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258 日本のナショナリズム(11)
「戦友」論
2005年4月30日(土)


 日露戦争の〈勝利〉は、明治の大衆ナショナリズムにさいしょの挫折・敗退をもたらした ―  ポーツマス条約を不満とする暴動がつげているのは、ナショナリズムの単一強化がようやく局限 にいたり、そこに〈階級〉をみいだすことによって分解せざるをえないという危機である。言い かえれば、近代天皇制国家〈像〉の確立にむかってひたすら強化され圧縮されていった現実の根 源じたいが、同時に社会=経済的に拡大していったために、もはや単一の〈局限=根源〉循環を ゆるさなくなった。

 色川さんが「真実、ナショ ナリズムに燃え、わが身を自発的に国家の側にすりよせるようになったのは、民権期ではなく、日清 戦争時でもなく、日露戦争にさいしてであった」と指摘したのは、この「ポーツマス条約を不満と する暴動」のことを指していると思う。
 「ポーツマス条約を不満とする暴動」となって爆発した大衆の(色川さんの言葉で言うと) 「野性的な絶大なエネルギー」は、支配者たちをおおいに震撼させたことだろう。また同時に この「野性的な絶大なエネルギー」を国家権力に直結させようと「大衆ナショナリズム」の収奪を 緊急の課題としたに違いない。明治の大衆ナショナリズムの「挫折・敗退」を吉本さんは次のように 述べている。
 天皇制イデオロギーは支配層によって、もっぱら大衆の「ナショナリズム」の心情の一面を逆立ちし た形で吸い上げながら、一面で「社会経済」的には、大衆「ナショナリズム」の社会的な基盤(農村) を資本制によって現実的につき崩すという両面を行使したのである。大衆の「ナショナリズム」は、こ こでは、天皇制イデオロギーに自己のイデオロギーが鏡にうつされるような幻想をあたえられ、一方で 自己の「ナショナリズム」の心情をつきくずすものが、資本制そのものであるかのように考える ことを仕向けられた。憎しみは資本制社会に、思想の幻想は天皇制に、というのが日本の大衆「ナショナ リズム」があたえられた陥穽であった。さればこそ、農本主義的ファシズムは、北一輝にその象徴を見 出されるように、資本制を排除して天皇制を生かす、というところにゆかざるを得なかったのである。

 さて、「戦友」である。
 あたうかぎり理念化され ― 加速的に進軍しつづけた明治的二拍子リズムは、そのピークをす ぎていまや減速 ― すなわちなんらかの現実化をせまられる。いささか比喩的にいうなら、この リズムじたいの内部に、いわばゆきだおれをふくまざるをえない ― それを象徴しているのが 《戦友》である。これが見捨てて置かりょうか、「しっかりせよ」と抱き起し……というように。  そしてそれ以後、この歌いじょうに〈総体的な暗い感銘〉(吉本隆明・日本のナショナリズム)を もたらす歌はほとんど不可能になった ― 〈自然さ〉がトータルにうたいだされることがなくな るのである。昭和期の軍歌は、一方で〈侍ニッポン》のように行進曲のリズムが自己放棄的な拡 散をみごとに表現してしまうといった事態をまえにしては、なんらかのモダニズムで仮装するい がい、単一強化のリズムを〈自然さ〉をふくんで回復することはできなかった。
 わたしが参照している《日本唱歌集》におさめられた《戦友》の曲譜には♪=114というテン ポの指定がある。歌の主題からしてこれはむしろはやすぎるテンポであり、全曲をこのテンポで 通すことはほとんどかんがえられない。(中略)原曲の指定通りに♪=114のテンポでうたうか ぎり、この歌(曲)はひどく軽薄で皮相なものとならずにいない。それは詩の主題がもとめると ころとかならずずれるのである。このようなテンポの二重性〈規範―心情〉は、〈国家〉の勝利 にむかっている作者(作詩者・作曲者)の理念と、じっさいにこの歌をうたう大衆がそこにこめ ようとするみずからの体験との乖離のはばをものがたっている。
 この「テンポの二重性」「〈規範―心情〉の乖離」を、アイ・ジョージが歌う「戦友」を例に、 菅谷さんはつぎのように詳述している。
 この歌の戦後的復活を可能にしたのは、ほかでもないアイ・ジョージの表現力であった。もっと も注目に価するのは、かれが曲のリズムに本質的ともいうべき修正をくわえている点である。
テンポ

譜Aのごとき反復パターンからなる原曲の長短型2/4拍子は、アクセントを強調すればするほど、 かえって一種の軽薄さをおびた加速度をもたらす。これにたいして、アイ・ジョージはその種の 惰性化にブレーキをかけ、加速度に抗して曲のテンポを恒常的に維持しうるリズム型をえらびだし た。あきらかにかれは譜Bのように、さらにいえばブルースの4/4拍子にちかくうたっている。うら の拍が強調されるので、ことばの拍音につよい指示力があたえられるのである。

この「テンポの二重性」「〈規範―心情〉の乖離」こそが 第二の「洋楽の土着様式」を解明する 鍵となる。
259 日本のナショナリズム(12)
洋楽の土着化(2)センチメンタリズム
2005年5月1日(日)


 文明開化によってもたらされた洋楽の第2の土着様式のメルクマールとして、菅谷さんは 「美しき天然」をあげて、その特質を3点指摘している。
 ()武島羽衣の詩《美しき天然》は、儀式的な叙景詩(ヽヽヽヽヽヽヽ) という以上の意味をもたない、いわば詩というより美文に類するものであり、わずかに〈調べ自在に 弾き給ふ神の御手の尊しや〉といったところに讃美歌的モダニズムのかげがうつっている程度のもの である。
 したがって曲からするかぎり、作曲者がこの詩のなにをみずからのモティーフとして表現しよ うとしたかは不分明であり、それがこの歌に詩と曲との乖離をゆるさざるをえないところである ―  おのずとかえうた(ヽヽヽヽ)をうみだし、さらには曲だけがもっぱ らサーカスのジンタにのって流布するにいたる。しかもこの曲の真価はむしろそこにあらわれたの である。そしてこの曲を愛好した大衆にとっても、〈空にさへづる鳥の声……〉云々の詩句は、楽器 も楽譜も手にしていないかれらが曲をおぼえるための音符=記号にすぎなかった ― ということは その大衆のひとりとしてのわたしじしんの経験から言えるとおもう。わたしはこの歌のメロディはよく しっているが、詩はほとんどおぼえていないのである。

 朋友の死を弔うのにお経代わりに「青葉茂れる桜井の」を歌った少女たち(第254回・4月26日)に とって意味のあることばは「とくとく帰れ故郷へ」の部分だけであり、歌詞の他の部分は音符=記号 に過ぎなかったのかもしれない。
 ()Valse Lento というテンポの指定にもあらわれているように、作曲者のほんとうのモティ ーフは、歌曲をつくることではなく、なによりもワルツ曲をうみだすことにかかっていた。それ 以前にもこころみられてはいたかもしれないが、《美しき天然》は明治音楽史上さいしょの 国産(ヽヽヽ)のワルツ曲といっていい位置をしめており、かつそれ以後も 日本の〈洋楽〉はこれに匹敵するワルツ曲をほとんどうみだしていないと、わたしにはおもわれる。
 ()さきに詩と曲の乖離といったが、曲じたいにも乖離を指摘できるだろう ― 当時の〈洋楽〉 の知識・技術を水準以上に身につけていただろう作者(軍楽隊長!)の〈近代〉的な意図と、曲 がじっさいに体現しえた〈せざるをえなかった〉ものとのずれである。それはごくテンポのゆる い短調の3/4拍子でしかも基本のリズム型がリズム1
をいくらもでていないという、三つの要因の重層から必然的に派生せざるをえなかった。

 ここで「第252回」(4月24日)の冒頭のテーマにつながる。再録すると

「二宮金次郎」「冬の夜」「故郷」などの唱歌が『社会にたいする大衆の「ナショナリズム」 の一側面をそれぞれ主題のうえに抽出して』いるのに対して、「青葉の笛」「夏は来ぬ」「すずめ雀」 「七里ケ浜の哀歌」などの唱歌は『大衆の心情そのものの核に下降した表現』と言える。そして、明治 の大衆「ナショナリズム」の表現のうち大正期の大衆の「ナショナリズム」に引継がれていったもの は、政治や社会の主題をとり出したもののなかにはなく、『大衆の心情そのものの核に下降した表現』 であった、と吉本さんは述べている。

 この吉本さんの論考を受けて菅谷さんは次のように述べている。
 吉本はもっぱら詩を対象として歌を論ずるという方法をとっているために、じぶんの受感がなに に根ざしているかを、うまくとらえきっていないきらいがある ― 心情そのものの核に下降する 表現は、外化された主題(詩)をまったくはなれて曲そのものにもっともよく体現されたばあいが ありうる、というひとつの極をわたしは《美しき天然》にみいだすのである。この極から《七里ケ 浜の哀歌》にいたる領域、吉本の受感の根がなんであるかは、かれが例にあげている歌に、わたしが あげる例をあわせてひとつの表をつくってみれば、ほぼつきとめることができるとおもう。


1 仰げば尊し    明17  6/8拍子
2 夏は釆ぬ     〃29  4/4 〃
3 はなさかじじい  〃34  2/4 〃
4 すずめ雀     〃34  2/4 〃
5 美しき天然    〃38  3/4 〃
*(戦友)      〃38  2/4 〃
6 青葉の笛     〃39  3/4 〃
7 七里ケ浜の哀歌  〃43  6/8 〃
* (二宮金次郎)  〃44  2/4 〃
8 冬の夜      〃45  4/4 〃
9 故郷       大 3  3/4 〃
 《二宮金次郎》は典型的な行軍リズムによってつくられているが、明治44年のものである ―  ということは、〈社会にむかう〉方向性は、単一強化のリズム型がその上限〈政治=国家〉から、 あらためて下限へむかう(むかわざるをえない)下降過程のうちにみいだされるのであることを しめしているはずだ。この下降がゆきつくところの表現の典型を吉本はセンチメンタリズムとよ ぶのである ― 
(中略)
ここでいわれているセンチメンタリズムが、さきに〈間のび=おもいいれ〉のリズムとよんだも のの発生をさしていることはたしかである。
 表にならべた例からよみとれるように、社会にむかう大衆の「ナショナリズム」がセンチメン タリズムとして表現されるにいたる過程とはすなわち、リズム2
とまったく同一のリズム原型を保持しつつ ― 2/4→4/4→6/8→3/4拍子……と変貌をかさねてゆく過程 である。なにが変貌し、それはどこへゆきつこうとするのか。
 じっさいにとられたのはひとつの回帰の形態であった。上限からの脱落は、〈近代〉的強弱拍そ のものの回避を意味した。そして強弱リズムをあらかじめ放棄した、土謡的な等時拍三音の発想 を西洋ふうの三拍子に癒着せしめそこに定住すること ― 《青葉の笛》がそうであり、また近代 唱歌のひとつの到達点というべき《故郷》がもっとも典型的にしめしているのも、それいがいで はない。この過程が意味するのは、上限から下限へ、そしてまた下限から上限へ、〈根源=局限〉 がほとんど同一的に循環をくりかえしている定型様式の所在である。

 現在でも「故郷」は広く好んで歌われている。テレビの歌謡番組のフィナーレに出演者・観客が、 一体感をかもし出そうと意図して、一緒になって歌う歌はたいてい「青い山脈」か「故郷」だ。 しかしこれらの歌曲は〈間のび=おもいいれ〉というリズムが呼び起こすセンチメンタリズム とは別の系統に属する。
 なぜ「故郷」は愛唱され続けているのか。詞が描き出している「ふるさと」はもはや壊滅状態だ から、かろうじてウサギを追ったり小鮒を釣ったりした体験を持つ稀有な人たちのノスタルジア を呼び起こす以外の意味はない。にもかかわらず、ウサギを追ったり小鮒を釣ったりなどの経験皆 無の都会生まれで都会育ちの人たちもなお愛唱しているのは何故か。この問いに対して、「強弱リ ズムをあらかじめ放棄した、土謡的な等時拍三音の発想を西洋ふうの三拍子に癒着せしめそこに定 住すること」の一つの到達点だという「故郷」についての分析は腑に落ちる。この「強弱リズムを 放棄した」「土謡的な等時拍」という三拍子が日本の大衆の心情に共振を揺り起こす。
 この「故郷」に代表される三拍子についてはさらに分かりやすい論述があるので、次回でもう一度 取り上げたい。
260 日本のナショナリズム(13)
洋楽の土着化(3)3/4拍子とはなにか
2005年5月2日(月)


 明治・大正期の唱歌のなかで、代表的な作品とみなされる3/4拍子の曲には、ひとつの共通した 発想形式がみられる。前章でもふれたが、ひとまずそれを等拍三音の発想型とよんでおこう。  〈間のび=おもいいれ〉の型とならんで、もうひとつの系をなすものであって、《青葉の笛》 《冬景色》《故郷》などをあげることができる。
 2/4拍子のばあいには、長短長短……の反復によって、七五調のことば(ヽヽヽ) を音楽のリズムのもつ強弱アクセントに適合させるという定式がみいだされた。他方、3/4拍子の曲を 創作するばあいには、逆に曲(音楽)そのものからあたうかぎり強弱アクセントを排除しうるような、 独特の手法を小学唱歌の作者たちはあみだしている。いや、その功績は田村虎蔵という作曲家ひとりに 帰せられるものかもしれない。くわしく調べる手数をはぶいてものを言う怠慢をひとまずゆるしてい ただきたいが、堀内・井上編《日本唱歌集》を、順をおってみてゆくだけでも、田村の存在はき わだっている。《青葉の笛》を例にとってみよう―

 「第252回」(4月24日)で「青葉の笛」の楽譜を掲載したが、ここに再度掲載する。
青葉の笛

  一の谷の 軍破れ
  討たれし平家の 公達あわれ
  暁寒き 須磨の嵐に
  聞えしはこれか 青葉の笛
 いちの、たにの、いくさ、やぶれ……の音節構成にみられるごとく、作詩者(大和田建樹)と 作曲者(田村虎蔵)とのあいだには、おそらくひとつの前提的な了解があった。それは邦訳讃美 歌から継承したものとかんがえてよいだろう。創作曲のばあいには、旋律がさらにもうひとつの 要因をなす。土着の旋法にちかづけばちかづくほど、3/4拍子のリズムはきわどい均衡のうえにた たざるをえなくなる。したがって《青葉の笛》から《故郷》にいたる経過を対象とするかぎり、 そこにこめられた意味はしだいに稀薄になってゆく ― 明治ナショナリズムの自己喪失がゆきつ くところ、空白感じたいが仮象(ヽヽ)を形成するにいたる。 《故郷》はその末期的な下限をしめしている。

 つまり「故郷」の詞が描き出す「ふるさと」は既になく「そこにこめられた意味は」稀薄になったが 、その「空白感」じたいが形成する「仮象」が歌う者の心情を満たしている。その根拠は「土着の旋法」 に限りなく近づいた「3/4拍子のリズム」にある。

 三拍子についてもう一つの分析がある。3/4拍子でしかも機械的に強弱々のリズムを強いるとどうなる かという例。前回、「詩と曲との乖離」が「おのずとかえうた(ヽヽヽヽ)を うみだ」すという指摘があったが、それとも関連する、私にとっては懐かしくも楽しい例が挙げられて いる。
 《港》(空も港も夜ははれて)という唱歌を、小学校の何年生のときにおしえられたかはわすれた が(三年生の歌か)、学校でならうよりはやく、わたしたち腕白小僧は、ドレミミソラソソ…… の階名をもじったかえ歌を、さかんにどなりちらしていた。小学校の音楽教育で階名唱法という ことが一般に言われだしたのは、昭和に入ってからのことだろうとおもう。そして《港》のパロ ディは、この教育にたいする子どもの反応の、歴史的なドキュメントともいうべきものである。

  ドレミッちゃん耳だれ、目はやん目、
  頭のよこちょにハゲがある……

という徹底した悪口雑言が、ほんとうはむしろそれをうたう子どもたちじしんの、正確な自画像 をなしたところに意味がある。戦前から戦後しばらくのころまでそうだったとおもうが、男の子 はみんな坊主あたまで、おできのあとの大小のハゲが目につかない子はほとんどなかったし、ト ラホームや結膜炎やで目ヤニをいつもためているヤン目の子、耳だれをとめるために綿で栓をし ている子は、いくらでもいた。そうした現実的な貧困にとざされた子どもの感性が、《港》の歌 に最大限の違和をしめし、パロディをうんだ。しかもそこで、大人たちのおもいもおよばないひ とつの本質を直感した ― ことばが曲の指標をなすことの逆説がここにはある。

 こどもの歌う替え歌は、どうしてどのようにかは分からないが、瞬く間に全国に広がるようだ。 この替え歌は私も子どものころ歌っている。試みに5歳年下の身近にいる女性(子どもの頃は別の県 に住んでいた)にたずねてみたら、知っていた。今26歳の身近にいる青年は、当然ながら知らない ということだった。
 わたしはこの稿を書きはじめるまで、空も港も夜は晴れて……の歌詞にえがきだされた風景の 現実的な(ヽヽヽヽ)意味に注意がおよばなかった。子どものときから なんとなく好きになれない歌という以上の関心をもたなかったせいだろう。いまからみると、これ はなんとも人をくったような奇体なものである ―
  空も港も夜ははれて、
  月に数ます船のかげ。
  端艇(はしけ)のかよいにぎやかに、
  よせくる波も黄金なり。

 この歌は明治29年に発表されている ― その時代的なリアリティは、すでに昭和に入って からの子どもにはピンとこないものであった。銭湯の壁に画かれたペンキ絵の風景にうかんでい る帆かけ舟、五百石船とか千石船とかいわれた和船が、わが国の海運史上もっとも隆盛をきわめ たのは、紀文大尽のミカン船どころか、じつはむしろ明治になってからのことであり、それも20年 代からほぼ30年代にまでつづくものであった。鉄道や汽船にとってかわられるまで、日本 の初期資本主義をささえたもっとも重要な国内交通が、ほかならぬこの和船による海運であった ことをぬきにしては、《港》にあらわれたにぎわいはイメジをむすばないわけである。まさにそ れは〈波も黄金〉の一攫千金をはたして、港はいつも春なれや……と、つかのまわが世の春を謳 歌した海運成金の時代なのだった。
 いまでもこれは小学校三年生の音楽科必修教材だそうである。先生たちはどんなつもりで教え ているのか、わたしには見当がつきかねる。昭和10年代においてさえ、子どもたちはこの歌の素 朴すぎるオプティミズムをうけいれなかった。ある歌曲がとくにかえ歌を生みだすにいたる理由 は、主として曲のリズムとことばのリズムが同一の根源を() さないというすきまにもとめられる。譜面どおりの、3/4拍子でしかも機械的に強弱々のリズムで うたうことを教室で強いられれば強いられるほど、曲とことばのズレにひそむインチキくさいもの をかぎつけ、それでは歌えないのだと違和感を表明するにいたった。そのあげくは、かえ歌に よって逆に、この曲にありうるはずの、またあるべきゆいいつの本源へとリズムの指向を変換して しまった ― 出だしをアウフタクトに変えて、決定的なまでの強弱リズムを体現するのである。

  _         _      _
 ドレlミッ・チャン・ミミl・レ・メハl・ン・メl●●

 まさしくそれは、絵そらごとの背後にかくれたなにものかを斥した ― このイロニイはしかし それからどこへ行ったのか。

 「詩的リズム」のうち、上記の稿が書かれたのは1975年である。そのころの音楽教科書には「港」が 載っていたという。ちなみに「第210回」(3月13日)で掲載した小学校学習指導要領音楽の「歌唱共 通教材一覧」を見てみたが、その中にはなかった。現在この歌は教材として採用されていないようだ。 指導要領を編さんする御用学者や文部官僚の中にもこの歌の詞の意味を理解するものがいなくなって きたのだろう。
261 日本のナショナリズム(14)
大正期の大衆のナショナリズム
2005年5月3日(火)


 吉本論文に戻る。
 吉本さんはこの論文の方法論 ― 歌曲の表現をかりて、大衆「ナショナリズム」の原像とその変遷 の基本的な間題をかんがえる ― について改めて言及している。まずその確認をしておこう。
 これは、単に、これらの歌曲が、その時代に応じて、広く大衆に流布されたものだから、という理由 によるのではない。これらの歌曲の作家たちが、あたうかぎりそのときどきの大衆の支配秩序に向う感 性に追従しているため、ある種の近似的な類推が可能となるという理由によっている。すくなくとも、 これらの歌曲は、その時代の知識人からは軽蔑されながら口ずさまれ、支配コマ-シャリズムからは、 広く流布される性格を見ぬかれて迎えられ、じじつ広い大衆が受け入れてきたものである。

 さて、明治期のナショナリズムのその後の変遷を、吉本論文で、たどることにする。
 大正期における大衆の「ナショナリズム」は、あきらかに、政治性としての「御国の為」意識と、 社会性としての「身を立て名を挙げ意識の主題を失った。おそらくこのことは、支配層において、 国権意識によって大衆を統合しうるという意織と、腕一本で支配層にもなりうるものであるとい う資本制意識によって、大衆を統合しうるということが、潜在的には、信じられなくなったことの 象徴であり、おなじように、大衆にとってそれが信じられなくなったということを象徴している。 このようにして、眼に見えるような形で、政治あるいは社会的な主題が喪失したことは、 大正期の大衆「ナショナリズム」の表現の特徴である。

 その主題を喪失した大正期の大衆のナショナリズムの表層をよく表している愛唱歌として次のような 歌をあげている。
「雨」(北原白秋)      1916(大正5)年
「かなりや」(西条八十)   1918(大正7)年
「浜千鳥」(鹿島鳴秋)    1919(大正8)年
「背くらペ」(海野厚)    1919(大正8)年
「靴が鳴る」(清水かつら)  1919(大正8)年
「叱られて」(清水かつら)  1920(大正9)年
「てるてる坊主」(浅原鏡村) 1921(大正10)年
「七つの子」(野口雨情)   1921(大正10)年
「赤蜻蛉」(三木露風)    1921(大正10)年
「夕焼小焼」(中村雨紅)   1923(大正12)年
「花嫁人形」(蕗谷虹児)   1923(大正12)年
「あの町この町」(野口雨情) 1925(大正14)年

 どれも今なお愛唱されている歌曲だ。吉本さんは、代表として次の歌詞をあげている。傍線は 吉本さんが付したものである。

唄を忘れた金糸雀(カナリヤ)は 後の山に棄てましょか
いえ いえ それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は 背戸の小薮に()けましょか
いえ いえ それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は、柳の鞭でぶちましょか
いえ いえ それはかわいそう  (「かなりや」)
  *
雨がふります 雨がふる
遊びにゆきたし傘はなし
紅緒の木履(かっこ)緒が切れた
雨がふります 雨がふる
いやでもお家で遊びましょう
千代耗折りましょう たたみましょう (「雨」)
  *
夕焼小暁の
あかとんぼ
負われて見たのは
いつの日か

山の畑の
桑の実を
小籠に摘んだは
まぼろしか

十五で姐やは
嫁に行き
お里のたよりも
絶えはてた  (「赤蜻蛉」)
  *
きんらんどんすの帯しめながら
花嫁御寮はなぜ泣くのだろ
文金島田に髪結いながら
花嫁御寮はなぜ泣くのだろ   (「花嫁人形」)
  *
あの町 この町
日が暮れる 日が暮れる
今きたこの道
かえりゃんせ かえりゃんせ


お家がだんだん
遠くなる 遠くなる
今きたこの道
かえりゃんせ かえりゃんせ (「あの町この町」)

 吉本さんは『これら歌曲はそれぞれ優れた部類に属している』と評価してその理由として、『大 衆の「ナショナリズム」の時代的な核を、ある的確な側面から抽出することに成功している』を あげている。その詳論を読んでみる。
 「切れる」、「棄てる」、「忘れる」、「絶えはてる」、「泣く」、「かえる」というような動き の表現は、大衆の「ナショナリズム」の心情の側面を的確に象徴している。これら大正期の大衆歌曲 の伝える、凝縮と退化の感覚は、社会的主題をうしなったのちの心情の下降に対応している。政治・社 会といった主題がどこにもないが、ここに大正期の大衆の心情の「ナショナリズム」がよく表現されて いる。これらの表現を大衆のル・サンチマンとしてよむのは古典的なモダニズムの愚物だけであって、 むしろこれらは、それなりに成熟期にはいった日本の資本制社会の物的な関係のすさまじさ、高度化と 停滞の逆立ちした表現にあたっている。これらの大衆的ル・サンチマンの背後には、物欲主義の臭 気がただよっているし、その物的な怖れが表現されている、というふうによまないかぎり、文学を社会 の動向に結びつける道はありえないのである。この大正期の大衆的「ナショナリズム」の表現にいたって、 ついに「御国の為」や「身を立て、名を挙げ」という当為は、まったく主題性を喪失するにいたった。 わたしは、それを、知識人のデモクラシー思想の普及や移植マルクス主義の影響であるという解釈をと らない。デモクラシーや移植マルクス主義は、かつて大衆「ナショナリズム」の核をとらえたことはな いのである。これらは、まさに支配層によってとらえられた現実の、鏡にうつされた姿にほかならなか ったのである。
 大衆の「ナショナリズム」は、その統一的な主題を喪失するやいなや、これらの歌曲が表現している ように、すでに現実には一部しか残っていないが、完全にうしなわれてしまった過去の(いわば明治典 型期の)、農村、家庭、人間の関係の分離などの情景を、大正期の感性でとらえるというところに移行 した。そして、これは幼時体験の一こまと結びつかざるなえなかった。これらの作者たちは、知識人と しては、北原白秋・西条八十のようにモダニストであり、野口雨情・蕗谷虹児のようにアナキストであ った。しかし、かれらによって一面を抽出された大衆の「ナショナリズム」は、ひとつの現実喪失、 または現実乖離というような形で、はるかに間接的に大正期社会そのものの物的関係とつながっていた のである。
262 日本のナショナリズム(15)
昭和期の大衆のナショナリズム
2005年5月4日(水)


 明治期から大正期にかけて大衆ナショナリズムはその主題を政治→社会→過去への郷愁(明治典型期の 農村、家庭、人間の関係の別離、幼児記憶など)と変遷していったが、昭和期にはいって、そのナショナ ルな心情は、さらに農村、家、人間関係の別離、幼児記憶などに象徴される主題の核そのものにも、 心情としての実感性をうしないそれを「概念化」せざるをえなくなってくる。吉本さんは、その表徴と して次のような唱歌をとりあげて、昭和期における大衆の「ナショナリズム」の特徴を解説している。
  こうした昭和期における大衆の「ナショナリズム」の根源的喪失と「概念化」は、たとえば、 つぎのように象徴される。

 おみやげ三つに 凧三つ
 おみやげ三つは 誰にやる
 さよならいう子に 分けてやる
 背なかをたたいて ポンポンポン
 おみやげ三つに 凧三つ
 凧は凧でも いたい凧
 背なかにしょわせる いたい凧
 そらそらあげるよ ポンポンポン
   (「おみやげ三つ」西条八十)1931(昭和6)年

    *
 かきねの かきねの
 まがりかど
 たきびだ たきびだ
 おちばたき
 「あたろうか」
 「あたろうよ」
 きたかぜ ぴいぷう
 ふいている
   (「たきび」巽聖歌)1941(昭和16)年

    *
 てんてん手鞠 てん手鞠
 てんてん手鞠の 手がそれて
 どこから どこまで とんでった
 垣根をこえて 屋根こえて
 おもての通りへとんでった とんでった
  (「鞠と殿さま」西条八十)1929(昭和4)年

      *
 あの子はたあれ たれでしょね
 なんなんなつめの 花の下
 お人形さんとあそんでる
 かわいい美代ちゃんじゃ ないでしょか
  (「あの子はたあれ」細川雄太郎)1939(昭和14)年

  これらは、いずれも、優れた歌曲として流布されているものである。しかし、ここに表現された 日本の大衆の情緒的な基礎には、すでにどのような裏目をかんがえることもできない。また、どのよ うな実感の存在もかんがえることができない。たんなる「概念的」に把握された心情の表現にすぎな くなっている。ここに象徴される大衆の「ナショナリズム」は、すでにそれ自体が、みずからを喪失 し、表現としての情緒的迫力を失っている。この意味では、歌曲に表現されたものに対応する現実的 基盤が、大衆の「ナショナリズム」からうしなわれていることを、これらの正直な歌曲作家たちは表 現したといえる。

 こうした大衆ナショナリズムの情況が指し示している思想的意味を、吉本さんは次のようにまとめている。
一、
 政治思想としての「ナショナリズム」は、それ自体としては、大衆のナショナルな核を包括するもの となり得なくなったこと(ウルトラ=ナショナリズム化する契機をもったこと)。

二、
 農村の資本化に対応するような生産力ナショナリズム(社会ファシズム)が、左右両翼の知識人から 生れる基盤が生じたこと。しかし、それは大衆「ナショナリズム」の心情を疎外しそれと対立している ため、あくまでも知識人の思想であって、支配思想とはなりえなかったこと。

 これらが、昭和期にはいって移植マルクス主義(スターリン主義)運動と、知識人「ナショナリズム」 運動が、社会ファシズム運動へ、また大衆の「ナショナリズム」が、支配層のウルトラ=ナショナリズ ム(農本主義・天皇主義)に吸引された思想的な理由であった。

 知識層の「ナショナリズム」思想によって、直接に大衆の「ナショナリズム」が表象されるのではなく、 逆に大衆の「ナショナリズム」が「実感」性をうしなってひとつの「概念的な一般性」にまで抽象され たという現実的な基盤によって、はじめて知識人による「ナショナリズム」は、ウルトラ=ナショナリ ズムとして結晶化する契機をつかんだのだ、と言っている。
 そして吉本さんはさらに大衆のナショナリズムと知識層のナショナリズムと支配層のナショナリズム の相克とその時代の動きを次のように記述している。
 大衆の「ナショナリズム」が心情としての実感性をうしなったということは、すでに村の風景、家庭、 人間関係の別れ、涙などによって象徴されるものが、資本によって徐々に圧迫され、失われてゆく萌芽 を意味している。このような意味での資本制化による農村の窮乏化と圧迫と、都市における大衆 の生活の不安定とは、知識層によって、ウルトラ=ナショナリズムとして思想化され、それは満州事変 いらいの戦争への突入と一連の右翼による直接行動の事件の思想的な支柱を形成したのである。
(中略)
 大衆の「ナショナリズム」の心情的な基盤の喪失こそは、知識層が、「ナショナリズム」を思想と してウルトラ化するために必要な基盤であった。支配層は、これに対し、経済社会的には大衆の「ナ ショナリズム」の最後の拠点である農村、家族にたいする資本制的な圧迫と加工を加え、政治的に は、大衆の「ナショナリズム」の「概念化」を逆立ちさせたウルトラ=ナショナリズム(天皇制主義) によってこれに吸引力を行使したのである。この支配層の二面の方法は、さまざまな錯綜と混乱を生ん だ。どのような政治・思想勢力も、これに対応する方法をうみだすことができなかったほどである。

 かくして大日本帝国は、支配層の思わく通りに大東亜戦争へと突き進む思想的道すじを獲得して いったのだった。