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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
564 「創価学会」とは何か。(6)
教育団体から宗教団体へ
2006年7月30日(日)


 1940年に牧口が会長に就任したころから創価教育学会は教育団体から宗教団体 へと変貌していった。「創価教育学会規的要項」では活動の目的を「本会は日蓮正宗に伝わる無上最大の生活法たる三大秘法に基き、教育・宗教・ 生活法の革新を計り、忠孝の大道を明らかにし、以て国家及び国民の幸福を進 めるを目的とす」としている。

 また会員の結束と拡大を図る方法として「生活革新実験証明座談会」と呼ばれる方法を 採用し、それを重視した。これは会員が少人数で集まって、信仰をもつことで得た利益や法罰の 事例を報告しあう座談会である。この座談会は今日の創価学会にも受け継がれ、 きわめて重要な意味をもっている。

 機関誌においても、安産が多いことや死相が美しいこと、牧口の指導で酒好き がやんだことや、他の宗教を信仰していたがために病気になった事例などが紹介 されていたという。これはもう現世利益で信者を釣り上げる仏教教団となんら変わらない。

 1942年11月 第五回総会(神田の一ツ橋教育会館で開催)
 折伏の効果が顕著に現れる。参加者600名。会員数は4000名に及んでいる ことが報告された。支部も、東京に16支部、地方に12支部を数えるまでにい たった。

 さて、牧口は1943年に「国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ 事項ヲ流布スル事ヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者」(治安維持法第七条)と して逮捕起訴された。創価教育学会は勢力を拡大しつつあったが、牧口は日蓮 正宗の一門徒にすぎない。またその学会は「忠孝の大道を明らかにし」と うたっている。何故逮捕されるに至ったのだろうか。

 戦時体制のもとで宗教団体への統制や規制が強化されていった。国家による 宗教統制政策として押し進められていた日蓮正宗と日蓮宗の合同に牧口は反対 した。

 日蓮正宗には「謗法払(ほうぼうばらい)」という、いわば入信儀式のような ものがある。入信に際して他宗教や他宗派の本尊や神札、神棚、祠、経典、護符 などを取り除いて焼き払うことになっている。牧口はその教えに従って伊勢神宮 が配布した皇太神宮の神札「神宮大麻(たいま)」を拝むことを拒否し、 さらにはそれを焼却させた。

 しかし牧口の理論ではこれは「神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項」ではなく、 むしろ「天皇崇拝を純化確立」するものであった。この辺の事情については、 島田さんの文章をそのまま引用する。

 しかし牧口は、戦前の体制のもとで、宗教にあらずとして一般の宗教とは区別 された「敬神崇祖」の道を、日蓮仏法に背く謗法としてすべて否定したわけでは ない。第五回総会での全員座談会において、牧口は、靖国神社へ参拝する意義を 説き、それがご利益を得るためのものではなく、感謝のこころをあらわすもので ある点を強調した。現在の創価学会は、首相の靖国神社参拝に反対の姿勢をとっ ているが、それは牧口以来一貫しているとは言えないのである。

 さらに牧口は、天照大神や代々の天皇に対して、「感謝し奉る」と言い、昭和 天皇を現人神として認めた上で、「吾々国民は国法に従って天皇に帰一奉るの が、純忠だと信ずる」とさえ述べている。では、なぜ神宮大麻を拝むことを拒否 するかと言えば、それは、天皇とともに天照大神を祀ることは二元的になり、天 皇に帰一したことにならないからだというのである。

 牧口は、現人神としての天皇を崇拝するという当時の風潮を否定しておらず、 むしろ純粋な天皇崇拝を確立するために、神宮大麻を焼却したのだった。彼は、 その行為が皇室を冒涜するものになるとは考えなかった。ところが、日蓮正宗 の宗門の側では、牧口らを本山に呼び、神宮大麻を受け入れることを勧め、創 価教育学会員の大石寺への参詣を禁止したが、牧口はその勧告を受け入れなかっ た。


 このくだりで私は宗教者の戦争責任ということを考えざるを得なかった。もちろん それは宗教界に限らない。言論界・文学界・芸術界・教育界・宗教界…要するに 国中上げて国家権力になびいていったのだ。そしてどの分野でも多くの身過ぎ世 過ぎには敏い愚物が、その戦争責任を曖昧にしたまま、180度転回した戦後の状況にも、 うまく便乗して生き残った。天皇教もほとんど無傷で「平和」の仮面をかぶって 残った。いままた同種の愚物どもが一斉に回れ右をして、仮面の下の天皇教再興 を熱烈に望んでいる。冷静沈着な思考を持続して流れに棹さそうとするまともな 人のなんという少なさよ。
 と、ついまた愚痴が出てしまった。が、元気出していこうか!!
565 「創価学会」とは何か。(7)
「創価教育学会」から「創価学会」へ
2006年7月31日(月)


 牧口は収監中(1944年10月)にただ一人残っていた男子、三男の洋三を失った。中国での戦病死 だった。牧口自身もその年の11月に病監で獄死した。享年73歳。洋三の死が相当な ショックだったのだろう。
 牧口の死はいわゆる殉教だ。宗教教団では殉教した指導者は神格化されるのが普通だが、 そのようなことは行われなかった。創価教育学会が教育団体の要素をまだ根強く持っていた ためだろう。つまり牧口はあくまでも教祖ではなく教育研究団体の指導者だった。

 牧口が治安維持法違反で逮捕されたとき、創価教育学会の主な幹部も逮捕されている。 には、彼も逮捕されている。ほとんどの幹部たちはほどなく転向して釈放されたが、 戸田城聖と矢島周平の二人が信仰を貫いて1年7ヶ月あまりを拘置所に収監された。 後に牧口は第2代会長に、矢島は第2代理事長となる。

 敗戦直前に保釈された戸田は、敗戦の翌年1946年3月に創価教育学会を創価 学会と改称する。この改称は教育団体ではなく宗教団体なのだという宣言とも 受け取れる。東京拘置所に収監中に戸田が体験下とされる一種の宗教体験が その決断の大きな理由の一つだったと思われる。その体験を創価学会公式ホーム ページでは次のように述べている。
『獄中にあった戸田は1944年(昭和19年)の元朝から、毎日1万遍の唱題(南無妙 法蓮華経と唱えること)に励み、法華経全巻を読み進めていきました。
 法華経を3回繰り返し読み、4回目に入ったとき、一つの壁に突き当たりまし た。それは法華経の序説(開経)にあたる無量義経徳行品第一の一節でした。 「其の身は有に非ず亦無に非ず因に非ず縁に非ず自他に非ず……」と34の 「非ず」が並んでいる個所です。 「其の身」が仏の身を指していることは理解 できましたが、34もの否定が何を表現しているのか分かりませんでした。“この 文は何を意味しているのか” ――戸田は深く悩み、唱題しては思索し抜く中、 3月のある日、「仏とは生命である。自分の命にあり、また宇宙の中にもある、 宇宙生命の一実体である」と直観したのです。
 その後も法華経を読み続けるなかで、戸田は、仏から末法の広宣流布を託さ れた「地涌の菩薩」の一人であるとの使命を深く自覚するとともに、生涯を広 宣流布に捧げる決意を定めたのです。』

 この体験は、のちに「獄中の悟達」と呼ばれるようになる。この体験がその後に 戸田が展開することになる「生命論」の基盤になったとされている。

 しかし「獄中の悟達」ついては島田さんは次のように疑義を呈している。

 ただし戸田自身は「私は二百万べんの題目も近くなって、不可思議の境涯を、 御本仏の慈悲によって体得したのであった。その後、取り調べと唱題と、読めな かった法華経が読めるようになった法悦とで毎日暮らしたのであった」と述べ ているにすぎない。
 獄中の悟達にあたるような記述は、彼の著作として1957年に妙悟空の筆名で 刊行された『人間革命』に出てくるだけである。まとまった著作のない戸田が、 小説を書き上げることができたとは思えず、獄中の悟達は、小説を代作した人 間の創作であった可能性がある。

 戸田城聖については深入りせずに、ここから梅原さんの「生命論」批判に戻ろ うと思っていたが、この戸田という人がかなり面白い人物なのでもう少し戸田に ついても、主に牧口との関係を軸にその略歴をまとめてみたい。もちろん体なる ヤジ馬的な興味ではない。「創価教育学会」から「創価学会」へと改称は単なる 改称であるわけはなく、そのとき教団の基本的な理念も変わったはずである。 その変化の要因と内実を探る意味がある。
567 「創価学会」とは何か。(8)
実業家・戸田城聖
2006年8月2日(水)


 戸田城聖。1900(明治33)年生れ。本名は甚一。二歳のとき、一家は石川県の漁村から 北海道の厚田村に移住。青少年時代を北海道で送ることになる。

 小学校を出た後、札幌の商店で丁稚奉公をしながら北海道札幌師範学校(北海 道尋常師範学校を改称・牧口もここで学んでいる。)で学び、尋常科准訓導の資 格を取る。
 1918(大正7)年、夕張の真谷(まやち)地炭鉱の小学校で代用教員となる。 牧口と同様に教師としてスタートした。

 1920年3月。戸田は20歳。上級の学校への進学を目指して退職、上京する。 東京へやってきて戸田は、まず何をしたかというと、なんと兜町の株屋街で有り 金すべてを使って株を購入した。数日後に株価は暴落。株式取引所が休場。戸田 は財産のほとんどを失った。
 戸田は一応教育者であったが、投機や金もうけの方に大きな関心があったようだ。 これが戸田が会長となった後の創価学会の歩みに大きな影響を与えることになる。

 戸田は、その直後の4月に人に紹介され、牧口とはじめて会っている。牧口は そのとき西町尋常小学校の校長をしていて、たまたま欠員があったことから、 戸田を代用教員として採用した。
 牧口が三笠尋常小学校に転任になると、戸田もともに転任した。次に牧口が 白金尋常小学校に転任になったとき、戸田は代用教員を辞めている。戸田は、 その間に高等学校入学資格検定試験に合格していた。しかし、戸田は高等学校 に進学するための経済的な余裕がなく、生命保険の外交員になっている。

 教員を辞めてから牧口とのつきあいはあった。牧口から学習塾をやること勧められた 戸田は外交員を辞め、関東大震災後の1923年12月、目黒駅の近くに「時習学館」 という学習塾を始めた。このときあわせて戸田は、本名の甚一から城外と名を変えている。

 当時は、まだ受験産業の確立されていない時代で、時習学館はその先駆けと なった。1929(昭和4)年からは、中学受験のための公開模擬試験をはじめ、試 験の成績から志望校に合格する可能性を割り出すシステムを作り上げた。 これが大当たりして、隔週に行われる模擬試験には千名単位の生徒が殺到したとい う。

 1930年には、『推理式指導算術』という受験参考書を出版する。これはベス トセラーとなって版を重ね、発行部数は百万部を超えたと言われる。
 島田さんは、鶴見俊輔が戸田の作った算数や国語の参考書に助けられたと述べ ていることを記している。また、鶴見さんの友人のなかには、実際に時習学館で学ん でいた者もいたという。鶴見さんのエピソードもさりながら、戸田の塾の繁盛振 りがうかがえる。(鶴見さんの姉上の鶴見和子さんの訃報が今朝の新聞に載ってい た。)

 この成功を機に戸田は、出版社や食品会社に出資し、手形割引の会社を作った り、証券界に進出を試みたりした。最盛期には十七の会社を運営し、月収は一万 円を越えたとも言われる。
 ちなみに、1930(昭和5)年の物価を調べたら白米10kgが2円30銭とあった。 現在のお米の値段は10kgで5000円ぐらいだろうか。単純にお米の交換価値=貨 幣価値というわけにはいかないことを承知で単純計算してみると、戸田の年収は 約2000万円となる。戸田は教育者や宗教家ではなく「実業家」と呼ぶのがふさわしい。

 戸田は事業にだけ精力を注いでいたわけではない。創価教育学会の活動も行っていた。 牧口が日蓮正宗に入信した直後、戸田も入信している。創価教育学会の機関誌 「新教」も戸田が設立した出版社(日本小学館)から刊行し、自ら編集兼発行人 となっていた。戸田は、牧口の宗教活動を財政面から支え続けていた。

568 「創価学会」とは何か。(9)
「生命論」批判(1)智顗の「五時八教」説
2006年8月3日(木)


 日蓮はシャカが語った無数の教説のうちで法華経を唯一の正しい教説として 独自の宗派をつくった。この日蓮の教説を継承している既成教団は大石寺を本山と する日蓮正宗、身延山を本山とする日蓮宗、その他顕本法華宗、法華宗(陣門流)、 法華宗(本門流)などがあり、新興宗教としては霊友会、立正佼成会、創価学会 がある。
 既成宗教のうちでは日蓮を正しく継承していることを強く主張しているのが日蓮 正宗であり、日蓮正宗によると既成・新興を問わず他の全ての宗教は邪教である。 宗教教団同士は、程度の差はあっても、お互い邪教呼ばわりしあっているのだろ うが、日蓮正宗が一番過激なようだ。
 創価学会の教義はこの日蓮正宗による日蓮解釈によっていた。つまり創価学会は、 日蓮正宗の教義・信仰を逸脱したとして、1991年に日蓮正宗に破門されるまでは 日蓮正宗の門徒集団だったということになる。

 このように、新新宗教の教義が古今東西の既成宗教の教義のゴッタマゼの創作 物なのに対して創価学会の教義はもっぱら日蓮の教説よっている。従って創価学会 の「生命論」の批判は、まずは日蓮の「生命論」そのものの批判ということにな る。
 まず、シャカの無数の教説のうちから唯一の正しい教説として、日蓮がなぜ 法華経を崇拝するに至ったのか、その理由を簡単にたどってみる。

 日蓮は天台宗比叡山で修行している。その天台宗は周知のように伝教大師最澄 が開いた宗派だ。そしてその教義は中国天台宗の大成者・智顗(ちぎ)の教義に もとづいている。

 この智顗という人、多くの宗教家にとってあこがれの人のようだ。大川隆法の誇大妄想の中に登場していた。

『いまから一千数百年前に、天台智顗が、中国の天台山で一念三千論を説いてい たのですが、そのとき、霊天上界において、彼を指導していたのは、実は、ほか ならぬこの私でした。』(「540 新新宗教批判(7)」参照)

 智顗は南北朝から隋の時代にかけて活躍した僧で、浙江省東部の天台山で 暮らしていたので天台大師と呼ばれている。
 「第553 新新宗教批判(19)」で触れたように、大乗仏教の諸経典は シャカの死後数百年後に成立している。智顗の活躍した頃、中国にはその おびただしい量の経典が移入されていて、僧たちはそれらの経典を分類整理し、 体系づける必要に迫られていた。この文献整理のことを「教相判釈(きょうそ うはんじゃく)」略して「教判」という。

 当時は十宗以上の宗派が林立してその「教判」の優劣を競い、経典整理は 混沌としていた。それに決着を付けたのが智顗だった。
 智顗は「五時八教説」を唱えて経典の優劣を定めた。それはシャカが教化 活動をしたおよそ五十年間を五つの期間に分け、その五期に八つの重要な経典を 配列し優劣をつけた。そして最後に『法華経』こそがシャカの真実の教えであり、 他は方便のための経典だと主張した。その主張は他の思想を凌駕し、中国に渡った伝教大師最澄をも 魅了したというわけである。

 この「五時八教説」に関連して梅原さんは次のように創価学会を批判している。

 よくもまあ数百年にわたって作られた仏教をうまく体系的に整理したものだ と思われるが、とにかく数百年にわたって書かれた経典をシャカの一生にあて はめたわけであるから、どんなにうまくあてはめても、無茶な話であることに 変りはない。

 この教判によって法華経こそはシャカの正説であるとされたが、日蓮はこの 天台の教判を固く信じて、法華経だけがシャカの正説であり、あとはすべて権 教、仮りの教え、方便の教えに過ぎず、したがってあくまで法華経を中心に仏 教を考えることこそ仏教の正法であり、他の経典を中心におくのはすべて邪教 であると考えたわけである。

 文献学の発展しなかった頃の日蓮が、天台智顗の、このみごとにしてしかも 強引な分類をそのまま真理としたのは仕方がないとしても、明治以後の原典批 判にすぐれた業績をあげた仏教学の成果を持つ現代という時代の宗教である 創価学会が、五時八教をそのまま採用しているようにみえるのはどうしたわけ であろう。創価学会では、科学と宗教は矛盾しない、迷信を信じるキリス ト教や他の仏教は科学と矛盾するが、日蓮正宗創価学会だけは矛盾しないと、 呪文のようにつぶやいているが、そんなのん気なことは言っていられないの である。すでにここで教義の基礎が近代科学の成果である文献学と矛盾して 来ているではないか。

569 「創価学会」とは何か。(10)
「生命論」批判(2)法華経・寿量品
2006年8月4日(金)


 日蓮の教義に深入りするつもりはないのだけれども、創価学会の生命論批判 のために必要な最小限の知識を仕入れておくことにする。

 手元に岩波日本古典文学大系の「親鸞集 日蓮集」がある。日蓮集の中の 「開目抄」を読んで…いや、とてもまともに読む気はしない。日蓮による 法華経解釈の根幹と思われる部分を拾い読みした。

『この経に二十の大事あり。(中略)一念三千の法門は、ただ、法華経の本門、 寿量品の文の底にしづめたり。竜樹(りゅうじゅ)・天親(てんじん)知て、 しかもいまだひろいいださず、ただ、我が天台智者のみこれをいだけり。』

 竜樹と天親はインドの大学僧で、天台智者とはもちろん前回登場の智顗のこ と。寿量品に隠されていた重要な教義「一念三千」を智顗だけが見出している という。

『ここに、予、愚見をもて、前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに、その 相違多しといえども、先ず世間の学者もゆるし、我が身にも、さもやとうちを ぼうる事は、二乗作仏(にじょうさぶつ)・久遠実成(くをんじつじょう)な るべし』

 前回解説した「五時八教」でのシャカの人生50年の五区分を、法華経に割り 当てた最後の8年と、それ以外の経典に割り当てた先の42年に分けて「前四十余年 と後八年」と言っている。法華経が他の経典と違って優れている点は「二乗作仏」と 「久遠実成」という教義2点のゆえだと言っている。

 どうやら日蓮は法華経の中の「寿量品」を重視している。また日蓮による法華経解釈の キーワードは「一念三千」「二乗作仏」「久遠実成」の三点のようだ。この三点は 法華経の優れていることを説く場面で繰り返し繰り返し出てくる。
 「寿量品」重視のことと三つのキーワードについては、梅原さんの解説に頼ること にする。

 が、その前に「寿量品」を読んでおくことにする。(気まぐれの思い付きで す。煩わしければ飛ばして下さい。)
 筑摩の世界古典文学全集の「仏典Ⅱ」の口語訳の法華経から、「寿量品」を 全文掲載することにした。長いですが、興味のある人は読んで みて下さい。有名な「名医のたとえ話」が含まれています。

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