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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
583 唯物論哲学 対 観念論哲学(6)
もう一人の自分(1) 夢・想像
2006年8月19日(土)


 私たちは、自覚はなくとも、ほとんど毎日のように夢をみといるそうです。 しかし、多くは目覚めたときに夢をみていたことにさへ気づかずにそのまま 記憶に残らない。目覚めたときに、ああ夢を見たな、と気づいて も数日も立てば忘れてしまう。しかし、記憶の底にこびりついていて、 生涯忘れられないような夢もある。

 私は小学校低学年の頃の一時期、毎晩のように同じような夢を見た。何か恐ろしいも のに追いかけられている。私以外の友達はみんな早足で逃げていくのに、私は思う ように足が動かない。塀にすがりながら進もうとする。身体が前にのめるが足 は鉛のように重く、引きずるようにやっとゆっくりと一歩ずつ動かせるだけ。 恐ろしいものが私の間近に迫ってきたところで目が覚める。たぶん実際に悲鳴 を上げたかもしれない。身体は汗びっしょりになっている。

 精神分析学によって、その夢から私の精神の根底にあるトラウマのようなも のが明らかにできるのかどうか分からないが、私の無意識の中に、胎児期か幼 児期に刻み込まれた根源的な恐怖があるのは確からしい。いずれにしても、 現実に生きていて眠っている私ではない「もう一人の私」が夢の中で動くことが ままならずに恐怖している。

 ところが、夢を見るのは、眠っているときだけではない。眠っているときの 夢は、見たくなくても見てしまう夢ですが、目をあけて見る夢もいろいろある。 現実に生きている自分として現実のものごとを見ながら、それと同時に自分の 見たい夢を見ようと努力することもある。これを私たちは<想像>と 呼んでいる。

 想像をしている時も、眠っているときの夢と同じように、「もう一人の自 分」がチャンとその想像の世界の中にいる。だが目をあけているために、 私たちはそのことになかなか気がつかない。<想像>の具体例で確認してみ よう。

 現実に生きている自分の目では、ものの外がわしか見ることができません。 それでは困る、もっとさきを見たいと思うときには、頭のなかに「もう一人 の自分」があらわれて、もっとさきを見てくれます。

 現実の自分の目では、障子のところにシッポが出ているのしか見えません が、頭のなかの「もう一人の自分」の目は、障子のむこうがわにネコがいる のを見ています。

>自己分裂1

 現実の自分の目では、お客さんの持って来たおみやげの箱しか見えません が、頭のなかの「もう一人の自分」の目は、箱のなかにお酒が入っていたり ケーキが入っていたりするのを見ています。

 つぎの日曜にはハイキングに行こうと、地図や列車の時刻表を見ながら計画 を立てるとすれば、それも「もう一人の自分」の活動です。地図をごらんなさ い。地図は土地を高い空中からながめたものとして書いてあるでしょう。地図 をつくった人は、現実の自分として、地上をあるいてしらべたのですが、地図 を書くときには「もう一人の自分」を高い空中の一点に位置づけて、そこから ながめたものとして書いたのです。
 時刻表をごらんなさい。これには駅の名まえとそこにつく時刻とがならんで いるでしょう。時刻表をつくった人も、現実の自分として、現実の列車の動き をしらべたのですが、時刻表を書くときには「もう一人の自分」になって駅か ら駅へ瞬間的に位置を移し、それぞれの時刻を書いていったのです。それでこ れらを利用する私たちも、これらをつくった人たちと同じように「もう一人の 自分」になって、高い空中から道の長さをしらペて「ここまで5キロくらいあ るな。」と考えたり、駅から駅へ瞬間的にとび移って、「終点まで1時間20分 かかるぞ。」と考えたりしています。

 このように、私たちが想像をはじめると、現実の自分から「もう一人の自分」 が頭のなかで分離して活動をはじめ、想像をやめると「もう一人の自分」も消 えてしまうのです。

584 唯物論哲学 対 観念論哲学(7)
もう一人の自分(2) 診断・仮説・推理
2006年8月20日(日)


 眠って夢を見ているときも、覚醒になにかを想像しているときも、現実の 自分から分離して独自の活動をしている「もう一人の自分」のあり方は、 自分自身の現実の世界での生活経験を通して形成してきた感性や現実の世界 についての認識によっている。実際の生活経験とは無関係にアプリオリ(先天的に)に持って いる何かが現れてくるわけではない。
 例えば前回の例で言えば、現実の自 分はシッポだけを見ているのに、「もう一人の自分」が障子に隠れている ネコの全体像を想像できるのはそれまでの生活経験でそのようなシッポを 持つネコを見たことがあるからです。そしてその想像が正しいかどうかは 障子を開ければ明らかになる。

 しかし、想像したことが正しいかどうかを現実に直接にぶつかって確かめる ことの困難な場合もいろいろある。たとえば、熱が出たり身体のどこかが痛 かったりしたとき、原因は想像することができても障子を開けるように簡単に 身体を開くわけにはいかない。

 からだのなかを見るとき、医者は聴診器を使って耳で聞いたり、レントゲン 写真を撮影してながめたり、心電図をとって心臓の活動をしらべたりして、そ れらを材料にして「もう一人の自分」になります。そしてどこに病気があるの か、なにが原因なのかを、慎重に読みとろうと努力します。こうして生れたも のが診断です。医者の診断は、現実の病人が与えてくれるいろいろな 手がかりと、それまでの医者としての経験や知識とがむすびつくことによって、 「もう一人の自分」がつかんだ結論です。しかし医者の経験が不足で知識も欠 けていると、「もう一人の自分」としての能力が低くて、やぶにらみの結論を 出す結果になり、「ヤブ医者」といわれることになるでしょう。

自己分裂2

 科学者が使う顕微鏡や望遠鏡も、「もう一人の自分」が活動するための道具 です。そしてこの「もう一人の自分」は、小さな小さな原子のなかに自分を 位置づけて、その構造をながめたり、大きな大きな宇宙をひと目で見られると ころに自分を位置づけて、新しい星の発生や古い星の消滅をながめたりしてい ます。現実の科学者は、過去の人間のまだ発生していない地球や、未来の人間 のすでに消滅してしまった地球を見ることはできなくても、「もう一人の自分」 として簡単にそれらを見ています。科学者が、まだ学問的に明らかになってい ない問題について、仮説を立てるのも、医者の診断と同じように、 「もう一人の自分」として活動しての結論です。

 犯罪事件は過去のできごとなので、現実の人間がそれをまた見ることはでき ません。しかし探偵は、現実のなかに発見したいろいろな手がかりと、それま での経験や知識とをむすぴつけて、「もぅ一人の自分」になり、頭のなかの夢 として事件を再現しこれを検討して犯人を見つけます。この「もう一人の自 分」の能力がすぐれているならは「名探偵」、能力がひくければ「へボ探偵」 といわれるわけです。


 観念論的な思考を押し通していくと、その思想には必ずどこかで現実の世界 との食い違いが生じてくる。そのほころびを取りつくろおうとするとき、観念論 を放棄しない限り、どうしても神がかりにならざるを得ない。その結果はヤブ 医者の誤診やヘボ探偵の迷推理と同じ過ちを犯してしまうことになる。ただし、 この場合は当人の能力に問題があったのではなく、用いている道具が欠陥品な のです。

 優秀な観念論者がたくさんいる。だが彼等は道具の欠陥を認めようとし ない。自分は優秀であるという自画自讃の意識が妨げになっているのだろう か。あくまでも自分の神がかり哲学を正しいと言い張る。優秀なものほど度し 難いということもある。

585 唯物論哲学 対 観念論哲学(8)
もう一人の自分(3) 鏡を見ている自分は誰?
2006年8月21日(月)


 いまあなたは鏡の前に立っている。鏡の中の自分を眺めて、いい顔だなあ、 とほれぼれとしている。が、実はあなたが見ているのはもちろん現実のあなた ではなく、あなたの映像です。しかもその映像は現実のあなたとは左右が逆 になっている。あなたの右手の映像は鏡の中の映像では左手になっている。 こころみに鏡の中に入っていって、あなたの像の後ろに立ってみてください。 もちろん実際に鏡の中に入っていくことはできない。想像するだけです。 どうでしょうか、鏡の中に入っていたあなと鏡の中の像はピッタリ一致し ましたか。左右逆ですね。私たちは鏡で自分を顔を見ることはできない。鏡 で見ることができるのは左右逆になった顔の映像です。

 けれども私たちは、この鏡に写った自分を、映像ではなく、そこに現実の自 分がいると想像することができる。「いい顔だなあ」と自己満足に浸ってい るときは、まさに映像を実際の自分と考えているわけです。この場合はこちら 側の自分が「もう一人の自分」ということになる。

自己分裂3

この場合の「もう一人の自分」は、自分以外のどんな人間にもなれる。あなたは デートに出かける準備で鏡に向かっている。デート相手のようこさんの目にど う見えるだろうかとこころくばりしながらネクタイを直している。このときは 「もう一人の自分」はようこさんになっている。ようこさんの目で現実の自分 をながめていることになる。

 写真はレンズを通した映像を固定して記録したものです。自分の写真を見て いるときの自分と「もう一人の自分」との関係も、鏡の中の自分を見ていると きと同じです。

 写真に固定されているのは映像ですが、それを現実の自分だと考えるなら、 そのときにはむこうがわに赤ちゃんの自分がいて、それを見ているこちらがわ の自分は「もう一人の自分」になっています。写頁を写したのは、十年前のお 父さんでした。お父さんが赤ちゃんの自分にカメラを向けて、お父さんの目で とらえた自分のすがたをフィルムの上に固定したのです。それゆえ、赤ちゃん の写真を見ている「もう一人の自分」は、十年前のお父さんになって、その目 で赤ちゃんの自分を見ていることになります。こうして見ているうちに、「も う一人の自分」の心のなかにそのときのお父さんの気もちがよみがえって、胸 が痛く感じられるかもしれません。お父さんの体験をくりかえしているからで す。

 千年も千五百年も昔の人がのこした文章を、現代の私たちが読んで心を打た れるのはなぜでしょうか?そこにならんでいるのは印刷した文字としか見えま せんが、それはその文章を書いた筆者の精神の鏡だからです。その筆者の美し い心のありかたを写しとって、固定し保存しているからです。私たちは「もう 一人の自分」になってその鏡に接しながら、その書かれたときの筆者の心のあ りかたがもう一度自分の心によみがえるよう努力します。このようにして、筆 者の心が読む人びとに伝えられ、読む人びとを感動させることになります。

 これも、お父さんの写真の場合と同じように、それをつくり出した人の体験を くりかえすことです。これを追体験とよびますが、芸術を鑑賞するとい うことはこの追体験を正しく行うよう努力することにはかなりません。「もう 一人の自分」について正しく理解できないと、追体験という問題も理解できな くなります。

587 唯物論哲学 対 観念論哲学(9)
もう一人の自分(4) 小説を読んでいるのは誰?
2006年8月23日(水)


 コイズミ愚行狂騒曲がやっと治まったと思ったら、今度は高校野球だ。 早稲田実業高校と駒大苫小牧高校の決勝戦では全マスコミが狂騒の極 に達していた。私のおへそはもともと曲っているいるが、こういう時はさ らにあらぬほうへと曲っていく。特に「勇気をもらった。」などという ステレオタイプの感想を興奮してのたまう言説にはうんざりする。 全力を尽くして競技に熱中する選手たちが織り成すドラマをひととき 夢中になって楽しんだ。それがけで良いではないか。それ以下でも それ以上でもない。何故それ以上の意味づけをしたがるのだろうか。 へそ曲がりの私には全くげせない。

 ところで、野球の中継に夢中になっている私は現実の自分ではなく、 「もう一人の自分」であり、その自分は茶の間にはいない。球場の中の観客 のひとりとなって手に汗握って試合の経過を追っている。スロービデオを 見るときの「もう一人の自分」は、きわどいクロスプレーを仔細見逃さす に見定めることができる超能力の持ち主にもなっている。

 人はいろいろなものに夢中になれる。小説、映画、ドラマ、学問…。これらに 「夢中になる」とはどういうことなのか。

 小説にしても、映画やテレビのドラマにしても、作者は一つの夢の世界を つくりあげて私たちに提供しているのです。映画の撮影所やテレビのスタジ オなどは、「夢の工場」とよぷのがふさわしいと思います。

 私たちは、こうしてつくられた夢の世界に入りこみ、そこで作者が体験した ことを私たちなりにまた体験して、泣いたり笑ったり胸をドキドキさせたりす るのです。けれども、現実に生きている自分のままでは、その提供された夢の 世界に入りこんで体験をくりかえすことができません。現実の自分の目に見え るのは、紙の上にインクで印刷された文字であったり、映画館のスクリーンの 上に映写された映像であったり、テレビのブラウン管の上に写った映像であっ たりするだけで、夢の世界ではありません。

 作者のつくり出した夢の世界は、たしかに作者の頭のなかに存在していたの ですが、すでにその夢の世界そのものは消えてしまって、その夢の世界に入り こむ手がかりとして文字なり映像なりが提供されているのです。

 ですから、かつて存在していた夢の世界に入りこむには、現実の自分から 「もう一人の自分」が分離して、これが活動しなければなりません。現実の 自分がテレビのブラウン管に見るのは、チョンマゲをつけた俳優大川橋蔵の 映像ですが、「もぅ一人の自分」はこれを明神下の銭形平次と受けとってこ の平次の活躍する夢の世界に入っていきます。

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 そしてこのときには、現実の自分としてブラウン管をながめようとはしない で「もう一人の自分」としての体験に努力しているので、現実の自分に同じ 現実の母親がなにかよびかけたとしても、なにをいわれたのかよく聞こえませ ん。文字どおり「夢中」になって現実ばなれしているからです。

 「もう一人の自分」は、外から自分のなかへ入って来たのではなく、現実の 自分がかたちを変えて分離したのですから、現実の自分の体験や能力を生かし て活動するしか方法がありません。夏目漱石の小説『吾輩は猫である』を読む ときには、「もう一人の自分」は猫にならなければなりませんが、これもかた ちだけの猫で、実際に猫になったのでは文章を読むことさえできません。

 与えられた作品を「もう一人の自分」として体験したり知識を身につけたり した場合にも、それはつぎに現実の自分にひきつがれ、現実の自分を成長させ ることになります。こうしてすぐれた芸術は、追体験によって現実の私たちの 成長に役立つのです。

 現実の生活での体験だけでは人間は十全な成長を遂げられない。人間は自然 を逸脱してしまったドウツブです。人間は先人が積み上げてきた観念の世界を 正しく(ヽヽヽ)受け継いでよりましな人間となる。「もう一人の自分」の観念の世界での体験も現実の自分が成長していくための重要な糧となる。
588 唯物論哲学 対 観念論哲学(10)
もう一人の自分(5) 他者は「私」の鏡
2006年8月24日(木)


 自分以外の他者も自分と同じ人間として同じような一生をすごす。したがって、 他者は自分にとって鏡と同じ役割をしてくれる。

 ガラスの鏡は.現実の自分をある空間的な距離から、「もう一人の自分」に なって客観的にながめるための道具の役割をする。これに対して、他者は現実 の自分を過去や未来のある時間的な距離から、「もう一人の自分」になって客 観的にながめるための道具になる。

 人間の精神活動は胎児のときから始まっているといわれている。しかし、 胎児期から乳児期までの体験の記憶は、普通は残らない。おそらく無意識の 底にはその痕跡が残っているのだろう。

 自分が生まれたときの様子そのものを直接知るすべはないが、今生まれて きた赤ちゃんが身近にいれば、鏡に写っている自分の像を見るときの「もう 一人の自分」の時と同じように、その赤ちゃんを現実の自分として見ること ができる。そのときの「もう一人の自分」は当時の父親あるいは母親という ことになろう。

 お父さん・お母さん・お兄さん・お姉さんなどの現実の生活も、自分が同じ ような年ごろになったらどんな生活をするかを知るための道具となります。こ れも、未来の現実の自分の生活を、「もう一人の自分」になって客観的になが めることです。そのときに「こういう父親に自分もなりたい。」「ああいう母 親になるのはいやだ。」などと、「もう一人の自分」として感じたことが、つ ぎに現実の自分にひきつがれ、毎日の生活態度や心がまえに影響していきま す。

 夜中になにか大きな声でどなりながらヨツパライがフラフラとあるいている のを、父親が見て、「もし自分があんなみっともないことをしたら、子どもは どう思うだろう。」と考えたとしましょう。このとき父親はヨッパライを現実 の自分として考え、「もう一人の自分」は自分の子どもになって父親のすがた をながめているわけです。

自己分裂5

 ガラスの鏡を見て、そこに自分のすがたをながめ、みっともないと思ったと ころをなおすように、自分以外の人たちの現実の生活も一つの鏡として、そこ に自分のすがたをながめ、「もう一人の自分」としてみっともないと思うよう なことはしないよう努力することが、正しい生活態度です。これを昔の人は、 「ひとのふり見てわがふりなおせ。」といいました。

 私たちは「もう一人の自分」になることによって、自分以外の人たちに自分 のすがたを見るだけでなく、その「もう一人の自分」は自分以外の人たちにな ることができます。現実の自分がいやなことは、「もう一人の自分」にとって もいやなことで、自分以外の人たちもいやなことだろうと想像できます。これ を昔の人は、「わが身をつねってひとの痛さを知れ。」といいました。

 昔の人も経験から、「もう一人の自分」になって考えることの重要性を知っ ていたわけですね。


 チョッと横道に。
 生まれたときの記憶だあると言っている人がいる。三島由紀夫です。

 どう説き聞かされても、また、どう笑い去られても、私には自分の生れた 光景を見たという体験が信じられるばかりだった。おそらくはその場に居合 わせた人が私に話してきかせた記憶からか、私の勝手な空想からか、どちら かだった。が、私には一箇所だけありありと自分の目で見たとしか思われな いところがあった。産湯を使わされた盥(たらい)のふちのところである。 下したての爽やかな木肌の盥で、内がわから見ていると、ふちのところにほ んのりと光りがさしていた。そこのところだけ木肌がまばゆく、黄金(きん) でできているようにみえた。ゆらゆらとそこまで水の舌先が舐めるかとみえ て届かなかった。しかしそのふちの下のところの水は、反射のためか、それ ともそこへも光りがさし入っていたのか、なごやかに照り映えて、小さな光 る波同士がたえず鉢合せをしているようにみえた。

 ――この記憶にとって、いちばん有力だと思われた反駁は、私の生れたの が昼間ではないということだった。午後九時に私は生れたのであった。射し てくる日光のあろう筈はなかった。では電燈の光りだったのか、そうからか われても、私はいかに夜中だろうとその盥の一箇所にだけは日光が射してい なかったでもあるまいと考える背理のうちへ、さしたる難儀もなく歩み入る ことができた。そして盥のゆらめく光りの縁は、何度となく、たしかに私の 見た私自身の産湯の時のものとして、記憶のなかに揺曳(ようえい)した。 (「仮面の告白」より)


 三島は産湯をつかわれたときの「盥のゆらめく光り」の記憶を、確かな記憶 なのだと言っている。それが本当に生まれたときの記憶なのかどうか、 知るすべはない。しかし、もし本当のことだとすれば、稀有のことと言わねば なるまい。

 この三島の「生まれたときの記憶」を「心とは何か―心的現象論入門」で吉本隆明 さんが取り上げている。

 ぼくはこの光景は、違う光景なんだとおもいます。相当重要な光景のような 気がします。つまり、これは乳児期の問題を逆に胎児期のところに拡大してい ったばあいに、このことはとても重要なことのような気がします。気がするだ け、といったら気がするだけなんですけれども。(笑)たぶん、胎内から出る とき、膣の所の明るい光が見えたのだとおもいますが、確認はできません。

 乳児期と児童期が人間の生涯にとって非常に重要な時期であることを示す 「症例」としてルソー、太宰治、三島由紀夫を取り上げて行っている論述の中 の一文でした。