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《続・「真説古代史」拾遺篇》(6)



「狗奴国」は何処?(1)
基本事項の確認


向井さんのコメント(2011年5月19日)より
「狗奴国の位置」について古田さんの最新の研究成果についてご存知でしたら教えて下さい。
 東京古田会から発行されている『古田武彦と「百問百答」』の「8(1)」(pp.116-118)に『「狗奴国の位置」に関する記事は、三国志の魏志倭人伝には、ない。』と書かれていますが、私は魏志の「此女王境界所盡其南有狗奴國男子為王」の記事から狗奴國は女王国の南にあると(里程記事はないが)書かれていると思っていました。確かに後漢書には「自女王國東度海千餘里至拘奴國」とあります。
 魏志と後漢書の「狗奴國」記事についてトータルとしてどう理解すればよいのでしょうか。私としては「9(1)」(p129)の質問者のように范曄が魏志の「此女王境界所盡其南有狗奴國男子為王」と「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」を混同していると考える方がすっきりと分かるのですが。

――――――――――――

 私は「狗奴国」について表面的なことしか知らないので、今回のテーマも何よりもまず私自身の学習のためのものである。まどろっこしいと思われる方もいるかも知れないが、共通の土俵を設けて問題のありかを整理することから始めよう。まず、向井さんが原文で提示している魏志倭人伝と後漢書倭伝の該当記事を読み下し文で読んでおこう。(岩波文庫版による)。

魏志倭人伝
……次に奴国有り。これ女王の境界の尽くる所なり。其の南に狗奴国あり、男子を王となす。其の官に狗古智卑狗あり。女王に屬せず

後漢書倭伝
女王国より東、海を度(わた)ること千余里、拘奴国に至る。皆倭種なりといえども、女王に屬せず。

 この二つの記事をどう解読するかがこれからの議論の中心課題となる。

 次に「狗奴国」の読み方について確認しておく。

 上に見るように、後漢書では「狗奴」を「拘奴」と表記している。これを「定説」では「クナコク」と読んでいるようだ。

 手元の漢和辞典によると「狗・拘」の音はともに「コウ ク」である。「奴」の音は「ヌ ド」である。『「邪馬台国」はなかった』の「奴国をどう読むか」という項に
『「奴」は「ド」または「ヌ」「ノ」(農都切、『集韻』)であって、三世紀において「ナ」という音であったという確認は存在しないのである。』
とあった。「農都切」というのが私にはさっぱり分らないが、「奴」には「ノ」という音もあったようだ。しかし「ナ」という音はない。「クナコク」という読みは成り立たない。(その後、「反切(はんせつ)」を学習しました。「農都切」の意味が分るようになりましたりました。)

 古田さんは「狗奴国」に関わる論文では「コノコク」と読んでいる場合と「コウヌコク」あるいは「コヌコク」と読んでいる場合がある。この使い分けは後に取り上げることになると思うが、さし当たって私は「狗奴国」を「こうぬこく」と読むことにする。

 次に、議論のとっかかりとして向井さんが取り上げている『古田武彦と「百問百答」』の8(1)と9(1)を読んでおこう。

8(1)
質問(「三国志」の狗奴国の位地)
 初期第一書では不注意に邪馬壱国南、第二書ではそれを訂正のあとがき、その後「60の証言」では邪馬壱国の防衛線を筑後川におき、その南に敵を想定する。現在の考えはどうか、その根拠は。


 質問中の「第一書」とは『「邪馬台国」はなかった』であり、「第二書」とは『失われた九州王朝』を指している。この質問に対する古田さんの答は次の通りである。

 わたしの「狗奴国」に関する説は、次のような「変遷」をとげました。


 不注意に「邪馬壱国の南」とする文章あり。(『「邪馬台国」はなかった』)


 読者からの注意によって訂正。後漢書倭伝の情報によれば、倭国(糸島・博多湾岸中心)の〝東″にあり。瀬戸内海領域と考えた。(「東、千余里」を「短里」によって理解。)


 「邪馬壱国の防衛線を筑後川におく」(「60の証言」) ― これは「中部・南部九州を敵国と見たもの」ではありません。東には瀬戸内海(及び山口県)、西には長崎県、北には玄界灘、いずれも[外敵が侵入してくる]さいの[行路]として、首都圏(太宰府と筑後川流域)を、これらの「外」からの〝侵入″を防ごうとしたものです。
 従って「筑後川以南に〝狗奴国″あり。」の立場ではありません。


 第三の(最近の)立場、これは「千余里=長里」の理解に立つものです。合田洋一さん(古田史学の会)との会話(tel)の途中に気づきました。

(a)
 後漢書倭伝には
  ィ、三国志の魏志倭人伝の「引用」部分、
  ロ、後漢書独自の史料(後漢代の史料にもとづく)。 ― たとえば、有名な「(志賀島の)金印授与(光武帝)」の記事。
の「二種」がある。

(b)
 「狗奴国の位置」に関する記事は,三国志の魏志倭人伝には、ない。

(c)
 従ってこれは、あの金印の記事と同じく、「後漢代の史料」にもとづく「追記」と見るべきである。

(d)
 とすると、「長里の一里=短里の(約)六里」であるから、「糸島・博多湾岸」から東へ「千里」というのは、近畿の一端、大阪府の茨木市・高槻市あたりとなろう。すなわち、当時の「銅鐸圏の中枢部」(東奈良遺跡等)となる。

(e)
 「狗奴」は「この」です。茨木市の東側、枚方市には「高野(この)山」があり、京都府の舞鶴湾近辺には「籠(この)神社」があります。これらとの関係が考えられます。

 古田説の「変遷」の各段階説の出典(初出年)(③は「狗奴国」についての発言ではないので除外して番号を④→③と繰り上げる。)は次のようである。


 『「邪馬台国」はなかった』(1971年)
 (以下、『なかった』と略記する。)

 『失われた九州王朝』(1973年)
 (以下、『失われた』と略記する。)

 「古代に真実を求めて第六集」所収の講演記録『神話実験と倭人伝の全貌』中の「五 魏志倭人伝の全貌」(講演日 2002年7月28日)
 (以下、「講演1」と略記する。)

 『講演1』はHP「新・古代学の扉」で読むことができるが、そこには
「この講演記録は、現在の古田氏の考えと違っております。現在の考えを理解する一助で公開します。」
という断り書きが付けられている。講演の内容は多岐にわたっているので、そのうちのどれが「現在の古田氏の考えと違って」いるのか判然としないが、一応心して取り扱うことにしよう。

 なお、『古田武彦と「百問百答」』が編纂されたのは2004年である。その後、もしも上の回答に変更があったとすれば、次の2資料にその変更が反映されていると考えてよいだろう。


 「古代に真実を求めて第九集」所収の講演記録『「釈迦三尊」はなかった』中の「四 沈黙の論理 - 銅鐸王朝(拘奴国)」(講演日 2005年1月15日)
 (以下、「講演2」と略記する。)
 「講演2」は「講演1」の続編で、九州王朝(邪馬壹国)と銅鐸王朝(拘奴国)との不和の淵源に触れている。

 ミネルヴァ書房による復刊版「古田武彦・古代史コレクション」の巻末に書き下ろしの論文「日本の生きた歴史」が連載されているが、『古田武彦・古代史コレクション2失われた九州王朝』(2010年2月)の「日本の生きた歴史2」には「第六 拘奴国論」がある。「講演1」「講演2」のまとめと言ってよいだろう。短文ながら新たな問題提起も含まれている。私の知る範囲では、これが「狗奴国」についての最新の文章ということになる。もしかすると必要になるかも知れないので、これも資料として追加しておく。


 「日本の生きた歴史2 第六、拘奴国論」(2010年)
(以下、「拘奴国論」と略記する。)

 最後に、8(1)と重複する部分もあるが、9(1)を読んでおこう。

9(1)
質問(「後漢書」の狗奴国について)
 女王国の東千里を長里とすると、侏儒国はその南ではなくなる。短里と見、范曄の「三国志」の女王の東千里倭種の誤読と見るべきではないか。


 これに対する古田さんの回答は次のようだ。

 次のように考えます。


 後漢書倭伝には、
  A 魏志倭人伝よりの「引用」部分、
  B 後漢書倭伝の独自資料、部分、
の二つの部分があります。たとえば、有名な「光武帝の金印授与」の記事はBです。


 同じく、「狗奴国」の記事もBに属する。 - そう考えたのです。


 ですから、後漢書の著者、范曄(はんよう)は
  A-短里
  B一長里
を「混用」していたことになります。


 この点、本質的には、史記も同じです。   A 周代の記事-短里
  B 秦・前漢代の記事-長里
が「混在」しています。


 今の問題としては、「狗奴国」の記事をBと見なすことによって、その国の中心領域を、近畿地域と見なすことが可能となったのです。

(原文では⑤で「…記事をAと見なす…」となっているが、「A」は明らかに「B」の誤りだと思われるので、私の判断で訂正した。)

 8(1)・9(1)の回答によって古田説のおおよそのところはつかめたが、詳しく確認をすべき点が多々ある。次回からそれらの検討をしていこう。
不定期便1608 《続・「真説古代史」拾遺篇》(7)



「狗奴国」は何処?(2)
九州王朝の領域


 九州王朝の終焉は701年だが、では始まりは何時なのだろうか。遅くとも漢から金印を授与された委奴国王の時には王朝と呼んでよい制度は整えられていたと考えてよいだろう。参考までに、以前作った「古代史略年表」から壱与の朝貢までを切り取って再録しよう。(一部修正している。)

古代史年表

 史料・金石文などで年代を確認できるものについてはそれを ( )で示した。
年代記載のないものは推定です。


年代 中国 朝鮮 銅矛文化圏
九州王朝
銅鐸文化圏
ヤマト王権
BC4th 戦国時代 青銅器文化始
BC3th 秦(221-206) 鋳造鉄器伝播    
BC2th 前漢(202-)   国ゆずり・天孫降臨「天国→筑前」  
  漢・朝鮮に4郡設置(BC108-107) 錬鉄鍛造品 朝鮮からの渡来者多数  
BC2th   高句麗国成立 橿日宮の女王の筑紫統一「筑前→筑後」  
BC2th-BC1th     前つ君の九州一円統一  
BC1th     「九州→淡路島以西」平定  
BC1TH-AD1th 後漢(25-)   漢から委奴(ゐど)の国王に金印授与される(AD57)  
AD1th-AD2th     倭の国王帥升漢に請見(AD107)  イワレヒコ東侵開始
AD3th 三国時代
魏(220-265)
  邪馬壱国卑弥呼・魏に朝貢(240) イワレヒコの末裔AD3th末ごろまでヤマト盆地の一豪族として地歩を固める(216)
  西晋(265-316)
この頃、三国志成る
三韓時代 壱与・西晋に朝貢(266) ミマキイリビコ(崇神)、ヤマト盆地より出撃・銅鐸国簒奪開始
AD3th-AD4th     イクメイリビコ(垂仁)沙本城の戦い・銅鐸国滅亡


 さて、魏志では狗奴国は「女王の境界の尽くる所」の南にあると書かれている。この記述から狗奴国の位置を熊本県内部とした説がある。まず、この説の検討をしておこう。(以下は、?『失われた』の第5章の「三 九州王朝の領域」を教科書としています。)

 「百問百答」8(1)の回答に、『なかった』で「不注意に邪馬壱国の南」と記したことに対して、読者からの注意があったと記されていた。その読者からの意見はおよそ次のようである。

『「狗奴国」が熊本県付近だというのは不審である。北に邪馬壹国(戸数七万)、南に投馬国(戸数五万 - 鹿児島を中心とする)にはさまれていて、邪馬壹国を脅威しうるとは考えにくい。』

 もっともな指摘である。

 では狗奴国熊本説はどのような議論によって生まれたのだろうか。 古田さんは三品彰英『邪馬台国研究総覧』からその説の論拠を次のように抽出している。

(1)
 この地は、わが古代史料の中で、強猛な異民族と伝えられている熊襲の占拠地であったこと。
(2)
 クマはクナに音通すると思われること。
(3)
 狗奴国の官、狗古智卑狗(クコチヒコ)は菊池彦に通じ、肥後国菊池郡にちなんだ官名、もしくは人名と思われること。

 私(たち)は
景行の熊襲大遠征説話(景行紀)
日本武尊の熊襲暗殺説話(景行記・景行紀)
仲哀・?功の熊襲遠征説話(仲哀記・仲哀紀)
の古田さんによる解読によって、(1)は「井に中」だけで通用する誤読であることを知っている。上の年表の「橿日宮の女王の筑紫統一」・「前つ君の九州一円統一」は古田さんの解読で判明した成果だ。(詳しくは「九州王朝の形成」を参照してください。)

 また(2)(3)はどうだろう。倭の五王の比定と同じような語呂合わせの「地名比定」「官名比定」であり、論証とは言えない。「ク~ク」「クコチ-キクチ」という対応する発音の矛盾には目をつぶって議論を打ち切ってしまう。謬論としか言いようがない。狗奴国熊本県内説には文献上の根拠は何もないことになる。

 「女王の境界の尽くる所」が分らない限り、魏志の情報からだけでは狗奴国の位置は比定できない。

 では「女王の境界の尽くる所」は分らずじまいなのだろうか。この問題の突破口は女王国に属する30カ国の領域を定めることにある。古田さんの議論を追ってみよう。

 手掛かりの一つはあの倭王武の上表文である。すでに何度も読んできた文だけど、煩をいとわず再録する。

封国は偏遠にして、藩を外に作(な)す。昔より祖禰(そでい)躬ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を脱すること六十六国、渡りで海北を平ぐること九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を靡(ひら)き畿(き)を遐(はるか)にす。累葉朝宗して歳に愆(あやま)らず。(以下略)

 古田さんは「衆夷六十六国」とは九州を指し、「毛人五十五国」とは?中国地方と四国の各西半部を中心とする領域″と解釈している。そして次のような但し書きを付している。

『「東半部に属するもの」の中にも、あるいは海岸沿いで、飛石状に分布する可能性があるから、「西半部を中心とする」と表現した』。

 上の年表では私はちょっと大胆に『「九州→淡路島以西」平定』と書いた。国生み神話を念頭に置いての判断だった。この判断が正しいかどうかはこの後の議論にゆだねよう。

 この上表文は九州王朝の内部で記されたものである。つまり第一史料である。その第一史料が「倭国の範囲は日本列島内、121国にまたがる」と書き残している。これは次のように中国側の史料にも書き継がれている。

楽浪海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。(『漢書』地理志)

倭人は……旧百余国。漢の時朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。〈三国志、魏志倭人伝)

倭は……凡そ百余国あり。武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使駅漢に通ずる者、三十許国なり。(後漢書、倭伝)

 これはもちろん偶然の一致ではない。倭王武は「累葉朝宗して歳に愆らず(代々朝貢し、歳を違えたことはない)」といっている。これは漢書・三国志の朝貢記事を意識したものである。古田さんはズバリ、次のように断言する。

?漢代初頭の「百余国」と倭王武の示す「百二十一国」の領域は同一だ″。

 言い換えると漢代初頭の倭国から倭王武時代の倭国まで、一貫して一つの王朝が継続されていた。すなわちこれが九州王朝にほかならない。以下、古田さんの文章を直接引用する。

 右の?漢代初頭″という時期を、さらに限定しよう。

 『後漢書』によれば、「武帝、朝鮮を滅ぼしてより」「百余国」から「三十許国」(「許」は?ばかり″)への変化がおこった、と記してある。

(元封二年、前109)朝鮮王、遼東都尉を攻め殺す。……朝鮮を撃つ。(漢書、武帝紀)

武帝、朝鮮を滅ぼし、高句麗を以て県と為す。(後漢書、高句麗伝)

元封三年(前108)に至り、楽浪、臨屯、玄菟、真番の四郡を分置す。(後漢書、濊伝)


 すなわち、前2世紀末(前109)以前は、百余国だった、というのである。

 ここで読者は前ページの地図を見ていただきたい。(管理人注:以前使った同種の地図を再利用する。)

青銅器圏図

多くの教科書類にのせられ、今は国民的常識といってもいい、「銅剣・銅鉾、銅戈(か)文化圏」だ。「百余国」は、まさにこの文化圏そのものに当っているのである。この場合、重要なのはつぎの点だ。

 わたしは?考古学上の知識にあわせよう″として、文献をひきよせたのではない。その逆である。前著にものべたように(『「邪馬台国」はなかった』第四章五の中の「考古学との関係」)、考古学上の知見とは、キッパリ切りはなし、純粋に史料批判の論理と実証に従って、文献を解読してきたのだ。そしてその最終の帰結として、考古学上もっとも著名な「文化圏」と相会うこととなったのである。

 この考古学上の「文化圏」を、史料上の基礎に立つ、一つの「政治領域」として論証すること - それは、従来のすべての古代史学説には不可能なことだったのである。

 右の「百余国」の統合されたものが「三十許国」だ。一方では、『後漢書』倭伝冒頭の叙述、他方では、倭王武の叙述、両者とも直截にそれを裏づけている。とすると、この事実は当然、つぎの二点の帰結へと進む。

(一)
 一世紀、志賀島の金印は、三十(許)国代表の王者としての九州王朝に与えられた。

(二)
 三世紀、卑弥呼もまた、この三十国を基盤とする、統合の女王であった。

 右の(二)の帰結は、さらにつぎの地点へとすすむ。『三国志』魏志倭人伝内には、その三十国の国名が記せられている。すなわち、「狗邪(こや)韓国 - 邪馬壹国」間の9国が方角や距離とともに明記されたあと、「其の余の旁国は遠絶にして得て詳かにす可からず」として列記されているのが、つぎの21国だ。

次に斯馬国有り、次に己百支国有り、次に伊邪国有り、次に都支国有り、次に弥奴国有り、次に好古都国有り、次に不呼国有り、次に姐奴国有り、次に対蘇国有り、次に蘇奴国有り、次に呼邑国有り、次に華奴蘇奴国有り、次に鬼国有り、次に為吾国有り、次に鬼奴国有り、次に邪馬国有り、次に躬臣国有り、次に巴利国有り、次に支惟国有り、次に烏奴国有り、次に奴国有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

右の「9国プラス21国」の合計が、魏志倭人伝冒頭の「三十国」だ、と見られる。すなわち、この中の21国は、?九州から中国地方と四国の各西半部を中心にした領域″に分布している、というのが、上述来の論証が必然的にさし示すところだ。いいかえれば、銅剣・銅鉾・銅戈文化圏内の国々の「3世紀現在」の国名にほかならぬ。 - これが結論である。

 このような帰結は、わたし自身にとっても、意想外のものであった。従来、この21国の「地名比定」は、「邪馬台国」論争の、いわば花形だった。近畿説論者(内藤湖南以下)は、これを近畿大和を中心とする東西の領域にあて、九州論者(牧健二や宮崎康平)らは、九州内部に求めてきた。しかし、地名個々の比定地を求める以前に、まず、「21国全体の領域範囲」に対し、厳密な論証を加えることがなかったのである。今、それは従来と全く異なる領域、すなわち?銅剣・銅鉾・銅戈文化圏の全域″に対して、求められねばならぬことが判明した(『三国志』魏志倭人伝において、中国地方や四国の方向の領域は、「倭種」として記されている。「女王国の東、海を渡る千余里、復た国有り。皆倭種なり」。倭王武の上表にいう「毛人」は、この「倭種」の中に属しているのである)。

 女王国に属する30カ国の領域が分った。次はいよいよ「女王の境界の尽くる所」を検討することになる。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(8)



「狗奴国」は何処?(3)
「女王の境界の尽くる所」(1)


 「女王の境界の尽くる所」は魏志倭人伝(以下、「倭人伝」と略す)の記述からは「分らない」というのが正解だった。残る手掛かりは後漢書倭伝(以下、「倭伝」と略す)しかない。その後漢書の史料性格の確認から始めよう。(資料①『なかった』第1章が教科書です。)

 陳寿(233年 - 297年)により書かれた三国志は陳寿にとってはいわば「同時代史」である。多くは自分が実際に見聞した事件である。また陳寿は晋の吏官である。晋は魏から政権を禅譲された魏の後継国である。魏についての史料も豊富だったはずだ。『三国志』は信憑性がきわめて高い史料である。

 『漢書』と『三国志』の間にあるべき後漢時代(25年 - 220年)の史書が欠けていた。范曄(398年 - 445年)はそれを埋めるべく『後漢書』を執筆した。200年以上の後のことである。しかも匈奴に追われて揚子江の南に逃れた東晋が倒れ宋(南朝)が起こったのが220年であり、范曄はそうした激動のさなかに生きた人だ。『後漢書』の編纂はたいへんな難事業だったろう。先行の史書や残存した諸史料を取捨選択しつつ構成するほかなかった。とりわけ「倭伝」は「倭人伝」に頼るほかなかった。

 さて、古田さんは「倭人伝」と「倭伝」の記事の対比表をつくっている。そして次のように述べている。

 これ以外にも、産物・風俗等の記事も、ほとんど『三国志』の文面の換骨奪胎だ。まさに「公然たる盗作」である。だが、むろん、『三国志』は一般周知の史書である。だから〝前代の史書を継承して記述した″というべきかもしれぬ。事実、唐・宋代の史書にもこの方法は一般化している。

 しかし、問題はその継承した記述の中身である。さすがに達文の士として定評のある范曄だけに、『三国志』の原文を要約して、達意の章句に仕上げている。

 しかし、その造文、変句のさいに、しばしば歴史事実の実態がすりかえられている場合があるのである。

 さて、「倭人伝」と「倭伝」の記事の対比表の8番目があの狗奴国の位置を示す記事である。繰り返しになるが、再度掲載する。

(八)(倭人伝)
(a)女王国の東、海を渡ること千余里。復た国有り、皆倭種。
(b)其の南、狗奴国有り、男子王為り。其の官に狗古智卑狗有り、女王に属せず。
(八')(倭伝)
女王国より東、海を渡ること千余里、拘奴国に至る。皆倭種なりと難も、女王に属せず。


 資料①『なかった』ではこれについて次のように述べている。

『(八)については、明らかに(a)(b)を合成して(八')の文を造文している。これが范曄の五世紀における、なんらかの「知聞」もしくは史料にもとづくものか、否か、明らかでない』。

 つまり資料①『なかった』では「倭伝」の「拘奴国」記事が新史料によるものか否か、判断を下していない。これを資料②『失われた』では『五世紀の范曄時点の、「新しい倭国の知識」によって』書かれたと判定している。②『失われた』の「序論」中の「『後漢書』の立場」がその判定に到る史料批判の要をなしているので、少し長いが全文読んでおこう。

 このこと(管理人注:倭国の中心王朝は同じ)は、5世紀前半の史家、范曄によっても裏づけられる。先に范曄の倭国観が「三十余国を統合した中心王朝」であることを指摘した。だが、実はこの構図は単にその記述の対象である前2、1世紀乃至3世紀のものであるだけではない。范曄の同時代(5世紀)を「認識の基点」にしている、と見られるのだ。なぜなら、当然のことながら、『後漢書』の読者は記述の対象となっている後漢の人々ではない。執筆時点の五世紀の南朝劉宋の人々だ。したがって、倭国伝(ママ)のはじめに倭の位置を示すときにも、「楽浪の海中」(漢書)とか「帯方の東南」(三国志)とかいわず、「韓の東南」といういい方をしている。

 後漢の人班固(はんこ)の『漢書』では、楽浪郡は現存していた。だから、その楽浪郡を基点にして倭の位置が示された。『三国志』の場合は楽浪郡の南部が帯方郡となっていた。だから、その帯方郡を基点として倭国の位置が示されたのは当然だった。

 しかし、5世紀南朝劉宋の段階はちがう。もはや楽浪郡も帯方郡も滅亡して、存在しなかった。だから、5世紀の読者に対して、いきなり1、2世紀のそれらの郡の所在地を基点とした説明を展開することは不自然である。ところが、『後漢書』中、倭伝の直前は韓伝だ。そこで、范曄はその韓を基準にして倭の位置を示す、という記述方法をとったのである。このように『後漢書』は、対象としては1、2世紀の後漢を描きながら「5世紀当時の事実」を間接に反映している。つまり、当時の読者 - 当然南朝劉宋の天子を第一の読者とする - の立場に立っているのである。

 このように『後漢書』は5世紀現在という范曄の時代の知識に立って書かれた。

 その動かぬ証拠は、『後漢書』の中のつぎのような記事だ。

(1)
 漢書中、誤りて云う、「西夜(せいや)、子合(しごう)は是れ一国なり」と。今、各自、王有り。(注 前書・〈漢書〉云う、「西夜国王、子合王と号す」と)〈後漢書、西域伝〉
(2)
 漢書云う、「条支より西行三百余日、日の入る所に近し」と。則ち今の書と異なる。前世・漢使皆烏弋(うよく)より以て還る。条支(じょうし)に至る有る者なきなり。〈後漢書、西域伝〉
(3)
 (高附国)漢書、五[合羽]矦(きふこう)の数と為す。其の実に非ざるなり。〈後漢書、西域伝〉


 これらの記述において、范曄は『漢書』の権威に挑戦し、勇敢に『漢書』の「誤謬」を指摘している。その根拠は、「今の事実」や「今の書」(いずれも五世紀范曄の執筆当時)の認識である。(2)の場合など、漢代は漢使が烏弋までしか実際に行っていないからこのような誤った記事になったのだという。「現代」(五世紀)の知識の方がすぐれている、とハッキリいっているのである。

 このような彼であってみれば、倭国の記事についても、〝范曄は『三国志』の記事をそのままひきうつしただけだ″と見ることはできない。前の本(『「邪馬台国」はなかった』)でのべたように、范曄は『三国志』倭人伝の記事のいくつかを誤解し、それに「改悪」の手を加えている。倭国には「女子多し」としたり、「会稽東治(かいけいとうち)」を「会稽東冶(とうや)」と改めたことなど、その一例だ。

 しかし、このことを逆に考えてみよう。范曄が『三国志』を無批判に継承せず、これに対し自分の識見(五世紀の「今」の認識)をもって〝書き改めた″という事実は動かせないのである。

 これが『後漢書』の史料性格だ。だから、范曄が倭国を「きら星のような三十余国を統合した中心王朝」として描いたとき、ただ前2、1世紀~3世紀という過去の事実を書いたというだけではない。同時に5世紀の「今」や「今の書」に照らしてもそうなのだ、と范曄はいっていることになるのである。ことに『宋書』倭国伝に、

(1)
 高祖の永初二年(421)、詔して曰く「倭讃、万里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、除授(じょじゅ)を賜う可し」と。
(2)
 太祖の元嘉二年(425)、讃、又司馬曹達(しばそうたつ)を遣わして表を奉り方物を献ず。讃死して弟珍立つ。使を遣わして貢献す。
(3)
 二十年(443)、倭国王済、使を遣わして奉献す。


とあるのは、元嘉22年(445)に死んだ范曄にとっていずれも生存中の事件だ。ことに(1)(2)の事件は、当然『後漢書』執筆中の范曄は知っていたはずだ。とすると、范曄がこれらの「今」の事件、ことに(1)のような「今」の天子の詔書中の倭国についてのべた内実を無視して、『後漢書』中の倭国伝を書き、その中の倭国観を記したとは到底思われない。だから、もし過去の倭国と「今」(5世紀)の倭国の間に王朝の変動、交替等が存在したとしたならば、范曄がそれに全く言及しない、ということはありえない。なぜなら、5世紀倭の五王の時代は倭国側から貢献使節が頻繁に往来していた。つまり、范曄の重んじた「今」の知識の情報量が、倭国に関して、きわめて豊富な時代だったからだ。その范曄の証言では、前2、1世紀~5世紀間の倭国の歴史の中に〝中心王朝の変動″は生じていない。そういうのである。

 さて、このような史料性格を下敷きに、「倭伝」の拘奴国」記事を検討しているのが次の引用文である。(資料②『失われた』第5章3節「九州王朝の領域」より。)

 これ(管理人注:「倭伝」の「拘奴国」記事)は明白に『三国志』魏志倭人伝の記事に対し、范曄が「修正」をほどこした箇所だ。『三国志』だけからは、どうしてもこのような記事にはならないからである。

 ところで、范曄が『三国志』を訂正する場合のルールはこうだ(序章の中の「『後漢書』の立場」参照)。

(一)
 『漢書』の場合と異なり、『三国志』という書名も出さず、訂正根拠も示さない。
(二)
 しかし、『漢書』の場合と同じく、「今の書」「今の知識」の目から、間違っている、と判断すれば、果敢に訂正する。

 このような范曄の手法から見ると、
(A)
 狗奴国(拘奴国)の位置は、『三国志』では不明確だが、五世紀の范曄時点の、「新しい倭国の知識」によって、知ることができた。
(B)
 それは、女王国の「東」に当り、海路で「千余里」へだたっている。

 つまり古田さんは、記事対応表の(八')は(八)を単純に合成した記事ではなく、「新しい倭国の知識」により書かれたものと判断したわけである。では范曄はこの「新しい倭国の知識」をどこから得たのか。もちろん、あの金印の記事と同じく、後漢時代に残された史料からだ。「倭伝」の拘奴国記事はそれにもとづく「追記」だった。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(9)



「狗奴国」は何処?(4)
「女王の境界の尽くる所」(2)


(今回から資料③「講演1」を加えます。)

 再度「倭伝」の拘奴国記事を掲載する。

女王国より東、海を度(わた)ること千余里、拘奴国に至る。皆倭種なりといえども、女王に屬せず。

 この「千余里」が「短里なのか長里なのか」を見極めることが問題解決のカギとなった。「短里」と「長里」の変遷史についてはおおよそのことは既に私(たち)の知るところだが、「講演1」で詳しく語られていてそこには私にとって初めての知見もあるので紹介しておきたい。

 中国には長里と短里があった。周代は短里である。周代にできた『四書五経』の史料は、すべて短里である。それを現代中国をはじめ、みんなが、長里で解釈するのは間違いである。そうわたしは言いました。それにたいして秦の始皇帝が陰陽五行の概念を信じて、長里という概念をつくった。今までの里を六倍にした。彼は六という数が非常に神聖であるとあると信じていたようだ。天子を引く馬の数も六頭にする。従う車の数も六の倍数にする。そのように変に縁起をかついだ。そのようなことは、司馬遷の『史記』始皇本記に書かれている。それで里単位も六倍にされた。それまでの周代の一里・七六メートルあまりから、六倍の四三五メートルに拡大された。その拡大された長里を前漢が受け継ぎ、後漢も受け継いだ。これに対して魏・西晋は、周の短里に復帰した。周を受け継いでいるとして復古した。ところが、その西晋が滅んで東晋になると、また長里に復帰した。その東晋以後、南朝劉宋・陳など、すべて長里です。以上が短里と長里の歴史です。

 秦の始皇帝が「六」が好きで短里の六倍の長里となったというくだりが私には初耳だった。なお、76の6倍が435になっている誤りがあるが、講演録なので言い間違いかテープ起こしのときの手違いだろう。「「長里=約450km」と理解しておこう。

 さて、「倭伝」の拘奴国記事が後漢時代の史料にもとづくなら「千余里」は長里である。また范曄は東晋・劉宋の時代に生きた人だから、とうぜん彼も「千余里」を長里として理解していた。

 ところで、「百問百答」8(1)の回答「変遷」の②で古田さんは次のように書いている。


 読者からの注意によって訂正。後漢書倭伝の情報によれば、倭国(糸島・博多湾岸中心)の〝東″にあり。瀬戸内海領域と考えた。(「東、千余里」を「短里」によって理解。)

 これは古田さんの勘違いのようだ。実際には資料②「失われた」では次のように書かれている。

『地図を見よう。「児島半島 - 讃岐」間の海峡中心領域は、まさに博多湾岸を基点として、その方向(東)、その距離(約450キロメートル)に位置するのを見るであろう。それは、「吉備 - 讃岐」を中心とする王権、東なる内海王国であった。』

 つまり「失われた」では既に「千余里」を長里と考えている。しかし、地図上でコンパスを使って調べたが、博多湾から450kmは「吉備 - 讃岐」にならない。古田さんは資料②「失われた」では距離の目測を誤ったと思われる。それに「吉備 - 讃岐」はイワレヒコ(神武)が東侵の際に長逗留し軍備を補強した地である。そのあたりの国が女王国(倭国)と敵対していたとは考えがたい。また、「講演1」には次ようなくだりがある。そこで語られている「先入観」にとらわれていたためかも知れない。

 わたしも狗奴国については、以前からだいぶ苦労して考えていました。それで讃岐というサヌカイトがある古代文明の地も知ったのですが。それらは全てチャラ。すっ飛んでしまった。あるいは河野水軍の地ではないか。これは合田さんが、四国の郷土史家の見解を紹介して、どうでしょうかと尋ねていただいた。これも以前に、本居宣長が河野水軍が拘奴国ではないかと紹介しています。
 またわたしが少年時代を過ごした広島県三次盆地は古来、甲奴(こうぬ)郡と言いましたし、友人がいた甲田市という町もある。これもあやしい。あやしいけれども、これも国の中心になりそうにもないし、鉄器の中心でもない。鉄器の中心は瀬戸内海では圧倒的に四国香川県の詫間が中心である。ですから鉄器を中心に考えれば、詫間が中心になるけれども、そこにはべつに「コウヌ」「コヌ」という名前はありません。ですから分裂していて、考えは星雲状態にあった。しかし今回の場合は整合性がある。後漢代の范曄が、金印とおなじく後漢代の独自史料を使ったと考えますと、范曄が短里を使ったはずはない。長里で表現している。すると瀬戸内海では収まりきれない。東まで、近畿まで来る。銅鐸国になるのではないか。そういう見通しになった。

 私のコンパス測定でも博多湾から450km(直線距離で)は確かに最終結論の
『近畿の一端、大阪府の茨木市・高槻市あたりとなろう。すなわち、当時の「銅鐸圏の中枢部」(東奈良遺跡等)』(「百問百答」8(1)の回答より)
になった。

 ついでながら、倭人伝の
女王国の東、海を渡ること千余里。復た国有り、皆倭種。
の場合は短里であり、関門海峡辺りになる。そこから始まる中国地方や四国地方(瀬戸内海側)の「女王に属する倭種」の国を指していることになる。これは「倭伝」の拘奴国記事が「倭人伝」の複合記事ではないことを示している。そしてさらに、「倭伝」と「倭人伝」の記事が矛盾なく整合していることも分る。

 それでは「女王の境界の尽くる所」で拘奴国と接している「女王に属する」国はどこか。関門海峡以西の「女王に属する」国は次の21カ国だった。

次に斯馬国有り、次に己百支国有り、次に伊邪国有り、次に都支国有り、次に弥奴国有り、次に好古都国有り、次に不呼国有り、次に姐奴国有り、次に対蘇国有り、次に蘇奴国有り、次に呼邑国有り、次に華奴蘇奴国有り、次に鬼国有り、次に為吾国有り、次に鬼奴国有り、次に邪馬国有り、次に躬臣国有り、次に巴利国有り、次に支惟国有り、次に烏奴国有り、次に奴国有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり、……

 「奴国」で終わっている。「奴国」は二度目の登場だが、もちろん一度目のそれとは異なる国である。一度目は、一大国から海を渡り末廬国・伊都国を経て、「東南奴国に到る百里」とある。この「奴国」は明らかに筑紫内の国である。

 上の21カ国のうち「奴」を表記に含む国が7国もある。『「狗奴国」は何処?(1)』で確認したように、この「奴」の音を古田さんは「ヌ」または「ノ」としている。そしてどちらの場合もその音の意義は「野」であると言っている。(②「失われた」)

 「二十一国」中、「奴」のつく国は多い。弥奴国・姐奴国・蘇奴国・華奴蘇奴国・鬼奴国・烏奴国・奴国、つまり、三分の一の国は「奴」字が出現しているのである。しかも、二字あるときは、下の方の字となっている。これも、「野」の意義とすれば、きわめてわかりやすい。人の聚落(しゆうらく)し、集邑(しゅうゆう)を作る地形に適しているからである。このことは、地名比定の場合、二つの点が注意されねばならぬことを示している。


 「―奴国」という形の場合、本来の固有名詞部分は、上の一字であった、という可能性がある。
② 
 「奴国」だけの場合は、いたる所に類縁地名が存在し、一地点特定力が稀薄である。

 さて「倭人伝」では、二番目の「奴国」が「女王の境界の尽くる所」の国であり、その南に狗奴国があると言っている。逆に言うと奴国は狗奴国の北にあることになる。古田さんは資料③「講演1」で「京都府舞鶴近辺」を候補地に挙げている。

 これは仮説というか、試案が入ってきますが。この二回目の「奴國」。これは京都府舞鶴近辺ではないか。籠(この)神社がある。この神社は「ノ」をいれて、かならず「コノ」神社と言う。ですから、先頭の「コ」が、神様の「コ」か、子供の「コ」か知りませんが接頭語を付けた「コノ」ですから、むしろ語幹が「ノ」で、実体を表している。

 それで、この「奴国ノコク」。昔は「奴国ヌコク」と読んでいましたが、最近では奴隷の「奴」は、「ノ」と読んで良いのと言われていますので「奴国ノコク」。

 なぜ舞鶴近辺かと言いますと、とうぜん「国ゆずり」という奪権の後では、出雲は倭国の支配下に入っています。広く考えれば越の国(福井・石川・富山)も出雲と仲が良かったから、そこも支配下に入ったと考えられないこともありません。ですが、それでは新潟県まで女王国の支配下に入って、その南のほうに狗奴国があるということになる。そうであってもかまわないが、それでは、そんな遠くの狗奴国と倭国が戦争していたことになり、もう一つぴんと来ない。また高地性集落が関東・東海あたりに比較してたくさんあるという話も聞かない。そうしますと越の国は、独自の勢力を持って、屈服しなかった。

 それで越の国は、ストレートに倭国・天照大神の支配下に入らなかったと考えてみました。そうしますと、女王国の勢力は、舞鶴止まりである。そうしますと二番目の奴国は、籠(この)神社のある舞鶴となる。

 この考えは仮説を入れた考えですから、ぜったい間違いないというつもりは、ありませんが、一つの見通しとして考えて良いのではないか。

 「奴国」の比定では高地性集落が重要なきめての一つになることが示唆されているが、このことは次回に再論されるだろう。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(10)



「狗奴国」は何処?(5)
「女王の境界の尽くる所」(3)


 資料③「講演1」と資料④「講演2」を頼りに記述する段階に入りました。③④は講演録の性質上論旨や論理の筋道がうまくつかめない部分があって何とも心もとない思いが強くありました。古田さんの最新著書『俾弥呼』にはとうぜん狗奴国についての論考があるはずと思い昨日(22日)注文しました。ネット注文です。便利ですねえ。もう今日(23日)届きました。

 さっそく目次に目を通し、序章を読みました。今まで必ずしも論証が十分でなかった仮説あるいは試案にすぎなっかた事案が多々あったが、それらの多くにより明解な論述がなされている。私にとっては始めて知る研究成果もたくさんある。魅力一杯の著書です。③④も参考にしますが、以後は『俾弥呼』を教科書とします。(資料⑥とします。)


―――――――――――

 さて前回、、「これは仮説というか、試案が入ってきますが」と断りながらも、「女王の境界の尽くる所」にある「奴国」を舞鶴付近に比定する古田案を紹介した。資料⑥ではこれをもうすこし東の移動させて、越国との境界に当たる能登半島に比定している。その部分(P.124・P125)を、いくつか補注(赤字部分の)を付けながら読んでいくことにする。

 残された、「21国」中の最後の国、それは「奴国」だ。「31国」中の「伊都国」の東南「奴(ヌ)国」は「二万余戸」の大国である。「七万余戸」の「邪馬壹国」、「五万余戸」の「投馬国」に次ぐ、第三位の「大国」である。この「二つの奴国」の異同が、従来も種々論議されてきた。

 しかし、わたしにとっては明白である。別国である。「邪馬壹国」の場合も、「語幹」は「邪馬国」だった。同音の「二つの国」だ。だからこの「奴国」の場合も、同名の国があっても、なんら〝奇″とするに足りない。もし、両国が同一国なら、陳寿はそれを簡明に注記することができよう。「己(すで)に記したり」などである。逆に、文章の中の〝位置づけ″のちがいによって、この二つの「同名国」が〝別国″であることを、簡潔に示唆している。それが陳寿の筆法である。―(*)

 私は前回
『関門海峡以西の「女王に属する」国は次の21カ国だった。』
と書いたように、「21国」は全て関門海峡以西の国で「倭人伝」の記述順序はその「21国」の地理的順序を示していると解していたが、古田さんはそれを否定している。次のように述べている。(資料⑥、P.111)

 倭人伝には「邪馬壹国」以外に、30国が並記されている。そのうち、9国は帯方郡から不弥国までの途上国だ。主線行程と傍線行程がある。

 これに対して「21国」は国名だけが〝投げ出され″ている。これが今回の問題である。「次に」という言葉で並記されているから、一見「倭国内の地理的位置」の順序かと見えるけれど、それではうまくいかないこと、多くの人の「実験」されたところであろう。この点、貴重な示唆をいただいたのが、加藤一良さん(東京、北多摩病院院長)である。

 その提言は「30国は〝倭国側からの情報に拠った″のではないか。」ということである。倭国からの上表文や交流の中に、その存在があげられていた。それを陳寿が〝採用″して書いたのではないか、と。「盲点」だった。

 つまり「倭人伝」に
倭人は……旧百余国。漢の時朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。〈三国志、魏志倭人伝)
とあるように、「上表文や交流の中」で知った国名を列挙したもので、地理的順序とは関係ないというわけである。ただ最後の
次に奴国有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり、……
というくだりは、明らかに奴国が「女王の境界の尽くる所」の国であると読み取るほかない。古田さんはこの立場に立って「21国」の地名比定を行っている。その一つが上の赤字部分である。次のようである。(資料⑥、P100・P.101)

 倭人伝の中の「30国」中の「21国」について、わたしの辿った道を、そのまま書こう。

 まず、「邪馬国」。〝訓み″は「ヤマ」だ。女王国の中心「邪馬壹国」と語幹が共通している。両者の〝関係″は深い。むしろ、同根の〝伝播″であろう。-「大和(ヤマト)」である。

 「ト」は〝戸口″。〝神殿のありか″をしめす、接尾語だ。わたしは、そう考えた。とくに、古事記・日本書紀が、天皇家の来歴を「九州からの伝播」としていること、特に古事記が「竺紫(ちくし)の日向(ひなた)の高千穂のクジフルタケ」を〝出発地″としている点が注目される(日本書紀は、宮崎県の「日向(ひゅうが)の霧島連峯とする)。

 「竺紫の日向」の地には、最古の弥生王墓、「三種の神器」(勾玉と銅剣と銅鏡)の出土地である、吉武高木がある。この博多湾岸を中心に出土する「三種の神器」や「絹」は、やや遅れて「大和(奈良県)」から出土することが、今は周知である。

 したがってこの「邪馬国」を奈良県の「大和」とする立場、それはわたしには〝ゆるぎ″のない見地だった。津田左右吉のように、神話をもって「後代の造作」とし、「六世紀の天皇家の史官の〝造作″」とした場合、筑紫(福岡県)の出土事実との「対応」と「一致」を、単なる〝偶然の一致″とする他ない。全く無理なのである。

 勾玉と剣と鏡の「三種の神器」が、筑紫の日向の高祖(たかす)山周辺の弥生の王墓から出土する、この事実に対して、今も「津田左右吉の後継者たち」は堅く〝目をおおうて″いる他ないのである。

 それは「三種の神器」だけではない。後述するように「絹と錦」もまた、「筑紫(福岡県)から大和へ」の、文明の〝伝播ルート″が〝リアル″であることをハッキリさししめしていたのである。だから、「邪馬壹国(A)と邪馬国(B)」という〝流れ″を無視することはできない。

 津田左右吉は、不幸にも、「考古学上の出土分布」との対応を見る、という「歴史学者としての目」をもっていなかった。そのための「錯失」であろう。

 以上、はっきりと「大和」も「女王に属する国」の一つとしている。言われてみれば九州王朝の分流であるヤマト王権が「女王に属する国」の一つであることは当然のことであった。

 さて、古田さんが「女王の境界の尽くる所」にある第二の奴国に対して新たに提示している比定地は次のような論拠による。

〈(*)の続き〉

 では、この「21国」中、最末の「奴国」、しかも有名な、「これ女王の境界の尽くる所なり。」とある。この「奴国」とは、どこか。

 わたしは「能登(ノト)」(石川県)だと思う。能登半島の「能登」である。「ト」は〝神殿の戸口″の「ト」。接尾辞である。「大和」や「山門」の「ト」とも、共通の用語である。

 古事記上巻(神代巻)では、八千弟(「矛」は、古事記伝の「改記」)神が高志(コシ)国の沼河(ヌカハ)比売に対して、次のように歌っている。

八千矛の 神の命は 八島国 妻枕(ま)きかねて 遠遠し 高志(こし)の国に 賢(さか)し女(め)を 有りと聞かして

 「八島」の内実には、種々の立場がある(日本書紀)けれども、ここでは「高志(=越)」は、「出雲を中心する、八島国」には入っていない。すなわち、能登半島以西が出雲の「勢力範囲」となっているのである。

 「国ゆずり神話」や「天孫降臨神話」などの〝内実″が「女王国の歴史」として、倭人伝の中の、倭人側による「国名表記」に対して、いちじるしい「前提」とされ、「痕跡」を残していること、すでに多くの事例でしめしたところである。

 だから、この「第二の奴国」のケースもまた、能登半島以東が「倭国」とは〝別領域″として、ここに明確にしめされていたのである。

 隠れた女王、俾弥呼の横顔は、一面では意外に明確な輪郭をわたしたちにクッキリとしめしていたようである。

 古田さんは「奴国」を「ヌコク」と読んでいるが、「奴」の表音「ヌ」「ノ」はどちらも「野」という意味をもつと考えている。引用されている歌謡から能登までが出雲の範囲ということは十分納得できる。「舞鶴近辺」説には文献的論拠が欠けていたので、私は「能登」説に賛成したい。

 しかし、私には真意をつかめない文言が二ヶ所ある。無視しても全体の論旨には影響がないが、一応指摘しておく。(お分かりの方おりましたらご教示ください。)

(1) 八千弟(「矛」は、古事記伝の「改記」)

 〈大系〉の原文を当たってみたが「八千弟」はまったくない。他の写本にあるのだろうか。もともとは「八千弟」だったとして、これはどのように読むのだろうか。「八千矛」は歌の中では「夜知富許」と表記されている。「やちほこ」と読むほかないと思うが…。

(2) 「八島」の内実には、種々の立場がある(日本書紀)けれども

 「八島」は国生み神話の「大八洲」とは異なる概念だろう。しかし『日本書紀』には「八島」はない。「八嶋」が第八段一書第一に出てくるが、人名(神名)のなかで使われているだけである。また「八千矛」は『日本書紀』では「八千戈」と表記されているが、第八段一書第五に出てくるだけである。上の文を私はまったく理解できない。

 『古事記』では「八島」について頭注が次のように述べている。

「一般に大八島国即ち日本の国中でと解されている。しかし出雲の神々に八島士奴美神・八島牢遅能神などのように、八島を名にしている神があることから考えると、八島国は出雲関係のもっと狭い範囲かも知れない。なお考うべきであろう」。

 私は「八島国は出雲関係のもっと狭い範囲」と断定してよいと思う。