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353 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(6)
『記・紀』の中の東鯷国
2005年8月6日(土)


 これから読む部分は「神武東征」(古田さんは「神武東侵」と呼んでいる。)の説話を 史実を反映したものとする古田さんの解読の結果が前提となる。「神武東侵」の論考は いずれ詳しく読むことになるが、いまはその解読の結果である初期の「ヤマト王権」成立 の経緯を簡単にまとめておく。

 奈良盆地に侵略したイワレヒコはその一画を占拠することに成功はしたが、それ以上の成果は なく、むしろ失意のうちに没する。とても「国家」といえたものではなく、やっと地方の 一小豪族として蟠踞したにすぎなかった。
 その後第2~9代までの王の時代は大和盆地外への勢力拡大はできなかった。初期八代に ついての「記・紀」の記事が貧弱なのはそのためである。(記事らしい記事がないことを 理由に初期九代(イワレヒコも含めて)を「架空のおはなし」とみなすのがこれまでの 「定説」だ。)
 第10代(崇神)・11代(垂仁)の時代になって、大和盆地外への侵出戦争を開始し、 勢力拡大に成功した。銅鐸圏、すなわち東鯷国の中枢部を打倒し、その遺産を簒奪した のである。
 それに次ぐ第12代(景行)の拡大・安定期を経て、ようやく天皇家は、王朝 (正確には、九州王朝の分王朝)としての資格と実質をそなえるにいたった。

 本題に入る前に、一度表にしておくと何かと便利なので、イワレヒコ(神武)から ホンタ(応神)までの和風呼び名と漢風諡号を掲載しておく。(「日本書記」による)


 1 カムヤマトイワレヒコ(神武ジンム)     ⇒一世紀末頃?
 2 カムヌナカワミミ(綏靖スイゼイ)
 3 シキツヒコタマテミ(安寧アンネイ)
 4 オホヤマトヒコスキトモ(懿徳イトク)
 5 ミマツホコカヱシネ(孝昭カウセウ)
 6 ヤマトタラヒコクニオシヒト(孝安カウアン)
 7 オホヤマトネコヒコフトニ(孝霊カウレイ)
 8 オホヤマトネコヒコクニクル(孝元カウグヱン)
 9 ワカヤマトネコヒコオオヒ(開化カイクワ)
10 ミマキイリビコイニヱ(崇神シウジン)
11 イクメイリビコイサチ(垂仁スイニン)
12 オホタラシヒコオシロワケ(景行ケイカウ)
13 ワカタラシヒコ(成務セイム)
14 タラシナカツヒコ(仲哀チウアイ)
15 オキナガタラシヒメ(神功ジングウ)
16 ホムタ(応神オウジン)            ⇒四世紀末頃?

 なお、古田さんの論証によれば、五世紀の倭国の中心(首都圏)は
いまだ筑紫にあったという。

 さて、古田さんは『記・紀』の中から「東鯷国」の存在を裏付ける記事を拾い出して、 次のように論じている。

 成務記および成務紀には、次の有名な記事がある。

(1) 故、建内宿禰を大臣と為し、大国・小国の国造を定め賜ひ、亦国国の堺、及び大県・ 小県の県主を定め賜ひき。(『古事記』成務記)
(2) 五年秋九月、諸国に令し、国郡を以て造長を立て、県邑に稲置を置く。並びに盾矛を 賜ひ、以て表と為す。則ち山河を隔てて国県を分ち、阡陌に随ひて以て邑里を定む。 (『日本書紀』成務紀)

 ここでは、「県」や「県主」といった行政単位や称号が、天皇家によって定められたこと がのべられている。すなわち、創設記事である。
 ところが記紀ともに、成務時代以前に、「県」や「県主」の記事は頻出する。

(a) 此の天皇、師木県主の祖、河俣毘売をして生める御子……。 (『古事記』綏靖記)
(b) 此の天皇、河俣毘売の兄、県主波延の女、阿久斗比売を娶して生める 御子……。(『古事記』安寧記)
(C) 此の天皇、旦波の大県主、名は由碁理の女、竹野比売を娶して生める 御子…。(『古事記』開化記)
(d) 遂に菟田の下県に達す。(『日本書紀』神武紀)
(e) 此の両人は、菟田の県の魁帥なる者なり。(同右)

 創設記事以前に、これらの記事が遠慮なく出現する。これは一体どうしたことであろう か。矛盾だ。この矛盾に対して、本居宣長は苦悶した。ために『古事記伝』の中の成務記 において、長文を割いて弁じている。県に対する語解を種々試みた末、結局「県」とは「御 県の略」であって、〝天皇の直轄地″のこと、そのように彼は論じた。

 かゝれば県と云は、もと御上田より起れる名にて、又共に准へて、諸国にある、朝廷の 御料ふ地をも云フ、此に大県小県とあるは是なり。

 のごとくである。では、先の矛盾に対しては、いかに回答するか、いわく、

① さて国ノ造と云物を、此ノ時初めて定メ賜ふには非ず。是レより前にも有りつれど も、此ノ時に更に広く多く定め賜へりしなるべし。(『古事記伝』〕
② さて此に県主を定メ賜ふとあるも、初めて此ノ職を置れたりとには非ず、かの国ノ造 を定メ賜へると同じことなり。(同右)

 このように「定める」とは、「補修」の意で、「創設」に非ず、として一気に中央突破を 図ったのである。
 けれども、冷静に再検証すれば、この企図が暴断であったことは、直ちに判明しよう。な ぜなら、

 第一、『古事記』の他の個所では、「定め(賜ひ)き」とある場合、補修の意ではない。 また宣長も、そのように解していない。

  又木梨之軽太子の御名代と為て軽部を定め、大后の御名代と為て、刑部を定め…… (『古事記』允恭記)

 しかるに、ここだけ、こちらの都合で意味を改変するのは、不当だ。

 第二、もしこれが「補修記事」なら、創設記事がどこにもなく、いきなり補修記事という のは不可解だ。

 第三、「補修」ならば、この回にとどまらず、何回もあったであろう。しかるに、ここだ け補修記事というのでは、おかしい。

 以上だ。宣長の長広舌も、新たな矛盾の馬脚を次々と露呈しているのである。  では、真の回答は何か。


 宣長のつじつま合わせの理論はいただけない。真の答は、当然、次のようになるだろう。
 (1)(2)の記事は、当然創設記事だ。それも、天皇家による創設の記事なのである。
 (a)~(b)の記事の「県」や「県主」は、当然天皇家任命下のそれらではない。天皇家以前 の、あるいは天皇家以外の行政単位、また称号名である。「神武~開化」の頃は、 とても行政単位や、その長の称号名を独自に設けるほどの分際ではなかったのだから。

 最後に古田さんは、以上の論定を裏付けるものとして次の2点を挙げて締めくくっている。 いる。

(A)
 先にのべたように『古事記』のしめすところ「神武~開化間」は、大和盆地内の支配に とどまっていた。しかるに、右の(c)では、大和盆地外の豪族として「旦波の大県主」の名が ある。この称号が天皇家任命下の称号であるべき道理がない。
(B)
 『日本書紀』が語る「革命の論理」、「革命」前の覆された王朝には、行政単位も、その 長の称号名もない、そんなことが考えられようか。神武の前王朝の存在を自明とした 『書紀』の編者は、また天皇家以前の、また以外の、行政単位やその長の称号名の存在を 自明としていた。それゆえ、平然と成務紀に、天皇家による創設記事をおきえたのだ。 このように考えることが『書紀』という文献の事実に則すべき、唯一の見地ではあるまい か。

 以上によって、「神武即位」をもってわが国の建国記事と見なす歴史観、それが不当であ ること、わが国の歴史とは合致せざること、それが証明された。わたしにはそのように信ぜ られる。


07 354 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(7)
「日本書紀」がいう「一書」とはなにか
2005年8月7日(日)


「日本書記巻第一・神代上」は次のように書き始められている。

 古(いにしえ)に天地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰陽(めを)分れ ざりしとき、渾沌(まろか)れたること鶏子(とりのこ)の如くして、 溟(ほのか)にして牙(きざし)を含めり。

 そして、その段落の後に次のように「異伝」を記述している。

 一書に曰く、天地初めて判(わか)るるときに、一物(ひとつのもの)虚中 (そらのなか)に在り。状貌(かたち)言ひ難し。……」

 この「一書」とはなにか。
 古田さんは「日本書記」中の「一書に曰く」を丹念に調べ上げている。 各段ごとにいえば、最少1個(第三段)から最大11個(第五段)の「一書」 が引用されていて、総計実に58個もあるという。これは『日本書紀』の成立 以前すでに日本神話を記録した古典が少なくとも11個くらい、成立していた、 という事を意味している。古田さんのコメントを引用する。

これは当然だ。しかし、不思議はこの直後に発生する。巻第三の「神日本磐余 彦天皇(神武天皇)」以降は、バッタリとこの「一書に曰く」が消滅するとい う事実だ。時に「一に云う」といった形のものはあらわれるけれども、質量と もに神代(巻一、二)の「一書」群の比ではない(ただし、書名を明記した外 国史料の引用としては、『三国志』や百済系三史料〔「百済記」「百済新撰」 「百済本記」〕の引用がある。「神代」については、これほど国内に古典がす でに乱立していたのに、神武以降、ピタリとそれがなくなるのはどうしたわけ だろう。

(中略)

 しかしわたしは、『日本書紀』研究史上のいずれの研究書においても、その 理由を明白にのべているものに出会うことができなかったのである。
 一つの史料をあつかう場合、そこに〝なにが書かれているか?″を論ずる前 に、その史料の成り立ちと素性、つまり「史料性格」を吟味しなければならぬ。 それをやらずに、内容だけ論ずるのでは駄目だ。 ― こう考えると、こんな に唐突な出没の仕方を見せている「神代」の巻々の「一書」を、その成立の謎 を解き明かさぬまま、その内容を論ずることは危険きわまりない。わたしには どうしても、そのように見えたのである。


 「一書」からの引用が「古事記」にはまったくないことを手ががりに古田さんは 次のような事実にいきあたる。(そこまでにいたる論証は省く。)
 『古事記』にない ― この事実はなにを意味するだろう。今まで辿り きたった論理に従えば、〝それは天皇家内伝承にはなかった!″ということ だ。
 では、天皇家内伝承の中にないものが、なぜ『書紀』にあらわれたのだろ う?これも、今までの論証のさし示すところ、〝他から取ってきて挿入され たもの″だ、 ― この帰結しかない。

 天皇家の神話伝承として、だれ一人今まで疑わなかった『書紀』の神代紀、 それまでが、他からの「接ぎ木」だとは!ある人は失笑しよう。ある人は怒り だすだろう。しかし、論理の筋道は厳としてその一点を指さしているのであ る。


 では「天皇家内伝承」でないのなら、「一書」はどこで創られたものなのか。 ずばり、それは「九州王朝発展史」なのだ。むろん九州王朝の神話も収録され ている。その「一書」の書名も「日本書記」に現れている。

 日本旧記に云わく。「久麻那利(こむなり)を以て末多王(またわう)に 賜ふ」と。蓋し是、誤りならむ。久麻那利は、任那国の下?埠呼?県 (あらしたこりのこほり)の別邑(わかれむら)なり。(雄略紀)

 この「日本旧紀」は「記・紀」以前にあったとされる天皇家の史書「帝紀」 や「旧辞」などとは、もちろん、異なるものだ。「日本古典文学大系」 (岩波書店)の頭注には「この書、他に見えず」とある。

 古田さんは「日本旧紀」という書物を分析し、文献資料として次のように 位置づけている。

 『古事記』や『旧事紀』と「日本旧記」との間には、大きなちがいが 一つある。それは前者が「古事の記」「旧事の紀」という書名をもつの に対して、後者はズバリ「旧記」である点だ。つまり、前者の場合〝古事 や旧事を今記した書″という意味だ。ところが、後者の場合、「旧」は 「記」にかかっている。つまり、〝古い時点ですでに記録された本の類集″ 〝古い記録類の集成書″という意味をもっているのだ(「古くから書かれ た一冊の本」そのものなら、今あらためて「旧記」と呼ぶ必要はない。もと の書名のままでいい。「旧記類の今の類集書」であるからこそ、今「日本 旧記」と名づけられたのである)。
 いいかえれば、この本の成立自体は先にのべたように六世紀中葉だ。だが、 その「六世紀中葉」という「今」において、旧来の伝承を記録した、そういう 本ではない。六世紀中葉から見て、より古い時代にすでに記録されていた資料 類がその内容だ。だから少なくとも五世紀段階に成立していた多くの記録類を 「今」(六世紀中葉)の時点で集大成した、 ― そういう性格を示す書名な のである。

 「日本書記」の「神代紀」の舞台は九州であり、九州王朝の神話である。だ から「神代紀」に頻出していた「一書」群が、神武以降つまり九州が舞台でな くなったとたんに、姿をけしてしまったのだ。つまり、この一線を境に依拠 すべき資料・史料がすっかりちがってしまったのだ。

 「日本書紀」は最も肝心なところで、「日本旧紀」からの接ぎ木、挿入、 改ざん、剽窃によって出来上がっている。そのように読むと、いままで「謎」 とか「矛盾」とかされながら解決されないまま放置されていた種々の問題が が濃い霧が晴れるように解決されてしまう。

355 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(8)
「古事記」対「日本書紀」
2005年8月8日(月)


 「記・紀」による古代史解読の論考に立ち入る前にもう一つ明らかにしておきたいこと がある。
 「一つの史料をあつかう場合、そこに〝なにが書かれているか?″を論ずる前 に、その史料の成り立ちと素性、つまり「史料性格」を吟味しなければならぬ。 それをやらずに、内容だけ論ずるのでは駄目だ。」
 これは前回引用した文中の一説だ。「記・紀」についても、その「史料性格」を 知っておく必要があるだろう。

 古事記については「序文偽作説」とか「本文偽作説」とか研究史上(江戸時代から) 絶えることがないという。
 偽書説の主論拠は次の二点だ。

(一)

 『続日本紀』の和銅五年項に、『古事記』撰進の記事がない。他の項にも、一切出 現しない。
(二)

 『古事記』の写本は、奈良・平安・鎌倉期とも一切なく、南北朝期(14世紀)になって  やっと出現した(真福寺本)。

 この二点について、古田さんは次のように述べている。

 〝『古事記』ほどの本が本当に和銅5年に作られ、元明天皇に献上されたとしたら、 『続日本紀』にそれが全く記載されないのは不可解だ″ ― これがあらゆる古事記 偽書説の〝不滅の源泉″だった。たしかにもっともな疑いだ。そして従来のいかなる 偽書否定論も、この問いに対する明快な解答を用意しえなかったのである。
 けれども、今までの論証の立場に立つとき、これに対する答えは決して難解ではな い。その第一のポイントは、「削偽定実」という共通の「天武命題」に立ちながら、 これに対する具体的な実行方法は、『記・紀』両者全く相反している、という点だ。 『古事記』はその大体において、天皇家内伝承に依拠してそれを記録化した。しかし、 『書紀』はこれに満足しなかった。九州王朝の史書たる「日本旧記」、九州王朝と百 済側との交渉史たる百済系三史料(「百済記」「百済新撰」「百済本記」) ― こ れらを続々と〝切り取って″きて近畿天皇家そのものの歴史として編入し、新たに構 成した。 - 端的にいって実在の歴史ならぬ、仮構の歴史の「新作」の史書だった のである。

 その〝切り取って″編入した説話や史実を解読していく見事な論考の数々を次回から 読んでいく予定だ。ここで古田さんがあげている例は「景行の九州大遠征」。これは、 『書紀』においては完全な〝史実″として記載されているが、『古事記』には全くない。 つまり『古事記』においては〝史実″ではないということなのだ。
 現代の学者たちなら、〝どうせ作り話だから……″とか、〝それぞれ、そのような異 伝があったのだろう″として、さして抵抗感もなく、物わかりよくこれに対応できるか もしれぬ。
 しかし、『書紀』は決して〝歴史理解の一説″として書かれているのではない。〝これ が真の歴史である″という、近畿天皇家の「正史」として、書かれたのである。つまり、 近畿天皇家にとって〝以後、これが史実であり、これ以外は史実ではない″として、決定 されたもの、いわば検定ずみの書、国定版の「公認の歴史」なのである。
 これに対して『古事記』はどうだろう。そのような歴史の大がかりな〝虚構操作〟と 〝新編成〟には与せず、内面から近畿天皇家の正統性を語る ― そこにとどまっている。 つまり、和銅5年(712)から養老4年(720)に至る元明・元正の間において、少なくとも 二派の立場が存在したのだ。権力による積極的、全面的な歴史変造を実行しょうとする一 派と、そこまでは踏み切れない一派と。
 そして「帝王本紀」の業績を承けた前者の立場が「正史」としての権限をにぎったので ある。 ― これが『書紀』だ。

 検定不合格の『古事記』の運命はどうなるか。
「正史」なる『書紀』の内容が事実である限り、それに反する『古事記』の内容は事 実ではない。つまり、権力の手で検定された、公認の「正史」が『書紀』なら、これ に反する『古事記』は「偽史」なのだ。一言にしていえば、この両書は〝倶に天を戴 くことのできぬ″関係にあったのである。とすれば、同じく「正史」たる『続日本紀』 に、どうして両者の成立を並載できようか。
 一般に、『続日本紀』は記録性が高い、といわれる。それは事実だ。しかし、それは 〝そこに書いてあることは事実だ″というにとどまる。決して〝権力検定の手がこの 「正史」には、とおっていない″という意味はもたぬ。それは当然だ。だから、「九州 王朝の歴史統合(盗用)」の道が権力の方針として決定されたあと、「正史」として正 面に出ることを拒否された『古事記』、それは書かれなかった ― それだけなのだ。 〝書かれている″としたら、その方がよっぽど〝奇妙″なのである。

 この「記・紀」の「史料性格」についての論考にも、私は全面的に賛意を表すほかない。 そうすると、生き残っていた真福寺本が姿をあらわすまでの約600年間、 「古事記」が存在しなかったことも何ら「謎」ではなくなる。
 近畿天皇家は『古事記』を「公認」せず、流布させなかった。奈良・平安期に朝廷で盛ん に行なわれたのは、『書紀』の講読であって、『古事記』の講義など一切なかったのであ る。
 だから、『古事記』が南北朝期になって〝突如として″出現したのは、近畿天皇家内の 公的なルートではなく、一種〝秘密のルート″、つまり、私的なルートから〝流れ出た″ ものと見られる。おそらく、太安万侶自身の家の系列にながらく「秘蔵」されており、そ の線から、長き時間の暗闇を経過して、やっと「浮上」した写本。それが真福寺本なのでは あるまいか。もちろん、その伝来の詳細は一切不明であるけれども、『古事記』出現の仕方 が『書紀』の公然たる流布と全く異なるというこの事実は、『記・紀』の性格のちがいと、 そのためにたどった両書の運命の隔絶を知りえた今、あえて不審とするにはあたらないので はないだろうか。
 今、『記・紀』と並称される、この二書の間には、権力によって公認されたものと、され ないものと、その差別がハッキリと横たわっていたのである。
356 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(9)
熊襲はどこか(1)
2005年8月9日(火)


 古田さんによると、「日本旧記」という古記録のアンソロジー本は6世紀中頃 に成立したという。「ヤマト王権」が「日本」という国名や「天皇」という大王の呼称を 用いるようになったのは7世紀中頃~8八世紀初めだから、それ以前の書名に「日本」 が使われるのはおかしいと思った方がいるに違いない。私もそう思った。しかしこれも 訂正しなければならないようだ。「日本」や「天皇」はヤマト王権の独占用語 ではなかったのだ。
 百済系三史料(「百済記」「百済新撰」「百済本記」)には 倭国との交渉史が記録されているが、そこに「貴倭・倭国・日本」「天王」「日本の天 皇」等の名称が記載されているという。その交渉史上の「倭国」は九州王朝だから (このことは追々明らかにされるだろう。)そこに記載された各種名称も当然九州王朝 を対象としたものとなる。

 前著(『失われた九州王朝』)で明らかにしたように、「百済記」等の百 済系三史料がいう「貴倭・倭国・日本」「天王」「日本の天皇」等の名称は、いずれも九 州王朝のことである。近畿天皇家のことではない。
 とすると、「日本旧記」という場合の「日本」も、当然、九州王朝のこととなるほか ない。この「日本」という国号について、前の本をふりかえってみよう。近畿天皇家が 「日本」という名称を使いはじめたのは、七世紀の半ば、もしくは八世紀のはじめからだ (『三国史記』によると670年。『史記正義』によると、八世紀初頭、則天武后のとき)。 そこで従来の論者は、「日本」という国号の使用自体、七世紀以前にはなかった、と信じ てきた。これは、近畿天皇家至上主義と唯一主義の大わくの中にみずから知らずして、 しっかりととらえられてしまっていたからである。(「盗まれた神話」より)

 次々と確かだと信じられてきた「定説」がくつがえされていく。実にスリルがある。 ミステリー小説より面白い。いま私の趣味の一つであるミステリー読書が すっかりお留守になってしまった。

 さて、「記・紀」からこぼれ落ちてくる史実を救い出していく古田さんの見事なお手並 みを楽しむことにしよう。まずは九州王朝とは何か。
 ヤマト王権が日本征服を進める上での最大の難敵が熊襲だった。古田さんがまず問題に 取り上げたのは「熊襲」だった。その熊襲はどこにあったのか、と古田さんは問う。
 「定説」は南九州である。この「定説」の史料上の根拠は何か。『古事記』の国生み神話 の中に出てくる次の記事だ。

 次に筑紫島を生みき。比の島も亦、身一つにして面四つ有り。…筑紫国は…、豊国は…、 肥国は…、熊曾国は…。

 なるほどこれは明瞭だ。この配置なら、疑う余地もなく、「熊襲=南九州」という定理 が成立できる。従来、疑われなかったのも、無理はない。
 しかし、わたしは考える。〝蝦夷は東へ移動する″という、有名なテーマがある。 「蝦夷」というのが、東方における「天皇家の未征服民」を指す以上、天皇家の征服領域が 拡大すれば、「蝦夷の住地」もまた、東へ移動するのは当然のことだ(そこで蝦夷と呼ばれ ているものの実体が、同じ種族であるか否かを問わず)。とすると、西なる「熊襲の住地」 も、同じではあるまいか。時代によって、歴史の変転の中で、指す場所が変ってきているの ではないか。つまり、〝北から南へ移動しているのではないか″というわけだ。――この 考えが、一つの突破となった。
 もし上のようだとしたら、『記・紀』を通じてたった一つしかないこの『古事記』の政治 地図にあてはめて、『記・紀』の全熊襲説話を解読してゆくとしたら、これは危険きわまり ない。

(中略)

 この政治地図の生まれや素性、つまりこれがいつ、どこで、だれによって生み出さ れたかは、不明だ。これらを明らかにしない限り、この孤在した一枚の政治地図に頼って 全熊襲説話を読解する、それは、史料操作のやり方として、慎重さを欠いてい る。―わたしはそう判断するほかなかった。
 では、熊襲の位置を実際に判定するには、どうしたらいいか。この出自不明の地図は一応 わたしの手もとに「保留」しておいて、これとは別個に、熊襲説話自身のさし示す熊襲の 地理的位置を求めねばならない。これがわたしの新しい方針となった。


 そこで古田さんは『記・紀』中の次の三つの熊襲記事全部を精読することとなる。

 ① 景行天皇の熊襲大遠征〔『日本書紀』のみ)
 ② 日本武尊の熊襲暗殺説話(『記』『紀』とも)
 ③ 仲衷・神功の熊襲遠征説話(『記』『紀』とも)

357 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(10)
「熊襲」とはどこか(2)
2005年8月10日(水)


 古田さんは『記・紀』の説話を解読する際の前提事項として二つの原則をあげ ている。
 わたしは『記・紀』を見る場合、つぎの二つの原則を大前提とする
(1) 『記・紀』は、天皇家中心の「大義名分」に貫かれた本である。
(2) したがって『記・紀』は古来の伝承に対して、天皇家に「有利」に改削・新加 (新しく付加)することはあっても、「不利」に加削することはない。

 まず、(1)について説明しよう。
 すでに前の本で詳しくのべたように、〝天皇家は永遠の昔から、この日本列島の中心 の存在だったのだ″という「大義名分」が『記・紀』を貫いている。それは「歴史事実 の実証」以前の、いわば「観念」としての大前提なのである。それは国内問題だけではな い。たとえば、

冬十月に、呉国、高麗国、並に朝貢す。(仁徳紀58年)
夏四月に、呉国、使を遺して貢献す。(雄略紀6年)

とあるように、中国(や高麗)との通交さえ、あちらが日本の天皇家に臣従L、朝貢してき たように書いてあるのだ。だから、これは「朝貢」の事実を示す記事ではない。『記・紀』 『記・紀』の大義名分に立った筆法なのである。

 (2)については、健康な常識をもってすれば自明の判断だといえよう。もっともなにが 有利か不利か、理屈をいえば種々疑いが生じよう。たとえば〝これは一見「不利」に見える。 しかし、そのような「不利」な事件をのりこえてきたところに天皇家の歴史のすばらしさが あると見えるように、わざと一見「不利」に造作したのだ″といった風に。
 しかし、『記・紀』はトリックにみちた近代の推理小説ではない。天皇家が公的に開示し た正規の史書(ことに『書紀』の場合)なのだから、あまりまわりくどくひねた解釈で強い て〝「有利」ととる″のではだめだ。簡明率直、万人に与える直裁な印象が問題なのである。

 以上二つの自明の命題、これをわたしは「二つのフィルター」と名づけよう。『記・紀』とい う本の記述には、すべてこの二つのフィルターがかかっている。だから、わたしたちは逆にいつ もこの〝フィルター越し″に、問題の真相を見つめねばならないのだ。この本の進行の中でいつ も・この方法を厳正に適用してゆくとき、この方法のもつ「深い意味」をわたしたちはくりかえ し思い知らされることとなるだろう。


 さて古田さんの解読を読んでみよう。古田さんは時代の新しい方から始めている。つまり

 ③ 仲衷・神功の熊襲遠征説話(『記』『紀』とも)

から。

 この説話には地名はただ一つだけ出てくる。「橿日(かしひ)の宮」。 北九州の福岡市の東にある現在の香椎宮(かしいぐう)。タラシナカ ツヒコ(仲哀)がここで死んでいる。ところがその死に方には二通りの説がある。

(一)
(a)
其の大后息長帯日売命(オキナガタラシヒメノミコト=神功)は、当時神を帰(よ) せき。故、(仲衷)天皇筑紫の討志比宮(かしひのみや)に坐(ま)し、将に熊曾国を撃た んとせし時、天皇御琴を招きゐて、建内宿禰大臣、沙庭に居て、神の命を請ひき。
(中略)
爾(しかる)に稍(やや)其の御琴を取り依りて、那摩那摩邇控(なまなまにひ)き坐し き。故、未だ幾久(いくだ)もあらずて、御琴の音を聞かず。既ち火を挙げて見れば、既 に崩じ訖(おわ)んぬ。(『古事記』)
(b)(仲哀)天皇忽(たちま)ち痛身有りて、明日崩ず。(『書紀』本文〉

(二)一に云ふ、天皇親(みずか)ら熊襲を伐ち、賊の矢に中(あた)りて崩ずるなり。 (『書紀』の「一云」)

 『古事記』では「神がかり死」あるいは「自然死」している。『書紀」本文は「病死」だ。 この二つに対して、(二)の『書紀』「一に云ふ」の方はまったく違う。熊襲征伐中に敵 の矢に当って戦死している。古田さんは問う。「どちらが本当だろう。いいかえれば、どちらが 本来の伝承だったのだろうか。