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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
230 そのとき「大国民」たちは?(6)
言い替えごっこ
2005年4月2日(土)


 1943年7月にムッソリーニが失脚してからイタリア音楽も追放の憂き目に会いました。そして 外来語の使用そのものが槍玉に挙げられるようになります。「敵性語排撃運動」という言い替えごっこ で忠誠心を競い始めました。
 例えば楽器の名称が次のように言い替えられました。
 ピアノ=鋼琴、クラリネット=竪笛、ヴァィオリン=提琴、ヴィオラ=中提琴、チェロ=大提 琴、バス=特大提琴。
 こんなバカげた言い替えごっこに日夜頭を悩ますとは、まったくご苦労なことです。
 この言い替えごっこのエピソードは枚挙にいとまがありません。面白いといいましょうか、情け ないといいましょうか、ともかく噴飯ものの例が一杯あります。
 「前後左右自由機」あるいは「走行転把(てんぱ)機」。なにの言い替えか 分かりますか。自動車のハンドルだそうです。
 「自動昇降機」「自動階段」。これはなんとなく分かりますね。そうです。それぞれエレベーター 、エスカレーターです。
 「中庸」、「硬」、「3硬」、「軟」、「2軟」はどうでしょうか。鉛筆の芯の硬軟を表す記号 なのです。それぞれHB、H、3H、B、2Bです。

   「敵性語排撃運動」の一番の受難者は敵性スポーツでした。
 スポーツの名称の言い替えは今日でも使用されているものがあります。
 バレー・ボール=排球、ラグビー=闘球、フット・ボール=蹴球、バスケット・ボール=籠球、 ホッケー=杖球、ウオーター・ポロ=水球、テニス=庭球、ピンポン=卓球、ドッジ・ボール=避球、 インドア・ベース・ボール=蹴塁球、などなど。

 敵性スポーツの中でも、ゴルフはぜいたくでもあるというので、一番受難がはげしかったようです。 次が日本ゴルフ協会(大日本体育会に統合されていた)の労作です。

 ゴルフ=打球、ホールス=競区、フェア・ウェイ=芝地、ラフ=野地、バンカー=砂窪、 パー=基準数、バーディ=隼、イーグル=鷲、ホール・イン・ワン=鳳、ハンディキャップ=均率、 ティ=球台、フック=左曲り、スライス=右曲り、アウト・オブ・バウンズ=逸れ球、 ソケット=逸れ打ち、プロフェッショナル=専門選士、キャディ=球童

 隼、鷲、鳳とは恐れ入りました。お寿司などのランク名称「松竹梅」の替わりに使えそうです。

 アメリカ発祥のスポーツ・野球の場合はさらに悲喜劇的でした。
 まずチーム名。タイガースは「阪神軍」、イーグルスは「黒鷲」など。セネタースは「翼」だそうです。 はてな?これは何故でしょう。「オーナー有馬頼寧氏が大政翼賛会の事務総長であったため、翼賛の字か ら、翼を借りたもの」だそうです。
 野球用語の方は、まず審判用語ですが、それは選手に対する「号令」であるとして次の如く改められ ました。

ストライク     ヨシ!一本、二本、三本
ボール       一つ、二つ、三つ、四つ
三 振       それまで!
フェア。ヒット   よし!
ファウル・ヒット  だめ!(これはやがて「もとえー」と変る)
セーフ       よし!
アウト       ひけ!
ボーク       反則
タイム       停止
インタフェア    妨害
ホーム・イン    生還(後、得点と変る)

 また、スコア・ボールドは、ストライクが「振」、ボールが「球」となり、ツウ・ストライク、 スリー・ボールは「二振三球」ということになります。
 その他の用語も全て言い替えられました。次のようなぐあいです。

ストライク      正球
ボール        悪球
フェア・ヒット    正打
ファウル・ヒット   圏外
セーフ        安全
アウト        無為
ファウル・チップ   擦打
バント・ヒット    軽打
スクイズ       走軽打
ヒット・エンド・ラン 走打
ボーク        擬打
フェア・グランド   正打区域
ファウル・グランド  圏外区域
ファウル・ライン   境界線
グラブ、ミット    手袋

 このようなバカバカしいことをプロ野球連盟が自発的に真面目にやったのです。そうしないと プロ野球そのものが継続できなかったのです。末期段階では連盟名を「日本野球報国会」に、 チーム名も「産業軍」とか「近畿日本軍」とか時流に迎合したものに改めたり、ユニフォームの色を 「国防色」にしたりと涙ぐましい努力を続けます。

 最後に「ボクラ少国民第三部・撃ちてし止まむ」の結びの文を掲載してこのシリーズ『そのとき「大 国民」たちは?』を終わることにします。
 主人が番頭に、番頭は小僧に、小僧は犬に……式に錬成の命令は〈ボクラ少国民〉の上にひたすら天 下り続けた。しかも〈狂気〉を帯びて、その度合も「撃ちてし止まむ」と、とどまるところを知らずエ スカレートしていった。〈ボクラ少国民〉は無告の民として、その全てを受け入れ、ひたすら天下る錬 成に耐えた。それも「故山本五十六元帥・アツツ島玉砕英霊部隊」に続いて、天皇陛下の御為に「水づ く屍、草むす屍」となることを目指してである。
 戦後の多くの回想録に「この頃『撃ちてし止まむ』の合言葉が流行した……」というように、そっけ なく書きとばされているのを見るが、これはいままで述べてきたように、ただ単なる流行語といった性 質のものではなかった。多くの人々の理性を圧殺し、天皇制ファシズムを強力に支える狂気をあおりた てるための戦争指導者たちの呪文であった。そしてまた、彼らによって始められた無謀な戦争を「神武 東征」になぞらえ、「八紘一宇の聖戦であるが故に勝利は歴史的必然」とカリスマに陶酔させる魔力を 伴うキー・ワードでもあった。
 このスローガンがシュプレヒコールされたとき、翼賛壮年団は神社の境内で星条旗や洋書を焼き、婦 人会はルーズベルトのわら人形を竹槍で突き、校長は朝礼台で抜き身の日本刀をふりまわし、教師は酷 寒のプールで〈みそぎ〉を強いられ、子どもたちは教師の暴力を伴う錬成にひたすら耐えさせられた。 それはエスカレーションを伴う狂気性において、まさに悪魔のメッセージであった。確かに天皇制ファ シズム自体・狂気ではあったが、戦時下の日本国民のさまざまな狂気を、もっとも有力に、効果的に支 えたスローガンが、この「撃ちてし止まむ」であった。
247 もう一度「戦争案内」の案内
2005年4月19日(火)


 「戦争案内」のあとがきを抜粋して、戸井昌造さんの思いを反芻しておこうと思う。
 侵略地・中国から命からがら復員した学徒兵・戸井昌造はどのように生きてきたか。
 私はとりあえず早稲田大学に復学したが、生きて帰ってくるやつらは、一応のインテリ だから、みんな私と同じ気持だとばかり思っていた。 ―おれたちの生命がなんでこんな に軽々しいものにされてしまっていたのか、そのことになぜ平気でいられたのか、おれた ちの人生って何だろう、人間の尊厳はどうなってしまったのだろう……どこかが根本的に 違っている― 私の考えは単純素朴ながら本気でそこへ行きついた。学友たちみんなが私 と同じだろうと思った。ところが、生きて帰れたクラスメイト46人のうち、このよう に考えて、人間というものを社会的視野からとらえ、人間性をないがしろにする、社会の 構造的矛盾に気づき、社会の変革のための行動に参加していったやつが、私を含めて3人 しかいなかった。私の(はえ)ある少数派人生はこのとき から始まった。

 同じ体験をしてもそこから何を掴むか、人さまざまだ。体験から本質的な課題を掴んで それをその後の生き方に生かす戸井さんのような人はごく少数だ。「教育の戦争責任」で 見てきた人の生き方のさまざまなタイプの比率はここでも同じだ。多くは『戦友会に出て、 酒のんで、軍歌を高唱して「あのころはたいへんだったなあ、時代が悪 かったなあ、戦争はもうコリゴリ、二度としちゃいかんなあ……」などとほざいてなぐさ めあう』のがせいぜいで、まるで戦争体験などなかったかのように時流に埋没して行った。
 しかし、戦争体験をしっかりと受け止めた戸井さんでさえ次のように述懐する時が来る。
 ふり返ってみれば、戦争から帰って最初の十年間は、戦争のセを聞くのもいやだった。  二十年経つとそれほどでもなくなり、三十年経ったころには、辛かったことがなつかしく さえなってきているのに気づいて愕然とした。 そして四十年-戦争は冥茫(めいぼう) のかなたに遠ざかりつつある。いま、この本ができてよかったと思う。

 体験しても体験しないものが圧倒的多数だ。体験を体験した者も記録をしなければ体験は人に知 られず消え去る。戦争体験を次の世代に伝えることの何と難しいことか。
 いまこの本を書き終えて思う、もうひとつは、わたしたち六十歳以上の人間は、ツケを 次代にまわすようなことだけはやっちゃいけないということ。そしてできれば、ボケてし まわないうちに、もう一度自らの人生をしっかり反省しておくべきではないか、というこ とだ。その反省のなかに「戦争」をキチンと据え、あのとき自分はどう考え、なにをした かを、真正直に想い起こすべきではないだろうか。そうして、自分自分の 『戦争案内』を 次代に残すべきではないだろうか。
 一言つけ加えると、戦中、戦後の苦労もさることながら、「戦前」 に対する反省がわた したちに欠けているように、近ごろ思えてならない。
 反省はいくらしてもしすぎることはない。なぜならば、どんなに反省しても、決して 「侵略された側」 に立つことはできないのだから。
 さきに、日本人の戦争犠牲者についての数字をあげたが、中国では、四百万人の中国軍 将兵が死傷し、二千万人にのぼる一般中国人が殺されたり傷ついたりしているのである。 これが「侵略」でなくてなんだろう。

 いま中国では「反日デモ」が暴動寸前にまで激しくなっているが、それへの対処には上記の ような事実をしっかりと踏まえた上で臨まなくては真の解決はありえない。今の日本の為政者 たちにそれは望むべくもない。
『「戦前」に対する反省がわたしたちに欠けているように、近ごろ思えてならない。』と戸井 さんは言う。いままた「戦前」がめぐって来た。いやもう「戦中」だという人もいる。
 私は、私なりに権力の横暴に抗し、社会の不正と闘い、戦争への道を赦さない行動をし てきたから、もうちょっと明るく希望的な老後が来るはずだと思っていた。ところがこの ままいけば、未来は明るいどころか、たいへんなツケを次代に残してしまうことになる。  この本が、過去のいまわしい戦争の単なる記録としてでなく、今の日本のおぞましき事 態を変えていくきっかけにちょっとでもならないだろうか。そういうふうに読まれてこそ、  この本が再刊された意義があるということではないだろうか。

 最後に戸井さんの若い人たちへのメッセージを、若い人のひとり?として、私も受け止 めようと思う。
 この本を読んで、若い人は「よくまあ、そんなバカなことが……」と思うだろう。たし かにバカげたことだったのだ。しかし「そんなバカなことはもう二度とあり得ない。そん なことは社会がゆるさないし、良心がゆるさない」と思われたら、それはちょっと違うん じゃないかな。もう少し深く読んでほしい、そして考えてほしい。
 気骨ある若者はこう迫るかも知れない。「どうして忌避しなかったんだ」と。これには はずかしながら頭をさげるしかない。
 言い訳めいたことをちょっと言わせてもらえば、当時の「忌避」は即、決定的身柄の拘 束か、悪くすると(たとえば戦場では)銃殺刑だったのです。そういう時代になってからで はおそいのです。
 「どうしてそういう世の中になってしまったのです、してしまったのです」 ―ここの ところがむずかしくて、わたしにもよくわからないのだが、ぼくの生まれるずっと前から、 長い年月かけて代々の大人たちがそういう世の中をつくってきたことだけは確かだ。そこ がおそろしいのだが、そのへんを、もっと勉強するしかないと思う。
 ある読者は「戦争って、ちっともカッコよくないし、軍隊もいい加減なものだったんで すね」と言うだろう。そうなんだよ。
 戦争はコンバットでもなければ、バトルでもない。もっと大きく、つかみどころなく、 不潔で、隠微で、だらしなく、気狂いじみたものなのだ。それが「国家」のやる戦争なん だ。宇宙戦争になっても同じこと、結局へイタイが死ぬのです。その死にかたも「悲惨」 や「悲壮」なものばかりではないのです。戦争には悲惨や悲壮の局面がたしかにあります。 しかしそれは、戦争というものの、突出した一部分にすぎない。「悲惨」は、批判の余地 もない極限の状況だから、それ自体で完結してしまう魔力を秘めているし、「悲壮」は難 なく悲壮美につながる魔性をもっている、とわたしは思うのです。それらがひり出されて くる底には、圧倒的な「非人間的日常」が重苦しく沈んでいるのです。
 終戦時に、帝国陸軍の百万以上の大軍が中国大陸に釘づけにされていた。その一人がわ たしなのだが、無為の百万の軍勢 ―これをどう思いますか。戦争とはそんなものなので す。

 どうか、多くの人に「戦争案内」を読んでほしいと思う。