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430 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(81)
白村江の戦(4)
2006年1月31日(火)


 「白村江の戦」後のヤポネシアの状況はどうなったか。古田さんの記述を要約する。
 倭国の総帥・筑紫君薩夜麻は捕われた。権力と共に権威をも失ってしまった。
 上毛野君稚子は騎下のおびただしい将兵と共に消息を絶った。。上毛野君はかつて武蔵の国造の任命をめぐってヤマト王権と任命権を争ったほどの関東の大王だ。(安閑紀、元年閏12月)。
 ヤマト王権に対して上に立つ、あるいは並び立つ存在は、実質上消え去ったのに対して、ヤマト王権の中枢は無傷のまま残った。斉明天皇は九州で病没したが、権力の実質はすでに中大兄皇子(天智)や藤原鎌足の手にあった。
 また、ヤマト王権の勢力の浸透した近隣領域も実勢力を温存したまま終戦を迎えた。例えば、駿河の国造系の豪族とされる廬原君臣の軍一万の到着前に、「白村江の戦」は起こっている。また、備中の国(吉備)の兵二万は、斉明の病没を理由に戦場に赴いていない。それは、当時皇太子であった天智天皇の命によったという。(「備中国風土記」)

 上記のような状況を裏付づける記事が「日本書紀・天智紀」にある。664年(天智3年)、「白村江の敗戦」直後の記事だ。

 春二月、己卯朔、丁亥、天皇、大皇弟(大海人皇子、天武天皇)に命じて、冠位階名を増換し、及び氏上(うぢのかみ)・民部・家部等の事を宣す。
 其の冠は二十六階有り。大織(しき)・小職・大縫(ぶう)・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上、大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建(こん)・小建、是を二十六階とす。
 前の花を改めて錦と曰ふ。

 もしもヤマト王権が「白村江の戦」の総帥だとしたら、敗戦直後のこのはしゃぎようは異状だ。これを古田さんは「世にも不思議な物語」と言っている。(日本古代新史)
 「法隆寺の中の九州王朝」から、古田さんの詳述を書き出そう。



 絢爛たるものだ。前の、推古朝の「冠位十二階」が、九州王朝(倭国)の「冠位十二階」の準用とおぼしき姿をもっていたのに比べると、その豪華なる序列の施行は、空前の盛事といっていい。

 ところが何と、これが白村江の惨敗の記事(天智2年9月)の直後なのである。その間、 わずか4カ月。
 おびただしい将兵は異国の白村江に、その空しき屍をさらし、いまだその骨すら朽ちやらぬとき、筑紫の君のような(たとえ彼を天皇家の配下とみなしてみたとしても)、主要人物すら捕囚の身にあえいでいるとき、いわんや多くの将兵は、その生死さえ定かでないとき、もし、近畿天皇家が、この戦の開戦の発動者であったとしたら、この時期に、こんなきらびやかな、まるで祝典行事のようなものが、できるわけがない。

 不幸にも、わたしたちにも、経験がある。昭和20年8月、広島・長崎とつづいた原爆投下のあと、敗戦の15日をむかえた。わたしは18歳を過ぎたばかりのときだった。
 では、その4カ月あと、昭和20年の1月、わたしは何をしていたか。広島の廃墟の中をさまようていた。生きているか、死んでしまったか、行方も知れぬ友人や知人を求めて空しくさまようていた。広島の一角に、生きのびるためだけに朝を迎え、夕を送っていた。とても、にぎにぎしい祝典気分ではなかった。その一点においては、廃墟の中の一つのごみのように生きのびていたわたしと、政府当局のお歴々と、どれほどの差があるものでもなかったであろう。むしろ開戦責任をもつ当局者にとって、その悲痛さは、わたしたち庶民とは、また別段のきびしさがあったことであろう。

 このような経験からかんがえても、近畿天皇家主導の白村江の戦という命題と、天智3年2月の「二十六階」制定記事とは、氷炭相いれぬものだ。だのに、従来の史学は、戦前も戦後も、両命題を共に肯定してきた。
 戦前の史学では、この白村江の敗戦にふれることが少なかった。しかし、戦後の史学では、当然ながら、この大事件は、あるべき位置に復活した。ために、右の矛盾は顕在しているにもかかわらず、それに背を向けたままで、今日に至っている。しかし、もはやその欺罔は万人の目のまえに明らかにされたのである。

431 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(82)
近畿王朝の成立
2006年2月1日(水)


701年(長安元年)
 十月、日本国、使を通わし、其の大臣、人を貢し、万物を貢す。『冊府元亀』外臣部、朝貢三)
702年(長安2年)
 冬十月、日本国、使を遣わして万物を貢す。(『旧唐書』本紀巻六、則天武后)

703年(長安3年)
 其の大臣朝臣真人、来りて万物を貢す。
 「朝臣真人」は、猶(なお)中国の戸部尚書のごとし。冠は進徳冠。其の頂、花を為し、分れて四散す。身は紫鞄を服し、帛を以て腰帯と為す。真人、好んで経史を読み、属文を解す。容止温雅。則天(則天武后)之を麟徳殿に宴し、司膳卿を授け、放ちて本国に還らしむ。(『旧唐書』日本伝)

 中国史書では701年以降、「倭国」ではなく「日本国」が正式の国名として使用されるようになる。この長安元年は、則天武后の年号である。またこれと時を同じくして日本国の天皇も年号を持つようになる。近畿王朝の最初の年号は文武天皇の大宝(大宝元年=701年)である。

 また、日本国の公式史書は文武天皇の項から「続日本紀」に引き継がれる。そして、上記703年の記事のような中国への使節の記録は、中国側と日本側の記録(続日本紀)とがピッタリ一致し始める。

 「世にも不思議な物語」(白村江の敗戦直後のヤマト王権のはしゃぎぶり)を解明した文の最後で古田さんは次のように述べている。


 中国側(唐朝)の対倭国外交記事は貞観22年(648)で終り、そのあと「白江の戦」の記事につづいている。これに対し、代って「日本国」との友好的な国交記事が長安3年(703)からはじまっている。
 つまり、中国側(唐朝)の目から見て、明らかに相手国は交替した。白江の戦の「主敵」ともいうべき「倭国」は七世紀未、崩壊した。そして「倭国の別種」と記されている「日本国」、すなわち近畿天皇家によって吸収されてしまった、というのである。
 これなら、これが史実なら、先のような「不思議」はない。きわめて通常である。人間の理性でうなずくことができる。



 さて、古田古代学の紹介を今回をもって終わります。ずいぶん長くなりましたが、それでもほんの一端の紹介に過ぎません。
 古田さんの著作に出会って、私の目からはいくつものウロコ落ちました。私の視界はずいぶん開かれたように思います。
 興味をもたれた方は、ぜひ直接古田さんの著書をお読みください。容易に手に入る朝日文庫版をあらためて紹介しておきます。
『「邪馬台国」はなかった』
『盗まれた神話 ― 記・紀の秘密』
『風土記にいた卑弥呼 ― 古代は輝いていたⅠ』
『日本列島の大王たち ― 古代は輝いていたⅡ』
『法隆寺の中の九州王朝 ― 古代は輝いていたⅢ』

 最後に「日本古代新史」(新泉社)の最後の一節を掲載して結びとします。


 人々よ、「世にも不思議な物語」と、「人間の理性でうなずける話」と、いずれを自分の国の歴史事実として認めようとするのか。それは、すでに敗戦の日、わたしたちが心に刻んだ真実への憧憬、それによって見れば、疑う余地はない。「神風」がはばをきかせるような、いたずらに奇蹟をうけ入れるような歴史観、それにわたしたちは決然と別れを告げたのではなかったか。
 占領軍が、戦前の教科書を墨で塗らせたとき、かれらはそこまでは考えていなかったかもしれぬ。当然のことだ。かれらなどに、わたしたちの奥深い歴史の真相などわかりようはない。それは知れ切ったことだ。
 そんなこととは無関係に、かれらの思わくなどとは何のかかわりもなく、わたしたちは、真実を見よう、そう望んだのだ。虚偽の歴史では満足すまい、そう心に誓ったのだ。それは少なくともわたしの青年の日の、他にたぐいなき「事件」であった。

 今、わたしは見る、歴史の真相を。日本列島の古代の新たな山並みを。そして心の底で叫びかけることができる、「歴史よ、こんにちわ」と。
 わたしが別れを告げたのは、天皇家一元主義という虚偽の史観だ。だが、九州王朝中心主義をもって、これに代えるべきか。 ――否。

 近畿においても、すでに天皇家以前に銅鐸国家があった。九州には、天皇家の母国があった。沖縄列島やその彼方には、そのさらにはるかなる祖源の地があったのかもしれぬ。
 また関東や東北、北海道には、卓抜にして秀麗な縄文文明があった。甲・信・越にももちろん。
 それらの全光景を視野におさめつつ、わたしはいわねばならぬ。 ――多元的な古代世界が、わたしたちの愛する山河、この日本列島の上に存在していた、と。

 そのような展望の中でこそ、近畿天皇家がその中で果した、相対的な、適正な位置、それがハッ キリと浮かび上がってくるのである。そしてよき面も、悪しき面も、冷静に、 真実(リアル)に理解することができるのだ。そのような新鮮な目が若い人々の中に誕生したとき、新たな数々の独創の湧き上がる時代、そのような豊かな未来がわたしたちの眼前に待ちかまえていることとなろう。




466 「君が代」は九州王朝の賛歌
2006年4月5日(水)


 関心が四方八方に分散していて話題があちこちに飛んでいます。ご容赦を。

 「君が代」の歌詞は古今和歌集からとられたというのが定説になっている。巻第七「賀の歌」の冒頭の歌で

「わがきみは千世にやちよに さゞれいしのいはほとなりてこけのむすまで」

となっている。「題知らず」「読み人知らず」とあり、明らかに民衆の間に流布していた歌だ。しかし私はその初句が「君が代」でないのが気になっていた。いつ誰が書き換えたのだろうか。

 「君が代」の歌詞の出所については次のような説があり、私はこちらの方が正しいと思う。ついでなので現在の「君が代」が一般に広められていったいきさつを概観しておく。

 明治のはじめに日本に軍楽隊をつくろうとしたとき、大山巌がひごろ愛唱していた薩摩歌の一節を歌詞としてしめし、軍楽隊を指導していたイギリス人フェントンに作曲させたのが初代の「君が代」だ。軍歌だった。
 しかし、フェントンの曲は日本人になじまず、1876年(明9)11月3日の天長節を最後に演奏が中止さる。その後、1980年になって、海軍省から宮内省式部寮に、軍楽にふさわしい作曲をしてほしいとの依頼があって、現在の林広守作曲のものができ、同年の天長節に演奏された。
 したがって、「君が代」は国歌ではなく、正式には軍楽である。1893年(明26)になって、文部省告示によって小学校儀式唱歌用としてこの「君が代」が採用されたが、そのばあいも国歌ではなく、「古歌、林広守作曲」として採用された。(参考資料「教育反動-その歴史と思想-」)

 「第213 文部省唱歌事始(2005年3月15日)」で紹介した「君が代」はさしずめ第三の「君が代」というところか。

 余談ひとつ。
 「君が代」の歌詞を選んだ大山は幼名を岩太郎いい、後に弥介と改名している。そして最後は「さざれ石」が「いわほ」となるように「巌」と改名した。ハハハ…

 さて、私の関心は「君が代」の歌詞が薩摩歌の一節だったという点にある。
 「題知らず」「読み人知らず」として古今和歌集に採録された歌は相当古くから愛唱されていたのではないか。それはいろいろな形で庶民の間に流布されていたと考えられる。こんなことを漠然と考えていたところ、びっくり仰天なことを知った。以下は、古田武彦著「古代史の未来」の「第二部の5:君が代」の全文である。


  1990年、興味深い発見に遭遇した。「君が代」の成立をめぐる問題である。「君が代」の歌詞は、福岡県の福岡市と前原市、すなわち「博多湾岸とその周辺」の中の地名・神社名・祭神名から成り立っていることが判明したのだ。
A 「千代」―福岡市福岡県庁付近(千代町。海岸部は「千代の松原」)
B 「さざれ石」―前原市細石神社(三雲遺跡の裏)
C 「いわほ」―前原市井原(いわら)遺跡(三雲遺跡とならんで著名)
D 「苔のむすまで」―苔牟須売神(こけむすめのかみ。志摩町、桜谷神社の祭神)

 ここで、若干の注記が必要だ。
a 「八千代」は「千代」の美称。
b 「いわほ」は岩穂。岩が語幹、穂(あるいは秀)は接尾辞。「いわら」は岩羅。早良が沢羅、磯良が磯羅であるのと同じ。「羅」は接尾辞。「そら」「うら」「むら」等。古代日本語の原型のひとつ。

 一方、志賀海神杜(福岡市)の「山ほめ祭」では「君が代」が〝地歌″ 〝風俗歌″として述べられる(「歌われる」わけではない)。その言詞(禰宜〈ねぎ〉による)には、

「あれはや、あれこそは、我君の、めしの、みふねかや」

という言葉が登場する。「我君」は対岸の「千代」(博多湾岸)からこちら(志賀島)へ渡ってこられる。― そういう設定の台詞の一節である。船が渡るのは博多湾。「我君」とは筑紫の君なのである。

 つまり、「三種の神器」の分布する博多湾岸、弥生の「黄金地帯」に連綿と伝統してきた行事、その中に「君が代」の歌詞があった。その歌詞は、その「黄金地帯」内の地名や神社名や祭神名を〝連ね合わせ″て作られていた。これは偶然だろうか?
 否、必然だ。弥生の「黄金地帯」を、第三の従属国としての「奴(な)国」などではなく、第一の倭国、その中心領域として認めないかぎり、「君が代」は、口には丸暗記で暗唱できても、歴史の心からは遥かに遠いのである。



 「君が代」は、はるか古代から今に至るまで祭り歌として唱え続けられてきた九州王朝の賛歌だという。大山巌が愛唱していたという薩摩歌も、たぶんこの賛歌の流れに連なるのではないだろうか、と私は想像している。
 上記の言詞では「我君」とあり「君が代」ではない。薩摩歌で「君が代」になったのだろうか。
 古事記・日本書紀が九州王朝の神話・説話を多く剽窃・改竄・接ぎ木している(「真説古代史」参照)が、現代の天皇の誉め歌も、もとは九州王朝のものだったとは、何たる皮肉!もっともこの場合は、意図的な選択ではなく偶然の結果ではあるが、なんという皮肉だろうか。はからずも、天皇家はいまだに本流・九州王朝の威光から逃れられないでいるということになる。

467 「金印」と「黄金地帯」
2006年4月6日(木)


 前回引用文中の
『弥生の「黄金地帯」を、第三の従属国としての「奴(な)国」などではなく、第一の倭国、その中心領域として認めないかぎり、』

というくだりは、古田古代史になじみがないと分からない文ではないかと気になった。『古代史の未来』からもう二節引用する。(シリーズ「真説古代史」と重複する部分があるかもしれない。ご容赦を。)

 志賀島の金印に刻まれた文字「漢委奴国王」の読み方は「漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王」というのが定説だ。私も学校でそのように教わり、「ワノナノコクオウ・ワノナノコクオウ」とお経みたいに暗記したことが思い出される。いや今でもそのように教え続けられている。ところがどっこい、この定説も誤りであることを古田さんが解明している。第二部の1「金印」を全文引用する。(より詳しくは朝日文庫『「風土記」にいた卑弥呼』を参照)


 天明4年(1784)志賀島(福岡県)から発見された金印には「漢委奴国王」の五字が刻まれていた。後漢書倭伝の中で、光武帝が建武中元2年(57)に授与したとされるものである。この印文に対する理解の仕方が、日本の古代史像を真実(リアル)に把握するか否かの決定的な分かれ道をなす。
 中国の印文表記法は次のようだ。

 (A)授与者(中国の天子)― (B)被授与者(配下)
(中国の内外各層により、金印・銀印・銅印を分かつ)

 いずれも「二段」表記であり〝中間者″の介在はありえない。したがって、この印文の正しい解読は「漢の委奴(ゐど)の国王」である(「委奴」は光武帝のライバルであった「匈奴」に対する造語。〝従順な部族″の意)。
 つまり、従来の読解「漢の委(わ)の奴(な)の国王」はまったくの誤読である。中国の印文において、このような「三段」読みの国名はない。「漢匈奴悪適尸逐王」(大谷大学現蔵)という例があるが、「悪適尸逐(あくてきしちく)」は部族称号であって国名ではない。そのうえ「銅印」(もしくは金メッキ)であって「金印」ではない。
 金印の「三段」読みなど、まったくのルール違反だ。にもかかわらず、わが国の古代史学の定説派は、こぞってこのルール違反の道路を運行しつづけてきたのである。

 もしこの「奴国」が金印授与国であったとしたら、三国志の魂志倭人伝に二回も出現する奴国の記事中に、その旨の特記がない事実は理解不可能と言わねばならない。
 右の奴国(第一回出現)は、倭国中、第三の大国(第一位は邪馬壱国(女王国)。第二位は投馬国。戸数が各七・五・二万)である。にもかかわらず博多湾岸を「奴国」としたため、それ以上の出土物(三種の神器・絹など。後述)のあるべき女王国(いわゆる「邪馬台国」)を求めて、定説論者たちは永遠の流浪の旅に出ることになった。
 しかしその到着点などあるはずがない。なぜなら、日本列島の弥生期において、金器・銅器・ガラス器、そして絹など、当代最高の器物が集中出土すること、当地域(博多湾岸とその周辺)に匹敵しうる地帯は絶無だからである。神殿・宮殿なども同じだ。

 平成五年、私は学術論文をもって学会にこの点を問うたが、応答はない。



 次は第二部の4「黄金地帯」


 今まで繰り返し触れてきた「弥生の黄金地帯」の分布を要約しょう。

A 倭人伝の記述内容に「鏡」や「勾玉」や「刀」があり、この倭国が「三種の神器」を権力シンボルとする国家であったことは疑えない。その「三種の神器」を出土する弥生の王墓は「博多湾とその周辺」に限定されている。
①吉武高木(博多)・三雲(前原)・須玖岡本(春日)・井原(前原)・平原(前原)
②草浦里(光州)・良洞里(金海)
 すなわち、倭国の中心領域はこの「黄金地帯」以外にはないのである(草浦里は吉武高木とならぶ早い時期、金海は「イ方製鏡」を含む遅い時期、いずれも弥生時代)。

B 倭人伝中、最も重要視され、詳述されているのは錦(飾り絹)である。弥生の絹は「博多湾とその周辺」というこの「黄金地帯」にほぼ限られている(島原市三会村が唯一の例外だったが、近年、近畿でも一ヵ所出土)。この黄金地帯を〝第三の大国″としての「奴国」に当てた定説派は、逃れ道なき袋小路の中にいる。

C 弥生時代が「銅器の時代」であることは周知である。その「銅器の鋳型」もまた、この「黄金地帯」に最も集中している。

D ガラスは当時の貴品だ。その「ガラスの勾玉の鋳型」も、この「黄金地帯」において最大である。さらに、ガラスの璧(へき)は天子の配下の「諸侯」のシンボル物だが、三雲(前原)・須玖岡本(春日)・峰(朝倉)と「黄金地帯」に集中し、ここを取り巻いている(峰は再利用品)。

E 三国志の韓伝によると、「鉄」は弥生の貨幣だ。これもまた、筑前中城(博多・朝倉・前原)という「黄金地帯」に集中している。

 倭人伝の「邪馬台国当て」を競い、日本列島各地を〝御当地″としていた時代はすでに去った。自分の読解し、比定した当の女王国が、右のような「出土分布図」と対応しているかどうか、その検証が必要だ。それが現在の学問水準を示す。
 もし「邪馬台国はどこか、まだわからない」と主張する人があれば、その人は必ず〝日本列島各地、各所のいずれにも、右のような出土分布図が存在する″ことを示さなければならぬ。それが義務だ。教科書もまた、学問に基づくならば、同じである。



 最近「邪馬台国論争」(佐伯有清著、岩波新書)という本が出たことを新聞広告で知った。本屋でぱらぱら内容を点検して、購入をやめた。相変わらず「流浪の旅」をさまよっている学者しか取り上げていない。邪馬台国論争にも見事な一石(朝日文庫『「邪馬台国」はなかった』)を投じている古田さんを完全に無視した駄本である。この本の著者も学者としての誠実さを欠いている。日本古代史学会は一体いつまで面子にこだわり続けるのか。
第784回 2007/04/30(月)

「真説・古代史」補充編

オノゴロ島はどこか(1)


オノコロ島

 この写真は何でしょうか?
 九州旅行で撮ったオモシロ写真です。宮崎県は高千穂の渓谷に ある周囲100メートルぐらいの池。その中にある長さ2メートルほ どの島?です。

 これ、オノゴロ島だそうです。中央に立っている石碑は「天御柱」 のようです。観光客の皆さんはガイドさん の話を感心して聞いていましたが、私は笑っちゃいました。

 記紀の神話は、ヤマト王権がその正当性を主張し、出自に箔をつけ るために、九州王朝から剽窃改竄したものです。宮崎県の高千穂には 天岩戸神社までありますが、天孫降臨の地とされる高千穂にオノゴロ 島も天岩屋もあるなんて、それだけで噴飯ものです。もともと北九州 を舞台とする神話の舞台を、なにがなんでも宮崎県の高千穂に求めよ うとするから、このようなマンガ的な比定をすることになってしま う。でも、圧倒的多数の人に「宮崎県は神話の国」という壮大なウソ が染み込んでいる。

 ところで、『388 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(41) 「アマクニ」の聖地「天の岩屋」』(2005年10月3日)で古田さん は、アマクニの聖地「天の岩屋」は沖ノ島であることを五つの理由を あげて論証していることを紹介した。その五番目の理由に曰く

『その理由の第五は、はじめにあげた『古事記』の文章だ。 イザナギ・イザナミは、国生みを終えて出発点に帰ってきた。 そこは、つぎの「オノゴロ島」問題でハッキリするように、 博多湾岸のそばだ。――そして今、「天国」の六つの島を眺望 しよう。もっともそこ(博多湾岸)に近い島、それがこの 沖ノ島だ。』

 私はそこで『古田さんは続けて「オノゴロ島」問題を論じているが、 私はそれを割愛して「最古王朝の政治地図」の完成を急ごうと思う。』 と書いて、「オノゴロ島」のことをはしょってしまった。

 しかし、インチキ「オノロゴ島」を見てしまった今、「オノゴロ 島」問題を改めて取り上げようと思い直したのでした。

 まず、「オノゴロ島」ってなんでしょうか。古事記の国生みの段 に出てくる。

『ここに天つ神諸(もろもろ)の命(みこと)もちて、伊邪那岐命、伊邪 郵美命、二柱の神に、「この漂へる国を修(おさ)め理(つく)り固め成 せ。」と詔りて、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依(ことよ)さしたま ひき。故(かれ)、二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下 ろして晝(か)きたまへば、塩こをろこをろに晝き鳴(な)して引き上げ たまふ時、その矛の末(さき)より垂(しただ)り落つる塩、累(かさ)な り積もりて島と成りき。これ淤能碁呂島(おのごろじま)なり。その島 に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。』

 イザナギとイザナミは、このオノゴロ島を基点にして「まぐわい (婚)」により次々に国を生んでいく。いわゆる大八洲国。この大 八洲国の古田さんによる解明は、すでに 「真説・古代史(3)」 で取り上げた。その国生みの本質は次のようであった。

 イザナギ・イザナミがオノゴロ島を基点に行なった「国生み」は
『暁の太陽が東方に昇って、徐々に西方へと光をのばし、やがて朝の 全域にてりかがやくように、大八洲国の中の「東限」なる、幽冥の地 〝淡路島から″国を生みはじめ、還り来って「天の両屋」つまり博多 湾の東北方なる沖ノ島を生んで、国生みを終結した。』

 さて、オノゴロ島は何処だろうか。

 考古学者・森浩一さんは「日本神話の考古学」で次のように述べて いる。

『男女二神のオノコロ島づくりは……“コオロコオロ”と塩の結晶を 道具でかきまぜる音まで入れて、取り入れられている。』

『このように製塩の情景を思い浮かべると、男女二神は製塩技術にも たけていたか、あるいはそのような仕事を日ごろ見なれている海人系 として扱われているのである。……「記・紀」の展開では、オノコロ 島は男女二神の“まぐわい”(婚)の場として必要であった。』

 つまり、オノゴロ島は塩をかき混ぜる音から擬音的につけられた 名前であり、話しの展開の都合で必要とさてた観念上の島であり、 実在の島ではないと考えている。

 〝潮の鳴る音″から名づけたという学者もいる。あるいは〝自から 凝(こ)る″の意味からの命名だと言う学者もいる。

 これらの説は、
『一切の先入観を排し、まず原文全体の表記のルールを見出す。つぎ にそのルールによって問題の一つ一つの部分を解読する。』
という古田さんの研究方法から見れば、論証抜きの恣意的な説に 過ぎない。

 『記・紀』の地名説話では〝話の筋にあわせて地名を創作した” ような形跡はほとんど認めることができない。逆に、現存地名をも とにして、それと似た音やゴロあわせを基にして説話を創作して いる。それが『記・紀』の地名説話のルールだ。つまり、創作対象 は「説話」であって、「地名」ではない。

 また、次のように説く学者もいる。

『おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて わが国見れば 淡島  淤能碁呂島 檳榔(あじまき)の島もみゆ 放(さ)けつ島見ゆ』
  この仁徳記(古事記、日本書紀にはない。)の歌から、「オノゴ ロ島」は淡路島周辺の島であると言う。この説に対して、古田さん は次のように批判している。


 この仁徳の歌は、もしかりにこれが仁徳時点の歌だったとしても、 たかだか仁徳時代(五世紀ころ)の、近畿天皇家内の認識を示すも のにすぎない。もはや「伝承の原義」は見失われ、〝近畿中心主義 の観念″に立って、「オノゴロ島」を淡路島の近辺と〝錯覚″した のである。

 「オノゴロ島」伝承はきわめて古い。それは『書紀』の一書とし て引かれた「日本旧記」の中に、大八洲国生み説話をともなわぬ単 一の形で三回(第四段、第三、第四、第五、一書)も出現している。 すなわち、「大八洲国、国生み神話」より、その淵源が古いのであ る。

 それでは古田さんはオノゴロ島を何処に比定しているのだろうか。 結論を先に言えば、それは博多湾内にある「能古(のこの)島」である。 その結論に至る論証を、次回、追ってみよう。