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『続・大日本帝国の痼疾』(24)

「毛坊主」とは何か。(2)


 米村さんは、柳田国男著『毛坊主考』を徹底的に 批判することを通して論を進めている。まず、『毛 坊主考』に底流する柳田の偏見を指摘することから 始めている。

 神主の子である柳田国男は、まさに神主という シャーマンの子としてのコンプレックスと偏見に よって、民衆のなかに於ける「聖」なる流民、そ れは今日に於て「被差別」を不当にも強いられる 人々であるが、鉦打、鉢屋、茶筅、ササラ、地者、 願人、シュク、と呼ばれる人々、それが更に皮革、 竹細工等の手工業者へと分流するのだが、その人 々とその村の所在とを一挙に洗い立ててみせた。 その一環が『毛坊主考』なる一篇である。柳田は 右に掲げた生活技能者をあくまでも蔑視をもって 特殊な賤民としての世界に押しこめる。

 そして、『毛坊主考』の次の一節に着目する。

 東国通鑑に依れば、新羅の第九王伐休尼師今、 姓は昔名は伐休、脱解の子角千仇鄒の子なり。 王風雲を占して預め水旱及び年の豊倹を知り、 又、人の邪正を知る、之に由て観れば、天皇を ヒジリノミカドと申上げたのは、多分は聖天子 などと云う漢語の直訳であって、何れの世にも 天皇を神とこそ申せ、ヒジリと唱へたことは無 かったろう。毛坊主如き者の元祖と共通の名と 云ふは畏れ多いが、要するに上古の文学などは 此ほど迄に平民と没交渉のものであった。

 この悪文には、柳田の戸惑いと怯えのような ものが感知できる。米村氏はそれを次のように 分析している。

 柳田は何を言いたかったのだろうか、右の文章 はまさに支離滅裂、同時に、毛坊主という被差別 者の元祖が天皇と同じであったという言辞を我知 らず吐いてしまって、否、畏れ多いと言っている のである。

 私はここで天皇が被差別者の代表とし ての象徴であるという天皇論を張るつもりはない。 だが、毛坊主とは(真宗教団に搦めとられる以前 の毛坊主とは)天皇と同じ種族のヒジリであった のである。ヒジリには聖の字を宛てるが、元来、 日知りである。ヒジリ(日知)とは、文字通り、 日を知る人であり、日の善し悪し、日の性質を知 り、又は日の性質を変更し、日のように天の下を 治めるシャーマンである。天皇がシャーマンであ るかプリーストであるかを問う必要はない。天皇 はその発生に於て、扱う祭式に於て、明らかなる シャーマンである事は言を俟たない。

 「天皇はその発生に於いて」というときの「天皇」 を、米村氏はヤマト一元主義の枠内で論じている と考えられるが、私(たち)は遙かにアマ国の始原 の王までさかのぼって考えることになる。しかしさ しあたって以後の論考では、九州王朝に取って代わ った律令制国家としてのヤマト王権(日本国)を 想定して差し支えはない。

 さて、米村氏は、柳田の主張に反して、天皇を ヒジリと呼ぶ例をいくつか「上古の文学」から引い たうえで言う。

 「何れの世にも天皇を神とこそ申せ、ヒジリと 唱へたことは無かった」と柳田は言うが、柳田ほ どの文献史料学的学者がこの事を知らない筈はな い。むしろ、柳田はその事実を知っていたからこ そ、
「要するに上古の文学などは此ほど迄に平民と没 交渉のものであった」
と、およそ脈絡のない言辞を突如として弄して回 避した。

 天皇こそヒジリと呼ばれたのである。ヒジリは 常民にとっては不定住の流浪漂泊の異族である。 その、日を知り日を司どる不定住の異族・毛坊主 がいかなる境をも超えて浮遊するという超越的支 配性の故に、国家統合の時点で唯一のものとして 国家の上に上昇し定着させられた。それが天皇で ある。毛坊主は天皇という名称とその地位に一身 に収斂されてしまった。残る毛坊主はその残滓と して漂うたまま、一層、被差別の奈落へと下降し て行く以外にない。

 天皇を頂点とする律令国家体 制の貫徹のなかでは、ヒジリ(=シャーマン)の 地方に於ける存在が国家統一の異物として、更に は淫祀邪教の異端として弾圧されていったことは、 ここで言うまでもない。それ以後、追われる身と して民間に隠れたヒジリ集団が安住の地として漂 着した彼岸こそ外ならぬ仏教であった。仏教の持 つ開かれた汎神思想のゆえに、仏教は毛坊主を汲 み摂った。というより、天皇以外のヒジリは場処 を追われて仏教のなかに紛れ込んだのである。そ れが、ヒジリに対して、毛坊主という新たな名称 を附加させることになった。

 柳田は言う。「ヒジリが仏法を利用して毛坊主 となったので、仏法の普及が新たに此の如き階級 を作ったのでは無い」と。

 毛坊主とは、本来、仏教とは関係のない人神で あった。ヒジリに被慈利(慈恵利益を被る者)、 又は非事吏(世事を離れた寺務吏員)という字を もって当てるようになったのは仏教との接合以後 に於ける作為である。

 柳田の『毛坊主考』を論評したものに、山折哲 雄の『アジアイデオロギーの発掘』がある。その なかの「日本型仏教イデオロギーの扼殺者」なる 章に於て、山折氏は
「神の子孫として、常民とカミの間を媒介する生 活技能者」
だったという定義をヒジリに与えている。人神と しての遊行漂泊のその生活技能者が、弾圧の歴史 の果てに念仏と結びついてしまうのである。阿弥陀 ヒジリと呼ばれる集団に彼等はその身を仮託する。 行基、更には天台の空也上人、あるいは時宗の一 遍上人の遊行念仏、はたまた弘法大師の高野ヒジリ に。

 それらは、今日、猶、不当にも被差別の扱い を受ける鹿杖(かせづえ)鉢叩き、鉦打ち磐叩き (かねうち・けいたたき)として、埋葬と勧進を業務とし、更に はそれが特殊手工業として分岐しながら、日本全 国の村落にジプシーとして下降して行く。 「あるき筋」という別称を当てがわれて。それが 埋葬以下の技能を持つ以上、やがては常民の要請 によって村落のなかに、あるいは村落の境や外れ に土着化を見せることになる。これが毛坊主の種 族である。その種族のなかには卓越した布教と指 導能力によって、村人を服従させる者も多かった ろう。

 この毛坊主に目を付けたのが外ならぬ真宗教団 であった。教団の教線拡大にとってヒジリの持つ 遊行漂泊性、更には村落の「境」を超える治外法 権的行動性が、オルガナイザーとしては打ってつ けのものであった。更には、霊魂に関わる人神と しての村落に於ける定住は、村民を精神的に支配 し犯すという怖れある地位と、それに見合う物質 的富の力を獲得していた者もあったであろう。

 而も、ヒジリの業務とするものは勧進であった。 勧進とは仏の本願の名のもとに、布施(金品)を 差し出させることである。それは、時として土着 常民にとっては「ユスリ」「タカリ」になったで あろう。教団としてはヒジリの抱える「仏の本願」 が所詮は浮遊不明な所在であり、その故にいずれは ヒジリは常民のなかで行詰るであろう事を予見し ていたに違いない。ヒジリ自体としても同じであ ったろう。その「本願」を「本願寺」という定着 したヒエラルキーに転換させれば、毛坊主自体に とっても、それは強力で安定したものとなったに 違いない。真宗教団の民衆の大量組織の成因は、 ひとえにこの俗ヒジリを本願寺へと収斂させる事 にあった。だから、先祖崇拝や祖霊信仰を否定す る等の親鸞の念仏が、毛坊主なる俗ヒジリの吸い 上げによって地方に教団を伝播させる以上、毛坊 主の祖霊信仰の習俗を丸ごと抱えこむことになり、 死者儀礼を始めとする習俗儀式を生活技能とする ことによって教団の基盤が維持されるという 「負」の方向へと自ら転落する事にもなった。 もっとも、これは教学ぬきの一面である事をお 断わりしておく。

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