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『続・大日本帝国の痼疾』(25)

「毛坊主」とは何か。(3)


 米村氏は、真宗教団成立以後の毛坊主を二つの タイプに分けている。一つは、従来からのヒジリの系譜をひき、遊行 漂泊者から土着民へと「下降」したタイプである。 もう一つは、 在家伝道という真宗の布教活動の中で、村落の 門徒衆のなかから新規に生まれた毛坊主であり、いわば 村落からの「上昇」したタイプである。

 真宗にからめとられた以後の毛坊主はどのような 役割・活動をしたのだろうか。毛坊主は日本全国どこの農村 においても村長以上の権威を有していたという。 江戸時代・飛騨地方の毛坊主についての柳田国男 の記述がる。(柳田は『笈埃(きゅうあい)随筆』 (巻二)の『飛騨里の条』を下敷きにしている。)

 当国に毛坊主とて俗人でありながら村に死亡の 者あれば導師となりて弔ふなり、是を毛坊主と称 す、訳知らぬ者は常の百姓より一階劣りて縁組な どせずといへるは僻事(ひがごと)なり、此者ど も何れの村にても筋目ある長(をさ)百姓にして 田畑の高を持ち、俗人とはいへど出家の役を勤む る身なれば、予め学問もし、経文をも読み、形状 物体筆算までも備わざれは人も帰伏せず勤まり難 し。

 これを受けて、米村氏は次のように補足している。
 豪農にして形状物体筆算までもと言われる如く、 顔立ちも良くなければならぬし万能の才智を備え た人間でなくては毛坊主はつとまらない。而も、 兄弟あれば「兄は名主問屋を勤め、弟は寺役をな すよし」とまで記されている。つまり、村の政治 と祭祀とが兄弟によって両分保有されていると いう古代天皇制に類似する型がここにはある。 と同時に、毛坊主が万能の人間として村の上に君 臨している事実が伝えられている。

 右の引用文のなかに「常の百姓より一階劣りて 縁組などせずといへるは僻事なり」とあるのは、 すくなくとも、土着常民から差別された遊行漂泊 の毛坊主の原型について言っているのであろう。 『笈埃随筆』に於て述べられた毛坊主が、漂泊の 民から定着した「下降型」として、幾世代にも亘 る定着の末に遂に村を支配してしまったものか、 あるいは真宗の伝播以後、長百姓が村のなかから 「上昇」した型であるのかは定かではないが、 おそらく後者であると思われる。

 今日、飛騨、美濃、越前、加賀などの山村に 於ては、依然として、この上昇型の毛坊主の存 在が村を取り仕切っている。龍谷大学の千葉乗隆 教授によれば、岐阜県大野郡清見村に於ては、 村長、県会議員、教員がいずれも毛坊主で占めら れ、地域社会のリーダーとしての地位と伝統を保 有しているという。

 柳田国男は『毛坊主考』に於て「御断りをする 迄もなくヒジリ毛坊主の団体へは新加入者が続々 あった」と言う。これは私の言う「上昇型」に相 当する。更に柳田は「団体としての系統は辿るこ とが出来るが、是から推して血の系統を説くこと は勿論不能である」と断わっている。「下降」 「上昇」のいずれにせよ、あるいはその合一にせ よ、毛坊主が差別のなかに封じこめられなければ ならない理由は何一つない。まさに『笈埃随筆』 の言う通り「僻事なり」である。むしろ逆に、今 日に於ては村人の衆望を担い村を指導し、そのよ うな者でなくては毛坊主にはなれぬのである。

 毛坊主という制度は現代にまで残っているとい う。米村氏は熊本市の正龍寺という真宗の寺に生 まれ、その寺の住職を務めておられる。氏は、 その寺が関わっていた毛坊主のことを次のように 書き留めている。

 私の寺の門徒のなかにも毛坊主はいた。熊本市 の西に聳える金蜂山を超えた向うのもう一つの山 の村である。熊本県飽託郡河内町野出。夏目漱石 の『峠の茶屋』のモデルとなった村である。

 この村は、熊本市中心部の問屋街に在る私の寺 からは余りにも遠い。そこでかつては、村に死人 が出ると、村の毛坊主によって仮の葬式を営み、 後日、当寺に伺い死亡届を出して法名を貰うとい う段取りが慣例であった。毛坊主を仮坊主と言っ たりするのはこの故であろう。この慣例を「届け 詣り」といったりする。

 私が寺を継職する以前の新発意であった当時、 野出の毛坊主は小畑惣次氏であった(昭和30年入 寂)。勿論、村一番の信望厚き教養人であった。 だが、飛騨地方の毛坊主と異なる点は、政治 を卒業し政治とは緑を切った隠居の長百姓である。 小畑氏は毛坊主に就任するに当って、三年間、 私の寺に寺男として住んだ。その間、仏前作法や 経典読誦を修得して、村へ帰った。得度をせぬと はいえ、毛坊主になるに当っては、その道程は 厳重であった。

 小畑氏が亡くなると同時に、日本全国に高度成 長の波が襲って来た。道路が整備され車が普及し た。今ではどんな山奥の村の家でも玄関先まで 車が乗りつけられる。この僻村と当寺とは短時間 のうちに直結出来るようになった。いきおい毛坊 主の存在は必要でなくなる。今日、この村では毛 坊主は滅んだ。小畑惣次氏が最後の毛坊主であっ たということになる。

 現在、葬式や仏事法要には逐一、私の方から出 向くが、その他に、春夏秋冬、年四回村全体の講 に趣く。門徒全員が阿弥陀経や正信偈をあげる。 もはや毛坊主の存在はなくなったが、その役目の 一端は継承されている。例えば、葬式の際、私の 趣くのは本葬の時であり、通夜の席に於ては、こ の村の地域総代が勤行をする慣例である。これは 私が決めた訳ではない。毛坊主以来の伝統が自然 に残っているのである。この役目は上村喜平氏が 勤める。上村氏はかつての農協長であり、現在は、 政治から引退した信望厚き人物である。読経のリ ズムの採り方、音階の採り方は私よりも巧い。

 日本の村、日本の民俗、日本の民衆史を見るに 当っては真宗の風儀は絶対に欠かせない重要な要 素である。ところが民俗学や民衆史を扱う徒輩は 真宗に対してアレルギーを持つ。何よりも柳田国 男がそうであった。これは本願寺がネックになっ ていると思われる。だが、本願寺という上の部分 から見ようとするから拒否反応を起して意図的に 欠落させてしまうのである。謂わゆる教団ドグマ と民衆に於ける真宗とは別ものである。あくまで も民衆の側から真宗を見て行く時、これまで気付 きもしなかった新たな民衆史、民俗学が開かれて くる筈である。 日本の民衆史は即民間信仰史ではない筈であ る。氏神あるいは土俗の神を中心とする村落共同 体が民衆の歴史ではない筈である。真宗を見るか 見ないかは今後の日本民俗学、日本民衆史の存在 そのものに関わっていると言っても過言ではない。

 扨、球磨郡に於ては、今日、毛坊主は世襲制度 ではなく、「上昇」の型である。いずれの村に於 ても、豪農にして教養ある人物、勿論、信心厚き 人物であることが条件として村人の間から互選さ れ、輪番制によって継承されている。勿論、村長 以上の権威と影響力を持つ者が多い。

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