2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(43)

透谷と蘇峰(2)


 蘇峰が『将来之日本』を上梓したとき、透谷は 18歳であった。前年、透谷は懊悩の末、激化して いく自由民権運動から離脱している。この年は、 脳病を患い「暗黒の一年」のさなかであった。 蘇峰の『将来之日本』は多くの青年の心を捉えた。 透谷もそのときの蘇峰に近親感をもった一人だっ たろう。しかし、思想の根底のところでは異和が あり、やがては二人は対極的な位置に対峙するこ とになる。

 前回、最後に引用した透谷の文章は次の文に続く ものだった。

 國民の鞏固なる勢力は、必らず一致したる心性 の活動の上に宿るものなり。此點より観察すれば、 國民の生命を證するものは、實に其制度に於て、 能く國民を一致せしむる舞臺あると否とに存せり。

 何を以て、國民に心性上の結合を與へん。如何 なる主義を以て、此の目的に適ひたるものとせん。 如何なる信條を以て、此の目的に合ひたるものと せん。吾人は多言を須(もち)ひずして知る、尤 も多く並等(びょうどう)を教ふるもの、尤も多く 最多数の幸福を圖るもの、尤も多くヒユーマニチ ーを發育するもの、尤も多く人間の運命を示すも の、即ち、此目的に適合する事尤も多き者なるを。

 斯の如く余はインヂビジユアリズムの信者なり、 デモクラシーの敬愛者なり。 然れども、 國民の元気は一朝一夕に於て転移すべきものにあらず。 其の源泉は……


 透谷が持っていた蘇峰に対する異和は思想の根底 に関わるものであった。蘇峰には民権運動に対する 「懊悩」はない。民権運動の敗退を痛恨とは思っていない。 蘇峰は『将来之日本』の緒言で言う。

今日ノ門出ハ絶望ノ門出ニアラズシテ希望ノ門出 ナリ。

 『将来之日本』の主張は、蘇峰自らの要約を 引用すれば、次のようである。

 而シテ世界ノ境遇ハ實ニ生産的ノ境遇ナルコト ヲ發明セリ。續デ之ヲ天下ノ大勢ニ質シタルニ。 天下ノ大勢ハ實ニ平民主義ノ大勢ナルコトヲ發明 セリ。吾人ハ更ニ眼孔ヲ我邦ノ一局部ニ轉ジテ 観察シタルニ。實ニ我邦現今ノ境遇ハ尤モ生産的 ノ境遇ニ適シ。我邦現今ノ形勢ハ尤モ平民主義 ノ大勢ナルコトヲ發明セリ。即チ我邦現今ノ状勢 ハ此等ノ境遇勢力ノ重圍ノ中ニ陥リタルコトヲ 發明セリ。

 19世紀の近代ブルジョア政治経済理論を借用し て、日本は将来、生産主義、平民主義の社会にな るという未来像を描いている。そして、この未来 像は「天下ノ大勢」であり必然の成り行きだと言 う。この楽天的にして建設的な言説と透谷の屈 折した言説との違いの核心を、北川さんは次のよ うに分析している。

蘇峰にとって《国民の元気》などあらためて問う までもないことであった。蘇峰には、透谷にある 《余はインヂビジユアリズムの信者なり、デモク ラシーの敬愛者なり。然れども……》の、《然れ ども》という逆接の接続詞の決定的な屈折がなか ったのである。一方、それあるが故に、透谷はな お暗黒に眼を押し開いて、深く地層の下に潜勢し ている《国民の元気》を凝視せざるを得なかった。

 もし仮に、この《然れども》がなかったら、 《国民の元気は一朝一夕に於て轉移すべきものに あらず》の重要な次行への路を欠くことになり、 インジビジュアリズムやデモクラシーの信者とし て、蘇峰の亜流になり終っていただろう。そして、 逆に、蘇峰の思想は、その接続詞を欠いていたが 故に、《我将来ノ日本》の〈見取図〉を楽天的に、 あるいは建設的に描ききることができたといえる のである。


 さらに、蘇峰は『将来之日本』を次のように結 んでいる。

 吾人ハ我カ皇室ノ尊榮ト安寧トヲ保チ玉ハンコ トヲ欲シ。我國家ノ隆盛ナランコトヲ欲シ。我政 府ノ鞏保ナランコトヲ欲スルモノナリ。之ヲ欲ス ルノ至情二至リテハ敢テ天下人士ノ後ニアラザル コトヲ信ズ。

 然レトモ國民ナルモノハ實ニ茅屋ノ中ニ住スル 者ニ存シ。若シ此國民ニシテ安寧ト自由ト幸福ト ヲ得ザル時ニ於テハ國家ハ一日モ存在スル能ハザ ルヲ信ズルナリ。而シテ我ガ茅屋ノ中ニ住スル人 民ヲシテ此ノ恩澤二浴セシムルハ實ニ我ガ社會ヲ シテ生産的ノ社會タラシメ。其必然ノ結果タル平 民的ノ社會タラシムルニアルコトヲ信ズルナリ。


 これは一人蘇峰に限ることではなく、この時期の 大方の知識人や民権派の活動家が共有していたもの であるが、 「議会開設」によってこれまでの藩閥専制政治が 改められ、より民主的な「立憲君主制」の「平民的 ノ社会」へと変革できることを未だに信じ ている。これについて、北川さんは次のように論じ ている。

 むろん、わたしたちは今日の常識で、皇室の尊 栄と国家の隆盛と政府の鞏保と国民の幸福が、言 いかえれば、国権の拡張と民権の拡張が、何の矛 盾もなく同位に円環を結んでいることを笑うこと はできない。なぜなら、維新革命は王制復古とし て行われたのであり、藩閥政府の出自は同時に革 命政府でもあったからである。

 《大衆的な「ナショナリズム」にとって、ある いは支配層の国権意識にとって、これがどんな虫 のいい、めでたし、めでたし主義にみえようとも、 明治初期の知識人にとって、矛盾や分裂があらわ れないという意味で、おそらく多数を象徴する進 歩思想であった》という吉本隆明の水準の確定は おそらく正確である。しかし、明治26年の時点で、 すでに〈国民〉が魔の支配力として倒立して映っ ている透谷の眼には、この無葛藤な折衷理論が、 それがどんなに《多数を象徴する進歩思想》であ っても、《軽業師の理論》としてしか視えなかっ たのは当然であった。


 北川さんは『国民と思想』から、さらに次の文 を引いて論を進めている。

 デモクラシー(共和制)を以て、我国民に適用し、 根本の改革をなさんとするが如きは、極めて雄壮な る思想上の大事業なり、吾人は其の成功と不成功を 論(あげつ)らはず、唯だ世人が如何に冷淡に比の 題目を看過するかを怪訝(かいが)しつゝあるもの なり。吾人は寧ろ進歩的思想に與するものなり、 然りと雖、進歩も自然の順序を履まざる可からず、 進歩は轉化と異なれり、若し進歩の一語の裡に極 めて危険なる分子を含めることを知らは、世の思 想家たる者、何ぞ相戒めて、如何に眞正の進歩を 得べきやを講究せざる。国民のヂニアスは、退守 と共に退かず、進歩と共に進まず、その根本の生 命と共に、深く且つ牢(かた)き基礎を有せり、進 歩も若し此れに協はざるものならは進歩にあらず、 退守も若し此れに合ざるものならは退守にあらず。

 デモクラシーは雄壮な思想上の事業であり、自 分はむしろ進歩的思想に加担するものだが……と いつものようにそこで発語を逆接せざるを得ない 透谷は闇を噛んで苦い。しかし、進歩は転化では ない、と言い切ったとき、むしろ進歩的思想に加 担するものだと言いながら、ことばとは逆にデモ クラシーを以て根本の改革をなさんことを打ちあ げている蘇峰の対極にはじきだされたと言えない だろうか。

 丸山真男は《政府の上からの欧化主義に対して、 蘇峰は下からの欧化主義の主張》をしている、と 位置づけているが、しかし、《全体の国民》を欧 化さるべき客体、つまり啓蒙の対象としている点 では、やはり、政府とは別な意味でこれも《上か らの欧化主義》であると言えるだろう。後に蘇峰 が対外的な危機を契機として、民権論から国権論 へ変節したといわれる問題も、別に突然変異的に 起ったのではなく、こうしたむしろ《上からの欧 化主義》としての啓蒙的な思想の体質そのものに 胚胎していたとみるべきだろう。

 むろん、その《上から》は、政府の《上から》 とは対抗関係をもって、ともかく一時代の〈進歩〉 を代表していたのだから、そこに混同は避けるべ きだろう。透谷自体は、蘇峰に代表される《常に 人世の境域にのみ心を注(あつ)め、社界を改良す と曰ひ、国家の福利を増すと曰ひ、民衆の意向を 率ゆと曰ひ、極て尨雑なる目的と希望の中に働ら きつゝ》ある思想を指して《地平線的思想》とい う名称を与えたのであった。

 〈進歩〉にしても、〈退守〉にしても、《国 民のヂニアス》《根本の生命》に触れないかぎり は、ほんとうの意味で力を持ちえない。〈進歩〉 を語り、〈退守〉を語る、いいかえれば、欧化主 義を唱え、国粋主義を唱える《地平線的思想》に、 透谷はやはり《國民の元気》や《その根本の生命》 を対置するほかないのである。



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