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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
253 日本のナショナリズム(6)
明治期の大衆教化=小学校教育と軍隊教育
2005年4月25日(月)


 吉本論文は前回に紹介した内容に続けて「大衆ナショナリズムの変遷」と題して大正期・昭和期の 大衆ナショナリズムの論考へと進むが、大正期に入る前にここまでの吉本論文を補充したい。 色川論文を読んでみる。

 吉本論文は、唱歌を素材にしている関係上、明治末期から説き起こしている。それに対して色川論 文はまず国家成立以前にまでさかのぼって風土的・歴史的条件によって培われてきた日本人の自然思 想や生活思想の特性を俯瞰する。その上で幕末期の知識人のナショナリズム、維新期・明治初期の支 配者のナショナリズムを論考し、次いで自由民権運動期の大衆ナショナリズムへと論を進めている。
 江戸時代の知識人のナショナリズムがどのように維新期・明治期に継承され、近代日本国家の形成に どのように関わり浸透していったかという問題は日本のナショナリズムを解明する上で一つの重要な 与件だが今はそれは割愛し、吉本論文と重なる論考部分を読んでいきたい。

 色川さんは吉本論文を次のように評価している。
 明治維新から自由民権期にかけてさまざまな民衆のナショナリズムが内からと外から触発され、 徐々に視園を拡大し、それぞれ異質な自己主張をもちだしたことは概観したが、それ以後、日露 戦争頃にかけてどのように展開(ないしは沈潜)していったかを具体的に明らかにすることはき わめて困難である。(中略)いわゆる「底辺民衆」のそれや「最底辺の存在」のそれにいたって は、手がかりとなる直接のものが無いだけに雲をつかむような状態である。そこで種々の歴史的 な類推の方法がとられるわけだが、吉本隆明は自分の原体験をもとに、当時大衆の心情をふかく 捉えていた「小学唱歌」や「童謡」などを素材として、その大衆ナショナリズムの表裏の心情構 造や、それが明治、大正、昭和とどのように変化していったかを鋭い直観で解析している。 その吉本の思考の背後にはかれなりの国家観や日本資本主義分析があるが、明治期をとりあつかっ た部分はそれらとの関連がよくうかがえて、とりわけ説得力がある。

 こうして吉本論文を受け入れた上で色川さんは言う。
 文明開化-自由民権期から明治末にいたる底辺民衆(吉本のいう大衆)のナショナリズムは、 反「近代」・反「文明」の情念を内に包蔵しながらも、しだいに次のような諸力によってその 内奥をこじあけられ、異国にたいする国家的排外心や文明への漠然たる憧憬、あるいは物質的富 や平等を求める屈折した対外志向にと捉えられていったように私は思う。
 そして大衆のナショナリズムの内奥をこじあけていった諸力として次の五点を挙げている。

1 小学校教育
2 軍隊教育
3 対外戦争
4 明治天皇をカリスマとして活用した家族国家論などの支配的思想
5 資本制商品経済等々による漸進的な浸透力

 『大衆のナショナリズムは、これらの諸カとの対応-緊張と感応の過程で自己を変容させ、その測りしれ ない土着的、野性的エネルギーを統御されてゆくのである。』

 第一の力「小学校教育」について。
 まず、明治中期以降の大衆を考えるとき、その大部分が小学校卒であることに、色川さんは注意を促して いる。
 義務教育の就学率は次のように推移している。
  1877(明治10)年:男子45%、女子14%
  1897(明治30)年:男子70%、女子39%
  1907(明治40)年:男子94%、女子85%

 大衆とはこの時期は「小卒」 の日本人をいう。そしてその小学校教育は天皇制国家が直接操作した 全国画一の「国定」教育であって、国策に合致する従順で勇敢な国民をつくりだすという点では世界に も稀な成功を示した、よく組織され体系化された内容のものだったのである。私はかつてその一端を、 国定教科書の分析を通じて実証してみたことがあるが、明治三〇年代にはすでに完成されたそれ らの国定教科書は、先に指摘した天皇制のキャパシティにみごとに照応するような縦深広範な容積を 持っていたものである。それはまた戦後の日本人が考えるほど反動的なものではなかった。「知識ヲ 世界二求メ大イニ皇基ヲ振起スべシ」との方針のもとに、「世界への開眼」を説き、進んで海外情勢 から世界史的な偉人や美談を教材にとりあげ、「進化論」などの新学説の紹介をはじめ人道主義的な 逸話さえ読本に採用している。つまり天皇制が許容する枠いっぱいに、前向きに体系化している。
 西洋に追い着き追い越せの意気込みが感得できる。前に「大東亜戦争」時の第5期国定教科書を 取り上げた(「第213回」~「第224回」)が、第5期国定教科書のような狂気はまだない。しかし もちろん天皇制を浸透させ確立するための方策にも抜かりはない。
 もちろんその中核は「日本の国体」を教えるところ(「大イニ皇基ヲ振起スべシ」)にあるが、 それも押し付け的なやり方ではなく、地理・音楽・自然教科などからの「日本の国土への愛」を もりあげ、また祖先の美談や日本史上の偉人物語などを歴史、修身、国語の各教科の連携プレイに よって積み重ねながら「祖先崇拝」や「忠臣孝子」の意味を情感的に染み透させるという方法を確 立している。「楠正行」-「桜井の別れ」「児島高徳」、「乃木大将」-「水師営の会見」、 「水兵の母」-「黄海の戦い」などの国語と小学唱歌との組み合わせは絶妙であった。しかも、それ らの歌はいずれも哀調を帯びた佳品であり、大衆の心の奥深くに沈潜していった。

 このくだりを私は現今の「日の丸・君が代の強制」「心のノート」の強制配布、音楽教科書の変容、 「つくる会」の社会科教科書などに代表される教育反動の動きを二重写しにして読んだ。

大衆のナショナリズムの内奥をこじあけていった第二の力「軍隊教育」について、色川さんは次のよ うに述べている。
 「軍隊教育」は徴兵令によって大衆の子弟を強制的にあつめ、世間と隔絶した軍の世界で二年間に わたる猛訓練と精神教育をほどこすものであった。それは「軍人勅諭」を最高の教典として、たえず 「国難」を強調し有事にそなえることを心がけさせた。そこで大衆は絶対服従の規律と要領の精神を 体得するのだが、いったん郷里にもどれば在郷軍人として扱われ、草の根の軍の〝細胞″として巣ご もり志向の強い大衆を〝国難予備〟の方向にひきつけておく役割をになわされた。北一輝が『日本改 造法案大綱』で着目したのは、この大衆ナショナリズムの釣ばりである。北はこの予備軍を革命志向 の方向に利用しようと考え、そのための服従価値の源泉である天皇を「一君万民」をたてまえに既成 権力の手から奪回しようとはかったのである。敗戦後、日本が徴兵制による「軍隊教育」のシステム を失ったということは、どれほどナショナリズムの集中力の減退に作用しているか測り知れない。

 「第1回」(2004年8月15日)で私は次のような記事を書いた。
 『自由と民主を僭称する政党を中心とする支配者側は少しずつだが、狡猾にかつ着実に時代 錯誤とも言えるよこしまな目論見を実現し続けてきた。とうとう厚かましくも心の中に土足で 踏み込むように「君が代・日の丸の強制」を打ち出してきた。そして憲法改悪を目論む勢力が 大手をふってのし歩くまでになってしまった。その憲法改悪を米国が催促している。政治評 論家・森田実氏のホームページ
「MORITA RESEARCH INSTITTUTE CO.LTD」
によると、アメリカの狙いは、憲法を改定させて徴兵制を国民の義務にすることだという。」
 北朝鮮の脅威を過度に煽るマスコミや保守系政治家らの言動は憲法改悪のための布石の一つと考えても 考えすぎではないだろう。いまマスコミをにぎわせている中国の「反日デモ」について、こういう事態 を招くためにコイズムは靖国参拝を繰り返してきたのだと穿った見方をしている人もいるようだ。 中国の「反日デモ」も憲法改悪へと世論を誘導する格好の材料だ。週刊誌などは過度にセンセーショナルに に取り上げている。今日の朝日新聞に掲載された世論調査の結果によれば、中国側が「日本の歴史認識 について反省を行動で示すよう求めた」ことに対して71%が「納得せず」と答えたという。
 憲法改悪を許せば、次には当然、徴兵制が浮上してくるだろう。
254 日本のナショナリズム(7)
大衆ナショナリズムの原イメージ
2005年4月26日(火)


 色川さんは自分自身にとっての「大衆ナショナリズムの原イメージ」を提出している。そこからは 多くの重要な事柄がくみ取れる。かなり長くなるが、その部分の文章を全文掲載する。
 まず、国定教科書による教育の成果を物語る悲しくもやるせない逸話を二つ紹介することから 始めている。一つは森崎和江「からゆきさん」からの逸話。
 明治も末年であった。天草や山口県のどこかからせり落された一四人の少女が、朝鮮に向って 玄海灘を渡っていた。いずれも15歳未満の娘たちだったが、航海中も昼夜となく売春を強いられ、 うち12歳の子が衰弱して息絶えた。残された少女たちはその遺体にとりすがって泣き、おとむら いをしてやろうと、みんなで相談のすえ、お経の代りに次の歌を甲板で合唱した。
桜井の別れ



青葉茂れる桜井の
 里のわたりの夕まぐれ
木の下蔭に駒とめて
 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の上に
 散るは涙かはた露か

正成(まさしげ)涙を打ち払い
 我子正行(まさつら)呼び寄せて
父は兵庫に赴かん
 彼方の浦にて討死せん
いましはここ迄来れども
 とくとく帰れ故郷へ

父上いかにのたもうも
 見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん
 此正行は年こそは
未だ若けれ諸共に
 御供仕えん死出の旅

いましをここより帰さんは
 わが私の為ならず
己れ討死為さんには
 世は尊氏の儘ならん
早く生い立ち大君に
 仕えまつれよ国の為め

 此一刀(ひとふり)(いに)し年
 君の賜いし物なるぞ
此世の別れの形見にと
 いましにこれを贈りてん
行けよ正行故郷へ
 老いたる母の待ちまさん

共に見送り見反りて
 別れを惜む折からに
復も降り来る五月雨(さみだれ)の
 空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
誰れか(あわれ)と聞かざらん
 あわれ血に泣く其声を

        『湊川』1899年(明32)年6月
 この歌詞の〝ふるさと″へ向う情念にこそ少女たちのナショナリズムがこめられている。 その〝ふるさと〟へ「もうおショウバイをしなくてもよくなった」あの子は帰ってゆくのだと、 みんなは泣く泣くその遺体を海へ投げこんだという。私はこの逸話を森崎和江の『からゆきさん』 で読んで、複雑な感動にとらわれた。朝鮮人の周旋屋に国籍ごと売りとばされたこの文字通り奈落の棄民たちの目から見かえされたナショナリズムが、楠公父子の永訣の歌(天皇への誠忠を誓う戦前日本の最高の国民唱歌)であらわされたとはなんというアイロニィであろ。
 この少女たちはやがて日本帝国主義下の朝鮮で、日本を見かえそうとした朝鮮人工夫たちに集団で買われ、排尿のひまもあたえられぬほどの報復的な〝愛撫〟を肉体に受けとめ、国家に代って狂死していった。天皇の国家はこの〝忠良な赤子″たちの惨死を満洲の戦場で斃れた一兵卒に対するほどにも哀悼しはしない。それなのに女たちは優しく故郷を愛し、「青葉しげれる」をうたい次々と草むす屍になっていったのである。
 明治30年代末に完成した国定教育の浸透力のなんというすぱらしさであろう。天皇制の永続を 渇望して止まないこの作為的な歴史唱歌が、天皇への憐憫とたぐいまれなヒューマニズムの哀調を 帯び、なきがらとなって故国へ帰る幼ない棄民の子らへの鎮魂歌の役割をも果し得たとは! この イメージの放射する思想史的な意味は悲惨なほどに豊かである。「日本のナショナリズム」を机上 で論ずる研究者の何人が、この放射するものをまともに受けとめ苦しむことをしてきたであろう。

 二つ目は石牟礼道子「苦海浄土」からの逸話。
 1931(昭和6)年、天皇が水俣のチッソ工場に来たさいには、沿道の部落から不浄だとして追いはら われた同じ天草流れの婦人が、その後、激症の水俣病患者になり、はじめて都から視察の厚生大臣を 病室に迎えた。そのとき、ユキ女は興奮のあまり痙攣発作を起し、「て、ん、のう、へい、か、ばん ざい」と絶叫してしまった。つづいて彼女のうすくふるえる唇から、調子はずれの「君が代」がふる ふるとうたい出されたという。この鬼気迫るシーンに大臣たちは逃げ出したが、この無明の奈落に発 する「日本ナショナリズム」のからみつきに、ただ「前期的」といって応えればよいのか研究者に問 いたい。

 ここでいう「前期的ナショナリズム」とは丸山真男がその論文「日本におけるナショナリズム」で 明治期のナショナリズムを規定した概念である。「丸山説に同調する人も対立する人も無批判に援用 しており、学界では未だに生きつづけている。それへの根本的な疑問やそれに代る概念の提出もほと んど行われていない。」と色川さんは、当時の学界・学者たちの怠慢さ・ふがいなさを批判している。

 色川さんは学徒兵として徴兵されている。上記の二つの逸話に続いて、その軍隊体験を次のように 内観し、個人的体験を取捨した浅薄な論説に異議を申し立てている。
 敗戦のとき私は軍隊にいた。まだ大学生であったが、「物を書く」という行為をはじめていた以上、 私は知識人であった。1945(昭和20)年6月、本土大空襲の下で、海をへだてた沖縄が断末魔の苦しみ におちいり、一日々々皆殺しにされてゆくのを私は無電機にしがみついてジリジリと耐えていた。 沖縄の敗滅はそのまま日本の敗北に通ずることを疑わなかった。私のそのころの同胞と祖国にたいす る憂慮の感情は、極端といってもよい異常なものに昂まり、「吉田松陰とてこれほどまでに憂いはし ない」と日記に書きつけるほどであった。私は大戦期の知識人のウルトラ・ナショナリズムという 一括言語をきくとき、つねづね反発をおぼえてきたが、それは、いわゆる言論人(イデオロー グ)のそれと、私たちのそれとを「混同するな」という実感がわだかまっていたからである。後に なって、あの6月に沖縄で乳呑児をおぶった断髪の婦人が爆雷を抱えて米軍に突入したとか、鉄血 勤皇隊やひめゆり部隊が「海ゆかば」をうたいながら射殺されたという話を聞いたとき、「辺境」 の民のヤマトへの同化をねがう皇民幻想の悲劇をあげつらうまえに、その純烈なナショナリズムの 最期に打たれたのである。これを「近代的知性」とやらで、なんとでも非難し、批判し、切り刻む ことはできる。だが、どのように言葉で寸断しょうと、これらの死者たちの存在のもつ重さ情念にとって代ることはできない。これらが私のナショナリズムにかかわる原風景(イメージ)なのである。
255 日本のナショナリズム(8)
対外戦争とナショナリズム
2005年4月27日(水)


 色川さんが大衆のナショナリズムの内奥をこじあけていった諸力の三つ目に上げたのは「対外戦争」 だった。「対外戦争」が大衆の情念をどのように収奪していったか、色川さんの言葉で言うと 「薫染(くんせん)(汚染)」していったかを色川論文から取り出してみる。

 自由民権権運動期のナショナリズムについての論考で色川さんは「一般の村びと」が「真実、ナショ ナリズムに燃え、わが身を自発的に国家の側にすりよせるようになったのは、民権期ではなく、日清 戦争時でもなく、日露戦争にさいしてであった」と指摘している。
 そしてまた、天皇制教育の完成という面からも日露戦争(1904年~1905年)が決定的な役割を果たした。 そのことが1910(明治43)年に改訂された第2期国定教科書の「読本」に顕著に表れていると、色川さ んは次のように指摘している。
 この完成された読本には各巻の一、二章にほとんど〝天皇″〝皇室″〝国体″に関するものが置かれ、 それと響きあうように〝家族道徳″〝祖先崇拝″〝郷土愛″〝模範村″の話などが配置されている。 いっぽうこの国土に住む国民の〝運命共同体的一体感″をおしえる材料として〝対外戦争″ (元冠、日清・日露戦争)が大きくとりあげられ、その国難を救った明治天皇や英雄たち、広瀬中佐 や橘大隊長、東郷大将や乃木将軍、それに勇敢な兵士たちの美談がうたいあげられている。さらに 〝労働者・農民の生活″や〝資本制社会への適応力″を育てる教材もたくみに配置されていた のである。このように見ると、そこには天皇制の精神構造に包摂されたほとんどの要素が情緒化され、 整序され、総合的に体系化されているのが分る。
 唱歌「戦友」が大衆のナショナリズムの一面を表現していることを指摘しつつ、『これをそのまま、 日本「ナショナリズム」の大衆的心情とかんがえると、誤解を生ずるとおもう。 戦争はリアルなものであり、この歌曲とおなじ位相で、「友」を弾よけにして「我」は逃げるという 場面が、戦争のなかでなんべんも繰返されるということを想定できるからである。』と吉本さんは 大衆の心情の裏側に付着しているリアリズムに注目を促していた。このことを色川さんは次のように 記述している。
 明治の後期、あいつぐ対外戦争に勝利を得た国家が、その自信の上に、当時の全国民の精神的志向を そっくり包みこんでしまうような最大限許容量(マキシム・キヤバシテイ) とその教化の様式を完成したのである。底辺民衆が幼児のころから、この組織的な国家教育によってい かに強く深く影響され、ナショナリズムを喚起され、その奔出の方向を統御されたかは想像にあまりあ る。だが、民衆はそれらの民族共同体への献身にともなう美的陶酔が、じつは一過的なものであり、た てまえ的なものであり、感傷的なものであり、非現実的(ロマネスク) なものであることを成人するにつれて同時に理解していった。戦場での兵士らをしのんで日本国民が、 「ここはお国を何百里、離れて遠き満洲の、赤い夕陽に照らされて、…‥」と涙を  浮べて感傷的に唱おうと、じつさいに戦火をくぐってきた大衆は、喧伝された英雄的な 場面(シーン)のかげに、その数百倍もあるむきだしのエゴとエゴとの暗闘 の醜悪さ、汗や糞尿だらけの戦場の臭気と汚穢、ウジ虫の山と血の海、自傷兵となっての戦線離脱、 飢餓、恐怖、掠奪、婦女暴行、厭戦の自堕落を熟知していたのである。その熟知の上に、なお涙を浮 べて小学唱歌を斉唱する生徒の如く「戦友」をうたう大衆のナショナリズムの心情核こそ、天皇制国 家がもっとも依拠し、密着したいとねがった原点だったのである。
 このような大衆のナショナリズムを大衆の迷妄と単純に断罪することは正しくないと、色川さんは 、多分自らの体験も内観しつつ、次のように書いている。
 ナショナリズムがながく共同幻想としてのカを持続しうるためには、短期間であれ、ある一時期に それが真実なものとして体験されることが必要である。つまりその体験が大衆間の共通の実感として 確認されることが一度はなくてはならない。たとえ戦場でのエゴや醜悪さと背中合わせであるとして も、日本の兵士・大衆が真に自発的に〝国難″を感じ(背後の運命共同態と自己との一体感を信じて)、 祖国と民族のために献身しようと燃え立つことがあったことを私たちは日本近代史の中に確認する。 その一つは日露戦争の時であり、もう一回は日米戦争期の一、二年の間であろう。両者はもちろん歴 史条件が違うので同列に扱えない。また近代ナショナリズムの栄光の象徴といわれるフランス革命や アメリカ独立戦争のさいの大衆ナショナリズムの自発性とも異質なものである。しかし、それにもか かわらず、錯綜した戦争の性格の中に少しでも国民戦争的な要素や民族戦争的な一面があったかぎり、 大衆ナショナリズムの共同幻想はリアルなものとして実感されることもあり得たのである。
元寇


 元 冠

一 四百余洲を挙る 十万余騎の敵
  国難ここに見る 弘安四年夏の頃
  なんぞ怖れんわれに 鎌倉男子あり
  正義武断の名 一喝して世に示す

二 多多良浜辺の戎夷(えみし) そは何蒙古勢
  倣慢無礼もの 供に天を戴かず
  いでや進みて忠義に 鍛えし我がかいな
  ここぞ国のため 日本刀を試し見ん

三 こころ筑紫の海に 浪おし分て往く
  ますら猛夫の身 仇を討ち還らずば
  死して護国の鬼と 誓いし箱崎の
  神ぞ知ろし召す 大和魂いさぎよし

四 天は怒りて海は 逆巻く大浪に
  国に仇をなす 十余万の蒙古勢は
  底の藻屑と消えて 残るは唯三人
  いつしか雲はれて 玄海灘月清し

      「音楽雑誌」19号 1892(明治25)年4月
 1892(明治25)年「元寇」の名で発表されたこの歌が、日清戦争のまぎわになって大流行し、小学生 たちまでが足を踏みならし机のフタをがたがた鳴らして熱狂してうたったという逸話はなにを物語るか。 「対外戦争」がいかに大衆的熱狂をひきだしやすいかということもあろう。そのことを権力者たちは 熟知していた。とくに軍の指導者や右翼系の革命家らはそこに日本人大衆のアキレス腱があることを 見ぬいていた。それゆえに日清・日露戦争を最大限に利用して国民の統合と国権の確立を達成しよう としたのである。

 政財官界とそのちょうちん持ち・保守論客と呼ばれているイデオローグたちがこぞって「日露 戦争」の再評価を言い出したのはいつからだったか。
 他国をあなどり敵視する排外主義がやがて昂じて対外戦争を引き起こす。この国民を統合服従させる ための政治的戦略の裏面には民衆の大量虐殺(ジェノサイド) を糧に肥えていく資本主義の冷酷な計算が密着していることを忘れてはなるまい。いまイラクで起 こっていることを注視していこうと思う。
256 日本のナショナリズム(9)
第2国歌「海ゆかば」
2005年4月28日(木)


 ちょっと横道へ。
 前々回、朝鮮人の周旋屋に売り飛ばされて異国の地で狂死していった少女たちの無残を色川さん は怒りを込めて描き、「草むす屍」という言葉を用いた。この言葉からすぐ思い出したことがあった。 もちろん色川さんもそれを念頭に置いて用いていると思う。「海ゆかば」である。いつどう覚えた のか、実は私はこの歌を歌える。

 大伴家持が長歌(万葉集巻18・4094)の中で祖先が「言立て」た言葉だとして歌い込ん でいる一節。

 海行かば 水浸く屍 山行かば 草生す屍 大君の 邊にこそ死なめ 顧みは せじと言立て ・・・

 1937年(昭和12)年10月、国民精神総動員運動の一環として、これに信時潔が曲をつけた。

海行かば


 1937年10月13日(私はまだ生まれていなかった。)から1週間繰り広げられた「国民精神総動員 強調週間」の折、ラジオ放送に「国民朝礼の時間」という番組が設けられた。毎朝『「君が代」斉唱、 宮城遥拝、著名人の訓話、「海ゆかば」斉唱』という内容の番組が放送されたのだ。「海ゆかば」は まずラジオ放送を利用して広められていった。

 いまNHKの政治権力に対する脆弱な体質が問題になっているが、マスコミを掌中にした権力は絶大な 力を得ることになる。もちろんNHKだけの問題ではない。これも何度も指摘してきたことだが、 多くのメディアがいま権力の手先に成り下がっている。現今の反動的な政治状況を促進している推進力の 一つがマスコミなのだ。

 さて、1942(昭和17)年12月15日、大政翼賛会が「海ゆかば」を国歌「君が代」に次ぐ「国民の歌」 に指定して各種会合で必ず歌うようにと通達した。いわば第2国歌というわけだ。
 国民学校の教科書では「高等科音楽(1)」に収録されている。

   狂気の大東亜戦争末期、敵性音楽撲滅運動の折、国民学校の卒業式ではそれまで歌っていた 「蛍の光」を取りやめている。敵国イギリスの民謡だから不適当だという理由だ。そして 「蛍の光」に替わって歌われたのが「海ゆかば」や「愛国行進曲」だった。これから社会人として 門出する卒業生に送るはなむけの歌が「海ゆかば」とはすさまじい。「海や野に屍となって身を晒 すことも辞するな、天皇のため死ぬことこそよろこびと思え」と送り出したのだ。

 「海ゆかば」は第2国歌だった。「君が代」と「海ゆかば」は同じメタルの表と裏だ。「君が代」 の意味するところはこの2曲のセットでより明らかになる。
 「君が代」の意味は「世襲君主の支配が永久に続くように」という意味以外のどんな解釈も できようはない。「世襲君主」に服従することは、どんなに美辞麗句と理屈を連ねても奴隷の 思想だ。「主権在民」とは相容れない。「海ゆかば」がその行き着く果てを如実に表わしている。 「君が代」大好き人間はもとより、『「君が代」、平和な歌で、別にいいんじゃないの』という人たちは、常に 「君が代」と一緒に「海ゆかば」も歌うといい。歌わないまでも、「君が代」の裏にピタッと密着して いる「海ゆかば」を常に意識すべきだ。天皇制の本質・「君が代」の隠された意味が明々白日の下に 表れることになる。

 学校の先生へ提案。どうしても「君が代」を教えざるを得ないのなら、「君が代」の本質を 考えるてだての一つとして、一緒に「海ゆかば」を教えましょう。
257 日本のナショナリズム(10)
洋楽の土着化(1)明治ミリタリイ・マーチ
2005年4月29日(金)


 明治期の大衆ナショナリズムを牽引していった唱歌に、詩のリズムまたは音楽のリズムの面から 接近してみる。資料として利用する菅谷規矩雄著「詩的リズム」は副題を「音数律に関するノート」という。 日本語のリズム=音数律を論理的に解明しようとする意欲的な論考だ。愛唱歌がなぜ愛唱歌になるのかという問題には音数律 についての本質論が欠かせないと思うが、いまは吉本論文と関連する部分に絞って読んでいく。

 文明開化によってもたらされた洋楽の土着様式を、菅谷さんは二つ上げている。その第一の 様式のメルクマールとして、菅谷さんは「寮歌」をあげている。
 菅谷さんは「寮歌」にことよせて、帝国大学出身者という知的エリートの貧しい心性と、彼らがそ の構成員の多くを占めている支配階層の思想的鈍感さを記述している。もちろん、これは現在の支配層 にも当てはまる。
 あゝ玉杯に花うけて……をはじめ、旧制高等学校の寮歌なるものはほとんどが、やはりこの長短 長短のリズム形式でできていて、その単一さはおどろくほどだ。いまどき寮歌祭などと称して旧世代の エリートたちが肩くみあって声はりあげ陶酔しているさまを、テレビなどでみているとわたしは ただ、まずしいな……とやりきれなくなるばかりだが、さらにいえば、このまずしさをしかも、 陶酔(ヽヽ)にさかだちせしめ〈青春〉にいなおっているところに、帝国 大学出身の上級官僚あるいは大会社の幹部……といったかれらの階級=特権はむきだしにされている。 これは現実の根柢がどれだけ動乱しても、なおその根源からあたうかぎりとおくはなれて持続し残存し、 支配に直通する上限のありようを端的にものがたっている ― そこにみえるのはいわばひとつの末路 いがいではないが。

 知的エリートたちを陶酔させる寮歌のリズムの特徴を、菅谷さんは「長短長短のリズム形式」 と言っている。「長短長短のリズム形式」とはなにか。
 わが国の〈近代〉における大衆の感性に、どれだけあらたな経験が附加されたかと問いをたて て、リズム表出の基底をさぐってみようとおもう。連続する表出の基軸を、明治ミリタリイ・マ ーチの形成とでもよぶべき主題においてみるとする。はたしてそれによく対位しうるべつの基軸 はありえたか ― この点にわたしのモティーフはかかっている。
 文明開化によってもたらされた〈洋楽〉の土着様式は、第一につぎのようなものである ―  等時拍三音の土謡的発想を、強弱拍による二拍子へと変換すること、そのように変換され強化さ れた〈時間〉がすなわち支配の理念とした〈近代〉であった。
 ほんらい強弱をもたぬ日本語の拍を、西洋的な〈拍子(Takt)〉にのせようとすれば、強拍は 音をながく弱拍は音をみじかくとるという対応いがいにまずありえなかった。これはひとつの必 然的な撰択である。したがってそのリズム構成はおのずと
勇敢なる水兵
(勇敢なる水兵)
という長短型をなした ― 日清戦争期から日露戦争期にかけて定着したこのリズムは ― たと えば明治24年山田美妙詩・小山源之助曲《敵は幾万》から明治38年真下飛泉詩・三善和気曲 《戦友》にいたるまで ― 明治大衆ナショナリズムの上限から下限にいたる定型化のほぼ全域を おおいつくしているとみてよい。

 これまでに掲載してきた楽譜をみると「戦友」と「二宮金次郎」がこのリズムで作曲されている ことが分かる。
 ところで上記文中の「等時拍三音の土謡的発想」というくだりを理解するためには、菅谷さんが 日本語のリズム=音数律の論理的解明をしている論述部分を読まなくてはならない。しかしその詳細 を知らなくとも上記の文章の要旨は理解できると思うのでここでは割愛する。

 この明治ミリタリイ・マーチという形成について菅谷さんはさらに詳述している。
《敵は幾万》や《勇敢なる水兵》などの軍歌、《箱根八里》などの中学唱歌、そして寮歌から《鉄 道唱歌》までをふくむおなじリズム型、すなわち単一強化の行軍リズムとでも名づけるべきもの が明治ミリタリイ・マーチの本質であった。そして上限における強化にたいして、下限からの自 己解体をふくんであらわれたのが、テンポの二重化であり、〈規範―心情〉の乖離そして〈間の び=おもいいれ〉であり、ついにそれは行軍リズムそのものを三拍子的にひきのばすにいたるの である。
 一方の極で、社会の基盤から遊離し根源を喪失して進化を完了してしまい、時間を停止させた まま遺制のごとく残存しつづける行軍リズムの場が寮歌であったとすれば、他方の極にはおなじ リズム原型をたもちながら、それを6/8拍子へ、さらには3/4拍子へとゆりうごかしてゆく促迫があ った。
 その分岐をなすのが明治38年の〈戦友》である ― この歌は、わたしが単一強化の行軍リ ズムとよぶ明治ミリタリイ・マーチの可能と不可能とをともに最大限かつトータルに表現して、 上昇と下降の臨界をなしている。

 この後、菅谷さんの記述は、「戦友」の分析、いわば「戦友」論ともいうべき論考へと続く。 これは次回取り上げよう。
 なお、上記文中の〈間のび=おもいいれ〉という概念は「文明開化によってもたらされた洋楽 の土着様式」の二つ目の様式のことであり、次々回に詳しく取り上げる予定である。