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第977回 2008/02/27(水)

『続・大日本帝国の痼疾』(36)

明治維新の明暗(3)


 「御一新」の理念「一君万民」の実現化に、新政府は 強い実践力を発揮する。「一君万民」の実現化に関連す ることに絞って、その進行を年表風に追ってみる。

 政体書によって設置された公議所は、諸藩割拠 (世襲身分制を併存)を提言するように、未だ古 い意識を払拭できないでいた。変革主体(市井氏 は新政府を担った薩長を中心とする志士たちをこ う呼んでいる。)が内政面でまず心を砕いたのが 諸藩割拠の解体であった。変革主体の工作によって、 まず薩長土肥の4藩の藩主が自発的に版籍奉還を上 表する。それをスタートに、公議所の過半数の反対にもかかわらず、 諸藩割拠の解体は着々と進行していった。

1869(明治2)年
 1月20日 薩長土肥の連署で4藩の版籍奉還の上表を行う。

 6月17日 朝廷、諸藩の版籍奉還を勅許。
      公卿・諸侯を廃止して華族とする。



 ただし、この段階ではまだ土地・人民を名目的に 返しただけで、藩体制そのものは存続そている。 華族という呼称は版籍奉還の代償のようなもので、 古い世襲身分の呼称だけは残す形にした。そして、 諸藩家臣は等しく士族とし、平民と区別した呼称 を制定した。これは「四民平等」化への第一段階 と言えよう。

 その後1・2年の間に全国諸藩で、上土・下士の 身分差によらず才幹による任用、禄高の思いきっ た平均化などを推進させ、藩体制の改革を進めさせ た。

1869(明治3)年
 6月25日 藩知事274人が定まる。
 9月10日 政府、藩制改革の布告を出す。
 9月19日 政府、平民の苗字使用を許可。

1871(明治4)年
 7月 廃藩置県の詔書。


 「藩の垣根をとり去って、郡県制の統一国家体制 が反乱もなくこのとき成就したことは、注目すべ き成果というべきでしょう。」と市井氏は評価して いる。もちろん、新政府の諸施策に対して、農民 などによる騒動・一揆は頻発しているが、ここでは 取り上げない。

 8月9日 散髪・廃刀の自由が認められる。
 8月23日 階級間の結婚が自由化される。
 8月28日 穢多・非人の称が廃止される。


 同年12月には、士族が農・工・商などの職 業を自由に選択することが許される。つまり、 武士は旧幕藩体制下の支配階級の座から退けら れたわけで、法的には「四民平等」へと大きく 踏み出したことになる。

1872(明治5)年
 1月29日 皇族・華族・士族・平民という新身分 制度が確立。
 4月9日 庄屋・名主を廃止して戸長を置く。
 8月3日 学制公布。全人民の平等な義務教育が法的理念となる。
 8月   農民のあいだの身分差別禁止。
      職業の自由が宣言される。
 10月2日 人身売買禁止・娼妓年季奉公廃止令。
 11月28日 全国徴兵の詔書と徴兵告諭が出される。


 皇族・華族・士族・平民という新身分制度が制 定されはしたが、それが幕藩体制下のような身分 差別を意味するものではないことを、「徴兵告諭」 がもっとも明瞭に宣明していると、市井氏は言う。 「徴兵告諭」と、それに対する市井氏の論評を読 んでみよう。

我朝上古の制、海内挙て兵ならざるはなし。有事の 日、天子之が〔兵の〕元帥となり……固より後世 (幕府時代のこと)の双刀を帯び、武士と称し抗 顔坐食し、甚しきに至ては人を殺し、官、其罪を 問はざる者の如きに非ず。……然るに太政維新、 列藩版図を奉還し、辛未の歳(明治4年)に及び 遠く郡県の古に復す。世襲坐食の士は其禄を減じ、 刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得せし めんとす。是れ上下を平均し、人権を斉一にする 道にして、則ち兵農を合一にする基なり。是に於 て、士は従前の士に非ず、民は従前の民にあらず、 均しく皇国一般の民にして、国に報ずるの道も固 より其別なかるべし…

 当時から百年に近く、武力放棄の憲法をもつに いたった現在からみると、右のような四民平等の 公的宣言が、よりによって徴兵令の告諭のなかで なされたという事実は、まことに皮肉とも感じら れましょう。しかしそれが歴史の現実であり、 「王政復古」が「一君万民」思想を介して、 「四民平等」と深く結びついていたことを確認し ておかねばなりません。

 当時の規準からすれば、「一君万民」というイ デオロギーによって、何百年にわたる封建的身分 差別を、いっきょに撤廃する手がうたれたことは みごとといわざるをえません。国内要因からいえ ば、先行の諸章でのべた吉田松陰、および松門の 変革思想が勝利したのです。たしかに後年明治 17年になってから貴族制度がつくり出され、また 穢多・非人などの法的解放が実効をともなわなか った、といった欠陥を指摘することはやさしいの ですが、19世紀の先進国の規準からしても、その 程度のことは西洋にもあったのです。

 たとえばアメリカで黒人奴隷が法的に解放され たのは明治維新の5年前ですが、そのアメリカで 現在なお黒人差別が重大な政治問題となりつづけ ている、という事実を想起するのもいいでしょう。 あるいはまたイギリスでは、第二次大戦にいたる まで、将来の支配者階層を教育するケンブリッジ、 オクスフォード両大学へは、貴族の子弟以外はほ ぼまったく入学できなかった、という事実を想い 浮かべるのも参考になります。いや、むしろ明治 日本は、階層間の移動の高さでは、西洋をはるか に凌駕するにいたるのです。


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