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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(20)

一揆の可能性と挫折(1)


 教科書を追加します。

市井三郎『思想からみた明治維新』(講談社学術文庫)
米村竜治『殉教と民衆』(同朋社)

 以下、それぞれ『思想から』、『殉教』と略称します。


 『思想から』で市井氏が「江戸時代の農民一揆 を徹底的に研究された青木 虹二氏」の『百姓一揆の年次的研究』から引用し ている文章を孫引きする。

 世直し一揆の場合でも、中農層が指導して一定 の綱領を持ち、統制がきちんととれているものに は一揆の段階的な発展がくみとれるが、都市 の米騒動を典型とする職人層・日雇層の行動や、 農村における貧農層のみの蜂起は空想的な叛乱で あって、一時的な緊張の激化にとどまるものであ ったと思う。慶応二年の時点でさえ、岩代の信達 一揆以外はモッブであったわけで、その点に暴動 のはげしさで支配階級を震撼させたとしても、直 接、権力の打倒を指向する方向へ進まないもろさ を持っていたのではなかろうか。

 青木氏は、世直し一揆のほとんどが十分準備さ れたものではなく、その場限りの衝動的暴動(モ ッブ)に終わった「もろさ」を指摘している。 そして、その「もろさ」の要因を適切な指導者を 持たない点に 求め、その故に「空想的な叛乱」に終わらざるを 得なかったとしている。

 そして、青木氏は「中農層が指導して一定の綱 領を持ち、統制が」とれていて「段階的な発展が くみとれる」るものとして、「岩代の信達一揆」を あげている。この一揆は 慶応期の一揆・騒動(4) で取り上げたが、いま改めて見直してみると、この一揆は 突発的衝動的な暴動ではなく、かなりの準備計画 のもとに実行されたことがみてとれる。

 『殉教』で次のような記述に出会った。

 安丸良夫はその著『民衆運動の思想』に於て 「桁打(けたうち)」というオルガナイズに言及 している。例えば、

 寛政5年(1793)の伊予国吉 田藩に一揆にさいして、指導者武左衛門が三年間 に亘って「桁打」となり領内を極秘裡に巡訪して 一揆を組織している。

 安政6年の信州伊那郡の一揆では、指導者猪兵衛 が講談師となって佐倉宗吾の 伝承を語り歩き、闘争資金を集めて一揆軍を組織 している。

 嘉永6年(1853)の南部藩の一揆を起すに当って は、指導者源五兵衛が何と17年間にも亘ってひそ かに組織活動を続けた結果であった。

 一揆の裏には、長い年月に亘って打たれた 「桁打」がある。

 よく準備され、見事な戦略・戦術をもって闘わ れた一揆の例が『思想から』で取り上げられてい る。1754年(宝暦4)年の久留米藩での全藩一揆 である。

 この一揆は、久留米藩が極度の財政難の中、 領民に過酷な人頭税(8歳以上全員への人別銀)を 課したことに端を発する。久留米藩の207ヶ村 の農民が連絡を取り合って、巧みな作戦を練って いる。有能なオルガナイザー(桁打人)が居たの に違いない。以下、『思想から』から引用する。

 (農民たちは)藩主に前もって鹿や猪などの獣 を献上し、こういった獣類が田畑を荒らして困る から、それを退治するために鉄砲を貸し下げてく れるように願い出ました。

 年貢米に眼のくらんでいる藩当局は、何千挺と いう鉄砲や槍を農民に貸し与えたのです。そこで 農民たちは、十何万石にのぼる米を一ヵ所に集め てしまい、屈強の武器をもって八幡川などの堤防 に勢ぞろいし、年貢米増徴への反対書を領主に提 出しました。藩当局側はまんまと欺かれたことが わかっても、時すでにおそく、農民の要求をいれ ざるをえませんでした。

 このときの一揆に参加した久留米藩農民は、 16万8千をこえたといわれますが、このように成 功した一揆においても、強訴の責めを負って18名 の庄屋たちが、甘んじて死刑に処せられてゆきま した。

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