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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
戦争意志とは何か(6)

東条内閣の成立


  9月30日 ドイツ軍、モスクワ総攻撃開始
 10月18日 第三次近衛内閣総辞職
        東條内閣成立


 第二回御前会議後、日本の姿勢は漸進的に対米 英戦へと傾斜していったが、その背中を押した力の 一つが同盟国ドイツの快進撃であった。10月中旬に はモスクワは陥落寸前であった。

 そのような状況のとき、「十月上旬頃に至る も尚我要求を貫徹し得る目途なき場合」となり、 第三次近衛内閣は総辞職をした。というより、 自らの信念である「和平」を強く主張すべきとき であったのに、職責を放棄してしまったのだ。無責任 さにおいて、2007年9月12日の安倍晋三と全く同 じだ。そして、それを継いだのが東条内閣だった。

 東条内閣の成立について、『昭和史探求』から 引用する。

 このとき、東条を後継首相に強力に推せんしたの は、木戸であった。重臣の多くは反対だった。しか し「天皇のお言葉があれば、東条は従うから」と木 戸は強調し、押しきった。だから、開戦になったと き、「木戸にだまされた」という感じを重臣たちは 抱いた。東条内閣出現におどろいたことを記してい る、東久邇日記を引用しておこう。

「私は東条陸相に大命が降下したと開いて、意外に 感じた。東条は日米開戦論者である。このことは陛 下も木戸内大臣も知っているのに、木戸がなぜ開戦 論者の東条を後継内閣の首班に推せんし、天皇陛下 がなぜこれを御採用になったか、その理由が私には わからない」

 しかし、木戸の意図は、後のかれの手記によれば、 天皇にたいして忠義一途の陸軍の代表者東条に責任 をもたせることによって、陸軍の開戦論者をおさえ るという苦肉の策であったという。このとき天皇は 「虎穴に入らずんば虎児を得ずと云ふことだね」と 感想をもらした。この感想に、木戸は「感激す」と 10月20日の日記に書いている。

 なるほど、木戸のいうように、東条という大将は、 行住坐臥ひたすら天皇の意にそわんとする忠勇なる 股肱であった。政事だろうと軍事だろうと、一切の 基礎を、〝大御心″においた。それに背かないこと、 もとらないことが、大将の人生観であったようであ る。

 木戸は天皇の意向を、東条および海軍大臣留任の 及川古志郎大将に伝えた。

「九月六日の御前会議の決定にとらわれず、内外 の情勢をさらに深く検討し、慎重に考慮する必要 がある」

 すべて新規まき直し、いわゆる「白紙還元の御諚」 である。天皇の期待もここにあった。しかし、内閣 と違って、陸海軍統帥部は〝白紙還元″のなんらの 御諚をうけなかった。だから、軍はひたすら戦争へ の道を突き進んでいった。

 北岡さんは、「開戦をめぐる政治指導者たちの 間で交わされ論議をには唖然とせざるを得ない。」 と述べ、特に当時の重臣たちを「遅れてやってき た老人たち」と手厳しく批判している。

8月7日 木戸と近衛との対談 (『木戸日記』より)

・現在の日本の力量では、対米、対ソという両面 作戦は余程困難である
・石油問題は海軍は一年半しかもたないというし 陸軍は一年位だというようでは対米戦争は到底勝 利しえない
・石油獲得のために蘭印に手を出すしかないが、 そうすれば米国は参戦してくるし、輸送という面 からも、その長距離性は潜水艦・航空機の脅成下 において危険性を比例させる
・日本の国力の脆弱を考えるなら、日清戦争後の 三国干渉の場合と同じ決意の下、今後十年を目標 として臥薪嘗胆の決心をするしかない

1941年11月29日重臣会議

岡田啓介
……物資の補給能力につき十分成算ありやははな はだ心配なり。先刻政府の説明ありたるも納得す るに至らず

米内光政
 資料を持ちませんので、具体的意見は申上げら れませんが、俗語を用いまして恐れ入りますが、 ジリ貧を避けんとしてドカ貧にならないよう、十分の 御注意を願いたいと思います。

林銑十郎
 資料を持たざるが、大体政府と大本営と十分協力 研究せられたる結論に信頼する外なしと思う。


 木戸をはじめとする重臣たちを〝遅れてきた″と いう風に規定する理由もまたこの中にある。彼等 重臣たちが、主戦派(!?)より遅れてきたという理 由は、開戦意志を明らかにしたものたちが、現状 を、日本のこれまでの〈政策〉の累積的現在として 捉え、そうであるが故に〈不可避〉なものとして 感じとっているのに対して、木戸たちが、現状を 選択可能なものとして、いわば昭和16年だけを切り とって考えているてんにある。

  日本は昭和16年段階では、すでに中国からの全 面撤退か否かの瀬戸際に追いやられていたのであり、 今更〝困難だ″の〝勝利しえない″だなどといえた 地点にはいなかったのである。また〝臥薪嘗胆を 決心する″などといえた義理でもないのだ。ここで 木戸たちがこれまでの高等(!?)批評家風な態度を 自己批判して言い切ることができるとすれば、それ は 〝全面撤兵”という〈政策〉の提起だけだったは ずである。 もちろん、木戸たちは、それを公言する ことはなかったし、逆立ちさせてもでてくるもので もなかったのである。

 あの段階で、大勢としての開戦は誰でも主張しえ たし、また俗耳にも通じやすかった。いいかえれば 一大政治決断としての撤退方針は、一個人、一政治 家ではどうしようもなくなっており、また日本の大 衆的動向からも、政治構造からも身動きとれないよ うになっていたのである。

 たとえば、近衛首相は、 この撤退を心に秘めてルーズベルト大統領との 「巨頭」会談を提唱したが、ルーズベルトどころか 東条たちにもすげなくかわされるという有り様で あった。撤兵を勧める近衛に対して「(中国)大 陸に貴い生命を献げた幾多の英霊」に対して済ま ないといった反対を、東条が繰り返し表現したそ の対応に、もんだいがすでに選択の次元になく 閉ざされていたことが象徴されている。ここで、 選択の余地がなかったということは、もんだいが 〈政策〉に還元されえないことを示している。

 〈政策〉に還元されえないにも拘らず、 〈政策〉としての政治決断が東条たちに迫られて いる。

戦争意志とは何か(7)

開戦決定


 組閣に当たって東条に伝えられた「白紙還元の御 諚」は次の二つの意味が微妙にまじっていた。

① 9月6日の御前会議で決定された「帝国国策遂行 方針」そのものを変更するために検討すること
② 開戦に反対している海軍との調整を図ること

 近衛と東条の間の工作をしていた鈴木企画院総裁 やそれを受け入れて東条を強く推した木戸らは①の 意味を強調していたが、東条は内閣成立後①の意味 で「白紙還元」を解した。

11月 5日 第三回御前会議、対米交渉甲乙案決定
    来栖三郎大使をアメリカに派遣

 11月2日に大本営政府連絡会議で、対米交渉につ いての議論が行われた。その会議のクライマックス の問答として半藤さんは次のやり取りを取り上げて いる。

賀屋興宣蔵相
「私は米国が戦争をしかけてくる公算は少ないと 判断する。結論として、いま戦争を決意するのが よいと思わない。」

東郷茂徳外相
「私も米艦隊が太平洋を越えて攻勢に来るとは思 わない。いま戦争をする必要はないと思う。」

永野修身軍令部総長
「来らざるをたのむなかれ、という言葉がある。 さきのことは不明だ、安心はできぬ。三年たてば、 南の防備が強くなる。敵艦もふえる。」

賀屋
「しからば、いつ戦争をしたら勝てるのか。」

永野「いま! 戦機はあとには来ない。いまがチャ ンスなのだ。」

 会議では、「臥薪嘗胆」(大日本帝国の支配者た ちはこの言葉が好きだねぇ。)案、開戦決意案、 外交・作戦併行案が出されたが、期限つき交渉と いうことになった。「期限つき」というのは妥協の結果であっ て、実質は「開戦決意案」だ。「いまが勝てるチ ャンス」という統帥部の責任者の大きな声が大勢を 制した。連絡会議は「自存自衛を完うし大東亜 の新秩序を建設するため、このさい対米英蘭戦争 を決意す」という「国策遂行要領」案を決めた。 そして、11月5日の第三回御前会議で正式に決定される。 半藤さんは「戦争は事実上このときにはじまる。」 と書いている。

 以下、ハル・ノートの提示までは、日本側にその 決断をほんとうにしっかり固めるための若干の時間 を要しただけ。もはやノー・リターンの点は越えて しまっていたのである。

 ところで、上記の年表では「対米交渉甲乙案決定」 となっている。この「甲乙案」とは具体的にどのよ うな内容なのだろうか。「岩波講座・日本歴史21」所収の『第2次 大戦と日本』(今井清一)から引用する。

 (対米交渉の)期限は陸軍が11月13日を主張した が、あまりにひどすぎるとして30日までとなった。

 交渉案としては9月6日(第二回御前会議)決定 を若干緩和した甲案と当面の平和維持のための暫 定協定をめざす乙案とが採択された。

 前者は華北、蒙彊、海南島の中国駐兵期間をは じめて明記したが、外相の主張した5年には軍部が 99年説で反対し、25年で折れあった。「撤兵する も経済はできる」という東郷の意見は一蹴された。

 乙案は幣原喜重郎元外相が立案して吉田茂元大 使が持参したものがもとで、日米とも仏印以外に 武力進出せず、蘭印の物資取得に協力し、アメリ カは年100万トンの航空揮発油を日本に供給する。 この取決めが成立すれば南部仏印の日本軍は北部 仏印に移駐するというコンパクトなものであった。 この乙案にたいしては陸軍はつよく反対したが、 東郷外相の職を賭しての反対で政変となることを 恐れてやむなく同意した。その代りにアメリカは 日中和平に干渉せずの一項を加えたので魅力のな いものになった。

箇条書きで概要をまとめると次のようである。

甲案
1・ 日支に和平が成立したときは支那に展開して いる日本軍を2年以内に撤兵させる。
2・ シナ事変が解決したときは「仏印」に駐留し ている兵を撤兵させる。
3・ 通商無差別待遇(自由貿易)を太平洋全域と シナに対しても認める。
4・ 日独伊三国同盟への干渉は認めない。

乙案
1・ 蘭印での物資獲得が保障されアメリカが在 米日本資産の凍結を解除し石油の対日供給を約束 したときは南部仏印から撤兵する。 2・ 更にシナ事変が解決したときは仏印全土から 撤兵する。
3・ 日中和平には干渉しない。

 政府は甲案、乙案を訓令すると同時に野村大使 を助けるため、あらたに来栖三郎大使をアメリカに 派遣した。

 アメリカは前年の末に日本の暗号の解読に成功 している。この事実をアメリカは「マジック」と 呼んでいたようだ。

 アメリカ政府は、東条内閣は戦争準備 を押しすすめながら、もう一度交渉に出てくると 見ていたし、日本側の交渉期限は11月25日と碓認 していた。

11月7日 野村大使、甲案をアメリカに提出

 ハル長官はすでにマジックでその内容を知ってい てそれには関心を示さず、悠長に交渉をすすめる 態度をとった。

11月20日 妥結を急ぐ日本は乙案を提出

 ハルははたして日中和平にかんする項目に難色 を示した。

 アメリカ国務省は、解読した乙案の対案として 三ヵ月間の暫定協定案を作っていた。会談決裂の 目前にそれを提示してなおも時間かせぎをはかろう とした。その内容の概略は次のようであった。

1・ 日米両国が武力または武力の脅威で太平洋地域に 進出しない。
2・ 日本は南部仏印から撤兵し、北部仏印の兵力 を2万5000以内とする。
3・ 日米両国は資産凍結を解除して輸出制限も 自衛の必要の範囲内にとどめる
4・ アメリカは日中和平交渉と交渉中の休戦に 友誼的態度をとる。

 これには中国やイギリスが異を唱えた。特に中 国は強く反対した。また、ドイツが汪政権へ大使 を送り日中和平工作のためにカを注いでいる こと、すでに日本軍の大軍が上海に集結し輸送 大船団が台湾南方で見られたこと、などの情報 もあった。ハルは中国やイギリスの不満を 抑えて暫定協定案を提示してももはや日本の攻撃 を遅らせることはできないと判断し、その提案を 断念した。ルーズベルトもそれに同意した。

11月26日 米、日本の甲乙案を拒否
     ハル・ノートを提示

 暫定協定案に代わってハルが提示した のが、10項目よりなる全般協定案、いわゆるハ ル・ノートであった。ハル・ノートの概略は 次のようである。

1・ 日本軍の中国と仏領インドシナからの全面撤退。
2・ 蒋介石政権の承認、汪兆銘政権の非承認。
3・ 日独伊三国同盟からの離脱。

 これは日本に満州事変以前への復帰を求めるもの である。大日本帝国には到底受け入れられない 内容だった。「開戦決意」は、政治過程が累積して きた<政策>、いくつもの転轍機の操作を誤まって きた<政策>の現在性が強いる帰結であった。

12月1日 第四回御前会議、開戦決定
12月8日 真珠湾攻撃


 再び、『第二次大戦と日本』より。

 おりからモスクワ前面に迫ったドイツ軍は、12 月6日に始まるソ連軍の反攻をうけ、大戦開始以来 最初の敗北を喫していた。

 そして12月8日の真珠湾攻撃は、アメリカ 国民を開戦へと一致させたが、それはまた アメリカを第二次大戦に参戦させて反枢軸諸国 の足なみを揃えさせた。1942年1月1日には、 英・米・ソ・中を中心とする26ヵ国によって 連合国宣言が調印されたのである。
戦争意志とは何か(8)

「大衆の政治的動向」という契機


 これまで、対米英戦の開戦意志を形成していく 現実的契機の政治政策面での経緯をたどってきた。

 それを煎じ詰めれば、イギリス・フランス・オランダな どのヨーロッパ諸国が保持していたアジアでの植 民地利権を継承しつつあったアメリカと、そこに 割り込もうとした大日本帝国の、帝国主義国家同 士の覇権争いであった。そして既成事実作り・規制 ・報復といういたちごっこの応酬は〝おあいこ″と 言うべきだろう。ただアメリカに一日の長があった、 ということになろうか。北岡さんの見解を聞いてみ よう。

 「ハル・ノート」は政府首脳とりわけ文官・重臣 に衝撃的なものであった。東郷外相は、これを受け 取ったとき「目のくらむ思いがした」と語り、木戸 内相は「万事休す」と思ったといっている。

(中略)

 確かに、この段階にあって日米の政治担当者の 政策力には、歴然たる差があったことは否定でき ない。

 日本政治担当者が、この段階にあってすら右往 左往しているとき、アメリカの担当者は暗号の解 読も含めて、日本の外交方針を掌中にし、更に当 時モンロー主義とよばれた孤立主義的傾向をふっと ばすべく、日本に戦争の口火を切らせ、それを大 衆へのショック戦術として逆用すべく、様々な大 細工、小細工を弄し、事実そうさせたという点に、 この差を何よりはっきり表わしている。

 しかし、これらの〈政策〉の差が、開戦の政治 的契機となりえたということはできない。東京裁 判では、確かに、この政策の契機力が論軸となり、 自衛か否かという論争をうんでいる。しかし、アメ リカ政府は、すでに日本の開戦やむなしという政 治方針を読みとっていたのであり、アメリカ政府 の対日規制という〈政策〉をもって、開戦を語る ことはできない。心理的契機としてあったとしても である。開戦をアメリカ政府の陰謀だとする太平洋 戦争観があるが、これは、この心理的圧迫を拡大し て言ったものにすぎない。

 開戦を、アメリカ政府の対日規制政策に依るもの だとする考えは、逆に、日本の〈政策〉の欠如をこ そ照射している。「ハル・ノート」の〈衝撃〉につ いて先述したが、それは、かれらの甘さをこそ示す ものであっても、政治性を示すものでは決してな い。

 かれらは、いったい何をしようとしていたのか。 〈政策〉としてではなく、政治の流れとして、開戦 が浮上してきているという情況に対して、かれらは 〈政策〉を指し示すという姿勢すら示していない。 ここで〈政策〉は全く欠如している。この欠如は、 中国からの全面撤退という〈政策性〉が浮上してき たとき、それを鮮やかに表現した。

 このとき、全面撤退を正面切って〈政策〉として 取りあげようとした政治意志は存在しなかった。撤 退を拒否する政治意志においてすら、撤退拒否を 〈政策〉として提出していない。出されたのは、 泣きというか恫喝というか政策とは無縁なものだけ であった。

 「中国大陸にねむる数十万の英霊」に対して相済 まぬから、撤兵はできない、というのがそれである。 単に声が大きいにすぎないという水準のこの恫喝に 対する、政治意志は結局登場しない。政治の水準で いっても、このとき中国から全面撤兵できないとい う理由はどこにもない。また、それを埋めあわせる ニホン語にも事欠かなかったはずである。いわく 「臥薪嘗胆」。いわく「名誉ある撤退」。

 しかし、これとて心理の枠を超えるものでは決し てない。「意地」とか「面子」とかいうもののネガ とポヂをしか表わしていない。もちろん、右足から 歩きはじめるか、左足から歩きはじめるかどちら かというのが政治の常であるとするなら、 「英霊」に対して、済むか、相済まないかというも んだいも立派に政治のもんだいではあるのだが…‥。

 さて、こうした政治的政策とはとても言いがたい <政策>を大きく規定していたものの一つに大衆的 動向がある。北岡さんは「支配者の鏡に映った 大衆の政治的動向」に目を向ける。

 右翼急進ファシズムが、その動力の背景に当時の 農漁村の疲弊、不況等による社会不安生活不安を横 たえて成立していたことは、よく指摘されている。 この右翼急進ファシズムに対して、次のような批判 がある。〈膨張主義〉〈冒険的侵略主義〉という批 判が。

 しかし、この批判は、現象的・結果的にすぎる。 このような規定では、到底包括しきれないものがあ った。それは、この急進主義が、大衆の政治的動向 と、どこかで接点をもっていたことによる。この急 進主義がさしだしたものや、ひきおこした結果につ いては批判しえても、その動機だけは批判を許さな いかのように、この急進主義は位置していたといえ る。

 軍首脳がはじめて半公然ながら加担したことによ って注目された三月事件の首謀者でもある橋本欣五 郎は、その著「青年に告ぐ」でこの大衆的動向を己 れの鏡に映して、次のように述べている。すなわち、 日本の人口過剰によって起る圧迫を回避するものと して、橋本は次の三つをあげている。

一、海外移民
二、商品進出
三、領土拡張

 そして橋本は、(一)は諸列国の日本移民排斥に よって、(ニ)は高率関税・通商条約廃棄等によっ て、それぞれが閉ざされた情勢にあって日本が

「……のこされた唯一の門扉に向かって殺到するの は自然の勢い」

であると領土拡張を揚言するのである。更に、次の ようにもいう。

「しかも地球上にはこうした土地(天然資源を豊富 に埋蔵し、かつ未開発の土地を指す)がまだまだた くさん残っている」

とすれば、なおさら、「自然」であり「神様の恩召 し」ですらあると。(「東京裁判速記録」より)

 橋本のこの発言には、大衆の政治的動向に直結し ているといっても過言ではない説得力が社会的背景 として、つまり時代的根拠を獲得しているといって もよいものが刻印されている。

 この橋本の発言に反論を加えられるものがあると すれば、当時においてもそうであり、そして現在に おいてもそれ以外には存在していないと考えられる 左翼党派主義によるものだけである。

 東条が中国からの撤退の不可能性の根拠を 「英霊に済まぬ」からだとし、あるいは「対共産 主義」におくのも、じつは東条がこの中国総じて 南方をも含むアジアに侵出の照準をあててしまった 日本の政治の傾向性と、その大衆的動向に対して、 おてあげであったことの東条なりの言い廻しとい うか、言い換えであったといえるのだ。

東条にとって〈政策〉はすでに〈政策〉たりえる 根拠をどこにもみつけられなくなっていた。 従って、東条を開戦派の頭目であったと評定する 東京裁判検察側をはじめとする判断を是とするこ とはできないし、また、東条の死刑判決をやむを えないとした空気も、わたしにはあたりであると 思えないのだ。東条は、じつは、時代と社会 からはじきだされた位置をしか持ちえていなかった というべきなのである。

 第三次近衛内閣が撤兵をめぐって倒壊したのち、 次期首班となった東条は、なおかつ開戦に不安を 抱く天皇の意向に従って9月6日御前会議決定の 「帝国国策遂行要領」を一応白紙還元し、再検討 に入った。しかし、事態は、最早開戦か否かとい う選択そのものが成立しないところまできていた のである。陸海軍省は、再検討には見向きもして いない。ただ、東条の「お上の御心を考えねばな らぬ。……今開戦を決意することは、とうていお 聞き届けにならぬと思う」(中央公論社「日本の 歴史25」所収『太平洋戦争』)という頼みにつき あっただけであった。再検討のための閣議を開い たということに対してすら、中堅幕僚は

「陸相は (対米交渉を)絶対に目途なしとして内閣を倒し たるものなり。今更目途なき対米外交を続行し決 心をにぶらせたるは国家のためならずや、陸相に 節操ありやと問い度し」(「機密戦争日誌」)

と悲鳴に似た不満をあげている。そして、再検討 二週間足らずして、「帝国は現下の危局を打開し て自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設する為、 此の際対米英蘭戦争を決意し」という「帝国国策 遂行要領」を決定する。東条英機とは、この開戦 の経緯においては、累積された〈戦争意志〉を 〈開戦〉へと転轍させたポイントマンであった。

 近衛も東条を説得できず、東条もまた近衛を説き ふせることができなかった挙句、東条が近衛にいっ たという、有名なコトバがある。

「人間たまには清水の舞台から、目をつぶって飛び 降りることも必要だ」

 ここで東条は、〈政策〉からも遠去かり大衆的動 向を触知しえたがゆえに、そこからも疎外され孤立 した、自らの位置を、自ら鮮やかに言いあてていた のだ。

 丸山真男が「軍国支配者の精神形態」でいってい る

「あの法廷(東京裁判)に立った被告たちは、む しろ彼らが地位の上で遥かに見下していた官民大小の 無法者たち(中堅将校や右翼浪人たち)に引き廻さ れた哀れなロボットである」

という上部ロボット説は、耳に入りやすい見解にす ぎないが、そういわれても仕方のない面を指導部が もっていたことは否定しようのないことではある。 しかし真にあきらかにされるべきなのは、ロボット であった、なかったに拘らず、かれらが開戦のテー プを切ったという事実であり、そうさせた或いは 選びとっていった支配の関数そのものについてであ る。

 この関数が無法者・ゴロツキにあったという 丸山のロボット説は、週刊誌好みの人脈相関図を なぞった見解にすぎない。真に問われるべきは、 指導者たちの意志・思惑を徹底的に個別化し無力 ならしめた現実の過程の進行と意志との乖離を不 可抗力と規定させた始源についてである。

 さて、東条は確かにテープを切ったのだけれど も、その切断を可能にしたものはなにか。それは、 目をつぶって飛びおりた東条の意志的力ではなく、 目を見開き、〈戦争意志〉の〈開戦意志〉への転 轍を可能にさせた日本の戦争担当能力を形成させ たものたちの営為の結果の力であり累積によって である。

 ということで、次回は「戦争担当能力 の形成」という問題を取り上げる。

戦争意志とは何か(9)

戦争担当能力の形成・組織改編


(以下は『支配とは何か』からの要約です。)

 東条が「清水の舞台から、目をつぶって飛び降り る」決断をした背景には、日本の戦争担当能力に対 する自己認識があったはずだ。今まで見てきたよう に、日本の戦争指導者たちは日米の国力・戦力の 歴然とした差異にもかかわらず、短期戦なら勝機が あると認識していた。短期戦を支える能力しか形成 できなかったとしても、そこに至るまでには長い努 力と蓄積の歴史があった。

 第一次世界大戦以後、どの国もが〈国家総力戦〉 を軍事問題の最大課題とせざるを得なくなっていた。 この〈国家総力戦〉というこれまでの戦争概念を 全的に転換させる問題は、とりわけ陸軍省・参謀 本部の幕僚たちに、深刻な影響を与えた。それは 次の二つの動きとなって現れた。

① 軍の近代的組織改編
② 戦争概念の転換に伴う軍事力の形成

① 軍の近代的組織改編
 これはとりもなおさず、人事の問題として浮上 してきた。

 西南戦争以後、陸軍部内の長州閥に対する不満は 大きな底流をなしていた。それが具体的な動きと なった端緒がいわゆる「バーデン・バーデンの密 約」である。

 この「密約」は、1921(大正10)年10月、16期 三羽烏といわれた、岡村寧次(のち参謀本 部第二部長)、永田鉄山(のち軍務局長)、小畑 敏四郎(のち参謀本部第三部長)の三人により 交わされたのもである。「派閥の解消、人事刷新、 軍制改革、総動員態勢」を骨子とする。

 その後、陸大出の中堅エリートを中心として 「人事刷新」をスローガンに結集しはじめ、 「一夕会」「二葉会」といった省部佐官級の社会 ファシズム的結合組織をうみだしていった。 16期三羽烏は「陸軍の人事を刷新して、諸政策を強 く進めること」という「一夕会」の第一回の会合の 決議を実現すべく、陸軍部内を漸次制覇していき 「国家総力戦体制」を準備していった。

 この組織的改編の長期にわたる努力・変転の跡を概 観すると次のようである。

1917(大正6)年
8月 参謀本部員小磯国昭少佐 「帝国国防資源」執筆
9月 陸軍省臨時軍事調査委員会 設置
9月 参謀本部「全国動員計画必 要ノ議」

1918(大正7)年
4月 軍需工業動員法公布
6月 軍需局官制公布
6月 軍需評議会設置
6月 陸軍省兵器局工政課新設

1919(大正8)年
11月 工政課「大正九年度陸軍軍需工業動員計画要 領」訓令
(以降、こうした訓令は1920~1923、1926~1936と続けて 出されていく。)

1925(大正14)年
4月 国家総動員機関設置準備委員会

1926(大正15)年
9月 陸軍省整備局新設

1927(昭和2)年
5月 資源局官制公布
11月 作戦資材整備永年計画策定要綱

1928(昭和3)年
11月 「作戦資材整備要領」

1929(昭和4)年
5月 「作戦資材各期整備大綱」

1931(昭和6)年
2月 宇垣陸軍大臣「陸軍軍需品生産能力調査ニ 関スル件達」

〈満州事変勃発〉

1932(昭和7)年
7月 「応急総動員計画設定要領」

1933(昭和8)年
5月 「陸軍軍需動員計画令」

1934(昭和9)年
3月 「石油事業法」(許可制、貯油の義務化)
9月 陸軍省新聞班「国防の本義と其の強化の提唱」

1935(昭和10)年
5月 内聞調査局設置

1936(昭和11)年
12月 「陸軍省軍備充実計画大綱」

1937(昭和12)年
5月 内閣調査局を改組拡充し企画庁を設置
5月 「重要産業五年計画要綱」
6月 「軍需品製造五年計画要綱」(五年不戦の 基調)
10月 資源局・企画庁統合され企画院へ

1938(昭和13)年
4月 「国家総動員法」公布

戦争意志とは何か(10)

戦争担当能力の形成・軍事力の形成


② 戦争概念の転換に伴う軍事力の形成

 戦争概念の転換をもたらした第一次世界大戦は、 それまでの戦争と具体的にどう違っていたのか。

1. 単位部隊の編成装備、とくに火力装備の向上と、 新兵器を装備した新鋭部隊の出現とその急速な拡 大。

2. それに伴う軍需品、戦時消耗料の桁違いの増加。

(例)一会戦での砲弾の消費量
 (1)奉天戦日本軍      33万
 (2)ベルダン戦ドイツ軍   2千万
 (3)ソンム戦フランス軍 3千4百万

 (2)、(3)はそれぞれ(1)の60倍、100倍である。

3. 交戦兵力が人員資源上の限界に達し、しか も戦争は長期化して物的資源を使い果たしてやまず、 いわゆる国力を賭けた国家総力戦と呼ぶにふさわし い様相を示した。

4. 航空機の進歩と航空部隊の活躍は従来あった戦 線と銃後の境界線を色あせさせた。

 しかし、日露戦争と、その戦後経営に追われて 常備兵力の充実計画すら実現できなかった当時の 日本陸軍の戦時編成と装備は第一次世界大戦勃発 時には、なお日露戦争当時の域を当然脱していな かった。日本陸軍は、第一次世界大戦終息と共におこっ てきた不況と、それに伴う財政緊縮等に規定され つつも〈国家総力戦体制〉確立へ向って歩みはじめ た。そして、その歩みを大きく進める動因となった のが以下のような諸経済計画であった。 (以下は、USA戦略爆撃調査団の報告による。)

一、軍需の増大に備えてなされた工場及び設備の 拡張計画
二、原料増産計画と非常時貯蔵計画
三、当面の作戦(満州・支那)を支持するための 完成兵器の増産
四、原料の充分な供給に備える船舶の拡充計画
五、農業から工業的職業へ移動せしむべき労力の 配置計画

 これらの計画は「生産膨張期の十年」と いわれるほどの顕著な効果をあげた。その具体例 は次のようなものである。

一、1942年には年間七千機以上を生産した航空機 工業や、戦車工業、自動車工業はこの期間につく られた。
二、この工業の膨張には、原材料が得られるかど うかにかかっていた。そこで国内の原料の増産に 大なる努力がなされた。

(例)
 石炭の産額 1931年 2800万トン
         1941年 2260万トン

 国内の鉄鉱採掘高もめざましく上昇した。しかし 石油とかボーキサイトなどは自給自足できず、日 本の工業生産における大きなネックとなっていた。 1941年末におけるボーキサイトの在庫は25万トン 、アルミニウムに換算すると、当時の消費比率から みれば6ヶ月に足る程度のものにすぎなかった。

三、工業能力の拡張や国内工業のための原料供給 の拡大は、そのほとんどが軍需生産を増加させる ために利用された。
四、軍備計画の大きな一面をなす商船隊の拡充は、 戦前10ヶ年を通算すると、2,136,245総トンが建造 され、船腹は約三分の一膨張した。
五、1930年代の工業の膨張に伴い、工業労働力も かなりの増加をした。

製造工場における男子総数と女子総数
 1930年 440万人  140万人
 1940年 610万人  200万人

 このように、1930年代にはいっての日本の軍事 能力の増大にはめざましいものがあり、とりわけ 軍事的にその基礎となる重工業において生産の上 向傾向が最も著しく、戦争担当者たちを力付けて いた。

 USA戦略爆撃調査団は、以上のように日本の経済 戦力を概括し、次のように総括している。

 この時期の経済的効果をかえりみると人はその 努力の烈しさと結果の大きさにうたれる。これら の成果なしには日本の立案者たちといえども、真 珠湾以後数ヶ月になされたような軍事行動を考え てみることも不可能であったに違いない。

 にも拘らず、日本は依然として重大な経済的弱 点のままだった。すなわち食塩の何割かと重要な 基礎的原料と近代工業国の血液ともいうべき石油 を海外に依存しているということは、封鎖作戦に 際し日本を絶望的に脆弱ならしめていた。

 しかも日本の軍事工業は比較的小さくかつ新し く建設されたものであるから能力には余力という ものがなかった。また兵器生産の経験や他に大量 生産の産業も少い日本では、工業的機械学的に熟 練した労働力を作り上げることができなかった。 これは後日経済が大規模な戦闘のため逼迫したとき、 熟練の不足、創意の不足、即席にものをつくる能力 の欠如を意味していた。

 要するに日本という国は本質的には小国で、輸入 原料に依存する産業構造をもてる貧弱な国であって、 あらゆる型の近代的攻撃に対して無防備であった。 手から口への、全くその日暮しの日本経済には余力 というものがなく緊急事態に処する術がなかった。 原始的な構造の木造都市に密集していた日本人は、 彼等の家を破壊された場合住む家がなかった。

 日本の経済的戦争能力は限定された範囲で短期戦 を支え得たにすぎなかった。蓄積された武器や石油、 船舶を投じてまだ動員の完了していない敵に対し痛 打を浴せることはできる。ただそれは一回限り可能 だったのである。このユニークな攻撃が平和をも たらさないとき、日本の運命はすでに定まっていた。 その経済は合衆国の半分の強さをもつ敵との長期戦 であっても、支えることはできなかったのである。

 以上のような、少なからぬ「軍の近代的組織改編」 の計画策定、不自然とも言うべき経済の発展と飛躍的な 「軍事力の形成」について、北岡さんは次のように 述べている。

 ここに私は戦前期日本の時代的・社会的制約性に 包囲された〈戦争意志〉と、それを動力として形成 された〈戦争担当能力〉の在り様をみざるをえない。 すなわち、ここで〈戦争意志〉がめぐりあい、獲得 したものは、組織の蓄積の欠如による無力であり不 在であったのではないかと。

 しなければならないことの多さは、そうできな かった歴史と、そうできない現実の在り様をこそ 示している。〈国家総力戦体制の確立〉〈高度国 防国家の建設〉という旗印風意志は、なによりも、 このそうできていない、できなかった〈現実〉に 向った〈意志〉が、まさに〈当為〉と〈願望〉を 出発点とするしかなかったことを示している。

 同時に〈当為〉と〈願望〉を背負いこんでしか スタートできなかったということは、〈戦争意志〉 の分派的拡散の運命を予兆させていたのだ。時代 的・社会的制約性は〈戦争意志〉の内化・深化の 過程がとりも直さず、〈戦争意志〉の〈党派化〉 の過程であることを前提的に規定したといえる。