2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(35)

明治維新の明暗(2)


 「王政復古の大号令」で告示された総裁、議定、 参与もメンバーは次の通りである。

総裁
 有栖川宮(ありすがわのみや)

議定
 仁和寺宮(にんなじのみや)
 山階宮(やましなのみや)
 中山前(さきの)大納言
 正親町(おおぎまち)三条前大納言  中御門(なかみかど)中納言
 尾州侯
 越前侯
 安芸侯
 土佐侯
 薩摩侯

参与
 大原重徳(しげとみ)
 万里小路(までのこうじ)右大弁
 長谷三位
 岩倉具視
 橋本少将
 他に尾、越、薩、土、芸の5藩より各藩3人ずつ 推薦

 この人事と同時に、新政府は幕府よりの親王・ 公卿などを徹底的に除外している。また、朝廷では妃嬪(ひひん、身分 の高い女官)が政治問題に容喙する弊があったらし い。妃嬪への諭告も行っている。三叉竹越は次の ように書いている。

 また妃嬪に諭告して、仮にも大政の上を誹り奉 り、あるいは佞人の頼(たのみ)を入れ、故なき事 をも曲げて窃(ひそか)に奏し奉つることのごとき 業あるべからずと令して、官女の陰謀を以て、内 より新政を破るの道を塞ぎ、一方には幕府に親近 せる公卿、大臣、親王、27人の参朝を停めて謹慎 せしめ、…

 以上見てきたように、「王政復古の大号令」は 土佐派(小楠風)の列藩会議(上下議政所)案を利 用して将軍家が実権を温存しようとする思惑に 対して、新政権(薩・長を中心とする指導者) がそれを峻拒することを示したものであった。 しかし、新政府は「大号令」の半年後には小楠風の 政治体制を具体的な方針とすることを打ち出して いる。

1868(明治元)年6月11日 「政体書」公布

 この政体書は立法・行政・司法の三権分立を唱え (実質的には分立になっていない)、議事(議会) 制度の採用、官吏の公選など、中央政府の政体を 示したものだが、小楠の構想がほぼそのまま制定 されている。そして、それは1年ほどの間に次々と 修正が重ねられていった。

中央官制の変遷(第一学習社版「日本史図表」より)
政体の変遷

【注】
立法府は当初は上局と下局があたが、まもなく 上局が廃止され、下局は1867年3月に「公議所」と 名を改めた。現在の意味での立法の権限はなく、 行政府への建議の機関だった。同年7月に「集議 院」と改称されている。


 ところで、土佐派の平和的変革路線ではなく、薩長派 の武力倒幕が強行されたことをどう見るか。この 問題に対して、市井氏は次のように論じている。

 このときもし新政府側が、土佐案どおりに徳川 家の実権を温存させ、上院議政所の議長に旧将軍 をすえて、上院議員たる旧諸侯に政策を立案させ たならば、封建割拠 ― つまり諸藩がそれぞれ 財政・軍事・産業・文化上で大はばな主権をいぜ ん維持するかたち ― が改められることさえ望 めなかったでしょう。

 その証拠に、徳川家が駿府70万石の一大名なみ に格下げが決められ(慶応4年5月)、徳川家の実 力が殺(そ)がれてしまったあとでも、前記の政 体書によってできた公議所では、全国諸藩 から任命された貢士(こうし、議員)は、圧倒的 多数の意見として、郡県制よりも諸藩割拠 (世襲身分制を併存)の方がよい、と上申するし まつでした(明治2年5月)。

 同じ年の1月には、薩・長・土・肥の4藩主が 版籍奉還の上奏をしていることが、ひろく知れわ たっており、しかも榎本武揚らの箱館における最 後の対新政府反抗戦も、瓦解が決した状態での 「公議」がそれだったのです。武力討幕が断固と しておこなわれていなかったとすれば、その状態 で開かれる「公議」がどんなことになったか、想 像にあまりあります。

 もちろんこの戊辰戦争の過程で、悲劇やマキァ ヴェリズムが起こらなかったというつもりはあり ません。相楽総三(小島四郎)がひきいる浪士隊 が東征軍の先鋒隊として農民の年貢半減を布れま わって大功をたてていながら、にせ官軍として処 刑されていった事実などは、銘記されていいこと です。しかしどこの国においても、市民革命はこ の種の下層民擁護運動を圧殺して成立する、とい う通則をも同時に想起する必要があります。

 とまれ奥羽越列藩同盟を結んだ(慶応4年5月) 東北諸藩の方では、輪王寺宮をおし立てて天皇に しようとし、西南雄藩による京都朝廷に対抗して、 同盟側だけで独立国をつくる画策もやったのです が、将来に向けての進歩的なプログラムがあるわ けでなく、まったく受け身の姿勢で能動性に欠け ていました。したがって東北諸藩の同盟が戊辰戦 争によって瓦解せしめられたことは、歴史的に必 然性があったとさえいえるでしょう。


 これまでの戊辰戦争についての私の知識は、 映画や小説などによるいいかげんなものであり、 ともすると官軍の暴虐無道さと幕府側の さまざまな悲劇を対置して、幕府側への一種の 判官びいき的な感情的思い入れが結構強くあ った。しかし、市井氏の冷静で的確な論評には 説得力があり、私は私の戊辰戦争への見方をか なり修正せざるを得ないと思った。

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