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『続・大日本帝国の痼疾』(34)

明治維新の明暗(1)


 前回、『維新20年ほどで維新の大指針「一君万 民」の「一君」は、「合理的一君」から「宗教的 一君」へと大きく方向転回をしてしまう。』と書 いたが、このことについて少し詳しく書きとめて おきたい。

 市井氏も次のように明治10年までの「御一新」 を評価している。

 いくつかの反政府反乱をも含めて、わたしは明 治10年代までの「御一新」の変革に、かなり高い 評価を与えるものです。この変革は、それ以後に できた明治国家よりも偉大である、という竹内好 さんの説に賛成だからです。

 明治7、8年ころまでは政府の布告でも民間人の 文書でも、このめざましい変革を「御一新」と呼 ぶのが普通で、「維新」という言葉が使われるの はむしろ例外だったようだ。以後、とくに明治元年 (9月までは慶応4年)から明治10年頃までの変革 を、「御一新」という言葉で表すことにする。

 御一新は、形式的には、1867(慶応3)年12月9 日の「王政復古の大号令」から始まる。

1867(慶応3)年12月9日

 王政復古の大号令。

 徳川内府、従前御委任ノ大政返上、将軍職辞退 ノ両条、今般断然聞シ召サレ候。抑(そもそも)癸 丑(きちゅう)以来未曾有ノ国難、先帝頻年宸襟ヲ 悩マセラレ御次第、衆庶ノ知ル所ニ候。之ニ依リ 叡慮ヲ決セラレ、王政復古、国威挽回ノ御基本立 テサセラレ候間、今自(よ)リ摂関・幕府等廃絶、 即今、総裁、議定、参与ノ三職ヲ置レ、万機行ハ セラルベク、諸事神武創業ノ始ニ原(もとづ)キ、 縉紳(しんしん)、武弁、堂上、地下(じげ)ノ別無ク、 至当ノ公議ヲ竭(つく)シ、天下ト休戚ヲ同ク遊バ サルベキ叡慮ニ付、各勉励旧来驕懦ノ汚習ヲ洗ヒ、 尽忠報国ノ誠ヲ以テ奉公致スベク候事。


 公卿たちの中には大宝律令などを持ちだして因 循な復古を考えるものもいた。また2ヶ月ほど前に 大政奉還が行われたが、そこには将軍家を首座とし た諸侯の合議による政体をとって、将軍家に実権を 温存する思惑があった。この大号令は政治体制とし て摂関制も幕府制もとらず、全く新たな政治体制 を布くと宣言している。どんな律令も存在しない 「神武創業ノ始ニ原キ」というのは、起草者たちの 深慮遠謀と考えるのは穿ちすぎだろうか。神武の 時代については確たる政体などなにも伝承されて いない(私たちの真説・古代史では、神武は大和盆 地の一画に拠点を獲得したに過ぎないのだから当然 だ。)のだから、「総裁・議定・参与」の設置でも 大義名分はたつというもの。以後も「神武創業ノ始 ニ原キ」は「黄門様の印籠」の役を果たしていく。

 ちなみに、慶喜が大政奉還を逡巡しているとき、 後藤象二郎が次のように慶喜を説得している。

 後藤は将軍なお惜惋(せきわん=惋惜、 嘆き惜しむ)の情あるを見るや、隠さずこれ に乗じ、一夜、将軍に説きて曰く、

政権奉還は天下の一大美事なり、将軍断じてこれ に出れば必ず天下の耳目を一新せん。幕府衰たり といえどもなお天下諸侯の宗なり。朝廷威を振う といえど、なお幕府を恐る。仮令(たとい)将軍政 権を奉還するも、諸侯が推して以て新政府の首座 となすものは必らず将軍ならん、これ名を捨てて 実を取るものなり

と。この言もし薩長討幕党の口 より出しならば、容易(たや)すく将軍の聴を動か す能わざりLといえども、当時中立せる土佐より 出でたれは、将軍の意遂に決し、……

 ところで、この「大号令」には小楠の建言が取り入 れられていることは間違いない。『新日本史』に、 小楠がどのような政体を構想していたのかを示す 資料があった。「大号令」の1ヶ月ほど前に、小楠 は「新政体」について建言をしているのだった。

 今や幕府の形は存せり、然れどもその精神骨肉 は巳に亡(な)し。ここに於てか如何にしてこの後 を善くせんかとの問題早く巳に政治家の脳中に現 出せり。薩長の二藩はあくまでこれを撃て倒し、 更らに自ら幕府と為る能わざるも、各藩連合の共 和政治を行い、自らその盟主たらんと欲せり。幕 府の中にありてももはやその実権を失したるに気 付きたる者は、共和政治を起して、幕府その盟主 たらんと望むものあり。また一方には横井小楠の 流を汲みて、君主独裁制の下に、米国風の制度 を建てこれを以て天下に号令せんとするものあり。 慶応2年家茂将軍なお世にあるの時 (管理人注:竹越の誤認、正しくは「慶応3年(10月14日) 慶喜大政奉還の時」)、幕府やや悔悟の色あるや、 小楠越前侯に上書して曰く、(管理人注:慶応3年11月3日の こと「新政に付て春嶽に建言」)

幕庭御悔悟、御良心発せられ、誠に恐悦の至なり。 四藩の御方、一日も早く御登京、御誠心一致の御 申談、朝廷輔佐に相成侯へぱ、皇国の治平根本此 に相立申侯。……新政之初、別して御大事にて、 四藩之内御登京之上は、大赦大号令仰せ出だされ たく、但し朝廷も御自反、御自責、遊ばされ、天 下一統、人心洗濯希(ねが)う所なり。……一大変革の御時節なれば、議事院建てられ候 筋、尤も至当なり。上院は公武御一席、下院は広く 天下の人材御挙用……総じて用度は先づ勘定局より出し、外国交易 盛行の時に至れば、諸港の運上交易の商税を以て これに当つべし。この費用莫大なれば貨財運用の 妙は議事院中の人傑必ず能くこれを弁ずるものあ らん。

(中略)

外国公使、奉行並びに諸港鎮台等の御役人、関東 御辞職と難も、諸侯之長にて候へば、其職一人は 旗下の士より選び用に定め、その余は下院中よ り選挙……、記録、布告等は下院にて為すべし。


 時に幕府狼狽の折柄なりければ、この建言を採 って断行する能わざりしといえども、当時速に国 民を一統して外国に対立せんとする識者は、皆な この流を汲みたり。彼らは内に於てはなお皇武合 体の陳腐論に区々として、幕府を撃ってこれを倒 す破天荒の術を試みるの心なく、旧制度を保存す るに汲々たるも、一方には最も急進なる意見を有 して、米国風の制度を入れ、旧制度を遣(おいや) るに新制度の活気を以てし、一兵を殺さず、一矢 を折らず、陰々密々の内に旧日本をして新日本に 移らしめんと欲せり。

 「朝廷も御自反、御自責、遊ばされ」というく だりがいかにも小楠らしい。決して天皇を絶対化・ 神秘化していない。

 さて、「王政復古の大号令」が発せられた同じ日の午後、 小御所(こごしょ)会議で徳川慶喜の辞官納地が決定されている。 12月14日、慶喜は辞官納地を拒否し、事態は悪化に 向かった。この小御所会議は、大政奉還で将軍 家の実権が温存されることを恐れた勢力による陰謀と する見解もある。三叉竹越も次のように書いている。

 この会議は、実に薩長芸の三兵を以て、討幕の 大運動を初めんとせる岩倉具視の陰謀が、僅かに 慶喜の大政奉還に遇うて形を変じて国是会議とな りしものなれば、討幕の精神はあくまでも充満し、 兵力を以て徳川氏を滅する能わざるも、せめては 会議の多数を以てこれを打ち滅さんとするの計画 なりければ、革命党は互に諜じ合する所ありたり き。

 「一兵を殺さず、一矢を折らず、陰々密々の内 に旧日本をして新日本に移らしめん」という小楠た ちの期待はかなわず、新日本の夜明けは武力倒幕と いう内戦(戊辰戦争)を待たなければならなかった。

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