FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第677回 2006/12/09(土)

唯物史観と国家論の方法(6)
「スペイン絶対君主制」の特異性


 「スペイン革命」の舞台となる「スペイン絶対君主制」はヨーロッパの他の絶対君主制 とはおもむきをことにする。滝村さんはその問題をマルクスの「革命のスペイン」を 引用しながらたどっている。以下その論考をそのまま掲載します。(ただし読みやすく するために、段落変えなどをしている。)


 マルクスは、中世後期以降の簡単な歴史的概説の後で、

「すべての封建諸国家のなかで最初に、しかも最も純粋なかたちで、絶対君主制が成立し た、まさにその国で、中央集権化が一度も根をおろすことができなかったという現象を、 どう説明すべきなのか?」(以下マルクスからの引用はすべて『マル・エン全集第10巻』より)

という設問を自ら発して、こう答える。

「これに答えるのは、むずかしいことではない。争い合っていた封建階級 - 貴族と都 市市民 - の没落に踵を接して、大君主国がいたるところに樹立され形成されたのは 16世紀のことであった。しかしヨーロッパの他の大国家では、絶対君主制が、文明開化の 中心として、社会統一の創立者として、姿を現わしているのである。そこでは絶対君主制 は実験室であり、そのなかで社会の諸要素が混合され作用させられて、その結果、諸都市 が、中世の地域的な独立と主権とを中間階級の全般的統治と市民社会の共同支配とにとり かえることができるようにしたのである。「スペインでは、逆に、貴族が最も有害な特権を失わずに衰退してしまった一方、諸都市 は近代的な意義を身につけずに中世的権力を失ったのである」

 かかる中世的社会構成の特異な変質を基礎にして、

「絶対君主制が樹立されてから以後、諸都市はたえず衰微していくという状態にあって 生きのびてきているにすぎない。……(中略)……都市の商業および工業の面での生活 が衰退していくにつれて、国内の交易はまれになり、諸州の住民たちの往来はよりまば らになり、交通手段はなおざりにされ、大街道はしだいに荒れはてるようになった。こうして、スペインの地方生活、州と自治共同体の独立、つまり、本来この国の地勢 にもとづくものであるが、歴史的には各州がムーア人の支配から解放をかちとって独立 の小国家を形成したときの個々のやり方によって発展させられた社会の多様性 - こ れは、国民活動の源泉を枯渇させた経済的変革によって、いまや最終的に強化され確定 された」

 こうしてマルクスは、「スベイン絶対君主制」が、西欧絶対君主制の如くついに一度 も中央集権化されなかった歴史的根因を、封建的貴族と都市の中世的衰退により近代的 な統一的経済圏形成への道が大きく閉ざされて、地方的割拠の現実的基礎が固定された 点に求める。何となれば、

「国民的規模での分業および国内の交易の多様化から生じてくる共通利害の成長」

こそ、近代的中央集権化すなわち

「一元的行政組織と一般法の原則をつくりだすことのできる真の基礎」

だからである。
 かくして、

「スペインの絶対君主制は、ヨーロッパの絶対君主制一般と表面だけは似かよっているが、 むしろアジア的統治形態と同一の部類に入れるべきもの」

とされる。すなわち、経済社会的基底における国民的規模での交通関係の圧倒的欠如から くる、各種地方的共同体の自給自足的な独立的割拠に、より直接的に対応して軍事・徴税 ・裁判の三権を掌握する強大な独立的地方権力のうえに、中央権力としての王権が多分に 名義的な第三権力として君臨する、<アジア的>ないし<オリエント的>な統治形態を、 この「スペイン絶対君主制」のうちにもみることができるからである。これをマルクス 自身の実に見事な全体的かつ具体的な把捉をもって示せば、

「スペインは、トルコと同様、名目上の主権者をいただく、悪政下の諸共和国の集合体 にとどまった。専制政治は、副王や総督が一般法を勝手気ままに解釈するのにしたがっ て、各州でまちまちな性格をもつものとなった。しかし、政府は専制的ではあったが、 各州が異なった法律や慣習、異なった貨幣、異なった色の州旗、異なった税制をもちつ づけることを妨げなかった。東洋的専制政治(アジア的デスポティズム……註)は、自 己の利害に直接に対立したときにだけ地方自治を攻撃したが、自治制度が何かするとい う責務を自分の肩からとりのぞいてくれ、平素の行政の手間をはぶいてくれるあいだは、 喜んでその存続を許したのである」

第678回 2006/12/10(日)

唯物史観と国家論の方法(7)
スペイン革命の特質


 19世紀初頭以来の数次にわたる一連のスペイン革命の過程を通じても、スペインにおけ るアジア的政治社会構成は、その都度表面上(形式制度上)はさまざまな形態上の変化を 生みつつも、いぜん基本的には継承・把持されていった。このことを、前回と同様に、 マルクスを引用しながらすすめている滝村さんの詳しい論述で追っていこう。


 マルクスは、右の如き<アジア的>国家構成を歴史的舞台とした、「スペイン革命」の 勃発とその特質、すなわち革命の政治過程の特質を、鮮明に描き出している。そこでは 何よりもナポレオン(一世)によるスペイン征服を契幾として、速成的に 構成された「革命的」ないし「反革命的」な<中央的-地方的>政治権力の、形成・ 発展・衰退・変質の歴史過程が、理論的に検討されている。

 まず、かかる<中央的-地方的>政治権力形成は、<王権>すなわちデスポティック な<中央-地方的>統治権力に結集した上級貴族層が、ナポレオンによるスベイン統治に 屈服したことに発する。すなわち彼らは、民族的・国民的抵抗を組織することを放棄する ことによって、

「中産階級と民衆とにたいする支配権をまったく失った」

ばかりか、その多くは、

「怒り心頭に発した民衆の犠牲となって倒」

され、さらに

「いたるところで、既存の官庁が廃止された」。

 他方、形骸化された中央権力(政府)は、フェルナンド七世が

「ナポレオンの召喚に応じてマドリードを去」

るやいなや、形式上存在した

「ドン・アソトニョ親王を議長とする国政最高会議」

は、あっという間もなく消滅してしまった。かくて、

「中央政府は存在しなくなり、蜂起諸都市はそれぞれ自分たちの会議を結成した。 それは、州主都の会議によって統轄されていた。これらの州会議は、いわばじつに 多くの独立政府をなしていて、それぞれ自己の軍隊を編成していた」。

 しかし、かかる新しい、蜂起した諸都市住民を主体とする地方的政治権力は、 多分に名目的な最高権力として、「セピリャの最高会議」の存在を承認していた。 すなわち

「あのように突然に生まれでた州会議(フンタ)は、互いにまったく独立していたが、 ごくわずかで漠然とした程度にではあったが、ある程度の支配権を、セビリャの最高 会議(フンタ)に認めていた。この都市は、マドリードが外国人の手中にあったあい だ、スペインの首都とみなされていたのである。こうして、きわめて無政府的な種類 の連邦政府が樹立されたのであるが、この政府は、対立する利害関係や地域的な嫉妬 や競い合っている勢力の相互の衝突によって、軍事命令に統一をもたらし作戦行動を 結合するのにむしろじゃまな道具と化した」。

 かくて皮肉なことに、

「諸州会議のあいだに権力が分けられていたため、スペインは、ナポレオン麾下の フランス軍の侵入の第一撃から救われた。権力の分散によって、その国の防御力が 増されただけでなく、侵入者が攻撃をかけるべき目標を見失わされたからであった。 フランス軍は、スベインの抵抗の中心がどこにもないとともに、どこにでもあるこ とを発見して、まったく仰天したのである」。

 だが、かかる名目上の支配権をもった「最高会議」と、地方的統治権力としての 「州会議」との極めてルーズな政治的権力構成は、やがて、フランス軍に対する 軍事的統一・諸外国との外交とくに同盟条約の締結・植民地からの貢納の受領・祭祀 的統一等々の主に外的国家構成上の必要から、「州会議」に直接基礎をおきつつも、 ある程度の実質をもった第三権力としての中央権力(中央政府)を、創出せざるをえ なくなった。因みに

「軍事運動の統合が緊急の必要となっていたこと、ネーメン河、オーデル河の沿岸、 また、バルト海海岸から集められた常勝軍の先頭に、ナポレオンがまもなく再度姿を 見せるであろうことが確実であったこと、大ブリテンやその他の外国と同盟条約を 締結するための、またスペイン領アメリカと連絡をたもち、そこからの貢納を受け 取るための中央政庁がなかったこと、フランス中央政権がブルゴスに存在している こと、また〔外国の〕祭壇にたいして〔自国の〕祭壇をきずく必要があったこと  - これらの事情がすべて重なりあい、その結果セビリャ会議は、不承不承では あれ、不明確な、むしろ名目上だけの、その最高権力を放棄し、いくつかの州会議に たいし、二名ずつの代表をそれぞれの母体から選出して、その会議をもって中央 会議を構成するよう提案しなければならなくなった。一方、諸州会議は、『中央政府に当然服従すべきものであるが』、当該地域の内部 行政の権利は、そのまま付与されてくることとなったのである」。

 相変らず見事な歴史的叙述であろう。マルクスの個別歴史的論究の見事さは、豊富な 資料の集積と検討を前提として、事実的レヴェルで再構成された実相を、何よりも一般的 な歴史的論理に即して把握してくるところにある。


 スペイン革命に見られた「セビリャ会議」から「中央会議」への名目的最高権力の移行は 、基本的には、<アジア的>統治形態に特有のルーズな<中央的-地方的>政治権力が新し い形態で復古したという権力論的進展を示している。滝村さんはこのことをさらに詳しく 論じている。(次回へ)
第679回 2006/12/11(月)

唯物史観と国家論の方法(8)
アジア的国家の形成・崩壊・再生


 アジア的国家について、簡単にまとめておく。

 アジア国家とは、<原始的>な共同体的構成が分解する以前の自給自足的な完結性を もった村落的規模の諸共同体がつくる農耕共同体世界において、支配共同体が他共同 体を直接個別的に束ねた<祭祀的・貢納的・軍役的)な従属共同体支配体制が形成・発 展したものである。従って、それは、形成的な段階と完成的な段階との二つの構成段階に 大別することができる。
 前者は、従属共同体支配者が安堵的王・侯として地方的統治権力を保持している 多分にルーズにしてラフな<祭祀・貢納・軍役〉体制である。
 一般的統治・軍事・徴税(財政)の三権において、各種地方的統治権カが支配共同体の 直属的機関としての転成したとき、アジア的国家は制度的に完成されたことになる。 この後者の個別歴史的典型は中国の、特に隋・唐以降の歴代王朝である。
 いわゆる<オリエント的>国家は、世界史的国家としては<アジア的>国家に一括さ れるものであり、すべて前者の段階に属するといえる。

 「スペイン絶対王政」は、根本的には経済社会的基底における国民的規模での社会的 分業と交通関係が未発展であり、地方的統治権力の独立的性格が強く、不安定なモザイ ク的国家体制という点で、<オリエソト的>なアジア国家ということができる。

 さて、「中央会議」は、近代国家の完成的に発展した第三権力と比べれば、 形式的で名目的な第三権力にすぎないと見える。しかし、内・外からの国家的秩序全体 に直接関わる諸問題への実践的対処を通じて、新しい政治的・経済的支配階級としての 共通利害が形成され、まがりなりにも観念的・イデオロギー的に認識される政治的・ 国家的理念が形成される客観的な制度的条件が創出されたことを意味する。言い換えれば、 これは、<外的国家>構成という現実的必要から<共同体-間-第三権力>が先行的 に形成され、それが<共同体-内-第三権力>へと国家的支配が完成的に発展していく 一般性を示している。

 しかし、スペインは<オリエソト的>なアジア国家構成からの段階的な脱却の兆しを 示しはしたが、それは近代的国家への転成とはならず、<革命的>あるいは<反革命的> な姿態をとりながら、新たな形態でのアジア的国家の再生的復古という基本的性格を 継承するほかなかった。

 以上のことをマルクスの叙述で確認してみよう。


 「フランス軍が1809年末にガリシアから撤退するにいたったあと、わが侯爵、中央 会議委員は、コルニャ市にはいり、公権力をすべて一身に集め、蜂起とともに数を増 した地区会議を弾圧し、そのかわりに軍総督を任命したり、これら会議の議員たちを 迫害するとおどしたり、実際に愛国者を迫害したり、侵略者に加担してきた者たちす べてに最高の親切さを発揮したりして、その他すべての点でも有事で無能で移り気な 愚物であることを証明した。いったい、ガリシアの地区会議と州会議は、どういう 不行届をしでかしていたのか? それらは、階級や人物による除外例のない一般徴兵 を命じた。それらは、資本家と地主に税金を課した。それらは、公吏の給料を引き下 げた。それらは、宗教団体にたいして、その金庫内にある収入金を会議の自由にさせ るように命令した。一言でいえば、それらは革命的な諸方策をとったのである。」

 「バレンシア州では、民衆が自分たち自身と自分たちで選んだ指導者たちだけで事 をはこんでいたあいだは新しい展望がひらけてくるようにみえたが、そこでも革命的精 神は、中央政府の勢力によって打ち破られた。中央会議は、この州をドン・ホセ・カル ロなる人物の統率下におくだけでは満足せず、『自分たち自身の』委員としてラバソラ 男爵を派遣した。この男爵は、いくつかの上部からの命令に反抗したかどで州会議を 非難して、州会議の法令を破棄した。その法令によって、司教座聖堂参事会員、聖職 禄受領者および騎士修道会員の空席の補充は賢明にも中止され、その収入は軍病院の 費用にあてられていたのである。このため、中央会議と.バレンシア州会議とのあいだ に激しい抗争が起った。このため、のちになって、バレンシア州は、シュシェ元帥の 自由主義的政治下で無活動におちいることとなった。このため、この州は、帰国して きたフェルナンド七世を、当時の革命政府に反対して国王として宜言することに熱意 をみせることになったのである。」

 「将軍たちは将軍たちで、当然のことながら中央政府に参加したり、それと争った り、それにたいして陰謀をたくらんだりして、いつも自分たちの剣の分銅で政治の天 秤を左右していた。それで、のちには母国のための戦役で敗北を喫すれば喫するほど 中央会議の信頼を獲得したようにみえるクェスタのごときは、まず手はじめに王室 会議と共謀して中央会議のレオン州代表を逮捕したのであった。中央会議の一員で あったモルラ将軍のごときは、マドリードをフランス軍に明け渡しておいてから、 ボナバルト側の陣営に寝返った。同じく中央会議の一員であった気取り屋のロメリヤ ス侯は大ぼら吹きのフランシスコ・パラフォクス、悪党のモンティホ、騒擾好きの セビリャ会議とともに、中央会議にたいして謀反を起こした。カスクニョス、プラケ、 ラ・ビスバル(オバンネル家のひとり)という将軍たちは、議会時代につぎつぎと 摂政として登場し謀反を起こしたし、またバレンシアの軍管区司令官ドン・ハビエル ニリオは、とうとうスペインをフェルナンド七世のお慈悲の手に引き渡した。」

第686回 2006/12/20(水)

唯物史観と国家論の方法(8)
革命と反革命のアジア的形態(1)


 私の貧弱な読書経験のうちでも、マルクスの「ブリュメール十八日」に言及している論稿に 何度かお目にかかることがあった。しかし、実は今テーマになっている「革命の スペイン」については、私はその存在すら知らなかった。滝村さんは、今取り上げている 論稿の最後を次の一文で締めくくっている。

『このようにみてくるならば、「革命のスペイン」が一般にはまったく知られていない ことのうちに、実はマルクスの唯物史観の歪曲と無理解の長い歴史が横たわっているので ある。』

 滝村さんの壮大な国家論構築の営みは、その「歪曲と無理解の長い歴史」への挑戦であり、 マルクスの正当な復権の試みであるだろう。

 さて前回では、スペイン革命が最終的には反革命の形態をとり、結局はアジア的国家構成の 再生的復古に帰着していった跡をたどった。マルクスは次のように言っている。

『全体としてこの運動は、革命的であるよりもむしろ反革命的であるようにみえた。 フランスからのスペイン独立を宣言したという点では民族的であったが、それは同時に、 「人望ある」フェルナンド七世をジョゼフ・ボナパルトに対置したという点で王朝的で あり、古い制度や慣習や法律をナポレオンの合理的革新に対置したという点で反動的で あり、「神聖な宗教」をフランス無神論とよばれていたもの、あるいはローマ教会の 格外の特権の破壊に対置したという点で迷信的・狂信的であった』

『フランスにたいしておこなわれた独立戦争は、すべて、反動とまじりあった再興という 特性を共通におびているが、その度合いがスペインほどいちじるしいところはどこにもな かった』

 次に、スペイン革命がそのように不徹底に始終したのはなぜか、その具体的な分析が 行われている。この部分を私は、日本の明治維新、さらには現時点の政治的な動向や さまざまな問題を重ねながら読んだ。原文のままの引用をする。


 それは直接には、近代社会としての一応の物質的条件を生み出すまでに発展していた 「海港、商業都市および一部の諸州主都の住民」を構成母胎とし、彼らの上層・中層の 教養ある部分すなわち著述家、医者、弁護士また司祭等の自由主義的政治理念によって、 先導されていた「革命的少数派」が、アジア的国家構成の崩壊に伴なう国民的抵抗・独立 戦争遂行を中心とする一連の政治過程で政治的主導権を極めて安易に掌握しようとして、 「古い民衆信仰の国民的偏見」に基礎をおく伝統的な復古的精神に身を委ねてしまったこ とに象徴される。

 この点に対するマルクス一流の鋭い解析は、何としてもしかと記憶にとどめておかね ばならない。曰く、

「祖国の共同防衛だけが問題であったあいだは、国民的政党を構成していた二大要素は、 完全に一体となっていた。彼らの対立は彼らが議会で、そこで起草されることになって いた新憲法という戦場で、相会するまで、現われなかった。革命的少数派は、人民の愛 国精神をあおるために古い民衆信仰の国民対偏見に訴えることをためらいはしなかった。 この諸戦術は、国民的抵抗の当面の目的には役だつようにみえたであろうが、古い社会 の保守勢力が革命派の本来の究極的計画にたいして自己を守る目的で、この同じ偏見と 民衆感情とのかげに立てこもる時がやってくるや、この少数派にとって致命的なものと ならないわけにはいかなかった」

 要するに、社会階級的な実体としては革命的都市の住民よりなり、政治理念的には自 由主義的ブルジョアジーと規定さるべき「革命的少数派」は、政治的動乱期には反革命 的ないし反動的な政治党派として登場してくる、旧来の支配階級の保守的政治党派と全 く同様の方法で、政治的主導権を掌握しようとしたのである。

 だが、革命的党派は、旧来の支配階級と同様の方法で、政治的支配権を確立すること はできない。それはただ、革命の徹底的な方向性(歴史的必然性)を周到に予見・ 把握し、政治・社会変革のトータルビジョンの創出を前提とした、古い社会を根柢から 一掃するにふさわしい革命的精神とイデオロギーによって、国民を、第三権力を基軸と する支配階級の強大な政治的権力にとって代る、強力な一大革命的政治権力として組織 することによってのみ可能となる。

 しかもときのスペインの「国民的政党の大多数派をなしていた」、「農民、内陸の 小都市の住民、法服をまとった乞食坊主やまとっていない乞食坊主の大軍」が、「すべて 宗教的・政治的偏見に根ぶかくとりつかれ」ていたとしたら、かかる国民的大衆組織化に おける、革命的情熱と政治的理念による徹底的な思想・イデオロギー闘争を通じた、大衆 的政治・思想教育の意義は、とりわけ銘記さるべきであったろう。もとよりかかる国民の 革命的政治権力としての組織化が、個々の歴史的・民族的な諸条件の如何によって、 多種多様な形態をとらざるをえないこととは別に、これは国家体制の如何を問わず、 革命的党派がとるべき根本原則に他ならない。

 従って、スベインの「革命的少数派」が採用した一見柔軟な「諸戦術」は、実は革命 の根本原則に対する背反としての性格をもっていたわけである。

〔この種の原則的背反は、よくあることである。例えばもっぱら選挙目当に、つまり ブルジョア独裁の政治的代理人たる既成の「保守的」ないし「革新的」な議会政党 と全く同様の方法で政権にありつこうとして、領土問題で極右的な強硬発言をして人民の 素朴な愛国心に迎合しようとした、どこかの「共産党」を想起すればよい。〕
 

 滝村さんのこの論文が書かれたのは1977年ごろと思われる。その年に日本共産党は 千島返還をめぐってソ連共産党と激しい応酬をしていた。最後の〔 〕内の文章が 書かれた背景を知るための手がかりとして、念のため。
第687回 2006/12/21(木)

唯物史観と国家論の方法(9)
革命と反革命のアジア的形態(2)



 かかる革命的政治権力形成の圧倒的立ち遅れを裏返していえば、支配階級の総体的強靭 さであり、さらにそれを可能としたアジア的構造の頑強さを意味している。実際、支配階 級にとって、国民を各地方的統治権力(小デスポッ卜)傘下の農村共同体に相互的連絡を 欠如させて分断・閉塞せしめ、それによって彼らを古い伝統的な地方的利害と偏見・精 神・信仰にしばりつけておくためには、アジア的構造程、恰好の道具は他にあるまい。

 しかし「革命的少数派」が、「古い民衆信仰の国民的偏見」を、一掃・克服するための 思想的・イデオロギー的闘争と大衆教育を放棄したとなれば、新しい<中央的-地方的> 統治機構の中枢に、それまで冷飯を喰わされていた旧支配階級内部の人々が、他ならぬ人 民自身によって選出されるという形態をとって登場・進出したり、従来のオリエント風の 儀礼が新たな中央官制の一環として採用・継承されたり、「王室会議」の如き旧国家機構 の名目的最高機関が、形式上「中央会議」と対峙する最高中央官制として復古的に継承さ れても、一向に不思議ではない。むしろ不可避的でさえあったろう。因みにマルクスは、 これらの点についても、実に周到な報告と観察を提示している。実にすばらしい記述でも あるので、そのいちいちを紹介しておきたい。


 「会議(「州会議」のこと……註)は普通選挙によって選ばれた。しかし、『下層階級 の熱意そのものは、服従というかたちで発現した』。彼らは、ふつう彼らより生まれつき 身分の上の者たち、すなわち聖職者とごくわずかな中間階級の名士がそのあとにつづいて いる、州の貴族と準貴族だけを選んだ。人民は、侵入者にたいする抵抗の指導に参加しよ うとせず、むりやり上流階級をその抵抗に引きいれるということにだけ彼らの創意をかた むけた。それほど、彼らは自分たち自身の弱さを知っていたのである。……こうして、 会議は、従前の地位のために選出された、革命的指導者とはおよそかけはなれた人々で、 いっぱいになった。
 他方、人民は、これら官庁機関を任命するとき、その権限を制限することも、その任期 を一定にすることも考えなかった。」

 「これらの州会議…‥は、このたびは、革命で頭角を現わした者のかわりに、スペイン の大公、高僧、カスティリャの称号保持者、元大臣、文武の高官を『中央』会議に送った。 スペイン革命は、その手はじめにおいて、適法でありりっぱな身分でありつづけようと努 力したことによって、失敗したのである。」


 「これらの会議(「州会議」のこと……註)がそれぞれに発した人民への呼びかけは、 長い昏睡状態から突如としてゆり起こされて電撃によって熱病的活動状態に高められた 一国民の英雄的な勇気をあますところなく示しているが、同時に、シスモンディをして スペイン文学に東洋的(オリエンタル)という形容詞をつけさせたような、あの仰々しい 大言壮語、あの道化と高言とのまざりあった文体やあの大げさな誇張につきまとわれてい た。それらは、また、スペイン気質の子供じみた虚栄心をも見せていた。たとえは、会議 の議員は殿下という称号を用い、きらびやかな制服をまとっていたのである。」

 「因襲的な名望と真の偉大さとを混同し、いつも自分の肩書をだらだらと数えたてて 名乗りでる、カルデロンの戯曲にでてくる傲慢な主人公たちと同じように、会議 (「中央会読」のこと……註)はまず第一に、彼らの高くなった地位にふさわしい名誉と 勲章を法令で定める仕事にとりかかった。彼らの議長は『殿下』、他の議員は『閣下』 という尊称を受け、会議総体には『陛下』という敬称が定められた。議員たちは、将軍の 制服に似た滑稽な制服を採用し、胸に二つの世界(新旧両世界)をあらわす徽章をかざ り、お手盛りで一二万レアルの年俸を可決した。」


 「有害なスペインの官僚位階制度の頂点には、カスティリャの王室会議があった。 それは、ドン・ファン家とエンリケ家との騒乱時代に出現し、フェリぺ二世により宗教 裁判所のすぐれた補足物と認められて強化されたが、災厄の多かったその時勢とその 後無力な国王がつづいたことによって力を増し、まったく不相応な権限を強奪して手中に 集め、最高法廷としてそれがもつ諸権能に、スペイン全王国の立法者および行政長官の 諸機能をつけくわえるにいたった。
……そのためそれは、革命にとってはけっして妥協 できない、革命のほうがそれによって一掃される羽目にならぬよう革命の側が一掃しな ければならない権力であった。
……しかし中央会議は、その結成の日にまことにばかなことをした。それは、王室会議 に成立を通告し、それにたいする王室会議の忠誠宣誓を要求し、さらにそれを受け取った あとで同じ形式の宣誓を王国内の他の政治機関すべてに発送するであろうと通告したので あった。
……中央会議は、その最初の大失策にもあきたらず、合同会議 ― 王室会議と、昔 あった王直属の諸参議会のその他の残骸一切とを合同させたもの ― を創設して王 室会議を復活させるほど暗愚であった。こうして中央会議は、反革命のためにみずから すすんで一つの中央権力を創設した。」