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424 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(76)
日出ずる処の天子(7) ― 法隆寺の中の九州王朝(2)
2006年1月20日(木)


「上宮法皇=聖徳太子」という定説を誤りとする論拠をまとめてみる。

第一点・「法興」という年号
 これは「倭国年号」であって、ヤマト王権のものではない。

第ニ点・「法皇」という称号。
 前回引用の日本書紀の記事では「厩戸皇子と曰す。」の後に、後世の呼称と思われる 聖徳太子に対する称号が三種類書き添えられている。

 更(また)は名けで豊耳聡聖徳といふ。或いは豊聡耳法大王と名く。或い法主王と 云す。

 聖徳太子は終生天子となったことはないのだから当然「法皇」とは呼ばない。 あくまでも「大王」あるいは「王」である。

第三点・「上宮」の意味。
 定説が「上宮法皇=聖徳太子」と断じている最大の論拠「上宮」について、 古田さんは次のように論述している。

 聖徳太子における「上宮」の名は、奈良県桜井市に残る「ウエノミヤ」の字 地名がこれに当るとされている。ところが、阿蘇山にも「上宮」(山頂にあった というもの)「下宮」(現、阿蘇神社)があり、大分県の英彦山南辺にも上宮山 があり、太宰府裏の竃門神社に「上宮」(山頂)「中宮」(中腹)「下宮」 (山麓)があるなど、その例はおびただしい。

 したがって「上宮」の二字をもって、「聖徳太子にあやまりなし」と信ずるのは、 「関白」とあれば、すべて「豊臣秀吉」と盲信する類の理解法ではあるまいか。 平安や室町期の文献にも、関白の頻出すること、当然だ。

 その上、この光背銘の「上宮」と聖徳太子の「上宮」には、重大な差違がある。 なぜなら、この「上宮法皇」の方は、この「上宮」で死んだ。この銘文がひっきょ うして死亡記事であり、その中心人物に関する在地名、もしくは在処名が、この 「上宮」の一語しか出現していないのであるから、そのように判断するしか、道はない。  しかるに、聖徳太子はこれに反する。推古紀の、

(推古九年)春二月、皇太子、初めて宮室を斑鳩に興す。

の一文が明示するように、以後、太子は斑鳩の地(現、法隆寺近辺)に住み、ここ で没したのである。 (推古二十九年)春二月、己丑朔、癸巳、半夜、厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨ず。

と明記されてあって、疑うべきところはない。要するに「上宮太子」の名は、そこに 住んでいた頃の名が、一種の固有名詞化して残った、あるいは使われたものであって、〝聖徳太子 は、上宮で死んだ″というテーマの表現ではないこと、当然である。

 このように考えてみれば、この「上宮」の一字をもって、「聖徳太子」と同一人物視 することの、いかに皮相の見方にすぎぬかが知られよう。



第四点・没年月日の矛盾。
 銘文の上宮法皇は法興32年(622)の2月22日に没している。
 これに対し聖徳太子は推古29年(621)の2月5日)に没したと「日本書紀」は 伝えている。到底、同一人物ではありえない。

 この矛盾を「定説」はどのように言い逃れているのか。例によって「日本書紀」 の記録を誤りだとする。これについての古田さんの批判は次のようだ。

 しかし、静思してみると、これは不可解である。なぜなら、この没年の時期は 『日本書紀』成立の養老4年(720)から、わずか百年前だ。その百年の間に、 聖徳太子の正しい没年月日が全く失われてしまったのであろうか。
 しかも、『日本書紀』が一人の迂闊な歴史家による草々の間の叙述なら、まだよ い。さに非ず。近畿天皇家のフル・メンバーを動員し、舎人親王を中心として成立し た正史だ。大和を中心とする貴族や学者たちのすべてが、この高名な太子の正しい没 年月日を忘れ去っていたのであろうか。

 それだけではない。この正史は、作られたあと、ひっそりと、何人かの机底に眠っ ていたのではない。逆に、近畿天皇家内の人士の間で、あるいは前で、さかんに講読 の行われたこと、すでに諸研究の明らかにしているごとくだ。

 とすれば、聖徳太子の乳母や知人、その葬儀に立ち会うた家々の人々、その子供や 孫が、この正史の講読の席に参じたはずだ。その中の誰一人、この没年月日の錯乱に 気づかなかったのであろうか。信じがたい。

 第一、その百年の間、聖徳太子の命日に、誰一人、この著名な太子をまつることす らしなかったのであろうか。『日本書紀』中において、聖徳太子は―天皇を除いて― 最大のスターとすらいえよう。これに比肩しうる者としては、わずかに日本武尊を 数えうるのみであろう。
 ところがこちらはわずか百年前。全員忘却の霧に埋もれるにはあまりにも短かす ぎる。この判断は果たして不当だろうか。

 このように考えてみれば、やはり『書紀』の伝える聖徳太子の没年月日は正しい、 とせねばならぬ。一般的な『書紀』不信論の問題と、これを混交してはならぬ。なぜ なら、確かに『書紀』という史書には、遺憾ながらあまりにも欺瞞が多い。盗用と おぼしき部分も決して少なくない。けれども、それらはすべて、あくまで天皇家の ためという明確な目標をもつ欺瞞である。無目的に、ただ執筆者の好みで史実を 漫然と書き歪めた、などということをわたしは信ずることができない。多数の貴族・ 学者たちの共同著作であるという点、正史であるという点、いずれから見ても、それ は不可能である。とすれば、やはり、聖徳太子の没年月日は『書紀』の記す通り、 推古二十九年二月五日である。わたしはそのように考えるほかはないのである。


第五点・推古天皇の不在。
 古田さんの論述。
 この光背銘が聖徳太子に関するものに非ざることを決定的に立証するもの、それ はこの光背銘における推古天皇の不在だ。聖徳太子がナンバー・ツーであった生前 はもとより、没後の今(癸未年=623=推古31年)作られる釈迦三尊は、当然推古 天皇下、それもそのお膝元で作られたはずだ。それなのに、その推古天皇らしき存在が、名はおろか、 影も形も見えていない。この一事をもってしても、本来、この光背銘を推古朝下の 飛鳥仏と見なすことは、牽強付会に非ずんば、到底無理だったのではあるまいか。

では、「上宮法皇」とは誰なのか。
425 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(77)
日出ずる処の天子(8) ― 法隆寺の中の九州王朝(3)
2006年1月22日(日)


 九州王朝の倭王・多利思北孤(=日出づる処の天子)がイ妥国伝に登場するのは 開皇20年(600)~大業4年(608)である。一方、法隆寺釈迦三尊の光背銘に刻印された 九州元号・法興は591年~622年に当たる。「上宮法皇=多利思北孤」だ。

 イ妥国伝が伝える多利思北孤に関する記述は、光背銘の「上宮法皇」をめぐる記載内容と よく対応している。以下、古田さんの論述を掲載しよう。


 多利思北孤は「日出づる処の天子」をもって自称すると共に、

 出でて政を聴くに跏趺して坐す。

とあるように、仏法の威儀たる結伽趺坐の姿をもって政務を聴いた、という。峻厳なる仏法 統治を志していたものと見られる。
 これに対し、釈迦三尊もまた、中央の釈迦像のみは、結伽趺坐の姿で作られている。仏像 として当然であるかとも見えようが、両脇侍が立像である点、また尺寸王身で作られたとい う釈迦像は、平常の「上宮法皇」の姿を摸したもの、と見られる点、見のがしがたい一致と いわねばならぬ。


 多利思北孤は、隋に使者を派遣し、次のように言わせていた。

 大業三年(607、煬帝)、其の王多利思北孤、使を遣わして朝貢す。
 使者曰く「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて 沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。

 このときの使者が持参した国書、それが例の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致 す、志無きや、云々」の文辞をふくむものだった。その上、多利思北孤は「沙門数十人」を送り、 仏法を学ばせているのであるから、仏法を篤く信じた王者であったことは、十 分に察しえよう。

 したがって相手(隋の煬帝)に対して「海西の菩薩天子」と呼びかけたとき、みずからも 「海東の菩薩天子」という自負をもっていたと見なすこと、それはおそらく不当ではないで あろう。
 とすれば、その「菩薩天子」とは、すなわち〝仏法に帰依した天子″の謂いに他ならぬ。 それは〝結伽趺坐して政務を聴いた天子″たる多利思北孤にふさわしき自負である。
 これと、光背銘中の「法皇」の称号、それは全く内実を同じくすることを、わたしたち  は知るのである。


 さらに、多利思北孤は、煬帝に対し、

 重興仏法(重ねて仏法を興す)

と、使者に言わせている。「重ねて」というのは、〝ふたたび″の意だ。煬帝をもって、〝第 二回目″に仏法を興隆させた天子、と見なしているのだ。では、〝第一回目″は。もちろん、 多利思北孤自身だ。みずからが仏法を興したことを前提にした上での発言なのである。
 では、「仏法を興す」という言葉を一個の熟語とすれば、それは何か。当然「法興」の一 語だ。

 以上、在位期間、「上宮」「法興」と、いずれも、光背銘とイ妥国伝と、中心人物の性格が本 質的に対応し、一致していることが知られよう。

 これによって意外にも、「多利思北孤(九州の王者)=上宮法皇」 の帰結にわたしたちは 到着せざるをえないのである。

427 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(78)
白村江(はくすきのえ)の戦(1)
2006年1月27日(金)



 618年、中国では禅譲という形で隋王朝が滅亡し唐王朝が成立した。
 「日出ずる処の天子」が隋と対等に付き合おうとして煬帝の不興を買ったのに対して、ヤマト王権は唐にたいしてひたすら朝貢外交に始終し良好な関係を維持していた。このあたりの事情を古田さんは「日本書紀・舒明紀」と「旧唐書・倭国日本伝」の記事から読み解いている。
 まず、「舒明紀」の記事。

(1)(舒明2年=630)秋八月癸巳朔丁酉、大仁犬上君三田耜(みたすき)・大仁薬師恵日(くすしゑにち)を以て大唐に遣はす。

(2)(舒明4年=632)秋八月、大唐、高表仁を遣はして三田耜を送らしむ。

(3)(同4年10月)便(すなは)ち高表仁等に告げて曰く「天子の命ずる所の使、天皇の朝(みかど)に到ると聞き、之を迎へしむ」と。
 時に高表仁対(こた)へて曰く「風寒き日に、船艘を飾り整へ、以て迎へ賜ふ、歓愧(くわんき)す」と。

(4)(舒明5年=633)春正月己卯朔甲辰、大唐の客、高表仁等、国に帰る。

 次は「旧唐書・倭国日本伝」の記事。

(A)貞観五年、使を遣わして万物を献ず。太宗その道の遠きを衿(あわ)れみ、所司に勅して歳ごとに斉せしむるなし。
 また新州の刺使高表仁を遣わし、節を持して往いてこれを撫せしむ。表仁、綏遠(すいえん)の才なく、王子と礼を争い、朝命を宜(の)べずして還る。

 貞観五年は西暦で631年に当たる。つまり(A)は(1)と(2)の間に入ることになり、全てをヤマト王権と唐との外交記事と考えると時間の誤差が生じる。さらにそれ以上に(A)と(3)との外交の実態の決定的な相違点が大きな問題となる。

 (A)の記事について岩波文庫版は『礼を争ったことは、日本の記録にないが、当時の実状としてありそうなことである。』と注記している。このようにして「決定的な相違点」の解明を試みる学者はいない。古田さんを除いては。

 「近畿天皇家一元主義」(従来の古代学に対する古田さんの評語)を止揚した古田さんの論述は次のようである。



 (1)~(4)のように、両者ともきわめて仲むつまじいままで、帰国に至っている。
 これに反し(A)の場合、「王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る」というわれている。史書としては異例のことに属しよう。

 これも考えてみれば、当然のことかもしれぬ。なぜなら、多利思北孤は、みずから「日出づる処の天子」を称していた。それが訂正された形跡はない。裴世清は口頭外交をもって、事態の悪化を回避したにすぎぬ。
 したがって、まともに、両者が自己の格式(ともに天子)を主張すれば、大唐の使者と倭王と、相対するときの座の取り方一つで、衝突することであろう。そしてそれは原理上、和する可能性はない。

 なぜなら、たとえば魏使と卑弥呼の対面の場合、必ず、魏帝の代理人たる魏使が上座、卑弥呼が下座であったことと思われる。
 この点、大唐の使者(高表仁)もまた、それを要求し、倭国側は対等(天子同士)を要求するとすれば、高表仁が倭王に会う前に(前段階に王子と会ったさい)、すでに位取りをめぐる紛争が生じることは自明だ。高表仁は、四角四面に大唐の立場を主張し、倭国の王子側の大義名分論とおりあうことができなかったのではあるまいか。

 この点、舒明の方は逆だ。「天子→天皇」だ。これは前者が優位、後者が劣位なのである。推古時代、「皇帝→天皇」であって、しかも朝貢の語が使われていた。推古側も、これを容認して返報している。おそらく舒明時代も、これと同じ態度だったであろう。高表仁はここに、和すべき相手を見出したはずである。

 要するに、近畿天皇家の使者は、九州王朝の使者の配下(地方の雄者、分流)として、同時に、あるいは前後して、大唐と交流した。しかし、両者の姿勢は、大唐側から見て、決定的にちがっていた。一方は、戦うべき相手、他方は和すべき相手だったのである。
 大唐側は、ただ漠然と決戦に突入したのではない。相手の内側を見定め、戦中と戦後への手を打っていた。少なくとも、手を定めていたのではあるまいか。
 裴世清・高表仁と、相次ぐ近畿天皇家との交流は、そのための下見、あるいは根まわしだったのではあるまいか。

 なお、右のように考えると、一つの不審が生ずるかもしれぬ。〝大唐と近畿天皇家との交流が『旧唐書』には現われていないことになるではないか″と。
 しかし、実はこの点は不審でも何でもない。なぜなら中国としては、「夷蛮」の各国主のみならず、配下の各豪族とも、幾多交流の歴史をもつ。たとえば、匈奴の単于との交流のみならず、各配下の単于とも直接交流が存した。けれども、その一つ一つがすべて匈奴伝に書かれるわけではない。むしろ、代表の単于との国交のみを記し、他は省略する。その方が原則なのである。

 さて、倭国の場合。七世紀代では、中国側が日本列島代表の王者と見なしていたのは、九州王朝、すなわち倭国の王者だった。「東西五月行、南北三月行」といった表現が、それを物語っている。
 したがって他(近畿天皇家以外にも、吉備や毛野や出雲など)の権力者も、それぞれ中国との交流を求めたであろう。中国も、礼(上下関係)さえ守れば、こばむところではなかった。しかし、それらは正史に必ずしも記載さるべきものではないのである。



 上記文中、「一方は、戦うべき相手、他方は和すべき相手だったのである。大唐側は、ただ漠然と決戦に突入したのではない。相手の内側を見定め、戦中と戦後への手を打っていた。」とあるが、ここで言う決戦とはいわゆる「白村江の戦い」である。この戦いを戦ったのは九州王朝であり、九州王朝は徹底的な敗北を喫した。九州王朝がその覇権をヤマト王権に奪われることになる直接の原因である。
428 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(79)
白村江の戦(2)
2006年1月29日(日)


 「白村江の戦」を「旧唐書」の「百済伝」と「帝紀」で読んでみる。
 。
660年(顕慶5年)
 百済の僧、道?、旧将、福信、衆を率いて周留城に拠り、以て叛す。使を遣わして倭国に往かしめ、故王子、扶余豊を迎え、立てて王と為す。(百済伝)

(イ)八月庚辰、蘇定方等、討ちて百済を平らげ、其の王、扶余義慈を面縛す。
(ロ)十一月戊戌朔、?国公、蘇定方、百済王、扶余義慈、太子隆等五十八人を献じ、則天門に俘とし、責(せき)して之を宥(ゆる)す。(帝紀)

 百済の将・福信の策戦により王位についた「扶余豊」とは、倭国で人質生活を送っていた王子である。
 これに対し、唐側が擁立していた百済王は「扶余隆」という。上の記事で福信を「旧将」と呼び、扶余豊を「故王子」と呼んでいるのは、その時点では彼等は百済の正規な将でも、現役の王子でもなかった、という唐側の立場を表明していることになる。

662年(龍朔2年)
 (7月、扶余豊)又使を遣わして高麗及び倭国に往かしめ、兵を請いて以て官軍を拒(ふせ)がしむ。

仁軌(帯方州刺史、劉仁軌)、扶余豊之衆に白江之口に遇い、四戦皆捷つ。其の舟四百艘を焚き、賊衆大潰す。扶余豊、身を脱して走る。偽王子、扶余忠勝・忠志等、士女及び倭衆を率いて並びに降る。百済の諸城、皆復(また)帰順す。孫仁師(左威衛将軍)と劉仁願(郎将)等と、振旅して還る。(百済伝)

 いわゆる「白村江の戦」である。唐側が連戦連勝したことを伝えている。しかし「旧唐書・帝紀」には「白村江の戦い」の記事がない。これについて古田さんは次のように論述している。


 ことは、本質的に、上の(イ)(ロ)の事件であり、顕慶五年という「白江の戦の二年前」に、すでに、終結していたのである。
 では、二年後の「白江の戦」とは何か。〝百済の叛徒を倭国や高句麗が救援した。それを新しい百済王の扶余隆と共に、これを討滅した″。いわゆる残敵掃討戦にすぎないのである。
 そして〝叛徒を支援した、高句麗は新羅に、倭国は日本によって、滅ぼされ、併呑され、消滅した″。さらに新百済も、新羅に併呑された。
以上が、東アジアの中心国たる大唐の目から見た、戦後処理であった。



429 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(80)
白村江の戦(3)
2006年1月29日(日)


 「日本書紀」は「白村江の戦」をどのように記録しているか。
 『旧唐書』『三国史記』によれば「白村江の戦」は662年に戦われた。天智元年に当たる。しかし日本書紀は天智2年(663)8月としている。こんな大事件なのに一年のずれがある。関係記事を、古田さんは次のように抄録している。

663年(天智2年)
(A)3月
 前将軍、上毛野君稚子(かみつけののきみわかこ)・間人連大蓋(ましとのむらじおはふた)、中将軍、巨勢神前臣訳語(こせのかむさきのおみをさ)・三輪君根麻呂(ねまろ)、後将軍、阿部引田臣比邏夫(ひけたのおみひらぶ)、大宅臣鎌柄(かまつか)を遣はし、二万七千人を率て新羅を打たしむ。

(B)6月
 前将軍、上毛野君稚子等、新羅の沙鼻岐奴江(さびきめえ)、二城を取る。

(C)8月
13日
 是に、百済、賊(新羅)の計る所を知り、諸将に謂ひて曰く、「今聞く、大日本国の救将、廬原(いほはら)君臣、健児万余を率ゐて、正に海を越えて至らむ。願はくは、諸将軍等は預(あらかじ)め図るべし。我自ら往きて白村(はくすき)に待ち饗(あ)へむ」と。
17日
 戊戌、賊将、州柔(つぬ)に至り、其の王城を繞(かこ)む、大唐の軍将、戦船一百七十艘を率ゐ、白村江に陣烈す。
27日
 戊申、日本の船師・初めて至る者、大唐の船師と合戦す。日本不利にして退く。大唐陣を堅くして守る。
28日
 己酉、日本の諸将、百済王と、気象を観ずして、相謂ひて曰く、「我等、先を争はば、彼応(まさ)に自(おのづか)ら退くべし」と。更に、日本の乱伍の中軍の卒を率ゐ、進んで大唐の堅陣の軍を打つ。大唐、便ち左右より船を爽(はさ)んで繞戦(じょうせん)す。須臾(しゅゆ)の際、官軍敗続す。水に赴いて溺死する者衆(おほ)し。艫軸(へとも)、廻旋するを得ず。……其の時、百済王豊璋、数人と船に乗り、高麗に逃げ去る。

 この記事に対する古田さんの論述は次の通りである。


 「前・中・後軍」の陣立ての中で、「上毛野君稚子」が筆頭にあげられてある。第二巻の好太王碑のところでのべたように、王と王子等が先頭に立って戦う慣例から見ると、この人物のもつ役割は大きい、と見ねばならぬ。
 しかし、右の(A)(B)の記事の以後、彼の名は一切現われない(この六将軍のうち、「巨勢神前臣・三輪君根麻呂・大宅臣鎌柄」の三人も同様、他に現われない。これに対し、「間人達大蓋・阿部引田臣比邏夫」のみは、あとに出現する。前者は、天武4年4月に「小錦中」を与えられ、後者は、その前後、活躍したこと著名。斉明期には「筑紫大宰帥」だったようである。 ―『続日本紀』養老4年正月27日条)。


 次いで、古田さんは次の「持統紀」の記事に着目する。

(D)690年(持統4年)10月
 乙丑、軍丁、筑後国の上陽郡(かみつやめのこおり)の人、大伴部博麻(おおともべのはかま)に詔して曰く「天豊財量目足(あめとよたからいかしひたらし)姫天皇(斉明天皇)の七年(661)、百済を救ふ役に、汝は唐軍の為に虜とせらる。天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇(天智天皇)三年(664)に?(およ)びて、土師(はじの)連富杼(ほど)・氷連老(おゆ)・筑紫君薩夜麻(さちやま)・弓削連元宝(がんほう)の児、四人、唐人の計る所を奏聞せむと思欲(おも)へども、衣粮無きに縁(よ)りて、達する能はざるを憂ふ……」


「筑紫君薩夜麻」が唐側の捕虜となっている。おそらく白江の敗戦のとき(もしくはその前後)であろう。ところが、戦いの時点には、この人物の名は一切出現しない。
 出現するのは、天智10年(671)11月、「沙門道久・韓嶋勝裟婆(すぐりさば)・布師首磐(ぬのしおといわ) 」と共に、捕囚生活から釈放されて帰ってきた記事がはじめてだ。妙な話である。
 その帰国の秘密の裏側には、(D)にしめされた大伴部博麻が、みずからの身を奴隷に売って、彼等の帰国の資を得るという献身の美が存在したのであった。

 では、この「筑紫君」が、捕囚された経緯は何か。『日本書紀』は、明白にそれをカットしているから知りえない。知りえないけれど、分ることは、一に、先の「前・中・後軍」の中に入っていないこと。入っていれば、1六将軍以上」の存在であることだ。そして先ほどもふれたように、「王」が陣頭に立つ。これが東夷の国々の武勇の伝統であった。好太王碑にも『三国史記』にも、点々とそれはしめされていた。倭王済の父子も、同じ運命を辿っていたようである。

 以上の考察からすれば、答は次のようだ。
 (一)筑紫君薩夜麻(天智10年11月項では、薩野馬の卑字)は、対唐戦に参加していた。
 (二)「前・中・後軍」の三軍の上にあり、これを陣頭で統率していた。

 すなわち、右の帰結は次のようだ。――"(A)の三軍派遣の主語は、本来「筑紫の君」であった″ と。
 以上のように理解するとき、この記事は、中国や朝鮮半島側の史書と一致するのである。