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『続・大日本帝国の痼疾』(31)

山県大弐の思想(4)


 松蔭の思想には人民解放への視点がばっさりと 落ちている。そのつまづきの石は「放伐論」である。

 松蔭は「放伐論」は中国では「然り」でも、日本 では「然らざる」と言う。そして、「本邦の帝王 にして或は桀紂の虐あらんも、億兆の民は唯當に 首領を並列し、厥に伏して號哭し、仰で天子の感 悟を祈るのみ。」、つまりどんなに暴虐な天皇でも 我慢してただ反省を祈れと言う。そして、その理 由はというと、皇祖は 「萬世子孫に傳へて天壤と共に窮り無きもの」だ から言っている。日本は「神の国」というわけだ。 このバカげた神がかり理論を未だに信仰している ヤツが結構いるのであきれてしまう。『記紀』の 偽造古代史にキチンと落とし前をつける必要大である。

 大弐が、松蔭と同じく、古代王朝を理想化したの は明らかに幼少の頃の崎門派の師の影響である。 しかし、その理想を神がかりな信仰対象とはせず、 合理的な社会制度論として理念化しえたのは、 二つの契機があると市井氏は指摘している。 一つは、大弐が儒学者・兵学者であるほかに、 天文学や医学にも通じ、法則性・実証性を重んず る科学者的心性をもつていたことであり、 いま一つは、蘐園(けんえん)学派の影響である と言う。

 蘐園学派とは何か。
 蘐園学派とは、三叉竹越のリストには漏れ ていたが、幕府官学の朱子学に対抗して古学派と 総称されたものの一つであり、荻生徂徠(1666~ 1728)を祖とする。蘐園学派は、 朱子など中国宋時代の儒教解釈をとらず、儒教古 典そのものを厳密に古文辞学的に研究し、その古 典を道徳の観点よりはむしろ制度理論の書として 読み、儒学をいわば政治主義的に転回させた。

 大弐は15、6歳以後になって、太宰春台(徂徠の高弟) の弟子・五味釜川(ふせん)に師事している。 大弐は蘐園学派の合理的学風を身につけた。 しかし、大弐の思想は、この蘐園学派ともは っきり異なる独自性を示している。徂徠たちは日 本の古代を美化することはなく、むしろ中国文化に 心酔してした。大弐は日本の古代王朝時代 を理想化していて、その点が蘐園学派と の違いの一つであるが、前々回に示した大弐の思 想の特質(1)において、大弐と蘐園学派は決定的に 異なっている。

 蘐園学派は幕府権力そのものは肯定して いる。それに対して大弐はあらゆる幕府体制を否定し、 当時の江戸幕府権力も武力で倒すべきと主張している。 その大弐が論拠とした思想が、『孟子』の放伐論 であった。

 『孟子』の放伐論については 『大日本帝国の痼疾』(9) で詳しく述べたが、大弐の思想との関連で、孟子の 人民主義的な言説を一つ付け加えておこう。

 孟子曰わく、民を貴しと為し、杜稷(しゃしょく)、 之に次ぎ、君(きみ)を軽しと為す。是の故に丘民 (きゅうみん)に得られて天子と為り、天子に得ら れて諸侯と為る。諸侯に得られて大夫(たいふ)と 為る。諸侯、杜稷を危うくすれば、則ち変え置く。 犠牲、既に成り、粢盛(しせい)、既に(きよ) く、祭祀、時を以てす。然り而(しこう)して旱乾 (かんかん)・水溢(すいいつ)すれば、則ち社稷 を変え置く、と。(「尽心章句下」236)

 孟子が言った。
「国家の中で、人民が最も重要であり、土穀の神 がこれに次ぎ、君主は軽い。だから、人民から歓 迎されて天子となり、天子に歓迎されて諸侯 となる。諸侯の心をつかみ厚遇されると大夫とな る。諸侯が国家に危害を及ぼすと、廃止して別人を 立てる。犠牲の獣類は既に肥え、祭祀の供え物は 清潔であり、祭祀は定期的に行われているが、早害 水災があるなら、土穀の神の祭壇を毀(こぼ)って 更新する」


 このような思想は、当然、松蔭の一君万民論と はまったく相容れないし、権力者からは忌避され る。 幕府官学(朱子学)も水戸学も放伐論を否認している。 まったく在野的な崎門学派でさえ、放伐論をわが 国の国柄にあわないという理由で否認した。 これに対して、蘐園学派は放伐論を肯定している。 しかし、蘐園学派の肯定は、江戸幕府の正当 性を主張するための論拠としての肯定だった。 つまり、朝廷は 民を安んじえなかったゆえに徳川幕府に政権を 移譲せざるをえなかったのだ、というように使った。 大弐の場合はあらゆる武家政治を否定する。

 古代王朝政治を理想化した大弐の理念は、武家 の幕府政治ではそこなわれてしまう。武士が政権 をにぎることに大弐は当然反対する。市井氏の 注釈を引けば「軍人による政治は軍国主義 的なものになり、人民の福祉を阻害するからだめ だ」ということだ。

「文は以て常を守り、武は以て変に処する者たる は、古今の通途にして天下の達道なり。今の如く、 官に文武の別なければ、則ち変に処する者を以て 常を守る、固よりその所に非ざるなり。……計吏 宰官の類の如き、終身武事に与らざる者に至りて も、また皆兵士を以て自ら任じ、一に苛刻の政を 致す」(「正名第一」)。

「政の関東に移るや、鄙人(ひじん 粗野な人間) その威を奮(ふる)い、陪臣その権を専らにす。 爾来五百有余年、人ただ武を尚(とうと)ぶを知 りて、文を尚ぶを知らず。文を尚ばざるの弊は、 礼楽並に壊れ……武を尚ぶの弊は、刑罰孤行し民 はその苛刻に勝(た)えず」(「文武第五」)。

 つまりかれのいう王道政治は、文人(官)が優 位しなければならない政治です。また幕藩体制の ように世襲身分制であってはならず、才能や識見 に応じてどしどし登用し、「天下に遺才なからし むる」政治でなければ、「いずくんぞ以て民を安 んずるの道となさんや」(「勧士第八」)という のです。

 そして、王道理念に反する幕府体制を武力 で倒すことの正当性を、大弐は「民と志を同じう する」ことに求める。同じ放伐論を適用するにし ても、明確な人民主義をその根底に据えている。

 いやしくも 害を天下に為す者は、国君といえども必ずこれを 罰し、克たざれば則ち兵を挙げてこれを伐つ。 ……湯武の放伐は、無道の世にありてなおよく 有道の事を為せば、則ち此は以て君となり、彼は 以て賊となる。たとえその群下にあるも(まった くの庶民であっても)、善くこれ(放伐)を用い てその害(暴君の害)を除き、しかして志その利 (庶民の利)を興すにあれば、則ち放伐もまた以 て仁と為すべし。他なし、民と志を同じうすれば なり」(「利害第十二」)

 市井氏は次のように結んでいる。
 『孟子』にさえ、これほど明確なかたちで放伐論 をのべた箇所は、どこにもありません。とくに、 「民と志を同じうす」るかぎり、「群下」の者で さえ放伐に立ち上がっていいのだ、という主張は それ以前のいかなる放伐論をも超えています。 まさにこの主張において、山県大弐は江戸時代に 類を絶したただー人の思想家、そして実践家だっ たといえましょう。

 20万をこえる農民の大蜂起「伝馬騒動」を目の当たり にした大弐は、団結した農民のそのすざまじいエ ネルギーを幕府「放伐」の戦力とする発想を得て、 かってない「農兵論」を考え出した。農民へ の年貢などの租税を大はばに減らして、余裕ので きた農民たちに学問や武術を教え、体制変革のた めの軍事力に転化させようと考えたのだ。 一世紀ほど後の長州の奇兵隊を彷彿させる構想 だ。

 大弐のその考えは、「伝馬騒動」の中心を担った 助郷村を領内にもつ小幡藩で、 大弐の門人である家老・吉田玄蕃によって実行に 移されている。 玄蕃はその識見によって藩主・織田美濃守信邦(織田信長の直系子 孫だそうだ)の信頼を得、上席家老として 藩政いっさいを任せられていた。まだ30歳を少し こえたばかりだったという。だが、大弐のこの遠大 な計画は、明和事件によって、あえなく潰えてし まったのだった。

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