2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(13)

慶応期の一揆・騒動(5)


 出羽村山騒動の後に続いた1866(慶応2)年の 主な一揆・騒動を列記しておく。

8月 木曾騒動
9月 江戸打ちこわし、日光今市宿騒動
11月 伊予大洲島騒動、津山領騒動
12月 播州岩木谷騒動、豊後杵築領騒動

 このうち、津山領騒動は11月24日から翌年2月 まで連鎖的に続いている。

 1867(慶応3)年、いまだ波瀾は含みつつも、 幕藩体制の崩壊は決定的となっていた。しかし、 経済的には、多くの地域で農業生産の相対的な 回復がみられ、相対的な安定状況に入っていた。

 全国的米価変動は、67年春を画期として変化し はじめた。いくつかの地域の米価変動をまとめる と、次のようである。


 武州越ケ谷・江戸・大坂・伊予越智郡の地域で は、米価は低落傾向を見せはじめた。


 広島藩・上州勢多郡などは米価は低落せず、年 末には逆にはっきりといっそうの高騰現象を示し た。このうち、広島藩の米価は、藩が米切手を発 行した67年5月に急騰し、藩札を正金に兌換した 68年6月に急落している。
 しかし、瀬戸内地域の米価変動は、停滞ないし 漸落を示している。


 上州勢多郡の変動は全くの米価高騰を示している。 上州の他の地域においでも、ほぼ同じ傾向である。

 上記のような米価変動に対し、職人・日雇賃銀 は急騰した。江戸大工賃銀は1866年に武州農村の 日雇賃銀は67年に、それぞれ急上昇した。日雇賃銀 の上昇の有無が武州と上州の米価変動の違いに 連動していると思われる。また、武州についてみ れば、日雇賃銀の上昇→その賃 銀水準の上昇をくみこんだ物価の上昇→安定→漸 落という経済的安定効果は、66年における幕府の 米価騰貴にたいする対策の波及効果でもあり、66年 の武州騒動の直接的成果の表れと言えよう。

 66年幕府は米価騰貴にたいする対策として、 大名・商人らの米囲い込みを禁じ、それによ って米流通梗塞を解決するという方針をとった。 この対策によってまず救済されるのは宿・町方で あり、宿・町方の米穀商人と密接に結びついてい た村々であった。幕府にこのような対策をとら せたのは、66年の打ちこわし・騒動に他ならない。

 そして、順調に米価が低落しているという相対的 に安定状況に入りつつあった多くの地方において、 1867年8月から、「ええじゃないか」騒動が始まった 。この騒動にはいくつかの歴史的背景がある。


 「おかげ参り」がその一つであり、これは 「ええじゃないか」とは厳密に区別されねばなら ない。


1865(慶応元)年2月に、大坂・堺に、「残念さん」 への願掛けが流行した。ついで同じ年の5月、東播 州で「稲荷おどり」が流行し、たちまちのうちに 拡がり、男女が異装で踊り廻ったという。この「稲 荷おどり」は「豊年踊り」の変形といわれている。

 『「残念さん」への願掛け』というのは私には 初耳だ。尼崎市のホームページから引用する。

残念さん
 この墓は、長州藩士山本文之助の墓です。 文之助は元治元年(1864)の蛤御門の変のとき、 京都から帰国の途中大物で捕らえられ、自決し ました。死に際に「残念、残念」と叫んだと言 うので、幕府に反感を持つ民衆の同情を受け、 大坂からも墓参りの人が絶えず残念さんと呼ば れるようになりました。

 もう一つ、「青空の底」というサイトに次のような 解説があった。

 この「残念の碑」という呼び方だが、これは幕末 より明治初期にかけて大流行した「残念さん信仰」 によるものと思われる。残念さんとは、奈良吉野 にある天誅組の吉村寅太郎の墓、兵庫尼崎にある 長州藩士山本文之助鑑光の墓、神戸湊川にあった 楠木正成の小祠(後に、この残念さん信仰は明治の 湊川神社の創建により消える)など、無念の最後を 遂げた人々の墓をこう呼び、一願成就の霊験あらた かとされ、多くの人々の参詣を集めた。 森鴎外の小説『堺物語』にも、明治元年にフランス の要求により切腹させられた土佐藩士の墓を 「御残念様」と呼んで、堺に参詣する人が後を断た なかったと書かれている。

 さて、この「残念さん」も「稲荷おどり」も、 当面する政治・社会状況に対する一般民衆の 不安と新たな状況展開への期待との表現である。 そしてその期待を、幕長戦争での長州 の勝利にかけていた。一般民衆の精いっぱいの政 治的変動への関わり方の表現であったといって よいだろう。


 より直接には、この前後の打ちこわし・騒動 の中に、「ええじゃないか」運動に通ずる要素が あった。古くは加茂騒動の始まりが「世直しの祭」 とされていた。また江戸では、9月の「困窮人」 集団運動は、もはや運動としては「ええじゃない か」騒動と紙一重の違いしかなく、むしろ、都市 打ちこわしと「ええじゃないか」騒動とを媒介す る運動だともいってよい。


 1867年の春になると、長州征伐の中止、豊作の 予想、米価の相対的低落という状況のもとで、 平和と経済的安定とを期待・予見した人びとが 踊り囃し始めた。まず京都で、ついで6月6日から 大坂で「豊年おどり」がおこる。この踊りは、 その最初から、「エエジャナイカ」をあいの手と する「エエジャナイカ踊り」でもあった。そして、 これは「エエジャナイカ踊り」として、6月下旬に は、大垣地方にまで伝播したという。 この踊りは、長州軍の上京への期待、それによる 物価引き下げの期待と、抑圧された人間感情を明 らさまな猥語によって吐露する解放感とを、「エ エジャナイカ」という語によって結びつけたもの であった。

 以上のような歴史的諸要素を組み込んで、8月、 「ええじゃないか」騒動が始まる。

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