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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第705回 2007/01/12(金)

戦争と平和(6)
「防衛省」が守るのは何?


 イラクでの自衛隊は基地に閉じこもってシッカリと「自衛」してきたが、防衛庁から 防衛省に名称を変えたいま、防衛省は何を守るだろうか。

 昨年末、教育基本法改悪の攻防のどさくさにまぎれるような形で防衛庁の「省」昇格が 決まってしまった。しかしこれは、ただ単に名称が変わっただけではない。在日アメリカ 軍再編との関連を考慮すれば、自衛隊と在日アメリカ軍との一体化・融合が促進される のは明らかだろう。防衛庁は「アメリカ軍日本省」というわけだ。

 頓馬のトンちゃんが「国軍」と認めてしまった自衛隊が、こんどは「アメリカ国軍日本 方面軍」となる。あるいは「アメリカ軍所属日本外人部隊」か。

 昨年の5月に合意された在日アメリカ軍再編の問題点をおさらいしておこう。
 海上自衛隊はとうにアメリカ軍と一体化していた。
 今度は航空自衛隊の司令部が横田に移転する。米第5空軍と共同の作戦司令部が 設置される予定になっている。
 陸上自衛隊。アメリカ本土からキャンプ座間に第1軍団司令部が移ってくる。アメリカ軍の 海外展開のための中央即応集団を新設するためである。陸上自衛隊はその管轄下におかれ ようとしている。今年中に宇都宮に中央即応連隊が誕生するという。

 これに加えてさらに、「庁」から「省」への格上げにともなって海外任務が 「本来任務」に格上げされた。これからは自衛隊の海外派遣は米軍との共同作戦をと ることになる。政府が言う「専守防衛」など有名無実の虚言ということだ。

 「省」への格上げは、「実施官庁」から「政策官庁」への転成である。シビリアン コントロールからも遠のいていく恐れがある。防衛省が「日米防衛協力課」・「国際政策課」 などという課を新たに設け設けようとしている。

 狆ゾウは「集団的自衛権」の拡大解釈、いつでも派兵を可能にするための「恒久法」 の制定、「自衛隊の武器使用制限の緩和」などを企んでいる。すべて日本には 不用なものだ。では、何のため? もう繰り返しいう必要はないだろう。

 トンちゃんから狆ゾウまでの12年間で、ついに自衛隊はアメリカの意に沿った海外侵略 をするための軍隊に成り下がってしまった。もともと軍隊が国民を守ることなど金輪際 ない。そのことは、歴史をキチンと読み解く目をもっているものには明ら かなことだ。「自慢史観」が本当の歴史だなどと低級理論を押し戴いているものには 見えない。アメリカの下請け軍隊になってしまった「他衛隊」をいまだに 「自衛隊」と信じているのはそんな連中だけだろう。

 このような状況下で、なお戦争を阻止する手立てはあるのか。「リコール権」があれば 戦争阻止は可能だけれども、それを憲法に明文化するほど社会も国家も成熟していない。 絶望するほかないのか。

 教科書民主主義を信奉している人たちは選挙こそが「リコール権」だと主張しているが、 現段階での民主主義はまやかしであることを、既に何度も論じてきた。それを「戦争と平和」 の問題に即してウンと単純化して言うこともできる。オコチャマランチ・狆ゾウだって、 「戦争を起こすこと」を公約に掲げて選挙に臨むほどバカではない。「平和」や「国民の 安全」や「国民の幸せ」を言い立てるだろう。しかし、一度権力の座に座れば、国家権力は それにしがみつくし、公約にない悪行を平気でやってのける。それは、これまでの政治 過程をかえりみれば明らかではないか。「国益」(実は「資本益」)という旗を立てて 戦争に突入することは大いにありえる。いみじくも、「公約なんて守らなくともた いしたことではない」とほざいたポチ・コイズミの居直りを思い出しておくのも無駄で はなかろう。

 じゃあどうする?
 「政治的リコール権」はまだ遠い彼方にしかない。しかし、 高度に発展した消費資本主義下の国家においては、国民は「経済的リコール権」を 持っていると吉本さんは言う。(次回へ)
第706回 2007/01/14(日)

戦争と平和(7)
経済的リコール権


 日本では1970年代に消費資本主義の時代に入ったといわれている。では何を指標にして 消費費本主義というのか。
 ごく大雑把にいうと、社会全体の産業構成において第3次産業 が全産業の50%以上になっている。そして一般民衆の経済状況において、まず所得の半分 以上が消費に使われ、さらにその全消費額の半分以上を自由な選択による消費に使うこと ができるようになっている。逆にいうと、生命の再生産に必要な生活必需品への消費が 全消費の半分以下である。このような経済社会状況になっているとき、それを消費資本 主義と呼んでいる。いわゆる先進国は全てそのような状況になっているといえる。

 最近の政・財・官による剥き出しの労働者搾取政策は初期資本主義への反動であり、 労働力再生産のためのぎりぎりの賃金も休養時間も奪おうとしている。このような 反動はいずれ破綻するだろう。 第3次産業が全産業の50%以上になっている社会構成を変えられない限り、つまり消費資本 主義社会である限り、一般大衆の全消費が景気の動向を左右している。政府が公共事業を 増やしたり企業が設備投資を増やしたりしても、一般大衆の消費が増えない限り経済成長は ない。このことは、一般大衆の全消費は政治を左右する力をも潜在的に持っていること を意味する。


 これはとても希望なんです。つまり、皆さんの中で選んでつかえる消費の部 分が所得のうち半分以上を占めている。そして、全消費のうちまた半分以上を 占めている選んでつかえる消費、今月は節約だから旅行に行くのはやめようと か、映画に行くのはやめようとか、洋服を買うのをやめようとかというふうに、 自由にやめたりやめなかったりできる額が半分の半分以上、つまり四分の一か ら二分の一の間のところを占めているわけです。

 そうしたら、これは潜在的なリコール権を持っていることを意味します。
 わかりやすくいえば、たとえば皆さんが一斉に一年の半分ないし一年間我慢 に我慢をして、選んでつかったり遊ぶためにつかっているのをやめようじゃな いかということをやったら、それで政府は潰れてしまいます。経済規模が四分 の三から二分の一のところにおちてしまいますと、どんな政府ができても潰れ てしまいます。

 それがなぜ潰れないかといったら、要するに皆さんが一斉に行使しないから です。ある人は今月は節約しているからつかうまいと思うし、ある人はちょっ と金が余っているから高いものを買ってみようというふうに、個々バラバラに そうしているから、いまみたいな政府でもちゃんと実現し得ているんですけれ ども、もし皆さんが一斉にやったらすぐに潰れてしまいます。どんな政府でも 潰れます。

 それだけの力は、経済的な先進国では、すでに民衆の個人消費の中にある。 特に民衆の個人消費の中に大部分の手が移っているということを意味していま す。それをただ行使しないというだけであって、それはすでに潜在的には持っ ているということです。

 それは現在の日本だけではなくてアメリカもフランスやドイツもそうですけ れども、そういう先進国における社会国家の状態をもし産業的に見ていくな らば、すでにそういう状態に先進国は入っているということを意味するとおも います。
 これは大変な希望だとおもいます。つまり、誰が政府になったって、民衆の 賛同なしには、そんなにむちゃくちゃなことはできないということになりまし た。


 「経済的リコール権」の行使が1年も続けば倒産する企業もあり、従って職を失う 人が出てくる可能性があるが、その人たちへの援助の仕組みも必要だろう。そうした 問題もあるが、例えばそれで戦争遂行を阻止できるとすれば、新しい運動形態として 一考の価値があると思う。生活必需品以外を買い控えるのは誰にも難しいことではない。 誰でも気楽に参加できる。



 しかし一斉に「経済的リコール権」を行使するというのは難しい。マスゴミが 「経済的リコール権」の行使を呼びかけることはまずありえない。私たちとしては デモなどで呼びかけていく手もあるが、インターネットの網の目を利用するのが 有効だ。「経済的リコール権」行使運動をブログで呼びかける。知り合いにメールを送る。 もちろん政府には闘争宣言を送りつける。この運動の参加者が全消費者の一割ほどに もなれば相当な威力になるのではないだろうか。

 政府のリコールだけではない。オテアライ・ビジョンのようなとんでもない発言に対しても 有効だ。キャノン製品をボイコットしよう。

 これって、共謀罪だな。
第707回 2007/01/15(月)

戦争と平和(8)
国家間で「国家を開く」


 法的に「リコール権」を確立することによって「国家を開く」というのは、滝村国家 論の用語を使えば、<共同体―内―国家>が<共同体>に対して開かれるという意になる。

 国家を開く道がもう一つある。<共同体―即―国家>同士がお互いにお互いを開くという 道である。いわば国際的に国家を開くということになる。現在の国連は「国家を開く」 ということからはほど遠い。国家の、特に大国のエゴの闘争の場にとどまっている。

 国際的に国家を開く兆しはヨーロッパ共同体に見ることができる。それぞれの国家は 独立にしたものとして存続していながら、共通の課題としてやれる部分では国家を開い ている。その共通の部分を広げていくことによって、国家そのものが消滅すれば理想的だが、 そこまではなかなか難しいだろう。

 まだ道のりは遠そうだけど、東アジア共同体が構想されている。これは歓迎されるべき ことだと思う。言うまでもなくこれは、半世紀前に大日本帝国が構想した「大東亜共栄圏」 などとは全く異なるものでなければいけない。あの「大東亜共栄圏」は日本の覇権のもと に他国が隷属するようなものであって、帝国主義の一種にほかならない。各国が平等の立 場に立つ互酬的共同体が望まれる。国家同士がお互いにお互いを開く。それは戦争を 回避するもう一つの手立てである。

 東アジア共同体をめぐって、日本と中国が主導権争いをしているようだが、つまらない 争いはするなと言いたい。中国の姿勢にも問題があるが、他国を論難する前に自国の姿勢を 省みるべきだろう。ポチや狆ゾウのように為政者が、歴史を直視得ない脆弱なナショナリズ ムが偽造した「自慢史観」を引っさげていては、国際社会で名誉ある地位は永久に得られ まい。

 さて、「国際的に国家を開く」という問題は、柄谷さんの「世界共和国へ」のテーマ でもあった。吉本さんの講演は、「経済的なリコール権」という民衆の主権をボランティア として行使するというテーマへと続いていく。それを取り上げる機会がもしかしたらあるかもしれ ない。それはそのときのこととして、いまは「世界共和国へ」に戻ることにする。