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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
99. 『「非国民」手帖』を読む(6)
天皇退位論を隠蔽する戦後史の詐術
2004年11月21日



俎上の鯉:『20世紀かく語りき』(産経新聞取材班著、扶桑社発売)
料理人 :鵠
料理記録日:01年1月号

   内閣不信任案が否決されたその日に森首相が新社屋のお祝いに駆けつけるほど、保守の政 治家たちから「評価」されているらしい産経新聞が、ここ数年、歴史を新たに 「発掘」 し、 「見直す」 ことに熱心なのは周知のとおりだ。『戦後史開封』『教科書が教えない歴史』『親と 子の日本史』『国民の歴史』等に続いて刊行された『20世紀かく語りき』(産経新聞取材班著、 扶桑社発売)も、新聞紙上に連載された「歴史物」の一つ。「鉄は国家なり」「欲しがりません、勝 つまでは」 「もはや戦後ではない」等々、人口に膾炙した流行語や「名言」 の背景を探ること で、今世紀の事象を読み取ろうというものである。
 岸信介の再評価を促し、国交回復以来の対中外交に批判的な見方を示すなど、「産経らしさ」 は随所に窺われるとはいえ、「トンデモ教科書」 や『国民の歴史』 に比べれば、本書はニュー トラルな立場を慎重に維持しているように見える。しかし、それでもやはり稚拙な歪曲を露 呈してしまう部分こそ、天皇をめぐる記述にほかならない。例えば、昭和天皇が 「先の大戦 突入の際、最後の最後まで戦争を避ける道はないかと心を砕かれた」などというのは、すで に多くの実証的研究によって、戦争の遂行に天皇が大きく関与していたことが明らかになっ た今では、そうであってほしいという「願望」 の表明でしかない。そして実際、そう思い込 まなければ戦後保守派の論理は根本的に破綻してしまうのだ。つまり、昭和天皇が戦争責任 を回避したことの倫理性を問わずして、「国民の道徳」を説こうとするのは明らかに矛盾だか らである。
 そこでまた歴史から隠蔽されているのは、天皇の戦争責任が、少なくともサンフランシス コ平和条約締結の頃までは、保守の側からも問題にされており、例えば中曾根康弘らによっ て、天皇退位諭が公然と主張されていたという事実でもある。それを知らないはずのない西 部邁から、小林よしのりに至るまで、保守派の論客たちが批判する「戦後民主主義の欺瞞」 は、侵略戦争の指導者が 「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という「名言」 へと還元され てしまう歴史記述の詐術にこそ表れている言うべきだろう。
十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
 歴史から隠蔽されているのは、天皇の戦争責任が、少なくともサンフランシス コ平和条約締結の頃までは、保守の側からも問題にされており、例えば中曾根康弘らによっ て、天皇退位諭が公然と主張されていたという事実でもある。

 敗戦直後は保守側の連中もヒロヒトの戦争責任をはっきりと認識していたということだ。
 ところで、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍」んで何を残したのか。言わずと知れた「国体」だ。
 敗戦処理が曖昧に行われたため、いやほとんど行われなかったため、生き残った 大日本帝国の亡者どもが、いま魑魅魍魎のごとく湧き出している。そして 「伝統的精神文化」を僭称して、またぞろ死臭紛々の支配理念や支配規範やらを担ぎ出している。
 加速する日本崩壊の根源を辿るとき、その原点にくっきり見えてくるのが、……日の丸や君が 代に象徴される理念や規範など、伝統的な精神文化の崩壊ではないか(田代京子「日の丸のこ と、君が代のこと」)
 「日の丸や君が代に象徴される理念や規範」が「伝統的な精神文化」とは笑わせる。「伝統 的精神文化」を語るのなら、縄文時代までさかのぼれ。
109. 『「非国民」手帖』を読む(7)
学級会レベルの民主主義
2004年12月1日



俎上の鯉:橋爪大三郎『民主主義は最高の政治制度である』(現代書館)
料理人 :歪
料理記録日:92年10月号

 橋爪大三郎『民主主義は最高の政治制度である』(現代書館) の正式タイトルは「陳腐で凡庸で苛酷で抑圧的な民主主義は人類が生み出した 最高の政治制度である」という。この物言いにはある転倒が加えられているが、 もう一度引っ繰り返してみるべきだろう。つまりこうだ。「民主主義を人類が 生み出した最高の政治制度であると論じる事は陳腐で凡庸で苛酷で抑圧的である」
 狙い目のよさは買いだが、踏み出す方向がずれているのはいつものことか。啓蒙を気取るね ちっこさも芸のつもりだろうが、論理が凡庸なら鈍重なだけだ。
「民主主義とは、《関係者の全員が、対等な資格で、意志決定に加わることを原則にする政治制 度》をいう」のだと橋爪は定義する。なにも救抜するまでもない。この程度の凡庸な民主主義 観は蔓延している。
 参院選をめぐつて投票率の低さから政治の現状を導こうとしたジャーナリズムが依拠したも のも、《凡庸な民主主義》でしかない。
 しかし橋爪などという大学教師より財界首脳や労組幹部の方が政策決定への影響力が強いと いうのが、近代国家における民主主義のうんざりするほど陳腐で凡庸な事実である。政治的権 利が平等でも社会的に不平等なら、《対等な資格》はフィクションにすぎない。理念の閉域で いくら論理を煮詰めようと、現実の政治構造には届かない。
 ここに描かれた学級会レベルの平板な民主主義からは、その退屈さも苛酷さも、ましてや優 越性も感じられない。民主主義擁護の戦略は、私意性の保障たる社会的不平等の存在を確認し た上ではじめて構築が可能となる。(後略)

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
 政治的権利が平等でも社会的に不平等なら、《対等な資格》はフィクションにすぎない。

  このフィクションに気づかずに、あるいはこのフィクションに目をつぶっての民主主義論議を 「学級会レベルの平板な民主主義」と揶揄している。

 ここで揶揄されているような論議は典型的な「誤謬」に属する。この種の「誤謬」が 知を売り物にしている者たちの言説のいたるところに転がっている。かってエンゲルスによって 論破されつくしたはずのデューリング氏が絶え間なく再生しているいうことだ。ならば、 偽物の言説を見抜くためにも「誤謬」について復習しておくのも、あながち無駄ではある まい。

 ディーツゲンの著作、『一労働者の見た人間頭脳のはたらきの本質』が、こういう問題をどう論 じているか、しらべてみよう。
「真理はある一定の条件のもとにおいてのみ真理であって、ある条件のもとでは、誤謬がかえっ て真理となる。太陽は輝くということは、真実な知識である。ただし空が曇っておらぬことを前 提としてである。まっすぐな棒は、水の流れに突っ込めば曲がるということも、もし視覚上の真 理ということに限るなら、右に劣らぬほど真理である。……誤謬が真理とことなる点は、誤謬は それがあらわしている一定の事実に対して、感覚的経験が保証する以上にヨリ広い、ヨリ一般的 な存在を度はずれに認めるところにある。誤謬の本質は、逸脱ということである。ガラスの玉は、 本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。」
エンゲルスの著作、『反デューリング論』が、こういう問題をどう論じているか、しらべてみよう。
 「真理と誤謬とは、両極的な対立において運動するすべての思惟規定と同じく、まさに極めて限 定された領域に対してのみ、絶対的な妥当性をもつ。われわれが真理と誤謬との対立を、右に述 べた狭い領域外に適用するや否や、この対立は相対的となり、従ってまた、正確な科学的な表 現の仕方のためには役に立たなくなる。しかるにもしわれわれが、この対立を絶対的に妥当なも のとしてかの領域以外に適用しようと試みるならば、われわれはいよいよ破局に陥る。すなわち 対立物の両極はその反対物に変り、真理が誤謬となって誤謬が真理となる。」
   (三浦つとむ「弁証法・いかに学ぶべきか」季節社)
110. 『「非国民」手帖』を読む(8)
《自由》と《民主主義》
2004年12月2日


 「政治的権利が平等でも社会的に不平等なら、《対等な資格》はフィクションにすぎない。」
 これが資本主義下での「民主主義」の実態なら、資本主義下での「自由」とは何なのか。


俎上の鯉:小沢一郎『日本改造計画』(講談社)
料理人 :歪
料理記録日:93年10月号

 小沢一郎は《自由》と《民主主義》を愛している。彼の政治改革の構想は《自由》と《民 主主義》の十全たる発現を願う想いに支えられている。
 手練手管と権謀術数に長けた腹黒政治家のイメージに押し込めて、《自由》と《民主主義》で 断罪すれば、なるほどたしかに安心は買える。しかし、問題の所在には永遠に辿りつけない。《自 由》と《民主主義》の理念とともに射抜かなければ、とどめはさせないのだ。
『日本改造計画』(講談社)。小沢は言う。多数決原理を貫徹し、少数派を封じ込め指導者に 絶大な権力を付託することによって、民主主義を確立する、と。あるいは、政治が個人や企 業を規制することをやめ、自由を保障する、と。
 これは、現在の政治にまつわる多くの議論と同様、拠って立つ原理も、社会に対する歴史 的な分析もない。ただ願望と嗜好だけで語っているに過ぎない。
 多数派が少数派の意見に妥協するのは、温情ではなく、権力の形成と執行をスムーズにす る為にすぎない。また国家が経済過程に介入することによって日本資本主義の《発展》はあ ったのではなかったか。
 しかし、《自由》と《民主主義》を体制への抵抗の原理としてきた側こそ、そのことばの意 味をまともに考えてこなかったことに気づくべきなのだ。
 《民主主義》とは社会的不平等の上に成立する政治的平等の制度であるから、社会的強者が 多数を占有することは必然であるし、《自由》とは社会的不平等の謂いである。
《民主主義》や《自由》の批判者としての保守には、《民主主義》や《自由》ということばの 持つ幻想性だけで戦えた。しかし、政治のリアルに覚醒した、戦後民主主義の鬼子たる小沢 には通用しない。社会党ごときが取り込まれてしまうのは不可避だ。
 もっとも小沢にも勝ち目はない。政権交代を生んだにもかかわらず史上最低の投票率に、《民 主主義》はその限界を露呈しつつあるからだ。

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
《自由》と《民主主義》を体制への抵抗の原理としてきた側こそ、そのことばの意 味をまともに考えてこなかったことに気づくべきなのだ。
 《民主主義》とは社会的不平等の上に成立する政治的平等の制度であるから、社会的強者が 多数を占有することは必然であるし、《自由》とは社会的不平等の謂いである。


 私たちは社会的不平等を担保にして《自由》を享受している、と言っていると思う。 これは一体どういうことか。
111. 『「非国民」手帖』を読む(9)
 《平和と民主主義》の現在
2004年12月3日


  前回「私たちは社会的不平等を担保にして《自由》を享受している、と言っていると思う。 これは一体どういうことか。」という問題を提出した。それについて書くつもりだったが、しばらく 自分への課題としておく。
 「民主主義」を表題に含む論説をもう一つ。

 

俎上の鯉:元法相永野の《問題発言》に対する毎日新聞の論調
料理人 :歪
料理記録日:94年8月号

 大日本帝国陸軍大尉永野茂門は、欧米の植民地を《解放》するために《大東亜》戟争を戦っ た。このことは、本人が発言を撤回しようと、揺るぎない事実に思える。
 多くの青年が、永野茂門と同じく《大東亜共栄圏》の《理想》実現のために従軍した。これ は現在からの戦争に対する本質的評価と異なり、当時の当人たちの主観という次元では、事実 のはずである。
 戦後の体制イデオロギーとなった《平和と民主主義》への背信として、懺悔させたところで、 何の意味もない。
 問題は、《大義》のもとに侵略戦争へと駆り立てられていく精神のあり方を明らかにしていく ことである。それだけが現在的な課題であり続けるということだ。
 永野が「侵略戦争へと駆り立てられ」た思想を、敗戦によっても変わることなく一貫して持続 してきたのなら、誤謬に満ちた蒙昧な精神ではあるが、それはそれで立派なものだ。ただし、真面目に 戦争推進に加担し、敗戦で民主主義に鞍替えし、いま再び強い国家をなどとやたらと勇ましく なっている連中よりは、である。

 では、現在は元法相の肩書を持つことになった永野の《問題発言》を暴露した毎日新聞は、 どのような観点からこの発言を問題としたのか。「細川護煕前首相は先の大戦を『侵略戦争』 と位置づけた」のに「前内閣と違った突出発言が繰り返されると、新政権の位置づけを見直さ ねばなるまい」と「法相の処分」を迫る(5月7日社説)。ここでは発言は単に国内政治ゲー ムの道具立てとしてしか扱われていない。
 発言を撤回しても《信念》は捨てていないだろう。かつて永野と同じ幻想を共有したものた ちも、誤謬の歴史を擁護して生きていくに違いない。
 《平和と民主主義》という理念が強固に確立された現在、《戦争》という名辞が忌避されている だけで、真剣に考えることは逆に抑圧されている。
 そしてその一方では、北朝鮮核疑惑を契機として、《戦争》への扇動が着実に隆起している。《国 土防衛》や《世界秩序維持》や《邦人救出》のために、と。これらこそ十五年戦争へと導かれた セリフではないか。
 《戦争》は強権と弾圧のみでは生まれない。大衆の諦観と熱狂によって遂行される。
 永野発言騒動は、《平和》の浸透と解体が同時進行する現在を示唆している。 

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
 問題は、《大義》のもとに侵略戦争へと駆り立てられていく精神のあり方を明らかにしていく ことである。それだけが現在的な課題であり続けるということだ。

 《戦争》は強権と弾圧のみでは生まれない。大衆の諦観と熱狂によって遂行される。


 政治家の妄言・暴言は糾弾されるべきだが、ここでも最も問われなければならないのは、 私たち自身だ。私は「自分の生活の中から〝平和″に相反する行動原理を駆逐する」という 課題のことを言っている。

 次回からしばらく「戦争と平和」に関する論説を読んでいく。
112. 『「非国民」手帖』を読む(10)
戦争について考えるな
2004年12月4日


俎上の鯉:高市早苗・朝日新聞(8/13)のインタビューでの発言
料理人 :歪
料理記録日:95年10月

 バカの伝播力は恐ろしい。ひとりのバカが許されていると、おれはバカではないかと自問 する契機が奪われてしまうからだ。
 不戦決議をめぐって「わたしは当事者とはいえない世代だから、反省なんかしていない」 と発言したのは高市早苗である。たちまち同調者も出はじめている。やはりバカはきちんと 叩いておかなければならないようだ。
 朝日新聞(8/13)のインタビューで高市はその稚拙な論理を得々と述べている。
「日本の動機が侵略かどうかは、国家意思決定の当事者にしか明言できない」と。戦争の性 格規定を、《動機》などという個人の主観の問題にすりかえることで棚上げしようとしてやが る。つまらん詐術だ。動機は解放でも、やってることは侵略ということだって充分ある。
 しかも、いろいろな資料や意見があって「結論が出せない」し、時代によって価値観は変 遷するものだから、「今の価値観」で五十年前の戦争について判断は下せないらしい。このよ うな相対主義が受容されるなら、人間には一切の価値判断が許されなくなってしまうだろう。
 高市になんら積極的な問題提起を見ることは出来ない。むしろ総体としてただひとつのメ ッセージを読むべきである。すなわちこう言いたいだけなのだ。《戦争》について考えるな、と。
 このような幼稚な論理が誘発されるのも《不戦決議》自体が低次元のものでしかなかった からだ。高市も不戦決議も、《戦争》を五十年前の過去に封印し、《責任》を謝罪と同義にして しまっている点では同じである。
 しかし《戦争》はどこまでも現在の課題だ。《戦争》とはこの日本の《平和》の根拠として 世界で展開されているものであり、《平和》の内側で隆起しつつあるものである。「正しい歴史 を伝える議員連盟」という戦争を正当化する会に所属しながら、戦争について考えるなとい うメッセージを送るこの女には、確かに《戦争》責任がある。

十分に咀嚼すべき最もおいしい部分:
《戦争》はどこまでも現在の課題だ。《戦争》とはこの日本の《平和》の根拠として 世界で展開されているものであり、《平和》の内側で隆起しつつあるものである。

 「幼稚な論理」で詐術的な言説を得意になって語る国会議員らの鉄面皮にはほんとに うんざりする。特に保守・反動の言説に接するとある種の苛立ちを感じる。
 その苛立ちの誘引はなんだろうか。その言説の耳目に入りやすいことにあるようだ。 皮相だから単純にして分かりやすい。自ら考えることを知らない、あるいは考えることを 放棄したものの耳目にはすんなりと入っていくようだ。すんなりと広がっていく。
 反対に、ラジカルな思考を繰り広げる本質的な言説は耳目に入りにくい。私が信頼してよく 読む著書はおおむねかなり難しい。勿論そうならざるを得ない理由があるわけだが、 これではなかなか広がりようがないな、と思うことがままある。
 私はその落差にいらだっているようだ。量より質だよと思っているが、いささか心もとない 気持ちも払拭しきれない。結局、いわゆる世論を形成するのは耳目に入りやすい言説だから。