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539 新新宗教批判(6)
道徳宗教
2006年6月30日(金)


 宗教の信仰者たちは私にはバカバカしいとしか思えないような教祖の描く 世界図式や天地創造説を本当に信じているのだろうか、多くの信者はその 辺のことは本当はどうでもよいよ思っているのではないかという疑問がいつも 残る。
 天理教の場合、その教義のキーワード「陽気ぐらし」「出直し」「いんねん」 「もらいうけ」などに信者一人一人がそれぞれの人生に裏打ちされた違った思 い込みをこめることによってその信仰が成り立っているのではないか。そして 実際の生活おいては次のような通俗的な道徳説教をよりどころにしているだけ のように思える。

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 人は、何事も自分の勝手になるものと思い、とかく、自分一人の苦楽や利害に とらわれがちになります。このような自己中心的な心づかいは本人にとっては都 合がいいかもしれませんが、まわりの人々、また世の中の迷惑、苦悩の原因とな ります。人間は、兄弟のように仲良く助け合って暮らすのが本来の姿ですから、 私たちお互いは自己中心的な心づかいを慎むようにしなくてはなりません。親神 は、このような心づかいを、「ほこり」にたとえて諭されています。

 「ほこり」は、吹けば飛ぶほど些細なものです。早めに掃除さえすれば、たや すくキレイに払えますが、油断をすれば、いつしか、うずだかく積りかさなり、 遂には、シミのようにこびりつき、掃いても拭いても、取り除きにくくなるもの でもあります。  心づかいも同じです。ちょっとちょっとの「ほこり」の心づかいが知らない 間に心の習慣、つまりくせ、性分になってしまうのです。こうなる前に日頃から 慎んだ心づかいを心掛けることが大切なのです。

 「ほこり」の心づかいを反省する目安として、をしい、ほしい、にくい、かわ い、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八種を挙げられています。又、うそと ついしよ(心にもないおべっかいをつかうこと)も「ほこり」になります。

おしい
人のために心をつかったり、体を使うこと惜しむ心づかい。物を貸したり、お金 を払うことを惜しいと思い、また、手助けをするための労を惜しむなど、すべて に出し惜しみ、骨惜しみすること。
ほしい
必要なものは与えられているのに、満足しないで、もっとほしいと思う心づか い。人が持っているものを見てはほしいと思い、働かないのに見返りをもとめ たがり、むやみにほしがること。
にくい
理由もないのに、自分の気に入らないからといって人を嫌ったり、相手に過ち があった、失礼だといっては人をにくんだり、すべてに自分のわがまま・気ま まから人をにくむ心づかい。
かわい
かたよった愛情をもったり、自分さえよければ他人はどうでもよいと思う心づ かい。分けへだてをして、特別 な人だけに親切にしたり、自分やわが子、わが 家のことばかり考える利己心。
うらみ
じゃまされたといって人をうらみ、不親切だといって人をうらむ。自分の努力 が足らないことを反省しないで相手をうらむこと。また、他人の幸福をねたむ 心づかい。
はらだち
人が、気に入らぬことを言ったといって腹を立て、おもしろくないからといっ て、つまらないことに腹を立てる心づかい。広く大きな心をもたず、人を許せ ることのない気短な心。
よく
自分中心で、なんでも自分のものとしようとする心づかい。人の目をだまして も、取れるだけ取りたい、無理なもうけを得たいなどと、あるが上にもいくら でも取りこむような心づかい。
こうまん
知らないことも知っているふりをしたり、自分は人よりも偉いいとうぬ ぼれ たり、自分の意見はどんなことがあっても通すが人の意見はきかず、人の欠点 をあばこうとしたりする心づかい。

その他に 「うそ」と「ついしょ」というほこりの心づかいがあります。とも に慎まなければなりません。
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 だれもが実生活のさまざまな場面において心の中で決断したり恥じたり居直ったり しながら格闘している徳目ではある。しかし、現実の悲惨な生活に目をつぶる ことによって「陽気暮らし」が呼び寄せられたように、現実の社会的経済的諸 関係のまがまがしい実態に目をつぶることによってしかこのような徳目の ご託宣はなしえない。
 このような宗教を「道徳宗教」と呼ぶとすれば、もう一つの典型的なタイプ は「世直し宗教」と言えよう。

 論考「新興宗教について」の結語部分で、吉本さん次のように書いている。

 新興宗教(土俗宗教)とよびうるものは、じつさいに教祖の数だけある。別言 すれば、入眠体験を宗教化しえた<女性>の数だけあるはずだが、そこにおのず から教義としての高低と強弱があるのは、その教祖たる<女性>の入眠体験に、 どれだけの生活思想的な根拠が存在するかに左右されるといってよい。これは、 あらゆる宗教が、教祖の創りあげた馬鹿らしい神話と教義に理論的な意味をあた えたにすぎないか、あるいは大和教(天皇制)のように現実社会の政治的支配 に乗りだして成功したかに依存しているとしても、それとは無関係な本質的な 問題であるといっていい。

(中略)

 あらゆる宗教ははじめに荒唐無稽である。あらゆる国家が、はじめに荒唐無稽 であるように。しかしこの荒唐無稽さは、いつも信仰者の恣意 的な解釈をゆるすようなあいまい(ヽヽヽヽ)さと多 義性をもっている。そしてこのあいまい(ヽヽヽヽ) さと多義性によって、宗教や国家はいつも知的な理念を附与することができる 伸縮自在な容器に転化するといっていい。大はヘーゲルのような優れた哲学者か ら、小はどこにでもころがっている亜インテリにいたるまで、この容器にいわば 美酒を盛りこもうと志向することができることは確かである。しかし、宗教や国 家はヘーゲルが試みたように、一般理念のひとつの形態というところまで普遍化 して理解しえないかぎり、いつも猛毒と蒙昧を含むよりほかない。このばあいに は、宗教や国家はその創始者(たち)の生活思想の質と、現実の政治的あるいは 制度的権力としての質が問われる。教祖や創始者たちの生理学的な病状よりも、 思想としての本質がものを言うのはこのかぎりにおいてである。

540 新新宗教批判(7)
パラノイアの症候例
2006年7月1日(土)


今回から「幸福の科学」を取り上げる。

 新興宗教を本を買ってまで調べようという気は起こらない。今は便利になった。 インターネットのサイトから調べることができる。天理教の世界図式や天地創造説 やお説教はすべて天理教の公式サイトに公開されていた。統一教会の公式サイト では公刊された全ての教義書がそっくりまるごと公開されている。しかし「幸福 の科学」の公式サイトには教義の「いいことも言うじゃないか」という部分の概略 だけで「ばかばかしい」部分は一言も掲載されていない。教祖のパラノイアの症候が 改善されてきて「ばかばかしい」部分を恥ずかしいと思い直したわけでもないだ ろう。「幸福の科学」では教祖の著作物を何冊か読まないと入団できない仕組みに なっているそうだから、そのためかもしれない。前回で天理教を「道徳宗教」と呼んだ が、「幸福の科学」はさしあたって「出版営利宗教」と呼ぼうか。

 というわけで、以下の「幸福の科学」の教義はすべて吉本さんが引用したものの 孫引きである。

 まず、大川隆法が体験した「神がかり」を吉本さんは次のようにまとめている。
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 1981年1月高橋信次の『心の発見―神理篇』を読みすすんでいるとき、胸が大 きく動悸し、体が前後にこきざみに揺れる状態を体験する。それから高橋信次 が説いている神理を、じぶんは以前から知っていたという心の既視感におそわ れる。

 おなじ3月23日に、幻聴で話しかけられる感じがして、カードと鉛筆を 用意すると憑依状態で「イイシラセ」と繰り返して書記している。 「おまえは、なにものか」とたずねると「ニッコウ」と自働的に署名する。 日蓮宗の日興上人のことだ。そのあと日蓮からの幻聴がきこえる。

 6月のある夜、こんどは高橋信次からという幻聴がやってきて「大川隆法よ。 今日、私は、おまえの使命をあかすために来た。おまえは今後、おおいなる救 世の法を説いて、人類を救わねばならないのだ」と告げる。

 おなじ6月に郷里からやってきた父親(善川三朗・「幸福の科学」顧問)のいるま えで、イエス・キリストからのお告げが幻聴としてやって来る。

 それ以後、大川隆法はじぶんが呼ぶと天上界のあらゆる霊が出て来るように なったと書いている。そして1986年6月に、日蓮、イエス・キリスト、天之御中 主之命、天照大神、モーゼ、高橋信次などの霊が降下して、会社勤めをやめて 神理伝道に生涯をかけよと託宣が下って、宗教法人「幸福の科学」(91年、宗 教法人承認)を設立するようになったと書いている。
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 ここで登場する高橋信次 (1927年9月21日 - 1976年6月25日)はGLA(God Light Association) という新興宗教の教祖だそうだ。真のメシアだと騒いでいた(騒いでいる)人たちが いた(いる)。まあ、初めて知る新興宗教がいっぱいあるなあ!

 さて、上記の大川隆法の「神がかり」についての吉本さんのコメント。

 わたしたち平常人の解釈では、大川隆法のこの体験はじぶんの音声にたいし てじぶんが解釈し造形したとおりの、日蓮やイエス・キリストや天之御中主之命(あめのみなか ぬしのみこと・この神は存在性をもたない)や天照大神やモーゼや高橋信次の 言葉が憑依したという以外の意味をもたない。

 またなぜこうも次元の違う人物や架空の存在の霊が降下してくるのかといえ ば、そのときどきに読んだ著書や神話や聖書などで印象がつよく刻印されたもの が託宣に現れるものだという理解になる。また天台智顗(ちぎ)や高橋信次は 特異的に択ばれているが、これは大川隆法が日蓮から日蓮の傾倒した智顗に遡っ たものだし、高橋信次は直接に「幸福の科学」の教義をつくるのに基本になった 師にあたるからだということになろう。


 宗教を取り付かれたように勉強していたことが推測できる。一種の「オタク」 だったのだろう。
 この憑依状態の体験をきっかけに大川隆法は持続的なパラノイアに特有な誇大妄想に取り 付かれる。たとえばこんな具合である。
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 いまから一千数百年前に、天台智顗が、中国の天台山で一念三千論を説いてい たのですが、そのとき、霊天上界において、彼を指導していたのは、実は、ほか ならぬこの私でした。

 私は、私の指導霊であるイエス・キリストと、愛について、よく話しをするこ とがあります。

 右にあげたことばは、いまから二千年近いむかしに、イエス・キリストが、 ナザレの地で語っていた愛の話の復元です。現在、イエスが私を指導している ように、当時は、私が天上界からイエスを指導していたからこそ、私は、彼の ことばを知っているです。
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 麻原彰晃が著書「亡国日本の悲しみ」で張り合っていた。曰く、『「幸福の科学」の 主宰・大川隆法は前世で私の弟子だった。天法金丹の法の開祖はじぶんだといいふらして、 無間地獄に堕ちた。』『大川隆法は一生前は「四国のたぬき」だった。死後は 無間地獄に堕ちる。』

 次に大川隆法の世界図式はもっと荒唐無稽だ。

 ユークリッド幾何学では実在の世界を「空間」として抽象してそれを3つの 座標軸(タテ・ヨコ・タカサ)を使って数式化する。これを3次元ユークリッド 空間と言う。そこで一般に実在の世界を「三次元世界」と呼びならわしている。
 これをさらに抽象して一般化すれば、n次元ユークリッド空間の数学ということに なる。
 物理では3次元空間に時間という第4の座標軸を加えて4次元ユークリッド空間 として物体の運動を表現する。

 大川隆法は、この4次元世界の「時間」を通って鎌倉時代のヒトと同じ場所で 出会えるとのたまう。
 ずいぶんむかしのこと、「タイムマシン」という連続テレビドラマを楽しく見たことがあ る。昨夜「戦国自衛隊」という最近の映画をテレビで見た。そういえば「バック・トウ・ザ・フ ィーチャー」という映画もあった。視聴者は「もしも歴史」の面白さを楽しんでいる。 時間を行き来することができるなどと本気で信じてみている人はまずいないだろう。 (将来科学が進歩すればそのようなことが可能になると思っている人は、あるいは いるかも知れない。)

 大川隆法のバカばなしのふろしきはまだまだ広がる。
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4次元世界+「精神」=5次元世界
 人間が物質的な肉体ではなく「精神」であることに目覚めたものの住む世界。 のことだ。

5次元世界+「神知識」=6次元世界

6次元世界+「利他」=7次元世界
 愛をもち他者に「奉仕」できるものの往ける世界。

7次元世界+「慈悲」=8次元世界
 太陽のような愛の世界。

9次元世界
 そのうえに「宇宙」の太陽系のほかの星団の霊界のことも知り、大宇宙の進化 という方向のうえで、地球系の霊団を指導している世界的宗教の人格神や根本神 の世界のことをさす。

10次元世界以上になると地上の実在の関係をもった人霊ではなく「三体の意 識」だけの存在の世界だ。その三体とは
   大日意識(地球生物の積極意志をつかさどる)
   月意識(消極的な女性的な面をつかさどる)
   地球意識(地球の生命体としての意識をつかさどる)
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 パラノイアの症候としてこのような誇大妄想のバカばなしが生まれるのは なんら不思議なことではない。不思議なのはこれを真に受けて恐れ入ってしまい のめりこんでしまう「平常者」が絶えないことである。

541 新新宗教批判(8)
「幸福の科学」の基本教義
2006年7月2日(日)


 身体と意識(こころ)を分離して別個のものとする相対的誤謬を絶対的真理であると 大前提してしまえば、意識の世界についてはまことしやかにどのようなバカ話でも 創ることが可能だ。言い直せば、その大前提は際限なき逸脱を呼び起こし全くの 誤謬の深みにはまり込んでしまう可能性を孕んでいる。
 前回私は、バカばなしを真に受けてのめりこんでしまう「平常者」が絶えない ことを不思議だと書いたが、なんら不思議なことではなかった。それらの「平常者」 は「身体と意識(こころ)を分離して別個のものとする相対的誤謬を絶対的真理 」とみなしている点でバカばなしを創りだすものと同類なのだ。

 さて、「幸福の科学」の教義の核心は何か。
 宗教の信仰の対象(本尊)は阿弥陀仏であったり法華経であったり親神であったり 、教祖以外の絶対者あるいは絶対精神であったりするのが一般的だ。ところが 「幸福の科学」の信仰の対象は大川隆法自身だというから恐れ入る。

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主エル・カンターレ──かつて、インドに釈尊として、ギリシャにヘルメスと して生まれ、人類を導かれてきた御存在です。その意識の御本体が今、幸福の科 学の大川隆法総裁として地に降りられ、全人類を救うために、仏法真理を説かれ ています。
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 「幸福の科学」の基本教義は何かというと次のように述べている。

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  幸福の科学の基本教義は、「正しき心の探究」と、その具体化である 「幸福の原理」としての「現代の四正道」です。この「現代の四正道」は、 「愛」「知」「反省」「発展」の四つの原理からなります。「人を愛しなさ い」という教えです。現代人の苦しみの多くは、「他の人々からの愛や評価 がほしい」と思いながら満たされない苦しみです。ここから脱却するために は、自ら人々に愛を与えることが大切です。仏法真理の知識を学び、仏の心 を知るということです。

 さらに、単に知識として学ぶだけではなく、その仏法真理の知識を、職場 や家庭などでの実体験を通して「智慧」に変えていくことが大切です。釈尊 の「八正道」の教えを現代的に再構築したものです。反省によって心を浄化 することで、悪しき霊的な影響から離れることができます。過半数の人々が 悪霊の影響を受けている現在、非常に大切な教えです。大乗仏教の本領であ り、ヘルメス的な発展・繁栄思想の復活です。自分の幸福が「全世界の幸福」 につながる生き方を通して、「成功」という積極的幸福、発展的幸福を実現 し、ユートピア建設への道を開く教えです。
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 どうやら「愛」がそのキーワードであり、「四正道」とか「八正道」とか の仏教教義の概念を理論の正当性の論拠にしているようだ。しかし上記の 「幸福の科学」の公式サイトから転載した説明は、ただただ奥深くありがた い教えであると粉飾することに急で、肝心なところが曖昧で私にはよく分 からない。つまり「愛」を説くのにどうして「四正道」とか「八正道」とか 必要なのかがさっぱりわからない。「分からなければ本を買え。」とのご託宣か しら。本を買うのはおことわりして、吉本さんの読解を聞いてみよう。

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 大川隆法は高橋信次が天台宗の止観からつくりあげた「八正道」をじぶんが こしらえた「愛」の段階説と組み合わせて、実行すべき指針をつくり、それを 「幸福の科学」の教義としている。

 「八正道」というのは

(1)正しく見ること(正見)
(2)正しく語ること(正語)
(3)正しく愛すこと(正業)
(4)正しく生きること(正命)
(5)正しく思うこと(正思)
(6)正しくすすむこと(正進)
(7)正しく念ずること(正念)
(8)正しく悟ること(正定)

のことで、これにそれぞれ「愛」の段階を割りあてている。

一、正見、正語は、親子、男女、隣人のような人と人とのあいだの愛に 対応する。
二、正業、正命は、人を生かし導く愛に対応する。
三、正思、正進は、おたがいに神の子どうしとして許し、つつむ愛に対応 する。
四、正念、正定は、神仏のひとつになった悟りの境地の愛に対応する。
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 そしてこの愛の段階にも対応するのが、前回に説明した「n次元世界」という 仕組みなっている。

 ここで吉本さんの総合的な評価を聞いてみよう。

 まるで子供だましのようにつくられた霊の段階秩序は、スエーデンボルグの 霊的な世界のいかがわしさとおなじように、いかがわしいといえばそれまでの ことになる。でもよくもここまで風呂敷をひろげ大宗教から霊視者やUFOを見た ものまでの神秘意識を包み込んだものだと感心する。

 天台宗の仏教やキリスト教の「愛」をもとにして、UFOに乗ってほかの宇宙の 宇宙人と出会って平和な至福観を説かれたといった類の言説や、ある日突然に 一時的なヒステリー性の健忘に陥り、それからあと超常的な霊能力をもつよう になったといった類の体験まで、まんべんなく包み込んで段階説のどこかには め込んで調合してしまっている。

 全体的なムードとしていえば温和な(大川隆法は「中道」という言葉をつか っている)幸福感をどこまでも精神が保ってゆけるものだという教説をつくり あげている。

 大川隆法のように実在する物質の形態の概念も、精神や人間のあいだの精神の 関係も倫理も一緒くたにして「次元」をこしらえてしまうと、幼稚で子供じみ て感じられるが、根本の原則は肉体とこれを支配している意識・魂とは次元の ちがう別個に分離できる存在だという認識に根ざしている。高橋信次の『心の 発見―神理篇』をみるとそれがとてもよくわかる。高橋信次によれば意識・魂 の中心が「心」だとかんがえられている。そしてこの「心」は大宇宙の支配者 である神仏の意識と通じあって、「あの世」と「この現象界」を輪廻転生しつ づけてきた不死の存在で、そのゆえに過去世の想念、本能、感情、智性、理性、 意志、先天的な善悪の業をみんな蓄積してもっていることになる。こういう考 え方の秘密はどこにあるかといえば、高橋信次が、はじめに意識・魂を肉体と 別個のものと分離したところからきている。そして意識、魂の核である「心」 は自在に過去世も現世もあの世も転生しつづけているとみなされている。この 根本的な認識を承認してしまえば、大川隆法のようにどんな次元の世界もつく りあげることができることになる。

 高橋信次と大川隆法に共通している認識の特徴は、大宇宙の支配者である 神仏の意識に道を通じているどんな宗教も言説も、ひとしく神理に叶うものと していて、宗教に偏らない点だ。つまりどんな宗教も言説も、この神理に叶 えば、あるいは叶うところだけを視てゆけば、批判や排斥の対象にはならな い。肯定的に包み込もうとしている。高橋信次ではあまり目立たないが大川隆 法ではこれをどんな宗教でもやりようによってはとり込めるような体系につく りあげてしまっている。浅薄ないい加減な理解しかないが、そんなことは問 わない人士にとっては、決してほかの宗派宗教を誹謗したりしないで、当り のよい言葉でどんな宗派や宗教や超常的な関心も表面の形の類似で、大川隆 法の次元世界のなかにはめ込まれることになる。この特徴は文章のムードと しては、なかなか気持ちがいいものだ。


 『決してほかの宗派宗教を誹謗したりしない』温和な全体的ムード が『浅薄ないい加減な理解しかないが、そんなことは問わない人士』を 引き付けるひとつの要素になっていると、吉本さんは分析している。
542 新新宗教批判(9)
普遍宗教
2006年7月3日(月)


 教祖が語るバカばなしにかかわらず、『超常的な宗教体験を信用する』人たちを 引き付けるける要素を、吉本さんはもう一つ抽出している。それは超常的な宗教体験 のなかに普遍的な心的体験が潜在しているからだ、と言う。
 それは仏教でいう輪廻転生(生れかわりの無限循環)ということだ。これは 偶然に瀕死の体験をして蘇生した人や、修練によって人工的に瀕死体験を造れ た人(ヨーガ・瞑想・座禅・台密)が、じぶんがじぶんの肉体を離れた幻覚を 造ることができるところに根拠をもっている。そして高橋信次の『心の発見― 神理篇』をみると、度重なる心臓停止の体験からこの幻覚をみて、そこから新 宗教をはじめたことがわかるし、大川隆法は瀕死体験ではないが、憑依のもう ろうとした入眼状態で高橋信次から語りかけてくる幻聴を聞いて死後の神霊の 存在と、肉体とは分離している神霊の独在を信じ、そこから宗教活動に入った ことがわかる。この体験から大川隆法は独特な神(仏)観に到っている。

「神とは、私たち以外の別のところにある他者ではなく、私たちを存在せしめ ているところのひとつの高次の意識体なのです」

「私たちは、自分自身が神の一部であり、神の自己表現の一端をになっている ことに、誇りと自信をもつべきなのです」

 こういうまともに取り扱うに値する高橋―大川系統の独特の神(仏)観に到 達している。この神(仏)観は仏教の通俗化にはちがいないが、輪廻転生を実 体化している新興宗教のすべての教義に共通する神(仏)観としては、もっと も高度な表現になっている。その鍵は、あるひとつの次元の存在は、それより 高次元の霊に統御されて存在するという大川隆法の理念にあるとおもう。


 ここで吉本さんが取り上げている「まともに取り扱うに値する」神(仏)観に 至るのに「輪廻転生」や「あるひとつの次元の存在は、それより高次元の霊に統 御されて存在する」という理念は無関係だと、私は思う。

 大川隆法の神(仏)観の「神」を「自然」と置き換えて少し言い直してみる。

「自然とは、私たち以外の別のところにある他者ではなく、私たちを存在せしめ ているところのひとつの高次の摂理なのです」

「私たちは、自分自身が自然の一部であり、自然の自己表現の一端をになってい ることに、生き方や思想の根拠を置くべきなのです」

 これはもう宗教的な理念ではなく科学的な理念だ。全ての宗教を包含する「普遍 宗教」というものがあるとすれば、その宗教の神は自然にほかならないのではない か。地上から浮遊してさまよい続けた挙句、霊(こころ)は本来のあるべきとこ ろ、この地上に戻ってくる。神秘めかした言説を一片なりとも必要としない。

 私には信仰すべき宗教はないが、宗教的な感性はある。自然の一部として大自 然と感応する「こころ」と言ったらよいだろうか。日本語には適当な言葉がな い。仏教でいう「仏性」?宗教のたなごころの中で思考を停止するわけにはい かない。あるいは「もののあわれ」?本居宣長の手垢がつきすぎている。
 まだよく熟していない理念なので、極私的にそれを「ポエジー」と呼んでい る。「ポエム」が生まれるみなもとと言う意味合いで「ポエジー」。

 古田武彦さんの著書「わたしひとり親鸞」(明石書店)に書名と同名の論考があ る。その最終章『わたしの「信仰告白」』に、私の理念は共鳴する。私がいう「ポ エジー」と同じことを語っていると思う。

 最後に、わたしの「信仰告白」をのべさせていただきます。

 わたしはどこから生まれてきたか。むろん直接には父母からです。祖先から えんえんと血統をうけついでわたしに至ったわけですから、また未来も子孫に 血統を伝えてゆくことでしょう。
 その上、〝血を同じゅうする″親戚・縁者をたぐつてゆけば、それだけ〝血 をついだ〟祖先の数もふえ、従って〝血を伝える″子孫も多いことでしょう。 (わたしたちが普通、「祖先」と言っているのは、いわゆる男系に限られ、真 に生物学的な意味で、つまり「すべての血の上の祖先」ではないことは、ご承 知の通りです。)

 さらに目を拡げれば、アジア・モンゴリアン全体、いや人類全体が「親戚・縁 者」であることは、〝他の動物の視点″から見れば、自明の事実です。

 けれども、今の視点は、こんなせせこましい話ではありません。もっと巨視 的なものです。
 なぜなら、人間は自己を成り立たせるのに、水や植物や他の動物、それらを 〝使って″います。すなわちそれらもわたしたちと同根なのです。そしてその 水や植物は大自然の中から生い出でたものにまちがいありません。従ってわた したちは正確に見つめれば見つめるほど、大自然と同根であることを疑うこと はできません。この「大自然」とは、生物か無生物か。そのいずれでもない、 それらを生み出した淵源です。ですからわたしたちは、やがてそれに再び帰し 去ってゆく。これは自明のことです。

 この帰しゆく先の大自然を何と呼びましょうか。それは〝名づけがたいもの″ なのですから、逆に言えば、何と呼ぼうと各自の自由です。  〝大いなるもの″〝真実なるもの″〝母なるもの″ こういったイメージが わたしにあります。

 そこで「大真実」とか、「大母(たいも)」とか、という名前を〝作って″み ました。
 これは〝名を作った″だけであって、わたしが大自然、すなわちこの大宇宙を 作ったものでないことは明白です。
 大宇宙がわたしを作ったのです。いったんわたしを作った以上、誰かが ―  たとえば地上の権力者が ― わたしを〝気に入らない″といって消してみたと しても、大宇宙は何たびでも〝わたし″を作るでしょう。この〝わたし″の存 在に一片の真実がふくまれている限り。
 悪罵も、嘲笑も、無視も、大母の描いた、この〝筋書き″を消すわけにはいか ないでしょう。

 わたしは自分を何もたいそうな者だとは思いません。うわべは平凡、内面は 愚劣。無恥において無上の者です。
 といっても幸いに、案ずることはないようです。このようにどうしようもない わたしでさえ、やがてある日、大母のもとへ帰り至れること、それは他の何ごと よりも確実、疑いようもないことなのですから。

543 新新宗教批判(10)
いまテレビが低俗な理由
2006年7月5日(水)


 今回から「統一教会」を取り上げる。

 コイズミ・イシハラと並んで私が最も忌み嫌う政治家・岸妖怪一族の末裔アベが 統一教会の合同結婚式に祝電を送ったというニュースが最近あった。妖怪一族と 統一教会の関わりは相当深いらしい。全記事をそのまま鵜呑みにはできないが、 次のサイトに詳しい。

安倍晋三を首相にすると…

 統一教会がひろく知れわたったのは1992年の合同結婚式がきっかけだった。 アイドル歌手・女優の桜田淳子ともと新体操の日本ナンバーワン・山崎浩子が 合同結婚式に参加し、マスコミが大騒ぎをしたのだった。

 統一教会の公式サイトに桜田淳子の信仰告白が記録されていた。

『姉が20歳の頃に統一教会に入りました。当時、私は秋田にいて13歳でしたが、 統一教会はとにかく悪い噂の渦中にあり、そのために、親と姉とのもめごとを 見てきましたので、私も「何でそこまで・・・」と、統一教会や姉を先入観を もって見るようになっていました。私が芸能界に入って15歳の時に、姉も東京 に出てきてくれ、一緒に生活するようになりました。悪いイメージを持って接 してきた姉ではありますが、その姉のアドバイスの一言一言に、いちいち納得 できるものがあったのです。それで姉のやっていることは間違っていないんだ な、と思うようになりました。だから私は強制的にではなく、自ら「ちょっと 耳を貸してみようかしら」と思って、この統一教会の教理である「統一原理」 に触れたんです。それは序論から始まって膨大な理論立ったものがあるのです が、その3日間の講義を受けまして、これが本当に真理であると思いました。 以来、私が芸能界でやっていく上で、これが精神的バックボーンになってきた ことは間違いないんです。』

 少年の犯罪やオウム真理教事件などの時と同様、こうしたセンセーショナルな 事件に対するマスコミの報道姿勢は、現象面ばかりを追っかけまわして大衆を 扇動することにかまける。事件の根底にある実相や核心に迫るようは真摯な報道 ・解説はほとんど見られない。このことはセンセーショナルな事件のときだけではない。 日々の政治や社会問題に対しても同様である。
 テレビは、下劣でつまらないおしゃべるや下品で醜悪なパフォーマンスだらけ の低俗番組が多いから低俗なのではない。そのような番組は泡のようなもので、 すぐ消えて跡形もなくなるだろう。テレビを低俗なメディアにしている最も大 きな元凶は事あるごとにしゃしゃり出てくる解説者や識者の低俗さなのだ。

 さて、吉本さんの『「原理講論」の世界』は1992年の大騒ぎのときに書かれた。このときの テレビの報道について次のように書いている。

 これはなぜか韓国人の日本人にたいする植民地時代からの憎悪と、日本人の 韓国人にたいする潜在的な侮蔑感を微妙に刺激するように働いた。さらにもう ひとつの印象は、桜田淳子や山崎浩子のような、専門の分野で優れた能力を もっているとみなされる人たちが、生活者としては意外なほどころりと思い込 みやすい脆さをもっているということだ。そしてどこまでが本当なのか、実相 はどうか、さっぱりわからぬというのが実感だった。

 テレビ報道のアナウンサーや、登場した解説者もまた、はかない印象を視聴 者にあたえた。こういった人たちは、誰ひとりとして統一教会はどんな理念や 原理をもったキリスト教団体で、どこが駄目なのか、どこが吸引力をもつのか を解説しなかった。そしてただやみくもに合同結婚式は野蛮・未開で、本人の 意志に反しようが嫌だろうがかまわずに男・女のカップルを強制し、また信者 になると霊感商法で安い物品を法外な値段で売りつけて資金をあつめる義務が あると宣伝した。これは何らかの度合で事実かもしれない。しかし売りつけら れる方に信心がなければ、そんなことは成り立つはずがない。どんな信心なの かを確かめたり、問いただしたりする解説は、いっさいテレビ画像にのせよう としない。これでは、ただデマをひろげるだけで、統一教会の実体に肉薄する ことができるわけはない。


 これが吉本さんを統一教会の教義の分析に向かわせたモチーフである。 「膨大な理論立ったもので本当に真理であると」桜田淳子に思い込ませた 「統一原理」とはどんな教義なのか。