2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(28)

山県大弐の思想(1)


(今回からの教科書は、主として『思想から』です。)

 「伝馬騒動」と呼ばれている1764(明和元)年の 大一揆 (百姓一揆とは何か(3) を参照)を熟視していた人物がいた。その一揆から、 一揆が起こる由縁と一揆が持つ可能性を洞察し、 一揆の「徒労を転じて有効な体制変革の力たらし めようとする、指導理念をきずき上げてた」 山県大弐である。大弐は1759(宝暦9)年、すでに 幕藩体制の打倒を呼びかけたはげしい著述『柳子 新論』を書いている。市井氏はこの山県大弐 を「江戸時代に類を絶したただ一人の思想家」と 高く評価している。

 大弐は明和事件(1767年)で処刑されている。 まず、明和事件のことをざっとみておこう。

 1758(宝暦8)年~1759(宝暦9)年に、 京都朝廷と江戸幕府とのあいだに、宝暦事件と 呼ばれる事件があった。朝権の回復運動をめざし ていた竹内式部という学者が、公卿や天皇に対し てその趣旨に立つ古典の講義をしていた。言うま でもなく幕府はその種の動きをきびしく警戒して いる。幕府の制裁を恐れた上層公卿が京都所司代 へ式部を密告したため、式部は長男とともに京都 より重追放に処せられてた。

 山県大弐は、式部の門人の藤井右門を介して、 式部の運動とも連絡をつけていた。明和元年の ころ、右門は江戸の山県塾に大弐の師範代格とし て住みこみ、式部や京都の公卿たちとのあいだの 連絡役をつとめていた。

 しかし、大弐の思想は式部のたんなる王政復古 とは違う。それゆえ大弐は、さらに同志をひろげ る活動にも力をつくしていた。大弐の弟子には小 幡藩の家老・藩士がいる。また、九州の肥後藩 藩主の細川家にも働きかけていたという。民衆に 対する啓蒙活動も行っている。「それは二年や三年 のちの蜂起を目指した動きではなく、最低十年く らいはかけて一般に教化運動をやり、全国にいく つか中核になる革新諸藩をつくることが、大弐の 実践プランだったようだ」と、市井氏は推測してい る。

 ところが大弐の活動は、山県塾に出入りして いたものによって幕府に密告されてしまう。 1767(明和4)年2月から翌月にかけて、大弐をは じめかれをめぐる人々はぞくぞくと逮捕される。 江戸だけでなく、伊勢にいた竹内式部父子、 大弐の郷里の甲府では大弐の旧師であった加賀美 桜塢(おうう)父子、それから上州小幡藩では 藩主名代や家老の吉田玄蕃を含めた門人たち、 計40名ばかりが捕縛され江戸へ送られた。

 宝暦事件の主犯を含む「容易ならぬ叛逆」とし て、幕府は老中松平輝高、阿部正右(まさすけ) らがじきじきに評定所で詮議した。

山県大弐 斬罪
藤井右門 獄門
竹内式部 遠島。

判決申しわたしの翌日、江戸伝馬町牢獄で大弐は 処刑された。大弐が残した辞世の歌

くもるとも何かうらみん月こよい
   はれを待つべき身にしあらねば

 大弐は、もしもの時に備えて、累が及ばぬよう あらかじめ妻子を離縁している。

 深く覚悟をきめていた先駆者の最期、というべ きでしょう。江戸期の幕府死刑執行人のあいだに、 代々語り伝えられてきた話があります。長い徳川 時代のあいだに、処刑まぎわになってもとり乱さ ず、その態度のみごとさが獄吏をも感銘さ せた死刑囚はたった二名だった、それは山県大弐 と吉田松陰だというのです。

また大弐は、同志たちの犠牲を最小限にとどめる ための手の打っていたという。その効あってか、 旧師の加賀美桜塢や吉田玄蕃は無罪になっている。 あるいは幕府の政治的な思惑もあったかもしれない。 つまり幕府は、大一揆のあった直後のこともあって、 天下の人心に動揺を与えることを恐れ、小事件と いう外見をもたせて処理しそうとした。それゆえ、 小幡藩はとりつぶしにはならず、藩主・織田信邦 (織田信長の直系ということも理由の一つだっ たか)は蟄居、その弟信浮(のぶちか)に跡目 を継がせて奥羽地方へ移封、という裁決で済ん でいる。

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