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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第639回 2006/10/21(土)



今日の話題

マスゴミと狆ゾウ

 もう大方の方がご存知のことでしょうが、おそまきながらこのホームページにも 記録をとどめておきたいことがある。ハイ、ますます使い物にならなくなって きたゴミ、マスゴミと、スキャンダルまみれのオコチャマランチ狆ゾウのことです。 ゴミはゴミをもって集まるとか…

 植草一秀さんの痴漢容疑はコイズミ・ポチ政権による口封じのための冤罪 (国策逮捕)だということは、もうほとんど確かです。じつは、国策による口封 じ事件がもう一つあった。

 イーホームズの藤田東吾社長は耐震偽装事件で世間が大きく揺れているときに、 架空増資という微罪で別件逮捕された。これは明らかに耐震偽装事件の 真相を隠蔽するための国策逮捕です。藤田さんの口を封じたかった。

 しかし、藤田さんは命を懸けて封を解いた。架空増資事件について有罪の判 決を受けた直後に行われた司法記者クラブの会見で、藤田さんはアパグループ というマンション販売企業の耐震偽装を告発した。当日この会見にはほとんどの 新聞社・テレビ局の記者が出席していたが、その告発の内容を報道したのは 東京新聞だけだった。他の新聞と全てのテレビはこの重要な告発を完全に無視 している。何故でしょう?

 ちなみに、アパグループの会長・元谷外志雄は狆ゾウの後援会「安晋会」の 副会長です。

ほとんどのマスゴミがスルー、アパの元谷が安晋会副会長だから?地震がおきて犠牲者が出たらどうするの?それじゃあ「憎いし苦痛じゃん」バナー ほとんどのマスゴミがスルー、アパの元谷が安晋会副会長だから?地震がおきて犠牲者が出たらどうするの?それじゃあ「憎いし苦痛じゃん」バナー

おなじみ雑談日記さんのアニメバナーです。

 藤田さんは、金儲けのために国民の命を食い物にしているアパグループをこの まま野放しにできないと、この件に命を懸けているようです。マスゴミが無視し たので狆ゾウに直訴することにした。逃げばかりをうっている自称「戦う政治 家」は、今度も姑息な対応に始終しているようです。これは現在進行中です。

 以上の詳しいいきさつは、きっこの日記 の10月15日以降の記事で知ることができます。

 マスゴミのゴミ振りをもう一つ。

 佐高信さんはマスコミの政治関係報道のあり方について、与党と野党の報道量 の比率は3:7ぐらいで丁度バランスが取れた報道になる、と言っている。しかし、 マスゴミはこの逆を行なっている。もっとひどい比率かもしれない。しかも 与党についての報道は破廉恥なほどのヨイショ振りに対して、わずかな野党につ いての報道では必ずマイナスイメージを織り込む。このマスゴミの退廃ぶりを 如実に示している例を森田実さんのホームページ が報じている(10月17日の記事)

 10月14・15日、国民新党が結党後初の全国研修会を開いた。これをマスゴミはどのように 報道したか。


 (1)正確な報道=東京新聞、(2)ねじまげ報道=毎日新聞、(3)無視=朝日、読売、 日経、産経の4紙。

 まず、正確に報道した10月15日付東京新聞朝刊2面の記事を紹介する。

《参院選で躍進/政界再編狙う/国民新党・綿貫氏
 国民新党は14日、埼玉県江南町で、結党後初の全国研修会を開いた。冒頭、綿 貫民輔代表は「郵政民営化は大失政だった」などと小泉前政権を批判。その上で 来年夏の参院選について「一つでも多くの議席を獲得し、それを起爆剤に政界再 編につなげたい」と決意を述べた。
 また、亀井静香代表代行は「自民、公明両党を過半数割れに持っていくことが 絶対条件だ。そのためには民主党や社民党とも選挙で手を結ぶ」と表明。参院 選後の政局のキャスチングボートを握るため、野党間の選挙協力を進める考えを あらためて強調した。
 同日の研修会には国民新党所属の国会議員8人のほか、全国特定郵便局長会や 宗教団体の関係者ら支援者約500人が出席。
 亀井久興幹事長は「党員は現在10万人だが、年内に倍増させ、参院選までに 『30万-50万人』にするという目標に向け頑張る。支部もつくっていきたい」 と述べ、党員拡大と組織作りに協力を求めた。》

 次に「ねじ曲げ記事」(10月15日付毎日新聞朝刊)を紹介する。

《参院選の後に自民と連携も/国民新党・亀井氏
 国民新党の亀井静香代表代行は14日、埼玉県江南町で開いた同党研修会で 「安倍晋三首相が反省し(地方重視に)予算を見直せば、助けるという立場も 出てくる」と述べ、来夏の参院選後に自民党と連携する可能性に言及した。 参院選については民主、社民両党との選挙協力を「徹底的にやる」と強調して おり、参院選で与党を過半数割れに追い込み、キャスチングボートを握る戦略 を示したものだ。》

 私自身、亀井静香代表代行の挨拶を目の前で聞いていたが、毎日記事は亀井 演説をねじ曲げている。亀井代表代行は、演説全体を通じて自民党をきびしく 批判し、自民党と戦うことを力強く強調した演説のなかで、安倍内閣が追い詰 められ苦しくなって小泉政権の政策を反省して見直し、政策転換に踏み切り、予 算を見直せば、その動きを助けるということもあり得ないわけではないという 趣旨でほんの一言語っただけである。全体の流れは「対決」であった。

 繰り返すが、話の本筋において亀井氏は「対決」を強調し、そのなかで例外的 に柔軟な対応もないわけではないとの態度を示したのである。毎日新聞の記事は、 この一言をとらえて、亀井演説をねじ曲げたのである。おそらく、現場の記者が 送った記事をデスクが書き換えてしまったのではないか(「こういうことはよく ある」と元新聞記者の友人は言う)。いずれにせよ、大新聞のこういうやり方は よろしくない。

 しかし、最もひどいのは、1行も報道しなかった朝日、読売、日経、産経の 4紙である。国民新党は小なりとはいえ現職国会議員8名を擁し、党員10万名の 政党である。大新聞社がこれを無視するとは何事か!新聞社の社会的責任の放棄 ではないか。
 大新聞は、政治権力をもっている自民・公明連立内閣には、毎日毎日ゴマスリ 記事を書きつづけ、歯の浮くようなゴマスリをつづけている。
 ところが、地方・地域を重視する唯一の政党である野党の国民新党の重要な 会議を報道しない。無視してしまう。ひどすぎるのではないか。
 10月14、15の両日行われた国民新党研修会は、国民新党が07年参院選の台風 の目になる可能性が高いことを示した。ここには大新聞が国民に知らせるべき 大切な政治情報が数々あった。このことを私は本欄において国民の皆さんに 報告する。
 国民新党は力強く、07年参院選に向かって出発した。(つづく)
   


 またまた東京新聞が名を上げている。どうやらジャーナリズム精神を堅持し ているのは、新聞社の中では、東京新聞はじめ地方紙だけのようです。
第659回 2006/11/17(金)

『柄谷行人著「世界共和国へ」を読む』
(休みます。)




今日の話題

軍隊を持たない「美しい国」コスタリカ

 このホームページで軍隊を持たない国コスタリカに初めて触れたのはもう2年前 (第31回 2004年9月14日)のことです。そのときは、見事に機能しているコスタリカ の三権分立のことが話題でした。再録すると

『コスタリカでは最高裁判所が国家権力の憲法違反を裁きました。そして国家権力はその 判決に従った行動をとっています。すごい国です。それに引き換え、日本の裁判所は憲法 の番人ではなく、権力の番犬になってしまったのでしょうか。「いまの憲法を認めない」 といってはばからない奴を、都知事に選び、憲法がそいつを守るおかしな国。』

というのでした。

 今朝、この「美しい国」コスタリカがますます輝いている様子を伝える 素敵な文章に出会いました。

コスタリカのリタさんと富山(きくちゆみのブログ)

 以下に、この場でも直接読めるように(と同時に、後に私自身が必要とするようにな りそうなので)全文転載しておきます。(きくちゆみさん、無断転載をお許しください。)


 (コスタリカの)リタ・マリエ・ジョンソンさんはアメリカ人ですが、コスタリカの 国連平和大学で教鞭を執ったあと、安定した給料と職を辞して自ら「ラスール財団」を設立しました。ラスールというのは、コスタ リカの詩人が書いた物語にでてくる平和の偉大な師(子どもたちを導き守る神の使い) の名前です。ある日、コスタリカにやってきたラスールは山に子どもたちを集めて、 1週間平和のトレーニングをします。「空の稲妻をコントロールしようと思う前に、 まず自分の心の中の嵐を鎮めなさい」と教えます。

 こうして子どもたちはピースメーカーに生まれ変わって両親の元に戻ります。両親は 子どもたちの影響を受け、ピースメーカーになり、やがて、村全体が平和になり、豊か に、創造性に溢れた場所へと変身します。

 この物語が発表されたのは1946年で、その2年後になんとコスタリカはこのラスールの 物語が予言したかのように、軍隊を完全に廃止するのです。それまでコスタリカは内戦 状態で、中米の中で一番貧しい国だったことが信じられません。

 リタさんはこのラスールの物語に感銘を受け、財団を「ラスール財団」と命名し、夫と 2人でコスタリカ平和部隊というプロジェクトを始めます。平和部隊は平和の技術を授け るトレーニングプログラムであり、コスタリカの全ての人をピースメーカーにするべく 活動していますが、今は学校の先生をターゲットにしています。そして先生から子ども たちにその技術を伝えてもらっています。

 平和の技術とは何でしょう?まず心に平和を感じること(これを実現する最新テクノ ロジーを使った道具があるのです。EM Waveというのですが、心の状態、ストレスの度合 いがすぐにわかる道具です)と、平和を語ること(非暴力コミュニケーション術)の2 つが柱です。平和な心のときには、思考も明晰で建設的な判断ができます。ストレスに さらされているときは、逆の結果になります。

 彼女の話しをすべてここには再現しませんが、訳していて思ったのは、コスタリカの 国民がいかに平和を現実のものにするために不断の努力をしているか、ということです。 日本はどうでしょうか。平和憲法があるのに、どんどん戦争への道を許してこなかった でしょうか。いつの間にか日本の自衛隊は世界有数の軍隊(軍事費では2位から4位の 間)になっているのは、どうしてでしょうか。

 教育基本法を変えて、お国のためにいのちを投げ出す子どもを育てよう、という方向 に今、日本は向かっています。コスタリカでは平和教育法があって、すべての学校、す べてのクラスで非暴力で争い(喧嘩)を解決する方法が教えられ、子どもたちは地球市 民となるよう教育されているというのに。なんという違いでしょう!

 憲法をもっているだけでは平和は実現しません、とリタさんははっきりいいました。毎 日、毎瞬を平和の実現の選択をし続ける、そのためにアイデアを出し合い、トレーニング を受け、一人一人がピースメーカーになる努力をして初めて、平和が現実のものになって いくのです。

 そして1国では平和はできない、とも。実際コスタリカは紛争を抱えた国に囲まれて います。しかし、例えばニカラグアの紛争が激しかった1980年代も、アメリカからの強 い圧力と、タダで強い軍隊を持てるという誘惑に負けず、軍隊を持ちませんでした (アメリカは費用は全部出すから軍隊を作れ、と迫っていたのです)。その代わり、 大統領が周りの紛争国すべてに出かけていって、双方のリーダー(政府と反政府)に 「戦車よりもトラクターを」「兵士の数より教師の数を増やそう」と説得し続け、 ついに中米全体の争いを終わらせたのです。この功績によりノーベル平和賞を受賞した のがオスカー・アリエス大統領です。

 今年の5月に彼がまた大統領に再選されました。実はこのときコスタリカでも改憲を したのです。しかしそれは彼を再選するための憲法改正でした。ノーベル平和賞を受賞 したオスカーをもう一度大統領にするために(コスタリカの憲法では大統領の再選は許 されていませんでした)。日本が憲法9条を捨てようとしているのと、何と大きな違い なのでしょう!

 そして、今、彼女の発案で平和省設立法案(実際には法務平和省という名前になる) が11月7日に正式に提出され、議会での審議を経た後、おそらく来年中頃には成立する 可能性が高いそうです。現在世界で市民が平和省の設立に尽力している国は日本を含め 24カ国ありますが、おそらくコスタリカが最初に実現しそうです(平和省運動がもっと も盛んなのは、なんとアメリカです)。

 彼女の話しは私たちに平和は現実的であり、可能であること、そして戦争よりもずっと 安上がりで、真の繁栄をもたらすことを教えてくれ、大いに勇気づけられました。


 この文章からは、殺人、格差、自殺、いじめなどなど、殺伐とした「醜い国」日本の 現在の状況を克服するための示唆がたくさん読み取れます。コスタリカは人類の「希望の 星」と言っても良いのではないでしょうか。

 柄谷さんは「一国の中だけで、国家を揚棄するということは不可能」という認識のも とに「世界共和国」を構想していきます。なぜそれが不可能なのか。国家の 本質からして「国家間の自然状態(敵対状態)が解消されることはありえない」からだ としています。その意味で「ソビエット連邦」という壮大にして悲劇的な実験の失敗は 必然だったと柄谷さんは考えています。

 柄谷さんの論考があり得べき世界を目指す一つの思考実験だとすれば、コスタリカの 試みは「国家間の自然状態(敵対状態)」を解消しながら理想の世界を目指す新たな現実 での実験と言うべきでしょうか。その実験の一番の障碍は、たぶん、ならず者国家・アメリ カです。

 日本は今コスタリカとは正反対の方向に暴走し始めています。この勢いを今すぐ止められな いとしても、あるいは私(たち)の闘いが今は必敗の闘いであるとしても、私(たち)の 闘いには孫の世代に「希望の芽」を残す役割があります。現在のこの国の支配層(財界・ 政治家・官僚)やマスコミの志の低劣さ、さらに加えて民度の低さを考えると、そのぐら いのスパンをもって闘い続けなければならないと、思ったことでした。
今日の話題

ハチドリのひとしずく

 東京新聞(1月1日)の「筆洗」に「ハチドリのひとしずく」の話が紹介されていま した。これは今の私の心境をピッタリ一致します。私(たち)がとるべき生き方を 示唆し勇気付けてくれる話だと思いました。

 南アメリカの先住民に古くから伝えられてきた話です。文化人類学者の辻信一さんが それを伝え聞いてきました。辻信一さんには「ハチドリのひとしずく」という著書が あります。


あるとき森が燃えていました

森の生きものたちは
われ先にと逃げていきました

でもクリキンディという名のハチドリだけは
いったりきたり
口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます

動物たちがそれを見て
「そんなことをしていったい何になるんだ」
といって笑います
クリキンディはこう答えました
「私は私にできることをしているの」


 この話を伝承した先住民は、大きな問題を前にして無力感に押しつぶされそうになる時 「ハチドリを思い出して」と、辻さんに話したそうです。

 数ヶ月前、辺見庸さんのいま「いまここに在ることの恥」という本を店頭で 出合って躊躇なく即購入しました。しかし、その本には強く打ちのめされそうな予感が して読めずにいました。それを、なぜか、年が改まる前に読まなくてはいけないという 強い思いにとらわれて、暮れに読みました。やはりすごい内容です。この本もこの ホームページに来てくださっている方と一緒に読んで、辺見さんの思いを共有したいと 思ったものでした。今日は、「ハチドリのひとしずく」と同じ思念を表現していて私の 心にしっくりと落ちてきた「恥」の最後の一文を紹介します。


 きょう、なんとかして私は、自分が倒れた2004年3月14日と、この2006年4月27日を、 自分なりにつなげたいと思いました。おかげさまで時系列の整理はある程度できたよ うです。

 私は脳出血になりガンになったからといって、いまさら宗旨がえをする気などあり ません。賢くないことを何度も懲りずにやると思います。躰はもうこんなになりまし たから、私にできることは肉体的にはごくかぎられている。かぎられてはいるけれど も、また、病んではいるけれども、憲法の問題にしても、表現のどこかには多少、躰 をかけざるをえないと覚悟しています。躰の右側がうまく動いてくれませんが、私は デモにも行く気でいます。まちがいなく憲法は改悪されることでしょう。でも、私は どこまでも反対します。この国の全員が改憲賛成でも私は絶対に反対です。

 世の中のため、ではありません。よくいわれる平和のためでもありません。他者の ためではありえません。「のちの時代のひとびと」のためでも、よくよく考えれば、あ りません。つきるところ、自分自身のためなのです。

 この国に生きる自分自身の、根底の恥のためです。いまここに在る恥のためです。 恥辱はどのみち晴れるものではありません。でも、私はただいまにまつらい、逆らわず 生きることの恥の深みを考えながら、なにごとか書きつづけます。あとどのぐらい生き るかわかりませんが、いさぎよく死ぬよりも、不様に生きることのほうが私には収まり がいいだろうなという気がします。そして自分が「形骸」のようになったときに、果た して内奥の眼はなにを視るのかを書いてやろうと思っているのです。

 ですから、多少しんどいけれども、大きな不満はありません。元気だった躰をかえし てくれ、なんていまさら考えていません。どうせ、無理な話だし、このままで、まあ、 いいのです。この躰のまま考えつづけるつもりです。そのほうがいいのです。


「恥」「恥辱」「視る」「形骸」。これらの言葉には、この終わりの一文に至るまで縷々 語られてきた中で、それぞれに深い意味が付与されています。それをもう一度読み直し てみようと思っています。

 奈落に落ちていくような暗い時代の予感の中で、私には新年の感慨など全くありません。 それでも、これがいわば私の年頭にあたっての所信と言えましょうか。
第733回 2007/02/21(水)

《吉本ファシズム論より》:社会ファシズム(3)
(お休みです。)



今日の話題

<アジア的構造>という呪縛

 自民党の中川幹事長が「閣僚・官僚は総理に対し絶対的な忠誠、 自己犠牲の精神が求められている。……首相が入室したときに、 起立できない政治家、私語を慎まない政治家は、美しい国づくり 内閣にふさわしくない」などと発言したことがいろいろと取りざ たされている。

 この発言の効あってか、早速閣僚たちが起立して首相を迎えるように なったそうだ。昨日の新聞に、狆ゾウが起立している閣僚の間をふん ぞり返って歩いている写真が掲載されていた。思わず吹き出してしまっ た。

 思い出したことがある。
 まだ青年教員だった頃こと、歓送迎会の席である中年教員が「○○校 長に○年、△△校長に△年仕えていました。」と挨拶した。「校長に 仕える」などという意識は私には全くなかったので、私はまるで異星 人に出合ったかのようにびっくりしたし、吹き出すのをこらえるのに 苦労した。このお人、やがてリッパな校長に出世したようだ。

 中川幹事長の発言を批判している人たちのほとんどが北朝鮮の政治 体制を連想している。まさにこの二つの事例に共通しているのは意 識としての<アジア的構造>なのだ。近代的装いを凝らしたアジア 的デスポティズムを屋台骨とした大日本帝国は滅んでも、意識とし ての<アジア的構造>は容易には滅びない。この問題は私たちにも なお無縁ではない。

 滝村隆一さんの「アジア的国家と革命」から引用する。


 <アジア的構造>の最も本質的な特質は<個体> - つまり制度を 支える個体また制度のなかの個体 - がそれ自体として原理的に確 立していないこと、換言すれば<個体>が、したがってまた近代的な <家族>が生活的<現実的>にも思想的にも自立しえないところにあ る。

 これをさらに具体的な構造論のレヴェルで換言すれば、個別歴史レ ヴェルにおける<アジア的>な形式制度的構造の厳存は、一方におけ るワンマン的暴君ないし慈悲深い家父長君主たる<デスポット>の存 在と、他方における一般民衆の強烈な<共同体意識>が、何よりも <デスポット>を奉戴せざるをえない心情として存続していることに 象徴されるということになる。

 ここで翻って現在の「社会主義国」をみると、一方では<デスポッ ト>はいくらか形を変えて、つまり<毛沢東主席>や<金日成首相> という・人民と共に歩み人民に対して献身的な・<進歩的デスポット> として、相変らず人民の上に君臨している。他方では、アジア的人 民に特有の<共同体意識>が、強烈な<民族意識>として再生され ている。これを要するに「社会主義国」が建前上掲げている<制度 イデオロギー>としてのマルクス主義の<近代性>とは別に、そこ ではまぎれもなく<アジア的構造>が、脈々として波打っているの である。

 しかしこれは、われわれにとってたんに彼岸の問題たることを意 味しない。わが国をも含めて中途半端に<近代化>したアジアに特 有の進歩的知識人は、多かれ少なかれ、かかるアジア的構造を直視 することを避けて、アジアがもっともっと近代化すれば、必ずやア ジア的構造が必然化しているところの一切の<アジア的悲惨>など 一挙に解消・霧散してしまうといった無知からくる底ぬけの楽観を 抱いている。全く冗談ではない、とはこのことだ! いかに実質制 度的レヴェルで様々な要素が猿真似的に導入され、<近代化>され たところで、頑強な<アジア>は形式制度的レヴェルで残存し、や がてかかる制度的な二重性が新たな<アジア的構造>として転成し かねない。

 これはわが国の政治制度、すなわち<議会制>とか<官僚制>と かいう<近代的>な制度のなかで左右の政治的利権屋や官僚どもが、 それぞれ<小・デスポット>よろしく君臨する<ボス>を頂いて対 立・抗争・癒着し、どんな陣笠代議士でも自己の周囲では<ミニ・ ボス>然と振舞っていること一つをみても明らかなはずである。

 また社会制度的レヴェルでいえば、何も<アジア的宗教>の大衆 運動形態たる新興宗教を、ことさら引き合いに出すには及ばない。 むしろかつては<天皇制の廃止>という政治的スローガンを提出し た左翼的な政治運動家やその同伴的な学者・知識人たちが、自己の 組織(つまり一般党員に対して)や大学の研究室(つまり助手・院 生・学生に対して)、また家庭(つまり妻子に対して)でいかに 振舞っているかを正視すれば足りる。

 かくの如く頑強な<アジア>は、われわれ個々人の<内>にも しっかりと根を下しているのである。それ故、彼らが欧米流の <近代>を猿真似的に借用することによって、恰も一切の <アジア的悲惨>を一掃しうるかに夢想しているのは、<アジア 的構造>の頑強さ、とりわけ彼ら自身の<内>なるアジア的醜悪 さには一向に関心を示さない・アジアに特有の進歩的知識人の救 い難い偽善を暴露しているにすぎないことになる。

 われわれが採るべき道はただ一つ、<アジア的構造>を周到に 把握して、その根柢的止揚の道を理論的にまた思想的に追究する ことである。この場合<個体>原理確立の思想と運動が、アジア 的構造止揚の有力かつ有効な方策の一つであることは疑いえない。

 しかしアジア的構造の止揚は、何よりも制度的変革つまり <制度としてのイデオロギー>の変革の問題である。この意味で 私は、何よりもまず既成の「社会主義国」や日本社会を対象にし て、アジア的な形式制度構造と近代的ないし社会主義的な実質制 度的構造との複雑にからみ合った関連が、政治・経済・社会の全 レヴェルにおいて、理論的に追究・解明されねばならないと思う。
第734回 2007/02/22(木)

《吉本ファシズム論より》:社会ファシズム(3)
(お休みです。)



今日の話題

<アジア的構造>:その右翼的な理想像

 一年ほど前、反権力を標榜しているあるブログに出合った。 私にとって疎い分野の情報が得られそうなので継続して読んでいたが、 その誇大妄想的な夜郎自大ぶりには辟易はしていた。のちのちの参考 にと記録しておいた記事が二つある。そのうちの一つ。

(次の引用文の「木村洋」さんは、1999年に起こった山口県光市の 母子殺害事件の遺族の方です。その事件の裁判が大詰めを迎えた頃 のことです。)


 二日間ほどマスコミが事件を集中報道して、これまでになく数多 く本村洋の発言に接することができた。顔つきが大人に変わり、 刺すように鋭かった昔の雰囲気は少し変わったが、相変わらず 言葉が素晴らしい。本村洋の言葉は本当に素晴らしい。言葉が常 に理路整然としていて、無駄がなく、分かりやすく、聴き入るた びに興奮と感動を覚えさせられる。聴きほれる。納得と共感で心 が満たされる。何もかもが絶望的なこの日本で、本村洋は私にとっ て宝石のような美しい貴重な存在であり、この若い、優秀な優秀 な優秀な優秀な男を、国会議員にしたいと希(こいねが)う。

 日本国憲法が想定する国民代表の理念型は、本村洋のような人間 的資質をこそ具体要請しているのである。できればこの男を総理 大臣にしてみたい。今すぐに日本国の運営を任せてみたい。昔、 菅直人が厚生大臣になって、薬害エイズ事件の犠牲者の遺族の前 に立ち、遺影に向かってひざまずき謝罪をしたことがあった。 「大臣、この子に謝罪して下さい」という悲痛な訴えの言葉が耳に 残っているけれど、それを見たとき、私も若かったが、「菅直人よ くやった、総理大臣にしてやるぞっ」とテレビの前で叫んだことを 覚えている。

 日本ではあまり見ることのない、感動的な政治の場面だった。 あれから十年経ち、今では菅直人を総理大臣にしてやりたいなどと は全く思わない。それっきり、総理大臣にしたい男は私の中に一人 としていなかったが、今は本村洋を内閣総理大臣にしてみたいと 願望する。憲法はきっと歓迎するだろう。憲法の心を持った天皇 陛下も歓迎するだろう。


 誇大妄想的な夜郎自大ぶりもさることながら、私がこの文を記録し ておこうと思った理由の一つは、「憲法の心を持った天皇陛下も歓 迎するだろう。」という唐突な天皇の登場であった。ここに <アジア的>心性にガンジガラメに呪縛された擬似知識人の典型を 見たのだった。

 その<アジア的>心性がさらにはっきりと露呈した次の文に あきれ果ててそのブログとは縁を切った。反権力を標榜しているが、 その底の浅さと汚さは無残だ。この文も<アジア的>心性の典型と して記録に値すると思った。


 昨夜の「報道ステーション」の中で天皇皇后両陛下の東南アジアご 訪問についての報道があり、出発前の記者会見が詳しく放送されて いた。明日からシンガポール、マレーシア、タイの三カ国をご訪問 される。昨年の同じ時期、両陛下はサイパンを訪問され、公式日程 にはない電撃訪問で韓国人慰霊塔に立ち寄り、黙祷を捧げた。その 衝撃のニュースは我々と韓国の両国民を大いに驚かせた。私は感激 し、ブログで初めて天皇陛下について書いた。私は昨年の記事を気 に入っている。訪問日程の最後の朝だったと思うが、宿舎の近くの 砂浜で、車椅子姿の元日本兵からサイパン戦の話を聞き、お二人で 言葉をかけられる映像もあった。あれから一年が経った。

 昔、丸山真男が「超国家主義の論理と心理」を書いたとき、これ は「世界」の1964年5月号に発表されたが、終戦から僅かの時間し か経っておらず、文中で天皇を天皇と呼び捨てにしていいのかど うか、いや、これからはもう構わないのだと、何度も自分に言い 聞かせながら書いたと回顧していたことがあった。私の場合は、 丸山真男とちょうど逆で、天皇を天皇陛下と呼ぶ文章を内心苦労 しながらトライした。今では何の抵抗感もない。

 日本国憲法では、象徴たる天皇の地位は国民の総意に基づくとあ る。天皇を国民が尊敬できなければ、国民は日本国を愛することは できない。また、全ての国民から尊敬される天皇でなければ、この 国は国として一つに纏まることができない。

(中略)

 天皇陛下だけが指導者として平和のために闘っておられる。右傾 化と戦時体制化への歯止めを誰もかけられない中で、天皇陛下だけ が国民に平和への希望を与えている。政権の圧力に抗して。本当に 立派だ。

 今度の東南アジア三カ国ご訪問のハイライトはシンガポールとい うことになるだろう。日本軍は戦争の初期にシンガポールとマレー シアで大量の華僑住民を虐殺していて、シンガポールの公園には 有名な「日本占領時期死難人民記念碑」がある。恐らくここを訪 れて黙祷を捧げる絵が報道されるだろう。

 天皇陛下と皇后陛下だけが日本の平和のために尽力されている。 お力になれないことが口惜しい。心だけは「大君の御盾と出で立 ち」たいのだけれど。残念ながら私には力がない。黙って見守る ことしかできない。くれぐれもお体に気をつけて。


 マスゴミも同様な天皇礼賛の幇間的言説を垂れ流しているが、 さすがここまで倒錯した言説はないだろう。天皇だけが「右傾化 と戦時体制化への歯止め」になっているなんて、この人正気かね。 天皇という存在はただ黙ってすわているだけで「右傾化」の推進 者でしかないのだ。「大君の御盾と出で立ちたい」などと時代錯 誤の大仰なもの言いは立派に右翼的真情の吐露以外のなにもので もない。この人は完全に右傾化を完了している。

 サイパンで玉砕を強いられた日本・韓国両国の犠牲者も、 「シンガポールとマレーシアで大量の華僑住民を虐殺」した兵士も 「大君の御盾と出で立」たされた民衆だぜ。

 かわいそうに、この人の頭脳は「右翼的に描かれた<アジア 的>なものの理想像」という<共同幻想>に侵食しつくされていて、 ことの本質が全く見えなくなっている。

 『「アジア」的なもの』(吉本隆明著「重層的な非決定へ」所収) より引用します。


 いままでわたしたちがみてきた「アジア的」という概念について の論議は、右翼的な不毛さと左翼的な不毛さに患わされてきた。

 右翼的な論議は、十七世紀以来、西欧の植民地として虐げられて きた「アジア」という鬱積が根柢にあるため、アジア地域での産業 の未発達と、農業の村落共同体の強固で永続的な停滞を、特殊で地 域的なものとみなさずに、美化したいモチーフをどこかにかくして きた。

 そして農業の村落共同体と、未発達でかたよった産業のうえに、 ほとんど遮蔽スクリーソなしに(なぜなら充分発達した産業組成だ けが遮蔽スクリーンだから)じかに対峙している専制的な国家を、 理想像にまで高めようとした。

 未発達な産業組成は、かえって支配者と農民とをじかに触れさせ る契機として美化され、閉じられた農業の村落共同体は相互扶助と 公共にたいする自己犠牲の倫理を保存するものとして賞揚された。 そして専制君主とそのまわりの支配共同体が<仁慈>にあふれてい れば、わずかの<貢納>物を農耕の村落共同体から召上げるだけで 苛斂誅求などどこにもない平等な理想国家の像が得られることに なる。

 中間に最小限にしか遮蔽スクリーンがないから、専制国家と 農耕共同体のあいだには透明な<意志>の疎通がおこなわれ <仁慈>がゆきわたるとみなされた。こういった制度の画像が、 右翼的に描かれた<アジア的>なものの理想像である。

 もちろんこのばあい専制君主とそれをとりまく支配共同体の像は、 時代と制度の変遷に応じてさまざまに置きかえることができる。 支配共同体が共産主義党派であっても、どんな理念的な組織であ っても差支えない。専制的な支配共同体と農業の村落共同体とが、 あたうかぎりじかに透明に対峙している画像が成立している。