」をその順序通り並べてみる。

①淡路洲
②大日本豊秋津洲
③伊予二名洲
④筑紫洲
⑤双子の億岐洲と佐渡洲
⑥越洲
⑦大洲
⑧吉備子洲

 さて、森さんは、「…洲」を全て「…シマ」と読み、実際に も「島」と考えたので、④「筑紫洲」は「九州島」 (「全域かどうかは別として」という保留条件はつけている が)でなければならなかった。したがって当然、③伊予二名洲 は「四国島」でなければならない。「九州島」・「四国島」 と森さんはあえてこのように呼んでいる。

 森さんほどの考古学者が「鬼界カルデラ」の大噴火のこと を知らないとは考えがたいが、たとえ知っていたとしても、 ④「筑紫洲」の比定の要件としてそれを考慮しようという 考えは全く浮かばなかったに違いない。「大八洲」の比定に 際して、森さんには否定することなど、いや再考することす ら及びもつかない磐石の公理がそのような発想を不可能にし ている。その公理とは、ここヤポネシア列島では神話が創ら れた時代も含めて、ヤマト王権(近畿天皇家)が唯一絶対の 支配者であったという定説(妄想)である。それは 「国生み神話にあらわれている古代人、とくに大和の支配層の 人たちの価値観」というような文言に端的に現れている。

 この立場からは、「島」という原則に外れていても、 ②大日本豊秋津洲は「近畿の主要部(畿内)」とせざるを得 ない。そして「畿内」が島でないことにはほおかぶりを決め 込んでいる。ヤマト王権の本拠地は別格とでも言うのだろう か。あるいは⑦や⑧を論じるところで「本州島と地続き」と いう文言があるので、「大日本豊秋津洲」=「本州 島」というトンデモ拡大解釈で納得しているのかもしれない。

 さて、「①淡路洲」と「⑤双子の億岐洲と佐渡洲」に現在の 隠岐島と佐渡島を当てるのは誰にも依存はないだろう。しかし、 「⑦大洲」に瀬戸内海の周防大島(屋代島)を当てているが、 この「大島」は他の島々と比べてあまりにも小さすぎる。 全くのこじつけでしかないと、私には思われる。

 ⑧吉備子洲は岡山県の「児島半島」としている。児島半島は、 干拓事業が本格化する江戸初期までは大きな島であったし、 「吉備の」と指定区域が示されているので、①・⑤と同様 にこれ以外の比定はありえない。

 最後に「⑥越洲」をどのように「島」にこじつけるのだろう か。⑧と同様、能登半島が古代には島だったという希望的解釈を する論者もいるという。しかし、地質学はつれなかった。 地質学者の調査によると、島であった可能性があるのは第三間 氷期(15万~5万年前)以前のことであり、それ以後に島で あった可能性は全くないという。

 全てが「島」でなければならない見地に立つ森さんは次のよ うに苦渋の解釈を提出している。

『⑥は越(こし)(古志)であって、古代の地域呼称としては たいへん広大で、福井県東部(越前)にはじまり、石川、富山、 新潟、山形の諸県、さらに時代によっては秋田県の南部まで含 む大地域である。もちろん今日の地図では、近畿とは地続きで あるが、これもこれからしばしば述べるように、古代には船で 行けるところは途中が地続きでも、洲(島)として意識され るときがあった。』

 「しばしば述べ」ても「古代には船で行けるところは途中が地続 きでも、洲(島)として意識されるときがあった。」に対する 論証はない。古代人の意識を憶測しただけの解釈であり、私に は全く納得できない。またこの引用文の中の「近畿とは地続き であるが、」という文言には、神話を近畿中心に考える発想と「大 日本豊秋津洲」=「本州島」と考えていることが、再び表明 されている。

 森さんの「大八洲」説を改めてまとめておく。

①淡路洲………………淡路島
②大日本豊秋津洲……畿内(本州島)
③伊予二名洲…………四国島
④筑紫洲………………九州島
⑤億岐洲・佐渡洲……隠岐諸島・佐渡島
⑥越洲…………………越の国
⑦大洲…………………周防大島
⑧吉備子洲……………児島半島

 この比定が妥当であることの証左として、森さんは次のよう な一貫性があることを主張している。

『このように国生み神話では、豊かにして広大な農耕地の 広がる平野単位ではなく、ひとまず豊秋津洲を別にすると海 上交通によって結ばれ海上交通の拠点となった洲(島)を対 象にしていることは明らかである。』

 これまでにも指摘してきたように、森さんの比定にはいく つもの矛盾や問題点があるが、森さん自身か提出している問 題点・疑問点を抽出してみよう。

(1)
 ⑤双子の億岐洲と佐渡洲と⑥越洲とは海上交通を重視しての 日本海地域であるが、出雲世界が含まれていないことを奇妙に感じる。

(2)
 ⑦大洲と⑧吉備子洲は瀬戸内海のうちでも、……どうして この二つの島だけが扱われ、現代の地域区分の中国地方その ものが登場しないのかが奇妙さをつのらせる。

(3)
 太平洋側の中部地方以東があらわれないのはともかくとし て、西日本でも古代の有力な土地であった吉備や出雲の主要 部が除かれているのは、どうしてであろうか。

(4)
 吉備全体ではなく、そのごく一部にすぎない吉備子洲(児島) が大八洲国の一つとして扱われていることに注目してよかろう。



 (3)からはヤマト王権一元論の虚妄性に気づくべきなのだが、 「奇妙だ」とつぶやくだけで森さんの思考は止まってしまう。 「中部地方以東があらわれないのはともかくとして」ではなく 「中部地方以東があらわれないのは」とても重要な矛盾点なの に。「中部地方以東」を欠いてはヤマト王権(畿内)は中心点 ではありえないことになる。ヤマト王権一元論を疑うことがま ともな論理と言うべきだ。

 (1)は最も重要な問題点だ。筑紫とともに記紀神話の最重要 舞台である出雲を欠いては、それこそこの後は話にならない。

 森さんは「地続きでも、洲(島)として意識され」たとし て「⑥越洲」だけは「越の国」のこととしたが、実は初めか ら「洲」を「クニ」と読めば「地続きでも、…」というよう な苦しい言い訳は不要なのだった。そしてこれが古田さんの 解読の決め手であった。つまり全ての「洲」を「クニ」と読む。 この一点で上記の全ての問題点や矛盾が全て解決する。 このルールに従った古田さんによる「オオヤクニ」の比定は 次のようになる。(詳しくは
「神代紀」の解読(3) ― 「大八州」はどこか
「神代紀」の解読(4) ― 大日本豊秋津洲
でどうぞ)

①淡路洲………………淡路のクニ
②大日本豊秋津洲……豊のアキツクニ
③伊予二名洲…………伊予のフタナクニ
④筑紫洲………………筑紫のクニ
⑤億岐洲・佐渡洲……隠岐のクニ・佐渡のクニ
⑥越洲…………………越のクニ
⑦大洲…………………オオクニ
⑧吉備子洲……………吉備の子クニ

 これらの「クニ」は大きく2つに分けられる。

 第一グループは「④⑥⑦」で大地域を示している。第二 グループは 「AのB」というように二段で呼ばれる小地域である。(①、⑤ は大地域を表記せずとも分かる著名な島なので「A」の部分が 省かれている。)

 当然この「国生み神話」の中心は第一グループであり、 それは記紀神話の主要舞台と一致し、さらにそれが ヤマト王権以前の政治地図であることをも示している。

 ここで『真説・古代史(5)』で提示した下の図と、前回 の「図B-図A」を合わせて見てみると、古田さんの「オオヤ クニ」の比定の妥当性を考古学・地質学が保障していることが 明白である。


 つまり、「オオヤクニ」は「銅剣・銅矛・銅戈圏」を示して いて、淡路島はその瀬戸内海における東限である。 「国生み神話」は「銅矛圏」の王者・九州王朝の神話であることを まざまざと示している。はたして、国生みの道具は「天の沼矛」 であった。


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「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:「神代紀(記)」が語っている時代は何時か。


 日本書紀本文の「大八洲」は次のようであった。

①淡路洲
②大日本豊秋津洲
③伊予二名洲
④筑紫洲
⑤双子の億岐洲と佐渡洲
⑥越洲
⑦大洲
⑧吉備子洲

 これに対して、古事記の「大八島」は次の通りである。

①淡道之穂之狭別島
②伊予之二名島
③億伎之三子島
④筑紫島
⑤伊伎島
⑥津島
⑦佐渡島
⑧大倭豊秋津島

 古事記の「大八島」と日本書紀本文の「大八洲」の違いにつ いて森さんは次のように書いている。

 『記』では律令体制での国に扱われている土地を重視して いるのにたいし、『紀』では吉備子洲や大洲のように、律令 体制では国より下位の郡になる土地をも重視していることが、 まずうかがえる。

 ずいぶんと奇異なことをおっしゃる。どのように 見比べても『記』では律令体制での国に扱われている土地 を重視しているという判断は私には出てこない。古事記の 「億伎(隠岐)之三子島・佐渡島」が日本書紀では双子として 一つ扱いされ、その一島分と「伊伎(壱岐)島・津(対馬) 島」のかわりに「越洲・大洲・吉備子洲」が置かれている。 つまり両者の違いは「伊伎(壱岐)島・津(対馬) 島」対「越洲・大洲・吉備子洲」である。地域比定を森説の 通りとしても「越の国」の分だけ「大八洲」の方が「国」が 多い。「大洲」の比定として古田説の方(つまり「大洲」= 「出雲」)が正しいとすれば(私は古田説を正しいと考える)、 なおさらである。

 どうしてこんな的外れな判断が出てくるのだろうか。 どうやら記紀神話は律令体制が整った後に創作されたと 考えているらしい。さらに、その創作に用いた素材(集団的 記憶も含めて)というう点では、最も古くさかのぼっても古 墳前期(4世紀)を想定しているようだ。これから何度も指摘す ることになると思うが、このように推断する根拠は随所に現れ てくる。

 こうした神話時代に対する年代比定のとんでもないカン違い の淵源は、もちろん、「ヤマト王権一元主義」というイデオロ ギーにある。こうしたトンチンカンな年代比定も『今の考古学 者や教科書は、「神話・伝承オンチ」「記紀神話オンチ」「風 土記神話オンチ」』という古田さんの慨嘆の理由のひとつだろ う。

(以上のことについては真説・古代史(38)始原の国家 を参照してください。)
第788回 2007/05/11(金)

「真説・古代史」補充編

「神代紀」再論:「両児島」はどこか。


 『記』が律令体制での国を重視しているという主旨の 文に続けて森さんは言う。


『記』では越洲が見られないことと、知訶島(ちかのしま)や 両児島(ふたごのしま)が大八島国に続けて生まれた土地とし てあらわれている。この知訶島は五島列島の小値賀島(おじか しま)かその近辺の島で、律令時代には遠き値嘉(ちか)が統 治の及ぶ西端の土地として意識されていた(『延喜式』陰陽 寮)。その意味では、国際的な統治感覚で重要となる土地で ある。両児島についても五島列島内に求める私見を述べたこ とがある。

 『記』では「大八島」の後に六つの島生まれているが、森さ んはその内最後の二つを取り上げている。前々回に提示した 『紀』の森製「大八洲」地図にもその二島が書き込まれている。 引用文にあるように律令時代のヤマト王権の統治地域の西端を 示すのが目的のようだ。

 両児島を五島列島内に比定した理由が述べられていないが、 五島列島内に「男女群島」というのがあるのでそれを当てている と思われる。岩波文庫版『古事記』の注も岩波日本古典文学大系版 『古事記』の注もともに知訶島・両児島を五島列島に比定して いる。いわゆる定説なのだろう。

 両児島を五島列島内の島とする定説には不審点があると、古田 さんは「両児島」探求を始める。その経緯は次のようだった。

 「神代記」の「国生み」の説話では各島に「亦の名」と いう言い方で、もう一つの呼び名が記載されている。

『かく言ひ竟へて御合して、生める子は、淡道の穂の狭別島。 次に伊予の二名島を生みき。この島は、身一つにして面四つ あり。面毎に名あり。故、伊予国は愛比売(えひめ)と謂ひ、 讃岐国は飯依比古(いひよりひこ)と謂ひ、粟国は大宜都比 売(おほげつひめ)と謂ひ、土左国は建依別(たけよりわけ) と謂ふ。次に隠岐の三子島を生みき。亦の名は天之忍許呂 別(あめのおしころわけ)。次に筑紫島を生みき。この島も また、身一つにして面四つあり。面毎に名あり。故、筑紫国は 白日別(しらひわけ)と謂ひ、豊国は豊日別(とよひわけ) と謂ひ、肥国は建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよく じひねわけ)と謂ひ、熊曾国は建日別(たけひわけ)と謂ふ。 次に伊伎島を生みき。亦の名は天比登都柱(あめひとつばし ら)と謂ふ。次に津島を生みき。亦の名は天之狭手依比売 (あめのさでよりひめ)と謂ふ。次に佐渡島を生みき。次に に大倭豊秋津島を生みき。亦の名は天御虚空豊秋津根別 (あまつみそらとよあきづねわけ)と謂ふ。故、この八島を 先に生めるによりて、大八島国と謂ふ。然ありて後、還りま す時、吉備児島を生みき。亦の名は建日方別(たけひかた わけ)と謂ふ。次に小豆(あづき)島を生みき。亦の名は大野手比売 と謂ふ。攻に大島を生みき。亦の名は大多麻流別(おほたま るわけ)と謂ふ。次に女(ひめ)島を生みき。亦の名は天一根(あめ のひとつね)と謂ふ。次に知訶島を生みき。亦の名は天之 忍男(あめのおしを)と謂ふ。次に両児島を生みき。亦の 名は天両屋(あめふたや)と謂ふ。』

 整理すると

①淡道之穂之狭別島
②伊予之二名島…愛比売・飯依比古・大宜都比売・建依別
③億伎之三子島…天之忍許呂別
④筑紫島…………白日別・豊日別・建日向日豊久士比泥別・建日別
⑤伊伎島…………天比登都柱
⑥津島……………天之狭手依比売
⑦佐渡島
⑧大倭豊秋津島…天御虚空豊秋津根別

吉備児島…………建日方別
小豆島……………大野手比売
大島………………大多麻流別
女島………………天一根
知訶島……………天之忍男
両児島……………天両屋

この「亦の名」は学者たちを悩ませてきたが、適切な解答を 提出した人はかってはいなかった。古田さんが最初の解答者 だった。その古田さんの解読のあらましを 真説・古代史(39)アマクニ」はどこか(1)、 で紹介した。次の地図はそのときに用いた「亦の名」地図であ る。



 その「亦の名」の考察の過程から「両児島」が浮上してきた。 真説・古代史(40)アマクニ」はどこか(2) で紹介したが、そのときは「詳しい論証は省き、結論部分 を転載」した。その省いていた「論証」を改めて読んでみるこ とにする。古田さんの『記紀』の解読の方法は定説に寄りかかったも のでもないし、あらかじめ持っている自説に都合のよい部分だ けを取り上げたりするものでもないし、単なる思いつきでもな い。「原文全体の表記のルールにのっとって問題の一つ一つの 部分を解読する。」という方法論を貫いている。このことはも う充分に確認してきたことだが、そのことをここでも また確認することになるだろう。

 「両児島」(「亦の名」は「天両屋」)=「「男女群島」と いう定説は古く貝原益軒にまでさかのぼるようだ。岩波日本古 典文学大系『古事記』の注には次のようにある。

「貝原益軒の扶桑記勝に『五島の南に女島男島とてちひさき 島二あり。是唐船紅毛船のとほる海路なり。五島よりも四十 八里、薩摩よりも四十八里ありて五島につけり。』とある女 島・男島、即ち男女群島のことであろうと思われる。」

 これに対して古田さんは三つの不審点をあげて、次のように 論じている。


第一
 この五島列島も「知訶島、亦の名、天之忍男」としてあがって いる。これに接近しすぎている。

第二
 「両児島」といい、亦の名を「天両屋」という以上、この 島は〝二つの島が対になって″いなければならぬ。それが明 白な特徴のはずだ。しかるに、これは「男女諸島」と今呼ば れているように、男島、女島だけではない。その両島の間に クロキ島、寄島、ハナクリ島と、少なくとも三つの島が介在 している。つまり〝五島が並んだ”形だ。この点、 「両児島」という名称にふさわしくない。これはやはり、 ほぼ〝二つきり”という印象の島でなければいけないのでは なかろうか。

第三
 ここに並べられた、この島以外の島々は、いずれも皆相当に 重要な島々だ。伊伎・津島・隠伎之三子島・知訶島(五島列 島)はもとより、女島も、印象的な美しい島だ(わたしは初 春の晴れきった日、空からこの全島を一望のもとに見おろし た経験がある。あっと息をのむほど美しかった。その印象が 忘れがたい)。

 これに対し、この男女諸島。貝原益軒のいうように、中国 船やオランダ船などが長崎への往来にたちよった島かもしれ ぬ。そしてその美しさがその人々を慰めたかもしれぬ。しか し、それはずっと後、益軒の江戸時代のことだ。はるか古代、 朝鮮半島経由で中国と往来していた時代、この島の重要性が あった、とは、なにかうなずきかねるのだ。

 しかも、大切なことがある。それはこの島が国生みの 〝最後″に書かれている点だ。イザナギ・イザナミはオノ ゴロ島に降り立ち、東端の淡路島からはじめて、点々と西 の方へと国生みしつつ帰ってきた。主要な国々を生み終った ところで、つぎの句がはさまれている。

「故、此の八島を先に生むに因りて、大八嶋国と謂ふ。然る 後、還り坐せし時‥‥‥」

 そしてさらに吉備児島をはじめとして次々と国生みし、そ の最後(知訶島のあと)に、この両児島(天両屋)を生むの だ。つまり、イザナギ・イザナミにとって出発点付近に 〝還ってきた″最後の島だ。その点、きわめて重大な島なの である。

 北九州市の北の海中に「男島・女島」という対になった島がある。 これは二つきりの島だから「第二」の疑問点は解消するが、 「第三」の〝特別の重要性をもつ島″という要件を満たさない。 その「第二」「第三」の条件をともに満たす島があった。 沖ノ島だ。

 沖ノ島を「両児島」=「天両屋」に比定する妥当性 についてはすでに 真説・古代史(41)「アマクニ」の聖地「天の岩屋」 で論証した。