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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『大日本帝国の痼疾』(6)


「英将秘訣」全文


「英将秘訣」入手顛末記

 「英将秘訣」の条文は全部で90条ある。『「英将 秘訣」論』で引用しているのはそのうちの半分ぐら いだ。そこで、本論(『「英将秘訣」論』)に入る 前に「英将秘訣」を全文読んでおきたいと思った。

 10月31日、久しぶりに神保町古書店街に行ってみた。 数軒目で「坂本竜馬全集」(光書房  1978年)を 見つけた。 B4版で厚さ10センチほどの大冊、何と4万円の値が ついていた。坂本竜馬の研究をするのならともかく、 「英将秘訣」の本文を知るためだけのためにそんな大 枚は費やせない。一ヶ月絶食しなければならなくなる。 あきらめた。

 何で気がつかなかったのだろう。近くに図書館が あるではないか。その蔵書が貧弱だという印象を持 っていて、その存在は頭の片隅に追いやられていた のだろう。昨日、これも本当に久しぶ りに、近くの図書館に行ってみた。ありました。 「英将秘訣」を全文掲載している本を、くだんの 「坂本竜馬全集」と「坂本竜馬読本」(新人物往来社  1985年)と、2冊見つけた。どちらの「英将秘訣」 も出典は千頭清臣著「坂本龍馬」(初版1914〈大正 3〉年)のようだ。近代になって「英将秘訣」を世に出 したのはこの本だとされている。これを「原文」と 呼ぶことにする。

 ということで、念願の「英将秘訣」の全文を知るこ とができた。前回と順序が逆になってしまったが、 それを一気に掲載しておく。よく意味の わからない条文もあるが、それは必要になった時点 で考えることにする。また、原文にはところどころ にルビが振ってある。前回に取り上げた条文で私が 考えた「読み方」が間違っていた部分がある。以降 は原文のルビに従って読むことにする。

英将秘訣

一、日月はあまり役に立たぬものなれども、日は六 時の明(あか)り也。月は夜の助けにもなる歟。

一、世に活物(いきもの)たるもの、皆な衆生なれ ば、何れを上下とも定め難し。今世の活物にては、 唯我を以て最上とすべし。《されば天皇を志すべ し。》

(千頭清臣著「坂本龍馬」では上の条文の《》内 の文言は伏字になっていたようだ。 これを復元したのは井上清だという。復元された 文言が後の方の条文にもう一ヶ所ある。この復元 された文言については、次回取り上げる予定だ。)

一、親子兄弟と雖も唯執着の私なれば、蠢虫(うじ むし)同様の者にして、愛するにも足らぬ活物也。 況や夷人をや。

一、親子を人質に遣はすとも、愛着の義を思ふ事な かれ。其時を打死の日と定むべし。猶其人にも申し 聞かすべし。

一、本朝の国風、天子を除くの外、主君と云ふ者は 其世の名目也。独夫なれば、やがて予(われ)主人 と為るは唐の例也。聖人の教也。猶ほ物の数とも為 す事なかれ。

一、予が身寿命を天地と共にし、歓楽を極め、人の 死生を擅(ほしいまま)にし、世を自由自在に扱ふ こそ産れ甲斐は有りけれ。何ぞ人の下座に居られん や。

一、大悪の限りを為さんとしても、少しは善の出来ね ばならぬもの也。物の理合は万品同じがるべし。

一、俸禄などいふは鳥に与ふる餌の如きもの也。天 道豈(あに)無禄の人を生ぜん。予が心に叶はねば、 やぶれたるわらんぢをすつるが如くせよ。

一、人に対面せば、此奴はいかにせば打殺さるゝぞ と見取るべし。此奴殺すはわけは無いと思ふ位な者 は智なし。少し六ヶしきと思ふ位な者は智あり。其 智あるは早くだまして味方にすべし。

一、人の家に入れば、兵器は何所に在ると、先づ目 を付くべし。其次は財宝の類は何に入れ置くと考ふ れば、家の部分(ぶわ)けせるが如し。

一、万国に生れしか、或は外国へ渡らば、王に成る を以て心とすべし。日本にて《は開闢の昔より天子 はころさぬ例なれば、是斗りはいけて置くべし、》 将軍とかいふ者に成る心を工夫すべし。《天子と 同様なり》

(《天子と同様なり》という部分は、「坂本竜馬 全集」にも「坂本竜馬読本」にもない。近藤さん が引用している条文にあるので追記した。)

一、予に随ふ者は生捕同然、予に不随者は皆讐敵と 見て、心をゆるす事なかれ。

一、人を殺す事を工夫すべし。刃にてはヶ様のさま、 毒類にては云々と云事を暁(さと)るべし。乞食な ど二三人ためし置くべし。

一、海賊は船軍の手習なり。よく心を用ゐて、かり そめに過す事勿れ。

一、人を一人殺せば、其魂我に乗りうつりて、智も ふえ、命も延るものと心得べし。兼て工夫満つれば 戦場面白きもの也。

一、博奕の類は一ものがす事なく心得置くべし。さ れど小芸にて人智をためす也。拙(つたな)し。

一、無音砲、毒煙の類、ためし置くべし。是亦人の 死するを主とす。其死ぎはに目を付べし。犬切にす べし。

一、予死する時は、命を天に返し、位高き官へ上る と思定めて、死を畏るゝ事なかれ。

一、悪人の霊魂を祈らば、我に知慧よく付く者也。 先づ釈迦、歴山王、秀吉、始皇。而して泉の如く策 略も亦生ず。

一、神明は有者(あらもの)なれば、用捨すべし。 造物神策の密事なれば、鬼神も之を知らしめず、 只幽界と云は隠形(おんぎやう)の道にて知らるゝ 者也。

一、世に生利を得るは事を成すに在り。人の跡を慕 ひ、人の真似をする事なかれ。釈迦、孔子の類、唐 土の世々の天子も皆しかる事をせり。

一、義理などは夢にも思ふ事勿れ。身を縛らるゝも の也。

一、耻と云事を打捨てゝ世の事は成るべし。使ひ所 によりては却って善となる。

一、なる丈け命は惜しむべし。二度と取かへしのな らぬもの也。拙きと云事を露斗(つゆばか)りも思 ふ勿れ。

一、盗賊と世に云者は、予世を見るの手遊なり。歴 代にさせて心を慰る所也。

一、薄情の道、不人情の道、忘るゝ事勿れ。是を 却而(かえつて)人の悦ぶ様にするを大智といふ。

一、礼儀など云は、人をしばるの器也。世をしめか ためて吾が掌中に入る具也。

一、涙と云は、人情を見する色也。愚人、婦女子に 第一の策也。

一、忍は知らせぬを主とす。事を成就するを本意と す。

一、事は七八分成就の時を大切とす。必ず気を許す 事勿れ。征夷の大将も帰るさには疲るゝ事あり。

一、衣食住、財宝を与ふるに、智あるものは偽とし れども、幾度もすれば其心切(しんせつ)に落入者 也。

一、隠形などは覚置くべし。されど芸少き故取るに 足らず。

一、弓馬剣槍も人を殺すの術を主とす。むだ事にな すは益なきの日光を消す也。

一、王陽明曰、六経は心の註也。仏者曰、断見と。 是は見処(みどころ)あり。

一、日輪の影に贔負なきが如くすれば、世は知らず 識らず我に落入者也。

一、世界の人民、如何にせば鏖殺(みなごろし)に ならんと工夫すべし。胸中に其勢あれば天下に振ふ もの也。

一、世界に撒(ま)き散らしたる人民又は金銀の類、 自在に予が言を聞けば、天下を掌握するの才ありと 知るべし。

一、天下の物各其主ありて、一銭を奪はゞ盗賊と称 し、一人を殺せば人亦予を害す。斯くて地震の霹靂 (へきれき)するや、数万の家を破壊し、洪水の溢 るゝや幾億の生霊を殺す。是を天命と云て恐るゝは 何事ぞや。人倫素より小量にして大器なきか故なり。 されば世界を嗚動せんと思ふ人こそは、胸中に此心 無くんばあるべからず。

一、世下り、道衰へては、天下の人民貧苦病苦にな やめり。是を治むるの術金銀薬種にあり。

一、釈迦、空海、義経、正雪等奇術を知りて世を扱 ふとも、何れも小智短才の者也。日本にては神武天 皇、唐にては泰始皇が如き天下を併呑する大量を以 て、加之(しか)も彼の術も亦存せば、地球に名あ りて後世に及ばんか。

一、学問の道他なし、只生死の情を察する而己。

一、天文を覚り、地理を握る、人意を併呑する一術 也。

一、天下の人倫悪を好めば善にうとし。善を行へば 悪ににぶく、両不全を英将の不具とす。

一、己の欲する所を人に知らしむる勿れ。己が悪処 も亦然り。反之他の二情を覚るを英明 の器とす。

(「」は返り点のつもり)

一、愛すれば近づき、悪めば去り、与ふれば嬉ぶは 禽獣の様也。人倫亦何の異る処かある。

一、鳥獣といへども、己を殺さんといふを知れば、 身構えするもの也。如何なる馬鹿者にても打解けざ る内は殼中に入れ難し。是を生捕り侯術他なし、食 色の二つにあり。

一、世界を滅するは大洋の溢れ漲るに在り、是は天 竜の如し。人倫一目行ひては、如何にせば 加斯なるを得ん。只火術に在り。山野 を赤裸に焼払ひ、家屋を焼滅し加之、炮烽地雷の決 震を以てせば疑ふ所なけん。

一、牛割(うしざき)に遭ふて死するも 逆磔(ぎやくたく)に会ふも、又は席上にて楽しく 死するも、其死するに於ては異なる事なし。され ば英大なる事を思起すべし。

一、重賞の下に智士死するを見て、将に将たる人は 天下の器を見るべし。

一、蛇竜混雑といへども、吾竜なれば、他に於ては 同気相求の意あり。匆忘言合(いいあひ)て置に 不及。

一、人に一勝を与へて予に百勝を取るを知らしむべ し。古今の英傑大方は然かして豪卒を掌中に入れた り。

一、平談にして、我年齢にまされる人に淫談戯論を 為せば、其語中に見下げらる所を生ずる也。

一、我に劣る人は、我が行きたてを見て策れば、大 方は同じかるべし。

一、我より身分まされる人と年高きは、策るに意外 の智ありと知るべし。

一、如何なる臆すべき所なりとも、其対面の人、彼 奴原夫人に戯ける様は如何なる振舞ならんかの意を 以て其容体を見れば論ずるに足らぬ風俗あるべし。

一、形を望んでは下賤を見下し心を察しては凡夫と 暁り、動揺せば小蝉の如くと一目の胸中にありたし。

一、蜘蛛は網を乾坤に張りて虫のかゝるを待つ。士 農工商の様凡此虫の如し。

一、地上の活物中にて、言語して智ある虫を人とい ふ。そは万物を取扱ふ様にて知らる。されど天変を 知らず。

一、威光を見する、人を殺すに在り。人十人を害す るには十処にして衆目を威(おど)す。

一、天下は我手に入て後は、進退周旋威光を見する 事主意也。太閤が龍造寺に大小を為持、 始皇が阿房宮を築くの類也。

一、主君を大悪に陥れて後ち之を殺すには、天下手 を我に借るといふ各自よし。(外国)

(「各自」→「名分カ」との註あり。)

一、人に益を与へて後に策を廻らせば、中人以下は 陥るもの也。

一、天下万民を救ふといふ名あれば、耻る所なしと 定めて事にかゝるべし。

一、生人に疵を付るや否や、人間なりと思ふべから ず。臆(きおくれ)の生ずるもの也。畜類を殺すよ り安心すべし。

一、畏ろしと思ふ心露斗りも身に蓄ふ事勿れ。死人 なるは土の如く思ひ、死体、骨などは石瓦の如く思 ふべし。

一、今上皇帝及び王座の神璽(しんじ)を頂き持て 鳳輦(ほうれん)を迎へんには、禽獣草本と雖も 鰭伏(ひれふ)して靡かん。況や人類に於てをや。

一、蝦夷地には天皇の血統を以て新将軍を立て、我 と思ふ者之を補佐し、自在に蛮士を圧領するを主と す。

一、神式天皇本州に入る時、不随者は立処に之を殺 し、随ふに於ては其国の造とせり。この智 蠢民(しゅんみん)を扱ふに最上なり。

一、軍は本陳を切入て主将を殺すを要とす。万象も 亦自在になすは其意あり。

(「本陳」は「本陣」の誤記だろう。)

一、和儀調ては主将の人質を取りて之を扱ふ事しん の如くし、未練の条々を令云(いわし め)て敵人の勇武をにぶくす。

(「和儀」は「和議」の誤記だろう。)

一、第一兵糧の工夫致して後なれば、刀剣弑殺の具 を用意すべし。

一、外国を攻るにも、其国にて米蔵は必ずあるもの 也。是に先づ眼を付けて奪取工夫すべし。

一、愚人ほど郷間には成安きもの也。重賞を用ふる 事専一也。

一、中人以上にはホメソコナヒ有り。中人以下には 叱りソコナヒ有るもの也。

一、青人草の食ひて生くべきもの也と勅りし、天照 大神の此語中に眼を晒して人を扱ふべし。

一、衆人皆善を為さば、我独り悪を為せ、天下の事 皆然り。

一、大奸智無慾の如くにして、今世の万人測り知る べからざる人を、日本には鬼神といひ、唐土にて聖 人といひ、天竺にて仏と云ひ、西洋にてはゴツドと 云ふ。所以一つなり。

一、殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒の破戒素よりに て、殺生は軍の工夫、偸盗は忍術の調練、邪淫は反 間のナラシ、妄語は差挾りのタクミ、飲酒は人をな づくるの梯なり。

一、慎而勿己とは英将 の工夫也。

一、民は之によらしむべし、是を知らしむ可らずと 云心ばえ、万事にあるべし。

一、六十余州の城都は、人体のキウ処の如し。知ら ずんばあるべからず。

一、方今の江戸を目玉とし、京都帝王の玉座を 腹腸(はらわた)とす。目玉は潰れても、腹腸あれ ば活きて居る。

一、良将英雄も慾僻に由りて謀らるゝ者なれば、之を 戒慎せんとするは智の次なる人なり。偽慾偽僻をこ たへむべし。

一、位といふは本末を云ふのみにて、恃むに足らぬ 飾也。智と勇とを蓄ふべし。天下乱れたる時により て知るべし。

一、時運を察して人情を暁るべし。衆情を傾くを見 て先づ陥る処を切る。

一、気の弱きは善多く、気の強きは悪多し。

一、信長は天下の人々高位を望で朝廷の取次をせば、 国中の人我に従ふ決定(けつじよう)を知りたり。

一、太閤は、受嗣ぎて官位を取次ぐ。斯くて取り次 げば家来も同様かく行也。

一、家康は、最早天下は天下に還るフリあり、天子 を以てタヽキて是を矢玉にさへ使はゞ、公の如く吾 天下を自在にすべしといふ事を知りて、行ひたる也。 故に口には忠を云て身には自在を行ひたり。

一、人には其性の短の限りを与へ、吾は天賦の得手 物を行ふべし。軍には敵将の愚を顕はし、不覚を与 ふること肝要なり。

『大日本帝国の痼疾』(7)


「英将秘訣」についてのエピソード


「坂本竜馬作」説と司馬遼太郎

 「英将秘訣」が竜馬の手になるものとされたのは いつ頃からなのかわからないが、文献的には 千頭清臣著「坂本龍馬」(1914年)がよく取り上げ られているが、それよりさらに23年前の1891 (明治24)年に坂本龍馬著『英雄秘訣録』という表 題で『国民新聞』に掲載されているという。以来、 竜馬作という通説がつい最近まで信じられていた。 司馬遼太郎も竜馬作を信じて疑っていない。

 私のもっとも身近の青年が司馬遼太郎のファンで 「竜馬がゆく」を繰り返し読んでいる。
『竜馬作といわれているこんな語録があるの知ってい る?』
と「英将秘訣」のコピー見せたら、「英将秘訣」とい う表題は知らなかったが、数行読んで即座に
『「竜馬がゆく」に、竜馬が折に触れてひそかに手 帳に書き留めていた語録として、同じような文章が ある。』
という答が返ってきた。いろんな場面でいろんな条文 が使われているようだが、すぐにその一つを示してく れた。

 脱藩を繰り返す竜馬に対する山内容堂の激怒を 伝え聞いた竜馬がそれをせせら笑う場面である。

 大殿様の怒りが神戸塾の竜馬に伝わつてきたが、竜馬はせせらわらつた。
「小僧になにがわかるか」
と、竜馬はほざいた。武市にとつては「譜代重恩 の主君」というおごそかな存在の容堂も、竜馬の 口にかかつては、小僧である。
 もつとも、年齢ではない。としは、容堂のほう がはるかに上で、竜馬こそ小僧である。

 小監察がきた夜、竜馬はひそかに手帖に手きび しい文字を書いた。賢君を擬装した稀代の暗君容 堂へのはげしい反感がかかせたものであろう。

「世に生きものというものは、人間も犬も虫もみ なおなじ衆生で、上下などはない」(原文は文語)

 竜馬も、忠義だけを教えられて育った封建時代 の武士である。そういう感情を押しころしてこん な激越な文字をつづるというのは、国もとの勤王 党大獄が、よほどこの男に衝撃をあたえたのであ ろう。
 さらに竜馬は、書きつづける。

「本朝(日本)の国風、天子を除くほかは、将 軍といい、大名といい、家老というも、みなその 時代その時代の名目にすぎぬ。物の数ともなすな かれ」

 さらに竜馬は書いた。

「俸禄などというのは鳥に与える餌のようなもの だ。天道(自然)は、人を作った。しかも食いも のも作ってくれた。鳥のように鳥籠にかわれて俸 禄という名の餌をあたえられるだけが人間では ない。米のめしなどは、どこへ行ってもついてま わる。されば、俸禄などわが心に叶わねば破れた る草鞋を捨つるがごとくせよ」

 脱藩なにものぞ、という気魂が、乙女姉さんに 教えられたその奇妙な書のなかにおどっている。

 翌朝、竜馬は、土佐系の塾生をあつめ、
「藩じゃとか大殿様じゃとかの御意向をいちいち気に していては、此の大事は成らぬ。もし攻めて来れ ば、弾丸刀槍をもって馳走する覚悟だから、その つもりでいよ」

といった。

 このように引用されると、いかにも竜馬が言いそ うなことと思われる。しかし「英将秘訣」には、 司馬遼太郎が描く竜馬像、「あかるく、陽気で、 ひとに好かれ」「稀有な愛嬌と善骨をおび てこの世にうまれてきた」人物、とは千里の径庭が あるような条文もある。その点を司馬はどう折り合 いをつけているのだろうか。このことについてもく だんの青年に教えてもらった。「竜馬が行く(八)」 (文春文庫版)のあとがきである。次のように好 意的にとらえて「微苦笑」の対象としている。

 竜馬は、ふしぎな青年である。これほどあかる く、これほど陽気で、これほどひとに好かれた人 物もすくなかつたが、暮夜ひそかにその手帳にお そるべきことを書いている。

「悪人の霊魂を祈らばわれに智恵よくつくものな り。また釈迦、歴山王、秀吉、始皇。而して泉の 如く策略も亦生ず」

「薄情の道、不人情の道、わするることなかれ」

「義理などは夢にも思ふことなかれ。身をしばら るるものなり」

「天下のもの、各々其の主ありて一銭を奪はば盗 賊と称し、一人を殺せば人またわれを害す。かく て地震の霹れきするや数万の家を破壊し、洪水の 溢るるや幾億の生れい(霊)を殺す。是れを天 命といふて恐るるは何事ぞや、人倫もとより小量 にして大器なきが故なり。されば世界を鳴動せん と思ふ人こそは胸中に此の心なくんばあらず」

 儒教的な、きまりきつた道徳律が支配していた当 時としては、信じられないほどの独創的な語句であ る。

 「衆人みな善をなさば我れ独り悪を為せ。天下の ことみなしかり」

 竜馬は、稀有な愛嬌と善骨をおびてこの世にうま れてきた。ところがどうやら、あの大きな体で暮夜 ひそかに悪人たろうと念じていたらしく、それを思 うと微苦笑を禁じえなくなる。

 前回掲載した全文を読めば分かるように、ここ で引用されている条文はまだ穏やかな方である。 もっと冷酷無比な文言がある。それをさりげなく 避けていると思われる。

「平田学派作」説の根拠

1863(文久3)年に足利尊氏木像梟首事件と呼ばれ ている事件が起こっている。京都等持院の足利三 代将軍(足利尊氏・義詮・義満)の木像の首を取り、 三条大橋に梟首するという事件だ。

 犯人たちは木像の脇に立てられた板札で、足利 将軍を朝廷に対する逆賊と呼び、その不忠の臣の 木像の首をはねて梟首したと、その大義名分を語っ ている。そして暗に徳川幕府を指して、その罪悪は 奸賊・足利に超過するものがあり、ただちに旧悪を 悔い忠節を示さなければ、有志が大挙して罪科を 糺す、と弾劾している。

 この事件の犯人として17人の草莽の志士が逮捕 された。その中の一人、三輪田元綱の寓居で押収 された文書の一つが「英将秘訣」だった。逮捕者1 7人中13人が平田学派の志士だという。「秘訣」 が平田派の手になるものとされる所以である。

 『会津藩庁記録』に「鞅掌録」という文書が収 録されている。会津藩士・広沢富次郎(安任)が 記した日誌である。その日誌に上記事件の記録が あり、「英将秘訣」について次のように書き記して いる。


 英将秘訣ト題シ他見ヲ許サズトイフ書アリ。短 語ニシテ條條並陳セル中ニ世々活スルモノ皆衆生、 何レヲ上下トモ定メ難シ、只我ヲ以テ最上トス。 其注ニサレバ天皇心スベシ、又親子兄弟ハ只執己 心ノ私ナレバ蠢同類ノモノニシテ愛スルニ足ラヌ 借物ナリトイヒ、其他義理法度尽ク蔑視セザルナ ク、己ヲ利スル千変万化ノ術ヲ述ブ。其語簡ニシ テ意遠ク真ニ其心術ノ秘ヲ洩セルナリ。因テ思フ 彼等彼説ヲ以テ堂上ニ入説シ幕府ニシテ為ス能ハ ズバ草莽之ヲ暴発セント言フ。而シテ浪士ノ暴発 ハ真ニ比々其証アリ。

 昨日掲載した「秘訣」の中に《されば天皇を志すべ し。》(復元された文言)とあったが、上記の記録 によれば「天皇心すべし」となっている。このことに ついて、近藤さんは次のようにコメントしている。

 (「鞅掌録」は)押収した「秘訣」を手もとに備 えて書写しているから、《》部分をおこした写本 より信憑性が高いのではないか、ということであ る。

 私は、井上清か伏字を復元した写本を確認して いないから実証的なことはいえないが、これまで みてきたような分析からいえば、「天皇を志すべ し」とうけとつても、少しも不自然ではないとお もう。


 近藤さんがそう思う根拠を次回検討する。

 ところで、「鞅掌録」によれば、「秘訣」は 1863年にはまとまった形で存在していたことにな る。竜馬が二度目の脱藩をしたのは1864(元冶元) 年だから、「竜馬がゆく」のあの場面での語録 (竜馬の独創としての)の記録はありえないとい うことになる。小説だから多少の齟齬にあれこれ 言う必要はないだろうが、「秘訣」が竜馬作では ないことは確かだろう。

「陽明学者・山田方谷作」説の出処

 この説はインターネット検索で出会った。 二松学舎大学の町泉寿氏の「『英将秘訣』の著 者に関する新資料」という小文である。その文書から 引用する。


 本書(題は『英雄秘訣録』)が『国民新聞』 に坂本龍馬著として掲載された際(1891.11.11)、 長清楼主人なる読者からの投書が『読売新聞』に 寄せられ、本書は備中松山の儒者山田方谷 (1805~77)の著である、龍馬著とする証拠を示せ との記事が載った(11.14付録)。

 さらに方谷の養孫にあたる山田準(1867~1952) から、断じて本書は方谷の著ではない旨の弁明広 告が出された(11.21付録)。しかし『読売』記事を 見た山田準と同郷で友人の桜井熊太郎(1864~1911) から準宛の書簡によれば、実は準自身が方谷の自 筆本を所持し、方谷の卓見を顕す著作として縷々 人に示していたことを知る(11.15付)。

 方谷の養孫にあたる山田準が「断じて本書は方 谷の著ではない」との弁明広告を出した、という 話につい頬が緩む。祖父が、反道徳的で残酷で 冷血極まる文言をもつ「秘訣」の著者にされるの は、大変な不名誉と感じたのでしょうね。

 「方谷の自筆本」があったと桜井という人が 言っているそうだが、その実物がないのではなん ともいえない。あったとしても、方谷作とは限ら ない。方谷による写本だったかもしれない。会津 藩による押収本も写本の一つかもしれないし、井 上清の用いたものはそれとは別の写本らしいし、 少ないながらもいろいろな写本があるようだ。

『大日本帝国の痼疾』(8)

「英将秘訣」―その天皇観(1)


 『「英将秘訣」論』に戻る。

 「秘訣」が能動的ニヒリストの手になるもので あることを最も如実に示しているのがその天皇観 である。

 明治維新がその思想的根拠として呼び起こした 「過去の亡霊」=「天皇(制)」、それは草莽の尊攘 派にとってはもとより、それなりの合理主義を身 につけていた幕府や諸藩の公武合体派にとっても、 初めは「価値」の対象であった。

 価値を能動的に破壊できるのは、その価値が内 部に存在する場合に限る。公武合体派にとっては 、その価値が外部に存在したため、それを乗り超 えることは不可能だった。それに対して「秘訣」は、 絶対的な天皇信仰の内部において生じた裂け目か ら出現したと言うべき性質の虚無をかかえている。 その「裂け目」を覗くために、天皇(制)に絶対 的な価値を求めてきた思想を瞥見しておこう。

 本居宣長は天皇(制)についての言説は、例えば 次のようである。

「国といふ国に、此の大御神の大御徳かゞふらぬ国 なし」(「直毘霊(なほびのみたま)」)

「……四海万湖此御徳光を蒙らずといふことなく、 何れの国とても、此大御神の御蔭にもれては、一日 片時も立ことあたはず」(「玉くしげ」)

 また、宣長の理念を政治的に発展させた篤胤は 次のように言っている。

「皇御孫命(すめみまのみこと)の、天地とゝも に、遠長に所知看(しろしめす)御国にして、万国 に秀で勝れて、四海の宗国たる」(「霊之真柱(た まのみはしら)」)

 天皇が絶対的な価値を保有しているという思想( というより「信仰」という方がふさわしい)を表明 している。その特徴は、天皇の「御稜威(みいつ)」 が日本だけではなく、「人類に於て」、普遍的に通 用すると信じられているてんにあるが、これと 「秘訣」の天皇観はどう違うだろうか。

一、今上皇帝及び玉座の神璽を頂き鳳輦を、迎へんには、禽獣草 木と雖も鰭伏して靡かん。況や人類に於てをや。

 宣長や篤胤の天皇が歴代の宗教的威力としての天 皇を意味しているのに対して、上の条文では具体的 な現に存在する「今上皇帝」(「秘訣」の成立時期 から、孝明天皇と考えてよいだろう)をもちだして いるてんで異なる。徹底して政治的なのである。この ような天皇観は、幕末の急進的な政治思想にひとし くみられるものである。例えば、「秘訣」の著者と おなじように藩権力をバックにもたない草莽 の志士・大橋訥庵も「政権恢復秘策」で、次の ように「絶対的な天皇信仰」を吐露している。

「申すもかしこきことなれども、今上は英明にまし まして、夷狄猖獗を憂憤し玉か、日夜宸襟を苦しめ 玉ふと云ふことは、草莽までも聞え渡りて、誰も彼 もあり難いきことよと涙を落し、かゝる澆季の世に 当り、神州の危ふき折からに、英明の天子出玉ふて、 国土を憂憤し玉ふは、古へ天祖の勅に、 宝祚(あまつひつぎ)ノ隆ヘマサムコト、当二 天壌(あめつち)ト窮り無カルベシと宣ひつる しるしならん」

 しかし、訥庵の思想のベースは平田国学ではなく、 いわゆる体制イデオロギーである幕府の正学、朱子 学である。そしてここでの天皇観は政治色を帯びて いるてんでは「秘訣」のそれと同じだが、その「政 治」の方向が異なる。

 『「尊王攘夷論」の形成』 でみたように、もともと「尊王攘夷論」は幕府の 政策をバックに形成されてきている。それは、欧米 資本主義列強の物理的、精神的侵略をはねかえすた めには、天皇の「勅許」が現実的政策としてどうし ても必要だったからである。幕府の「攘夷」という 政策は、それじたいきわめて自然な防衛意思 (近藤さんは、当時の日本が文字どおり国防につと めていただけであって、国防に名を借りて侵略して いなかったことは留意すべきだろう、と書き添えて いる)であった。

 しかし、1825(文政8)年の「異国船打払令」では じまった強硬対外政策は、1842(天保13)年には、 なしくずし的に廃止された(薪水給与令)。以後、 攘夷派と開国派、あるいは尊王派と公武合体派の 相克が激しくなる。やがて、幕府が「征夷大将軍」 の職責=攘夷を履行しないことが志士たちの攻撃の 的となっていった。そして、 幕府の露骨な弾圧の始まりである「安政五年の大獄」 (1858年)を契機に、「政治としての天皇」が絶対 化していく。近藤さんは言う。

『権力の弾圧が強化されればされるほど、人間 は、その権力に対抗するおのれの理念または信仰 をますます正当なものとみなし、純化する』

 まさしく「政権恢復秘策」が書かれたのは1861(文久元) 年である。そして、その文久と呼ばれたわずか3ヵ年 の間に政治党派間に激しい抗争がくりひろげられ

将軍・大名上級武士層を中心とした公武合体派

下級武士・豪農・商層を中心とした尊攘派

尊攘派の挫折をへてふたたび公武合体派

と政局の主導権はめまぐるしく変動した。

この情況のもとで尊攘派の天皇の絶対化は同時に、 現実の天皇への不信からよってくる天皇の相対化 と裏表であった。つまり、絶対的な天皇信仰の内 部に「裂け目」が生じる。その相対化を促進した のが、1860(万延元)年の公武合体派の計略、 いわゆる和宮降嫁問題であった。

 訥庵の意見書は、この事件にたいする幕府への 憤激を動機のひとつにしている。しかし、そこに みられる天皇信仰は、現在位の天皇への失望と不 満によって屈折している。訥庵によれば和宮降嫁 問題も、天皇が「些末の義に拘泥し」優柔不断で 攘夷の詔勅をひきのばしているから幕府につけ こまれたのだ、ということになる。幕府に攘夷を 要請することは、「泥酔漢に仁義を説く」ような もので、「当今の大関鍵は、幕府を捨て玉ふと否 とに有て、天朝の御廃興もそれにつれて分る」と、 「公武一和」の夢はすでに幻想にすぎないという 現状認識を述べ、「徒らに旧格を守り玉ひ、区々た る小義に泥(なず)ませられて、何事も御相談の上ならで は決して玉はずと云ふことにては、御恢復の機会 もはづれて、天朝も亦幕府と倶に顛覆に至り玉ふ べし」と天皇叱責している。そうなれば「天攘無 窮」の「古へ天祖の神勅」にたいし「誠に大なる 御不孝」になるというのである。そして訥庵は勅 命の趣旨内容の見本までこしらえ奏上している。

 さらに、尊攘派の天皇信仰に一層の亀裂を広げ させ、徹底的な敗北を体験させたのが、「文久3年 8月18日のクーデター」である。これは、長州藩の 尊攘派と結託して政局をほしいままにしていた七 人の公卿(三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼 徳・澤宣嘉)が、薩摩藩・会津藩などの公武合体 派に敗れて京都から追放された事件である。 尊攘派がやっと受け取った攘夷親征の勅許が 天皇の意志によって撤回されたのが、その きっかけであった。尊攘派の天皇に対する不信 はさらに大きく広がったに違いない。

 この事件以後、その挫折をスプリング・ボード に尊攘派は倒幕派として脱皮する。そして政局は 天詠組挙兵、生野の変、禁門の変,天狗党の乱と 激動の局面を迎える。この激動が孕んでいた可能 性とそのあえない消滅を、近藤さんは次のように 論述している。

 このようにありうべき理想の天皇とあらざるべき 現実の天皇との矛盾が深化すれば、「秘訣」にみら れるような政治主義が発生する。というのは価値を 相対化するモメントはつねに現実の側でおこって いるわけだが、権力志向を放棄せずに、否しないか らこそ、敗北の現実をくりかえし容認せざるをえな い場合、現実主義的、合理主義的傾向に陥りやすい のである(このような意味では尊攘激派のなかで ももっとも敬神的な平田党は、一度も敗北したこ とはないといえる。明治国家成立後の平田派の衰 退にしても、彼らじしんは敗北感を味わうことは なかったはずだ。〈正義〉はつねに自己の側にあ ることを、彼らは疑わなかったからである)。 「秘訣」という暴力的な非合法怪文書が、暗さ というよりむしろ爽快な、明るい印象を我々にあ たえるのは、そのためである。

(中略)

 天詠組挙兵、生野の変、禁門の変等一連のおび ただしい血の代償は、天皇(制)が「過去の亡霊」 であることを、王政復古思想をのりこえる可能性 をあたえたはずだった。しかし〈宗教〉のかわり にあらわれたものは、きわめて合理主義的な権力 政冶への、かたちを変えた信仰である。

 慶応年間にはいると、「玉を奪ふ」、「玉を抱 く」などという天皇の隠語が志士気どりの連中に ひんぱんに使われるようになったことは、よく知 られている。西郷はべつにして、この時期から目 立った活躍をする木戸、大久保、伊藤、山県、岩 倉らが明治藩閥政府を構成する。戦術・戦略・策 略・謀略、およそ権力を発展・維持させるための あらゆる手練手管、権謀術数に長けた政冶家が登 場する。これらの連中がかりに近代的ニヒリス トであったとしても、能動的ニヒリストでないゆ えんは、おのれの権力政冶じたいへの信仰につい て、無自覚だからである。

『大日本帝国の痼疾』(9)

「英将秘訣」―その天皇観(2)


一、本朝の国風、天子を除くの外、主君と云ふ者は 其世の名目也。独夫なれば、やがて予(われ)主人 と為るは唐の例也。聖人の教也。猶ほ物の数とも為 す事なかれ。

(「独夫」→「どくふ」、つまらない男、見放された 君主)

 この条文は「竜馬がゆく」での使われていた。 次のように訳している。

「本朝(日本)の国風、天子を除くほかは、将 軍といい、大名といい、家老というも、みなその 時代その時代の名目にすぎぬ。物の数ともなすな かれ」


 この条文では儒学の聖人信仰が否定されている。 これについてもすでに宣長にラジカルな言説がある。

「いはゆる聖人も、たゞ賊の為とげたる者にぞ有り ける」(「直毘霊」)

 中国の聖人はみな纂奪者にすぎない、と言ってい る。将軍だとか藩主などというものはたんなる 名分にすぎない、そして天皇だけは例外だと述べ ている。

 しかし、この条文の文脈内で読む限りでは、 天皇もまた「主君」と同じく名分論において比較さ れていることになる。このようなあつかいかたは、 国学(特に平田派)にとってはきわめて不謹慎 な態度であり、それこそ「不敬罪」にもあたいする。 平田派にとって天皇は絶対的帰依の対象である。 この条文では、その絶対的天皇信仰が解体している。 それは次の条文でさらに決定的に表明されている。

一、万国に生れしか、或は外国へ渡らば、王に成る を以て心とすべし。日本にて《は開闢の昔より天子 はころさぬ例なれば、是斗りはいけて置くべし、》 将軍とかいふ者に成る心を工夫すべし。《天子と 同様なり》

(「是斗りは」→「こればかりは」かな?」

 《》内の文言は大正時代には伏字にされていた。 「不敬罪」にあたると判定されたわけだ。なにしろ、 ここでは天皇が徹底的に政治の手段と化している。 一応は、天皇は権力奪取の対象としないとは言って いってはいるが、外国の王や将軍という政治権力者 とおなじレベルで論じている。この点で国学的天皇 観とはまったく異なっている。ここまでの「秘訣」 の天皇観の分析を、近藤さんは次のように総括して いる。

 いったい国学にあっては、儒・仏・基三教はおろ か「老荘の糟粕」として国学とアナロジカルな自 然思想を内容とする道教でさえ、排斥する。18世 紀の宣長いらい、およそすべての外来文化を「漢 心」だと批判するためには、固有の思想が、「日 本的」原理が、どうしても必要になる。その基準が 天皇(制)とされたわけだが、それは現在的にいえ ば、思想というより宗教である。思想は自己自身を も相対化しようとする本質をもつが、宗教は自己を 絶対化する。だから国学が天皇(制)を批判するこ とはじぶんで破産宣告をするようなものである。

 そのような国学であるから放伐論ないしは易世 革命説は当然否定される。それに反し「秘訣」の 筆者は、語脈をジャスティフィケーションしてい る、というより自明の理なのである。にもかかわ らず天皇(制)にたいする相対的な見方が、 国学的(ヽヽヽ)な天皇 信仰の内部から分泌されてきたというの は、じっさいに権力を掌握していることを合理化 する幕府および諸藩の支配イデオロギーが放伐論 の延長線上にあり、それを批判する根拠は天皇 (制)いがいになかったからである。

 国学的という言葉に傍点を付したのは、アンシ ャン・レジーム化した幕末―維新期を嚮導した反 体制思想は、水戸学であれ闇斎学であれ、陽明学 (は基本的に放伐論を肯定している)であれ、多 かれ少なかれ尊王または勤王精神を潜在もしくは 顕在させているということである。つまり天皇信 仰は深浅の差にすぎない。端的にいえば、「秘訣」 には、これらの要素が前提としてすべて包括され ている。

 上の引用文中の語句についての註。(私には初見の 言葉なので、なによりも自分のために調べました。)

「老荘の糟粕」
 「古人の糟魄(そうはく)」という諺を転用 しているようだ。意味は
『昔の聖人が用い尽くしたかすという意で、聖人 の行った道の真髄は言語で述べがたいものである から、書物にしるされて今伝っている聖人のこと ばは、かすに等しく無益だということ。』 (東京堂出版版「故事ことわざ辞典」より)

放伐論(易世革命説)
 ひとことで言ってしまえば、「王位簒奪肯定論」。 その大義名分を孟子が説いている。それを、正確 には、「湯武放伐論」と呼んでいる。「湯(とう)」 「武」はそれぞれ「桀(けつ)」「紂(ちゅう)」 を討って「殷」「周」を創始した王。2週間ほど前に 『「武烈紀」と「桀王・紂王」の故事』 で取り上げた。

 「湯武放伐論」は「孟子語録十五」にある。 (筑摩書房・世界古典文学全集「大学 中庸 孟 子」より)

斉の宣王問うて曰わく、湯、桀をち、 武王、紂をつ。諸(これ)有りや、
(斉の宜王か孟子に問うて言った。「殷の湯王が夏の桀王を追放し、周の武王が殷の紂王を討伐したと聞い ているが、この事実があつたのか」)

孟子対えて曰わく、伝に於て之有り、と。
(孟子は答えた。「古い記録にございます」)

曰わく、臣、其の君を弑(しい)す、可なるか、と。
(王、「臣下がその君主を殺す、このようなこと ができるであろうか」)

曰わく、仁を賊(そこなう)う者、之を賊と謂う。 義を賊う者、之を残と謂う。残賊の人、之を 一夫(いっぷ)と謂う。一夫紂を誅するを聞くも、 未だ君を弑するを聞かざるなり、と。
(孟子、「仁の道をそこなうものを〈賊〉と言い、義の道をそこなうものを 〈残〉と申します。仁義の道を破談する残賊の人を〈一夫〉と申します。 周の武王は、一夫である紂王を誅殺したのであつて、君主を弑逆したの ではございません。さように聞いております」)


 国学は放伐論(易世革命説)を否定しているが、 それは国学の理論的根拠である「古事記」の内容と 矛盾する。「古事記」を大誤読しているのでその 大矛盾には気づきようがない。

 『ヤマト王権・王位継承闘争史』でみたように、 「古事記」のヤマト王権史を縦に貫いているのは まさに放伐(易世革命)の歴史である。先の権力者 を暴虐な王(あるいは反乱者)にしたて、仁徳に 富む王(あるいは正統な王)がこれを討伐すると いう大義名分説話のオンパレードであった。

 国学の天皇論は所詮、砂上の楼閣、いや誤謬の 水平線上の蜃気楼に過ぎない。

『大日本帝国の痼疾』(10)


「英将秘訣」―その天皇観(3)


 続いて近藤さんは次の条文を取り上げている。

一、釈迦、空海、義経、正雪等奇術を知りて世を扱 ふとも、何れも小智短才の者也。日本にては神武天 皇、唐にては泰始皇が如き天下を併呑する大量を以 て、加之(しか)も彼の術も亦存せば、地球に名あ りて後世に及ばんか。

一、神式天皇本州に入る時、不随者は立処に之を殺 し、随ふに於ては其国の造とせり。この智蠢民 (しゅんみん)を扱ふに最上なり。


 これらの条文が示す天皇観は、国学だけではなく、 近世思想史上のあらゆる学派の天皇親と断絶してい る。天皇(制)の宗教的な意味は完全に放棄され、 権力志向と愚民観とが裏表一体のものとして構成さ れている。天皇(制)ヘの「恋闕」のこころの屈折 (不信)という心理的位相から、能動的な権力意志 というニヒリズムの位相へと転位している。

 明治維新を武力倒幕にみちびいた王政復古思 想のシンボル(神武天皇)も天上から地上へと引 き降ろされている。国学の否定する簒奪者として、始皇帝 と神武が同格に扱われている。「神武東征」は 「英将」のために、世界制覇の「秘訣」を提供する 一教科書にすぎない。

 ここまでくると「秘訣」の作者の思想は、平田国 学とはまったく相容れないものとなっている。この 作者にとって国学は流行の衣装にすぎない。その衣 装の中には、国学の「転倒」した天皇信仰の論理を 無化する起爆剤を秘めている。近藤さんは「秘訣」 における「天皇」の呼称を分析して、国学と「秘訣」 との決定的な乖離を明らかにしている。

 「秘訣」が「天皇」に言及しているの全部で10ヶ 所ある。内訳は
「天皇」:4ヶ所(そのうち神式「天皇」が2ヶ所)
「天子」:4ヶ所
「皇帝」:1ヶ所(今上「皇帝」)
「帝王」:1ヶ所(京都「帝王」)

 国学では「天皇」の呼称は
「天皇(すめらぎ)」
「天皇命(すめらみこと)]
「大皇(おほきみ)」
「天皇尊(すめらみこと)」
「天皇(おほきみ)]
などである。

 また、「天子」や「皇帝」などの呼称は、放伐論 のカテゴリィでは使用してはならないものである。 「天子」という呼称は「天津日嗣(あまつひつぎ)」 である日本の 「天皇」にのみふさわしいものであり、従って、 中国でそう呼ぶのは詐称であり、異端もはなはだし いということになる。つまり神霊による絶対的な権威 を意味するタームは、 外国に語源をもつものでも、すべて本来、日本 側だけが使用する権限をもつ、という転倒 がそこではおこなわれている。だから「天皇」と いう呼称についても、その起源が中国にあっても なんら問題ではない。それなら「天子」、「皇帝」 という呼称を使えばよいと思われるが、上記のように、 「天皇」という呼称で統一している。近藤さんは 「おそらくそれは中国側の文献に出典が少ないか らだろう。」と推定している。

「漢様に天子と称へ奉るも、皇国に限りたる称 (な)にこそあれ。昨日まで奴と呼れし男の、 今日は他の国を奪取て、暫其国を領(うしは) きつる漢国の王等のうヘに、懸ても言べき称に あらず。将(はた)「聖」ノ字を比志理と訓(よむ) も日知の義にて、天津日嗣領(しろし)める天皇 に限りたる称也」(本居派で天誅組のブレーン ・伴林光平著「園能池水」より)

「天子、皇帝も、僣号なれば、わが天皇の外に 称すべき語ならず」(平田派で明治国家の神道国 教政策に協力した竹尾正胤著「大帝国論」より)

 篤胤によれば、「天子」という呼称は、「天皇」 の呼称が漢土に伝わつたのであり、それもぬすみ とられてそう呼ばれたのだという。(転倒も転倒、 すざまじい「妄想」! ナショナリズムの本質、 ここに極まれり、だね。)

一、世に生利を得るは事を成すに在り。人の跡を慕 ひ、人の真似をする事なかれ。釈迦、孔子の類、唐 土の世々の天子も皆しかる事をせり。

 「秘訣」のこの条文の「天子」は、国学の用法と は異なる。この作者にとって、「天皇」、「天子」、 「皇帝」という言葉は、特別な語義上の区別はない。

 次に近藤さんは、「秘訣」において能動的ニヒリ ズムの極致を示す表現として、次の条文を取り上げ ている。

一、世に活物たるもの、皆な衆生なれば、何れを 上下とも定め難し。今世の活物にては、唯我を以 て最上とすべし。されば天皇を志すべし。

「世に活物たるもの、皆な衆生なれば、何れを 上下とも定め難し。」という一種の平等主義思想 は、宣長学や篤胤学に みられるものであり、急進的尊攘のどの党 派にも一様に反映されている思想だ。

「すべて世中にいきとしいける物はみな情 (こころ)あり」(「石上私淑言」)

 この宣長の自然観は、古今集仮名序の 伝統的心情に連なっている。

「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりけ る」

 また、宣長の思想は排仏的な立場をとつている にもかかわらず、生きとし生けるもの一木一草にまで仏心は 宿るといった仏教の自然観に通底している。

 篤胤に至ると、その仏教的無常感あるいはネガティブ なニヒリズムとの類似点は、人も動物も天地の腹中に わいた虫だから差別はないのだ(「呵妄書」)、と いう次元にまで転化する。ここでは人間的属性のすべてが生理的次元に還 元されいる。そのような相対主義は、言うまでもなく、 人間精神の尊厳性にもとづいた近代的平等の理念とは似 て非なるものだ。

 また、宣長は人間本来の自然的欲望を肯定した。それは 儒教の禁欲的で窮屈な道徳(漢心)に対するアン チ・テーゼの役割を果たした。これも理性より も心を重視した擬似平等主義である。そして、この擬似平等 思想が、政治思想としての「一君万民」論を説 く天皇制思想の論拠をなしている。この擬似平等 思想は、幕末期に封建社会を否定する強力な武器 としての役割をになったが、これが近代ブルジョア的理 念としての平等とはまったく異なることも、言うまでもない ことだろう。

 一方、「秘訣」における天皇観はその宗教性が 内部から剥奪されている。とくに重要なてんは、 民衆が天皇の「大御宝(おおみたから)」である とする「一君万民」論の核心が抜け落ちているこ とである。この意味で「秘訣」は明治維新の「祭 政一致」思想とは異なる位相を示している。それは 「されば天皇を志すべし」という文言によく表れと いる。しかし、このような宗教性の解体の果てに生 じた天皇信仰から頂点を目指す権力思想への転位 は、なぜ可能とがったのか。近藤さんは、「天皇への熱烈な 信仰心が、権力への意志と、内面的におなじよう な構造をもっているからだとかんがえられる。」 と述べている。その行き着くところが、次のよう な徹底した能動的ニヒリズムの表白となる。

一、方今の江戸を目玉とし、京都帝王の玉座を 腹腸(はらわた)とす。目玉は潰れても、腹腸あれ ば活きて居る。