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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
447 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(6)
不寛容なものへの対処
2006年3月7日(火)


 「正義の原理」のもとに成り立つ社会では宗教の教義の内容は問題ではない。いかなる宗教もその社会のうちに存続することを認める。
 もしこの「正義の原理」を否定する不寛容な宗教があったならどうするのか。オウム真理教事件を想定すれば問題はより鮮明だろう。また問題は宗教 に限らな い。「不寛容な個人」でもよい。例えば私はイシハラを想定している。

 「正義の原理」によって立つ立場からは不寛容者の教義や思想には介入しないが、「この社会の正義の原理を認め、 自分たちの存在が認められているように、他の存在も認めること」を要求することになる。しかしこの要求によって不寛容な者たちが寛容へと改心するとはとてもありえない。その程度では改心するはずもないほど固陋だから不寛容なのだから。

 この問題に対するロールズの考えは次のようである。


 「原初状態」において、いかなる場合であろうと、自分の存在を保証する権利は誰にもあるのだから、自分の生が危険になってまで、寛容の原理に立つことはできない。
 しかし、ロールズは、そのことをいうために、相当に繊細な条件を設定している。その繊細な条件は、現実のまえで、はたして有効であるか否かを疑わせるものであるが、私たちが、自由の原理に立つ以上は、その織細な条件を確認しておくことが必要である。
 彼は、こういっている。

 正義にかなう基本法が存在するのであるから、すべての市民にはそれを擁護すべき正義の生来の義務がある。われわれは他者が正義にもとる行為をしようと思っている時でさえ、この義務を免除されることはない。(免除されるためには)より緊急な条件が必要とされる。つまり、われわれ自身の合法的利益にかなりの危険がなければならない。かくて、正義にかなう市民たちは、自由それ自体と彼ら自身の自由とが危険にさらされるのでないかぎり、市民の平等な自由すべてを備えている基本法を守ろうと努力すべきである。人々は、「原初状態」において自分が認める原理によって確立される権利を尊重するように要求されるから、市民は、不寛容な宗派に、他者の自由を尊重するように、当然強制することができる。だが、基本法それ自体が安全に守られている時には、不寛容な宗派の自由を否定すべきいかなる理由もない。

 私たちは、思想、信条、宗教の違いによって、その人間を排除しない。それは、「無知のヴェール」のもとでの選択が条件づけていることであった。この原則は、いかに不寛容な人間に対してであっても、維持しなければならない。むしろ、私たちは、平等な自由の原理のもとでは、不寛容な人間の存在も認めることによって、不寛容な者自身が、その正義の原理を承認するようになることを、期待する。
つまり、どこまでいったら不寛容な者を否定するのかは、結局、自由の条件、自己保存の権利が、どこまでいったら危機にあるということになるのかを決めなければ、決断することはできない。
 きわめて具体的で繊細な条件の設定が必要なのだ。



 なんとも歯切れの悪い言説だが、要するに基本法(憲法)に基づいて判断すべきと言っているようだから、穏当といえば穏当な結論だろう。
 また、しかし、だ。「日の丸君が代の強制」問題に引きつけてみると。
 「自由それ自体と彼ら自身の自由とが危険にさらされ」ている状況を基本法(憲法)にてらして、「他者の自由を尊重するように強制すること」ができると言っても事はそう簡単ではない。「自由が危険にさらされている」とだれが判定し、だれが不寛容者(イシハラ)に「他者の自由を尊重するように」強制するのか。裁判に訴えるほかないということになる。
 ところが再三いうように、私は日本の裁判官のほとんどを信用していない。「法の番人」ではなく、「権力の番犬」に成り下がっている。そのように判断せざるを得ない事例は枚挙にいとまない。「日の丸君が代の強制」関係の訴訟に限っても、すでに判決が出された裁判では原告側の敗訴が続いている。それでもいじましいことに、もしかしたらという期待と希望をまだ全部は失ってはいない。

448 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(7)
オウム真理教事件について(1)
2006年3月9日(木)


 評伝「ロールズ 正義の原理」(第443回で提示)では「正義論」を概観するための抄訳が掲載されている。不寛容者に対する対処の項はより分かりやすく書かれているので改めて掲載する。


 次に寛容の原理。
 これは、近代国家をスムーズに運営するための手段ないし建て前として要求されるものではない。道徳的・宗教的自由は、あくまでも平等な自由という原理から導き出される(第三四節 寛容と共同の利益)。
 寛容原理を食い物にして不寛容な宗派・団体がのさばり、ついには寛容な人びとが抑圧される。そうした逆説的な事態を避けるためだからといって、不寛容派の自由を否定するのもよろしくない。むしろ連中にも自由を認めておけば、その自由が不寛容な人びとの心中に「平等な自由」への信念を徐々に培ってくれるだろう。いずれにせよ、私たちはそうした迂路に賭けるしかあるまい(第一二五節 不寛容派に対する寛容)。



 「正義論」は政治哲学の研究書だが、ここではむしろ倫理の書というおもむきである。社会に「正義の原理」があまねく浸透する過程としてなら、このような「迂路」しかありえないだろう。
 オウム真理教事件を、土屋さんは次のように論じている。


 法律はけっして個別な事例にだけ適用されるものではない。一つの判断の成立は、その判断が将来にわたっても採用されることを意味している。慎重さは、当然に要求される。
 ここでは、具体的な事件に深く入り込むことはしない。オウム真理教のことを、子細に論じることはしない。しかし、ロールズの条件設定を前提にしたとき、私たちが、オウム真理教に対して、どのように対処すべきであるかは、かなりのところで確認することはでき そうだ。
 不寛容な者を否定するかどうかの条件は、市民の自由の条件の重大な危機のうちにこそあり、オウム真理教という宗教の存在自身を、条件にすることはできない。つまり、松本サリン事件、坂本弁護士一家殺害事件、地下鉄サリン事件という、一連の事件の現象において、オウム真理教は裁かれるべきであるが、その信仰を条件にして裁かれるべきではない。ましてや、現実に基本法(憲法)と市民の生命への危険が認められなくなった時点で、遡及的に「破壊活動防止法」を適用したことについては、ロールズ的原則はこれを否定するだろう。
 自由な制度がもつ本来的な安定性への信頼を失うべきではない、とロールズはいう。異端者の存在をも許容する強さを、自由社会はもっていなければならない、とロールズはいうのだ。



 「正義の原理」からは当然の主張であり、私もこの主張をうべなう。しかし残念ながら現実の社会はこの主張が実行されるほどにはまだ成熟していない。
 2年前に麻原彰晃の三女が、合格したにもかかわらずに和光大学への入学を拒否された。三女さんは裁判に訴えていたが、「入学拒否は違法」という判決を得て勝訴している。この 2月のことである。
 にもかかわらず、今度は次男が合格した中学(春日部共栄中学)への入学を拒否された。3月 2日の報道である。

 では現在、未成熟なのは社会だけだろうか。

 宗教の教義や思想の内容を裁くことが大日本帝国時代には大手を振るってまかり通っていた。小林多喜二や大杉栄のように、裁判さえなく虐殺された人もいた。
 ここで、この1月の「横浜事件」の再審の判決が思い出される。横浜地裁松尾昭一裁判長は、「治安維持法が廃止されたことなどを根拠に、無罪か有罪か判断せずに裁判の手続きを打ち切る形式的な判決(免訴)」をしている。これに対して、弁護団長の森川金寿さんは次のように言っている。

 「非常に残念。日本の司法はこの程度なのかと落胆した。人権に配慮したとは到底言えない、歯切れの悪い判決だ」

 さて、オウム真理教事件の無差別殺戮は裁判で裁かれるべきだが、この事件はそれだけで済ますことのできない大きな問題を孕んでいる。「正義論」の問題としてではなく、宗教の問題として。

449 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(8)
オウム真理教事件について(2)
2006年3月9日(木)

 オウム真理教事件についての土屋さんの論述は次のように続く。


 オウム真理教事件については、いかなる極論も自由の原則を歪めることになるだろう。吉本隆明のように、大衆の殺戮を結果的に引き起こしてしまう行為を、むしろ宗教の真実性を示すものとして容認するようなことは、この自由社会の原則からはまったく受け入れることはできない。そこには、宗教を特権化する「エリート主義」が歴然としている。
(中略)
 宗教そのものについて論じる準備は私にはない。しかし、その私の貧弱な知識のかぎりにおいても、オウム真理教が修行としてやってきたことは、日本の仏教がやってきたことのコピーであった。オウム真理教の修行を否定するならば、日本の仏教の過去もまた否定しなければならない。
 私たちは、オウム事件に怒りを覚えたとしても、理性を失って驚いてはならないのだと思う。組織的になされた大衆殺戮に対して法律的対処をしながら、同時に、この社会の自由の原則を放棄しない。それが、自由社会の原則そのものである。この原則をこえでしまえば、いつでも、私たちは、肯定するにせよ否定するにせよ、両極で宗教を特権化して、自由社会の基盤を掘り崩してしまうのだ。



 この吉本隆明さんへの批判に対して「はてなマーク」と「びっくりマーク」と「がっかりマーク」がいくつも飛び出してきた。
 私は吉本さんの発言を注視し、その著作のほとんどを読んできた。オウム真理教事件についての論述を含む著書を、手元にあるものから取り出してみたら6冊あった。どれにも「大衆の殺戮を結果的に引き起こしてしまう行為を、むしろ宗教の真実性を示すものとして容認する」ような論文はない。また、吉本さんのよって立つ基盤は「エリート主義」からはまったく無縁な地点にある。
 土屋さんは吉本さんの発言をチャンと読んだのかしらと疑ってしまう。読んだ上での評言だとしたら、まったくの誤読としか言いようがない。また「オウム真理教が修行としてやってきたことは、日本の仏教がやってきたことのコピーであった。」という見識は何処から得たのだろうか。麻原彰晃の著書を検討したうえでこのような見識をはっきりと打ち出した識者を、私は吉本さん以外に知らない。その知見は宗教への深い造詣に裏打ちされている。土屋さんの著書からいろいろご教示を受けているのだけれど、ここでは知的誠実さという点でいささか疑念を感じている。

 ことばを覚え始めた頃の子どもはことばを倒置して覚えることがよくある。たとえば「バンザイ」を「ザンバイ」と言ったりする。「ドウブツ」は「ドウツブ」となる。私はこの「ドウツブ」を愛用している。たとえばカミさんとの会話で私はよく使う。「人間とは自然を逸脱したドウツブの謂いだ」とか「人間はどうしようもないドウツブだね」とか。

 人間と言うドウツブの逸脱の方向やその程度はさまざまあるが、人間をドウツブたらしめている最たるものは宗教の創出だと思う。宗教は紛れもなく人類がはぐくんできた文化の重要な一要素であるが、人を蒙昧にするアヘンでもある。「正義の原理」はあらゆる宗教(一般的に共同幻想といってよい)の存在を認めるが、あらゆる宗教(共同幻想)が可能性として孕んでいる不寛容が「正義の原理」の普遍化を拒む。
 あるいは次のように言ってもよい。いま人類の最重要課題は全ての人を生かしめるような新しい倫理の創出ではないかと私は思っている。それは人間が「ドウツブ」を超えたもっと高い精神性をもった「ドウツブ」とは別の存在になることを意味するだろう。そしてそれはまた人類が宗教を棄揚することを意味する。

 17世紀末の市民革命で人民が獲得した自由について論ずる中でマルクスは言う。

 「人間は宗教から解放されたのではなく、宗教の自由を得たのである。」(「ユダヤ人問題によせて」)

 「人間は宗教から開放されなければならない」と言っている。吉本さんの言い方で言うと「あらゆる共同幻想は死滅すべきである」ということだ。

 オウム真理教事件を前にして、なお「正義の原理」は有効か。オウム真理教事件とはなんだったのか。オウム真理教事件が私たちに突きつけた問題について、吉本さんの論述を読んでみることにする。

450 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(9)
オウム真理教事件について(3)
2006年3月12日(日)


 一般論として、宗教(普遍化して理念と言ってもよい)についての吉本さんの見解は次のようである。


 宗教はすべて迷妄だといいたいところがわたしにはあるが、じつは迷妄な個所は、理念(イデオロギー)としてあらわれている。また理念は政治的であれ社会的であれ迷妄だといいたいところだが、理念の迷妄は個人としても集団としても宗教性としてもあらわれている。これが世界の現在の思想的本質であるかぎり、わたしたちは宗教の存在も理念の存在も認めるほかないとおもう。
(「サンサーラ」1995年11月号「情況との対話」より)



 宗教は迷妄だと否定してまったく問題外とすることもできるが、現在の人類の思想的到達点においては宗教も、その他の政治的・社会的・倫理的理念などとともに、思想上の問題としてその存在を認めるほかないと言っている。
 なお吉本さんは「理念」に「イデオロギー」というルビを振っている。私は「虚偽意識」という語を「イデオロギー」というルビを振って用いている。つまり理念の「迷妄」な部分を私は「虚偽意識」と言ってきた。

 この宗教と理念のアポリアが現段階での最大の思想的課題だということになる。浅間山荘事件を頂点とする「連合赤軍」一連の事件の問題もここで取り上げようとしている問題と別物ではない。上の引用文と同じことを次のようにも言っている。


 宗教のなかの迷妄的な部分が理念的になってしまうのと同じように、理念的であるはずの思想は必ずその迷妄的な部分が宗教的になってしまいます。反核を大声でいいたてている文士も同じです。
 僕は本質的にいえば宗教も理念も両方とも否定したいと思っていますが、現在のところ世界中の宗教や社会の理念はこのことから免れていません。免れているやつは世界中にだれもいないんです。
 そういう段階だということを認めた上でいいますが、入り方と出方がきちっとしてない集団は、理念としても宗教としても成り立たないと思います。集団として宗教や政治をやるなら、そのことをきちっとしておかないと、迷妄な部分がひっかかってきて、ヤクザの組と同じように入るときは盃ごと、出るときは指を詰めろとか生かしておけない、リンチだということになります。実際、オウムも世界の左翼の連中もそれらしきことをやってきたわけです。それを免れることができないのが、現在の世界の段階だというより仕方ないんです。
(「世紀末ニュースを解読する」より)



 このアポリアをだれもが免れていないという認識が、たぶん吉本さんとその他の論者との間の、論点の大きな齟齬となっている。このような認識を欠いたものには、結局は連合赤軍事件やオウム真理教事件の本質は見えないし、その言説も対処も皮相で通俗的なものにならざるを得ない。


 宗教団体、特に仏教各派がなにをいっているかというと、オウム真理教は凶悪、劣悪な集団であって、とても宗教と呼べるようなものではない、これは特別であり、宗教団体自体は悪くないのだから、宗教法人法の改定には反対であるという言い方です。ただ一つの宗派も、宗教がまっ正直に、まっすぐに突っ走れば、そこには危険な要素があり得るんだ、法的には犯罪にいく可能性だってんあるんだ、同じ宗教教団として寛容でありたいという言い方をした団体はひとつもありません。どこもオウムのようにきついところまで追いつめられたことはないのですが、その宗教教義は自分たちとは無縁であると片付けています。
 これは僕にいわせれば、宗教家として失格であると思います。特に仏教徒として失格です。アイツは特別に悪いんで、俺のところとは違うんだという言い方は宗教家としては全然なっていないと思います。



 この引用文で言われていることは「正義の原理」を貫いている論理とほとんど同じだと私は思う。「正義の原理」によれば「同じ宗教教団として寛容でありたい」という姿勢が最も妥当なものということになるだろう。

 マスコミを賑わしたいわゆる識者たちの言説もすべて、上の宗教者たちの域をでるものではなかった。


451 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(10)
オウム真理教事件について(4)
2006年3月13日(月)


 宗教教団はオウム真理教に対して「同じ宗教教団として寛容」であるべきだ、と吉本さんが言うのは、どの教団もオウム真理教が陥った陥穽から無縁ではないからだ。オウム真理教の轍を踏まないための思想的な営為が不可欠だと言っていると思う。その陥穽のありどころを吉本さんは次のように述べている。


 わたしはヨーガ行者としての麻原彰晃も、それを修得しようとして「出家」した信者も、マスコミやマスコミ登場の知識人士がいうほど幼稚な、しかも凶悪な人間たちだとはおもっていない。それにもかかわらずサリンを地下鉄に発生させて無辜の民衆を殺傷した容疑が、麻原彰晃やオウム真理教の信者と結びつく嫌疑の渦中にあるとすれば、生の世界と死後の世界を等価に存在する実体とみなす仏教的な世界観が、ラジカルな小思想家(宗教者)によって荷われた場合の「死」の軽視に由来するかもしれぬと、さしあたり言っておくほかない。平安末期から中世初頭の混乱した世相と支配者の交替の時期にも、そんなことがあった。中世の新宗教と教祖たちはそんな混乱の中で出発したのだ。そして「死」に突入したラジカルな小思想家(宗教者)は『一言芳談抄』に衝撃的なエピグラムをのこして消えた。



 吉本さんのこの観点は宗教者への批判にとどまらない。すべての思想的営為あるいは理念が同じ問題を問われている。その批判のある部分は私(たち)への批判でもある。
 天下国家を論じるだけが思想ではない。大状況のみならず、私たちの日常的な小状況にも適切に一貫した対処がきない思想など思想の名に値しない。国家の問題から市井の一人としての生き方にいたるまで、吉本思想は一貫している。次の引用文はそうした吉本思想の面目躍如たるところがある。傾聴に値すると思うので、長い引用をする。


 言うまでもないことだが、「国家」は市民社会との関係を緊密に持つことで、国法(憲法)を教義とする拡張された「宗教」だと見倣すことができるものだ。原則的にいえば宗教が宗教の上に立つことはできないという原理によって、宗教の自由、信教の自由が保障されなくてはならない。そしてこの自由は、どんな宗教を信ずるのも自由だというほかに、国家=政府からの宗教の自由を意味している。
 「国家」という「宗教」が、何はともあれ市民社会の上に立ちたい願望のあげくに一定の共同幻想(規範)を造りあげているように、どんな宗教も市民社会を超越したい欲求と、個々の市民の内面(こころのなか)に規範(戒律)をうち立てたい願望を持っているものだ。「国家」という「宗教」やそれ以外の宗教は、その超越的な部分で、市民社会の規範を超えた部分を必ず形成している。別の言い方をすれば、市民社会の善意の慣行に違反する可能性をいつでももっているものだ。

 たとえば市民社会の市民が、誰も生命を失いたいとも思わず、戦争をしたいともかんがえないのに、国法を介して市民を戦争に介入させ、生命を殺害させるような悪をなすことができる。もちろんそのためには村山内閣がやったように自衛隊は合憲であると宣明して、海外派遣を正当化し、犠牲の死者を出しても、新開、テレビなどの報道を通じて政府による殺人だと言わないような言論の下ごしらえをして、善良な市民のマインド・コントロールを巧みに済ましてしまうことになっている。
 また市民社会の日常では、母親が幼ない自分の子どもを殺害して愛人の男とかけ落ちしたり、父親が登校拒否の子どもや家庭内暴力の子どもを虐待したり、殺害したり、またその逆に登校拒否児や家庭内暴力の子どもが、父親や母親に傷害を与えたり、殺害したりすることも茶飯事のように行われている。



 吉本さんはヨーガ行者としての麻原彰晃を高く評価している。この点でもろもろの宗教家・知識人・一般の新聞投書者たちから激しいバッシングを受けた。次はそれらに対する吉本さんの応答である。


 わたしは市民主義にたいし終始批判的だが、市民一般に批判的であったことはない。新聞に投書などする人たちはどんな人たちか測り難いが、たぶん、市民から市民主義に移行する過程にある人のように受けとめている。だから市民主義に移行している部分の理念にだけ批判的にならざるをえないが、きみたちの仲良くしていて立派な市民だと思っている隣人や隣人の子が、家庭内暴力を苦にして子どもを殺害したり、逆に親が子どもから殺されてしまったとする。そうなったとき、きみたちはその隣人を手の平を返すように殺人者呼ばわりし、その家族にたいし隣に住んでもらいたくない、出てゆけとデモでもするのだろうか。わたしならそんな馬鹿な振舞いはできない。あの隣人もその子どももいい人だったが、そこまで追い詰められてしまった。気の毒だと言うとおもう。なぜかといえば、善なる人が情況によって悪を犯すこともあれば、他人や近親を殺害することも、ありうるからだ。わたしの人間認識ではこの可能性は人間性(ヒューマニティ)のなかに包括されるもので、例外などあり得ないとおもう。
オウム真理教の教祖の宗教家としての力量を評価するということは、仲良くしていた隣人が家庭内暴力の息子を殺しでも、あの人はいい立派な人だったというのとおなじだ。これを殺人者だとして排斥すれば済むなどという考えは、検事や裁判官が法を適用する場合以外には通用しないとわたしなら考える。このことに気づかない阿呆は、マス・コミのふりまく市民主義の宣伝にかぶれた市民だけだとわたしはおもっている。もちろん新聞やテレビなどマス・コミ関係者やそこに登場する知識人士のオウム―サリン事件にたいするいけしゃあしゃあとした論議をきいていると心の底からだめな人たちだという気がする。

 何となれば国家=政府の存在と遣り方を絶対善として疑わず、いわばその傘の下で、じぶんたちがオウム真理教の連中と別人種のような顔をしているからだ。理念的にいえば国家=政府という首部から決められた秩序を至上の宗教としている箸にも棒にもかからない連中だとしか思えない。そして文学的にいえば人間性(ヒューマニティ)の闇を見ることができない盲目の人士にすぎないというほかない。



 隣人が犯してしまった殺傷事件に対して、私たちはどうふるまうだろうか。「きみたちはその隣人を手の平を返すように殺人者呼ばわりし、その家族にたいし隣に住んでもらいたくない、出てゆけとデモでもするのだろうか。わたしならそんな馬鹿な振舞いはできない。」と吉本さんは言う。「正義の原理」による判断もきっとそのようになるのではないか。ここで私は麻原彰晃の子女の入学拒否事件をもう一度思い出す。

 先週からNHKで始まった「繋がれた明日」(土曜午後10:15)というドラマを見ている。誤って殺人を犯した青年が仮釈放で社会に復帰しようとするが、周囲のさまざまな偏見と悪意にそれを阻まれる。この国の市民あるいは市民社会の未熟さに激しい憤りとやりきれなさを感じながらみている。その未熟さは私自身の中にもある。激しい憤りとやりきれなさは私自身への憤りとやりきれなさでもある。