2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(21)

一揆の可能性と挫折(2)


 一揆の諸要求は幕藩権力を震撼せしめはしたが、 幕藩支配体制そのものの否定にまではいたらず、 その既存の支配体制を前提にした村落共同体再編 の要求にとどまった。しかし一揆が、現実の村が もっている支配体制の末端単位としての存在様式 の否定に連動する可能性をもっていたことは否め ない。そして、それが可能性でしかなかったのは、 一揆の担い手たちがありうべき現実的世界像を構 想しえなかったからである。いわば、理論武装が 欠けていた。その理論武装には被支配者の側に立 つ知識人の力が不可欠だったろう。市井氏は、青 木氏の文を引用した後で次のように述べている。

 したがって幕藩体制内部のいわゆる諸矛盾が増 大するにつれて、体制そのものをいかに改めるか という発想と、それを実現するためのイニシャテ ィヴないし指導力とは、前章にのべた山県大弐の ような、直接生産に従事しない知識人 ― 現実 には処士(浪人)、武士、学者、医師、僧侶、等 々の人々 ― にゆだねられざるをえませんでし た。

(中略)

 政治的にその体制の変革をめざすという役割は、 前述の知識人にゆだねられたとはいえ、この種の 農民の抵抗は、いわば自然法則の作用に似た機能 を発揮して、知識人が働きかけるべき社会的土壌 をつくったといえるでしょう。

 さきの引用文で青木氏が、「岩代の信達一揆以 外はモッブ(衝動的暴民)であった」と評された 慶応二年の世直し的大一揆の高まりは、国訴のよ うな合法闘争とはちがって、「モッブ」であるだ けにそのエネルギーの奔流にはすさまじいものが あり、それ自体が意識的政治プログラムをまった くもたないとしても、その時点で旺盛に動き出し ていた意識的倒幕運動にとって、きわめて好都合 な社会的風土をつくり出したことも記憶さるべき でしょう。

(山県大弐の思想については、後に『思想から』を 教科書に学習する予定です。以下は『殉教』 による。)

 市井氏は僧侶を知識人の中に入れているが、半 僧侶ともいうべき指導者がいて、「自分の村に、 独自の構想をもった小国家を作っ」ていた事例があ る。 その指導者は毛坊主と呼ばれる隠れ念仏の布教者 であり、名は高沢徳右衛門という。「村と村、 あるいは藩境をも超えて繋がり合う隠れ念仏」と いうネットワークを創っていた。これは、一揆を 目的に創られた組織ではなく、一種の恒常的な 自治組織であり、いわゆる「桁打」とは違う。 この隠れ念仏のネットワークが、結果として、 一揆の動員に圧倒的な力を発揮したのであった。

 その一揆とは1841(天保12)年の相良藩ナバ山一揆 である。この一揆の「驚くべき真相」を伝える古文書 が見つかったのは、わずか40年ほど前の1966年であっ たという。その古文書は、相良藩の隣藩・島津藩 から相良藩の一揆の実態を探るために送り込まれた 「横目(スパイ)」が記録した秘密文書である。

 詳しい記録文書の発見がわずか40年ほど前なので、 この「江戸時代を通して、もっともユニークな農民 蜂起」の実態は、あまり広くは知られていないよう だ。少し詳しく紹介しようと思う。また、この一揆 に深く関係している「隠れ念仏」とか、そのオルガ ナイザーの「毛坊主」とかも耳なれな言葉だ。一揆 の紹介の前に、これらのことにも簡単に触れておこう。

 まず「隠れ念仏」について米村氏は次のように 述べている。

 ここで言う「隠れ念仏」とは、政治権力の弾圧 に抗して地表から隠れざるを得ない形の「隠れ念 仏」であり、それはあくまでも普遍宗教としての 念仏を正統に継承するものである。これに反して、 禁制がある訳でもないのに、呪術秘儀という土俗 への自らの下降をもって嗜好的に隠れる「隠す 念仏」、つまり、民衆の「負」の部分としての原 始宗教乃至は民衆宗教としての「隠し念仏」とは全 くの別ものであることを申し添えておく。

 ここで言う隠れ念仏について具体的に申せば、 相良藩ならびに島津藩のとった念仏禁制にその発生 を見る。相良ならびに島津は、切支丹と同様に、 中世の終りから江戸時代を通して真宗を禁じた。 その禁制は、1500年代の初めから近代国家の創成に 至る明治10年までの370年間という4世紀もの長き に亘っている。

 この禁制を、相良あるいは薩摩とい う辺境の特殊な事件として見るのは誤っている。 そこには日本歴史の総体が表象されている。更に は、民衆と宗教との関わり合い、縺れ合い、常民 とは違うもう一つ別の民衆の存在、そして民衆と 権力との葛藤の全様相が目くるめくほどに光を 放っている。

 相良藩と島津藩が真宗を禁制にした理由は何か。 江戸時代の歴代の藩主が出している「お触れ」の 類では「代々禁じられてきたから」という理由し か見出されないという。では、その「代々」とは 何時ごろまでさかのぼるのか。米村氏は、「求麻 外史」という相良藩の正史を解読して、1500年~1512年 の間に制定されたと推定している。そしてその禁制の 理由については、その淵源は一向一揆にあると容易に 推定できるが、たしかにそこに禁制の理由があるこ とを、やはり「求麻外史」から引き出している。 そして、次のように論じる。

 真宗の念仏は、人間存在の根元的な罪業を問う。 自らの罪の過ちを自ら知りて自ら改むる図式の人 間絶対主義を、雑毒の善、或いは、さかしらな人 間のはからい(迷い)として排斥する。改めよう にも改められない、謝そうにも謝すことの出来な い、おのれの罪業の深さを思い知れと真宗は教え る。勿論、そのような自らの根元に巣食う罪悪の 覚知と、それの享受は、他力(弥陀如来)を頼む ことによって知らされる。

 真宗という宗教が日本 の地平に開いたものこそ、如来の法の下に於ける 「罪悪の自覚」あるいは「宿業の自覚」であった。 その宿業観は、同時に、百姓であれ領主大名であ れ、その身分のいかんを問わず、人間の存在と営 為のすべてを虚仮なるものとして相対化し破却す る事に通じる。人間の善悪の規準の設定は、人間 の恣意的な迷いによる。善であれ悪であれ、或い は、領主大名であれ百姓であれ、人間は皆、救わ れざる宿業の身であり、煩悩具足の凡夫であると いう仏による絶対平等の地平、そしてそこからの 人間の歩みを説く真宗の念仏であってみれば、儒 教亜流の思想によって身を立てる支配者層と対決 し衝突するのは当然の事である。自らを絶対とし て立てなければならない支配者層にとって、真宗 の念仏は、自分の基盤が音を立てて崩れて行くほ どの怖るべき危険思想であったのである。

(中略)

 もし、民衆がこのような根元的な(出世間の) 思想に染まったらどうなるか。何よりも領主大名 としての権威権力は一朝にして無化される。現実 に加賀では一向一揆も起った。ここで何としてで も真宗を阻止しておかなければならない。封建体 制の「防衛」のためにも真宗の侵入を食い止める 必要がある。そこで相良は未だ一揆の被害は受け ていないが、「防」なる政治を標榜して真宗禁制 に踏み切ったに違いなかった。だが、そこに待っ ていたものは意外にも民衆の死を賭けての抵抗で あった。

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