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『続・大日本帝国の痼疾』(39)

明治維新の明暗(6)


 竹越も、1884(明治17)年に公布された「華 族令」をもって、「御一新」の「大目的」は失敗し たと慨嘆している。

 大名を廃して世禄(せいろく)を没官(もっかん) し、門閥を滅して人才を取り、自由平等の大義を 実行し来りし明治政府は、明治十七年七月を以て 華族令を発し、二千五百年来いまだかつてあらざ る貴族制度を立て、公俟伯子男(こうこうはくしだ ん)の区別を定めたり。これ伊藤外遊の大効果な り! ここに於てか政府が政治上に於ては貴族的保守 主義の政略を執り、社会上に於ては貴族的急進主 義を執ること明白となれり。

 維新改革の大目的は実に自由平等の大義を実行 すると、皇室と人民とを近よらしむるにありき。 これ当時の人心に印したる一大譜牒なりしなり。 ここに於てか華族なるものは早晩廃せざるべから ずと信ぜられたるに、ここに至って華族を区別し、 更らに新華族を設けて、皇室の藩屏(はんぺい)と 称し、以て人民と皇室との間を遠ざからしめたれ は、維新以来十有八年にしてその大目的遂に失敗 す。

 而して新華族となりたるものは、多く在朝の 高官にして、在野の元老は大隈と板垣と後藤と勝 の四人のみ伯爵となる。板垣はもとより自由主義に反するものと してこれを固辞せり。その友人もまたこれを辞すべ きを勧告せり。然れども天皇の命辞すべからずし て遂にこれを受く。


 華族令や欽定憲法での天皇神秘化は、 伊藤博文がドイツをモデルに政体を構想した結果 であった(「良心の自由」とは何か Ⅲ を参照)。 これに対し、竹越はイタリアをモデルにすべきであったという 持論を開陳している。

 今やこの冷算政治家(伊藤のこと)は、如何なる 政体を以て国民と相見(あいまみえ)んか。彼は 苦心せり、沈吟せり。而してその部下の談話によ りて独逸(ドイツ)大帝国を作為し、政党の争を以 て自家の地と為すビスマークの業を知れり。ここ に於てか日耳曼(ゲルマン)に入り、世界が驚嘆、讃 美、憎悪する老雄ビスマークと親しく相見て、 その政策の秘密を聞けり。ここに於てか彼は政党以外に超然として立つの 内閣、また決して難きにあらざるを見たり。而し て政党以外の内閣は国民に遠(とおざか)って帝室 に近よらざるべからず。独立内閣の秘密は独り帝 室にあるを見たり。

 ここに於てかその帰るや自ら宮内卿となり、十 七年四月制度取調局を立てて政制を一変するの端を 開けり。而して取調局は実に宮廷の中に設けられた り。ここに於てか漸(よう)やく政治に遠かりし宮 廷、また政治と連結し来る。これより宮廷の高官 は悉く伊藤の友を以て充たされたり。

 もし国情相似たるを以てその事情を参考するの 心あらは、以大利(イタリー)の形勢こそ実にわが 国民の観察すべき所なり。彼は自由都府の小侯国 より一躍して欧州の強国となれり。彼の国民は小 侯の圧抑より脱して自由人民となれり。その政治 家は卑賤の書生より一飛して台閣の上に上れり。 彼は実に鑑(かんが)むべき鏡なりしなり。


 竹越は1865年生まれであり、伊藤は1841生まれ。 『新日本史・上巻』は1891年に刊行されている。 このとき竹越は26歳、伊藤は50歳。伊藤は二度目 の枢密院議長に就任していた。そして、翌年には 二度目の内閣総理大臣に就任している。権勢をほ しいままにしていたこの伊藤を、竹越は「冷算政 治家」と評している。同時代を生きていた青年竹 越の伊藤観は実に辛辣である。本題からいささか 外れるが、竹越の伊藤観を紹介しよう。憲法調査 のヨーロッパ視察に出かける前の伊藤を論じて 竹越は言う。

 彼は大隈の退朝以来、井上馨と共に政府の二人 男たり。浮華(ふか)巧妙なる政策は、常に二人の 手によりて成されたり。然れども彼れただ機に応 じ、変に臨みてその敏腕を用ゆるのみ、いまだ一 定の政論あらざるなり。

 その資性は保守的貴族的にして懐古の情に富み、 自由平等の大理想に向って身を棒ぐるの血性ある なければ、勿論当時のいわゆる改革軍に対しては、 初より抵抗せり。然れども如何なる政体に向って 明治政府を運転せんか、いまだ一定の思想あらざ りしなり。

 彼は時としてはメッテルニッヒ(オーストリアの 宰相)のごとく、李斯(りし 秦の丞相)のごとく、 非常の圧抑を試みんと欲したることなきにあらず。 然れども彼の胆力はその夢想と伴わざるなり。彼 は英仏政治家の跡を追い一大政府党を作り、自ら これを麾(さしまね)きて民間党と決戦せんと欲し たることなきにあらず、否な彼はこれを帝政党に 於て実行せり。

 然れども政党の戦争は古代の戦争 のごとく、その首領自ら陣頭に進みて決戦するの 勇気なかるべからず。彼はこの野蛮の兵士たるべ き勇気を欠けり。彼は宮廷の猫なり。帷幄(いあく) の内に画策し、密室の中に陰謀する策士なり。 彼はあまりに慧眼(けいがん)なり。物の利害あま りに多く彼に見え過ぎたり。多くの勇気と多くの 執着力と、多くの信仰と、多くの野蛮的勇気に少 量の智恵を加味したる政党の首領は、彼に適当の 業にあらず。彼は甘味を好み、甘味と共に一点の 辛酸をも嘗(なめ)るを好まざるなり。 世にもし治平の照代には大将軍となり、 車轔々(りんりん)、馬瀟々(しょうしょう)、 日比谷の練兵場に入り、俯仰顧俛(?)、意気昂然 として英風一世を蓋(おお)うも、一旦不利なる戦 に赴くべしとの命を承るや、官を解きて走るいわ ゆる観兵式の大将軍あらば、伊藤は実にその人な り。

 彼はあまりに聡慧(そうけい)なり。あまりに万 全を好み、暗黒中に大胆なる飛躍を為す能わざる なり。彼は実に明治大革新の反動波中より出でた る冷脳政治家の模型なり。


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