2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(22)

一揆の可能性と挫折(3)


 前回、「隠れ念仏」と「毛坊主」について簡単 に触れておこう、と書いた。順序から言うと今回は 「毛坊主」の番なのだが、『殉教』に目を通してい たら、これは「簡単に触れ」て済ますわけにはいか ないと思えた。先に、相良藩ナバ山一揆を取り上 げて、その後で少々詳しく「毛坊主」を取り上げ ることにする。もともといい加減な構想で始めた 稿だけど、次々と気まぐれのように想定していな かった話題に飛んでしまって、表題から 離れていくような感がある。落語のオチじゃないけれども、 最後は表題どおりのオチになるだろうと楽観して、 ともかく気の向くままに進むことにしよう。

1841(天保12)年 相良藩ナバ山一揆

 天保という時代は、飢饉と商品経済の著しい発展 により、藩の力が弱まって行くばかりの時代だった。 この頃、全国諸藩の77%がそうした状況にあった。 相良藩も例外ではなかった。慢性的飢饉の上に度重な る洪水。藩財政は実収額を上回る藩債と藩札を抱えこみ 瀕死の状態であった。文政から天保にかけては、 一石につき四升宛という酷い増税をしている。 町には売米が払底し、方々に餓死者が出る始末だった。

 そのような折、田代政典という人物が家老となり、 藩の危機を救うためにさまざまな方策を打ち出して いった。特に殖産 開墾に力を注ぎ、百姓の救済と新田開発を政治の 眼目としていた。それと同時に、徹底した経済引 締め策を敢行している。農民の楽しみの一つであ る焼酎の醸造禁止もその一つであり、当然これは 農民の反感を買っている。 家中諸士の給料(知行高)の切り下げも断行する。 先代藩主の次男の相良左仲の知行高をも切り下げ てしまうというほどの厳しい処断であった。

 家老は飢饉時の農業対策の一環として、椎茸の 養殖栽培を企業化した。豊後から茸山師(なばや まし)とその技術を導入して山の管理をまかせた。 時あたかも大飢饉、相良の百姓は食するものとて なく、山にはいって葛の根を掘っては生命を繋ぐ という日々である。ところが、ナバ山で葛の根 を掘ったばかりに、権力を嵩にかかるナバ山の職 人が百姓どもを打ち殴った。しかも、ナバ山の労 働に駆り出されるのは、肝心のその百姓である。

 さらにもっと不都合な事に、町人辰右衝門に 椎茸の利権を与え、ナバ山の支配をまかせていた。 利権はナバ山に限らず、紙、麻苧(まちょ)の買 入れにまで及び、その支配を城下町の商人達にま かせた。おそらく、農政改革遂行の資金を城下町 の商人達から導入した見返りであったろう。そして、 ご多分にもれず、見返りの見返りもあったことだろ う。

 商人らに山仕入、紙仕入、麻仕入の利権を与え、 しかもリベートを取るという仕組みは、農民の疎 外と、更なる「百姓潰し」にしかならない。町人 による農業支配はとどまる処を知らぬ搾取へと傾 斜する。百姓救済を眼目として始めた政策が、新 たな収奪体系を農民に強いる結果になった。

 利権を握る商人達は、農民からの、紙、麻苧の 買入れに当って、相場より低い値段でしか買入れ ない。更に、買入れの時は手形である。それが現 金に両替する時は更に2割引というあくどい搾取を 行っている。

 さらに政典は倹約の一環として、死んだ牛馬の 皮を、エタ(毛坊主の種族)と呼ばれる被差別の 人神に剥ぎ取らせる。これまでは土中に埋葬して いた牛馬の屍体の皮を剥ぐという倹約令は、百姓 にとって家族同様であった家畜に対する感情を引 き裂く。ついに一部の農民が憤懣を爆発させ、ナ バ山小屋を焼き払った。だが、ここまではまだ一 揆の気配はなかった。

 ナバ山小屋を焼いた百姓たちを、藩は30日の間、 拘留する。おそらくナバ山での強制労働であった ろう。この処罰が導火線となった。農民たちは遂 に蜂起する。

 一揆の打ちこわしは、藩との間で利権を貪る商 業資本に向けられた。ナバ山支配を始めとする、 紙、麻苧の支配人たち、更には、酒屋、醤油屋、 米屋、反物屋などなど。打ち崩しの始まったのが、 天保12年2月9日。 打ち崩しは昼となく夜となく続けられ、夜は夜で 灯をともして、土蔵を打ち崩し、柱には縄をまい てひき倒した。

 当初わずか1800人ほどだった一揆の集団は、 、一挙に15,000人にふくれあがる。さらにわず か三日の間に、最終的には、30,000人の大集団 となっている。しかもその 大集団は単なる「群集」ではなく、訓練された軍 隊の如くに整然としていた。

 一揆軍は各村の名を記した旗の下に、村ごとに 集結し編成されていたのである。さらに一揆は、 鉄砲を先頭にし、その後に、斧、山刀の軍勢が続 いている。たいていの百姓一揆の場合、藩側の鉄 砲の威嚇によって一瞬にして崩れ去るのが通例だ が、相良の一揆では逆に、鉄砲を楯にし、鉄砲を 合図に行動している。見事に統制のとれた一揆軍 であった事を薩摩藩の横目が記録した秘密文書に 記されている。一揆は2月9日に蜂起し、2日後の11日には 引揚げている。この三日間、一揆弾圧の 藩兵の出動は見られない。

 一揆軍が目指している最終目標は家老田代政典 の首であった。
「家老田代善右衛門(政興)、生首を取不申内は 何様之儀二而も引取間敷抔と徒党之者共、声々ニ 相罵り為申由承申侯」
と記録されている。家老田代政典の生首を取るま では引き取る訳にはいかないというのだ。さらに 一揆は、ナバ山支配の政商・辰右衛門の命も求め ている。

 辰右衛門の消息は次のように記録されている。
「辰右衛門所を初、同人事は可致殺害との事ニ而、 家は勿論、家財等迄も都而(すべて)打崩、然処、 同人ニは迯去行衛不相知由…(略)」

 家老田代政典は永国寺の隠居寺に身を隠す。 だが一揆の波はここにも襲ってくる。政典は山 伝いに寺を忍び出て「山田川を見られ侯処、雲霞 の如く数万の人数群集して、折々鯨波を上ぐるを 見」て逃避行を断念、「脇差を引抜き腹に突立て」 切腹して果てている。

 相良領内24ケ村を動員してなされたこの一揆は 完全に農民側の勝利に終ったが、この一揆の性格 を物語るエピソードやハプニングがいくつか記録 されている。

 打ちこわしは商業資本に向けられたが、それら 商家は一揆が起ると同時に一揆の軍勢に助勢 すれば、打ちこわしから免がれる。
「外ニ酒屋壱軒、店之外壱間掛り打崩し内の方ハ 不崩候付承候処、右酒屋ハ百姓共江酒余多為飲候 よしニ而、是ハ惣而打崩筈之所にて候得共、酒之 礼分ニ少し打崩取止候由」
 打ち崩しのスケジュールのなかにはいっていた 酒屋が、一揆の百姓どもを迎えて存分に酒をふる まってくれたので、その礼として、一揆軍は外の 方を形ばかり崩して、後はそっとしておいてやっ たという。

 これに反して、猪之鹿倉村のうち、一揆に参加 しなかった20軒の家に、引揚げる途中で火をつけ 焼き払ってしまうという制裁を加えている。

 さらに、農民の反感を買ったものに、農政改革 と同時に盗賊方とその手先の者を各村に派遣して 村民を取締るという条令の施行があった。その盗 賊方目明かしのなかには、権力を嵩にきて追剥 強盗をやらかす者がいた。これも当然、一揆軍の 殺すべき対象のなかにはいっている。一揆軍はそ の目明かしを捕え、その妻を柱に縛りつけ、妻の 見ている前で、山刀で切り殺している。

 もうひとつ奇妙なことがある。政典によって知行 を切り下げられていた藩主の叔父の相良左仲が一揆を 扇動・援助しているのだ。左仲は一揆に向かって 「士族の小路にはいってはならぬ。但し町家は勝 手次第に打ちこわせ」とそそのかし、家中藩士に 向かっては、「乱暴致すな」と言い「百姓共につ き、刀、脇差等に手をかけてはならぬ」と申し渡 している。一揆に対しては
「家老田代善右衛門役儀差免、其外改革之規掟 一々引取、本之通仕向可致候付是非引取(うかん むり+火)様」
にと、再三訴えている。
 だが一揆の側は、「家老政典の生首を取る までは引取らぬ」と承服しない。そうするうちに、 左仲から、「田代政典が切腹して果てた」事を知 らされ、一揆は左仲の提案をのんで引揚げ たのだった。

 左仲は田代追い落としに成功した。だがそれも 束の間、一揆を煽動した容疑により、左仲自身も 藩から切腹を命ぜられている。左仲一人を処罰し たことにより、藩は一揆の百姓を誰一人とがめ た様子はない。記録は次の如くに結んでいる。

「右ニ付徒党相企百姓共儀、跡以御咎目ニ而も可 有之哉承合候得共、村々無残程之事ニ而殊ニ改革 方都而(すペて)実引取ニ而銀札も来月朔日限、 都而御取退有之等の由ニ而、何そ御取扱等有之向 二無御座候由」

 手形(銀札)も来月一日限りで、以後は実取引 にすると藩側は譲歩したのである。

 一揆は完全に成功したが、この一揆も所詮、既 存の支配体制の秩序を明らかな前提としており、 そこには民衆独自の自立した構想は見られない。 それが左仲につけ入られる隙でもあった。

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