2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(11)

慶応期の一揆・騒動(3)


(「武州騒動」の続きです。)  一般に、全集もの・講座ものでは配本時の新刊書 に「月報」のようなものが付録されている。岩波講 座「日本歴史」にも「月報」がついていた。購入時、 それは私には積読本だったので、もちろん「月報」も読ん でいない。

 いま、その講座の13巻を利用しているわけだが、 13巻の「月報」の目次をながめていたら、はるか昔 に勤めていた高校の同僚の名前に出会った。日本史 を担当していた森安彦さんという。私はその高校 をまもなく転出したが、その後、森さんも大学の 先生になってその高校を転出したという噂を聞い ていた。「月報」では『「世直し一揆」の虚実』と いう論文を書いている。いま私がやっている学習 と重なるテーマを研究課題にしていおいでだったこ とを知ってうれしくなって、その論文をさっそく 読んでみた。なんと、「武州騒動」についての論文 だった。

 前回、武州騒動について佐々木氏が提出していた 二つの疑念を紹介した。一つはその騒動の性格を 「世直し」とすることであり、もう一つはその騒動 の「頭取」についての記録が不正確で曖昧である点 だった。この二点について森さんはどう考えている のか。後者の頭取の記録の不正確さ・曖昧さを、 森さんは真の頭取を護るための工夫だったのでは ないかという仮説を提出している。それがこの論文 のテーマであった。前者については、テーマ外のこ とでもあるし、「月報」掲載の小論ゆえに、その理 由は述べられていないが、一貫して武州騒動を「世直し 一揆」と呼んでいる。

 森さんは何点か著書を著している。上記の論文 が著書のどれかに収録されているかどうか知る由も ないが、もしもどこにも収録されていない論文ならば、 私にはとても面白かっただけに、埋もれさせておく のはもったいないと思った。全文を紹介しよう。 (古文書から引用部分は、いままでと同じように、 私の判断で読み安いように書き変えている部分が ある。間違いがあれば、全て私の責です。また 森さんが明記している出典の注記は省いた。全て 読みやすさを優先した。)


「世直し一揆」像の虚実  森  安 彦



 一揆はいうまでもなく非合法闘争である。それ故、 民衆は自分たちの一揆の指導者(頭取)やその組織 が、支配者に知られることを警戒し、さまざまな工 夫をこらした。

 慶応2(1866)年6月13日に武蔵国秩父・高麗・多 摩の三郡の山村の一部から連携して、同時蜂起し、 同月19日上武国境ぞいを最後に幕藩連合正規軍・ 農兵などの一斉砲火の前に潰滅する「武州世直し一揆」 は、そのわずか七日間という短期間に、武蔵国14 郡・上野国2郡を席巻し、現在判明するものだけで も、450軒余りの豪農・村役人・代官陣屋などを打 ちこわした。この一揆のほぼ全域にわたる史料調 査によって編集した『武州世直し一揆史料』一巻・ 二巻を繙くと、民衆の抵抗と創意に驚かされるの である。

 秩父郡上名栗村や多摩郡下成木村と共に一揆蜂 起の震源地となった秩父郡吾野谷の坂石町分では、 打ちこわし直後の7月、関東取締出役に提出した 始末書控の末尾につぎの付記がある。

 この「始末書」は坂石町分の名主差添人の貞助 が「案書」を作成したものだが、
「始末不都合且は品により候ハ、近村之難渋ニも 相なる可し、万一事実相吩り候様至り候にては却 って大変之義ニも相成る可き哉之由内々承り候間」
村役人共がよく相談して、内々貞助方へ申入れた ところ、
「全く差障りニ相成候様子之始末書二これ無く」
「決して心配致さず候様ニとの挨拶」
であり、
「全ク前書之通り取巧候始末書差上候事ニ候」
とある。これによって、この種の「始末書」はむし ろ、真相を隠蔽するための手段となっていることが わかる。

 「世直し一揆」の全体像についても民衆の側から する虚像が創られ、それが、また民衆の抵抗でもあ るのである。

 この一揆については、一揆直後から絡繰(からく り)人形や「くどき」節という形式で民衆の間に 一揆像が流布されていった。

 慶応2年8月23日「山口観音ニて打毀し之からくり 見せ候由」
という記録がある。一揆潰滅の二ヵ月後には所沢の 山口観音境内で打ちこわしの顛末が絡繰人形で興行 されているのである。どんな内容のものか知るよし もないが、「くどき」については、さいわい 「新版打こわしくどき」が存在している。この 「くどき」から民衆の間に流布していった「世直し 一揆」像をうかがってみよう。

「こんどサヱめづらしそうどうばなし、国ハむさしの ちゝぶ(秩父)の領に、音ニ聞へし子(ね)の ごんげん(権現)の、下の村々十八 ケ村、其やうちにて其名も高き、なごりやつ(名栗谷) とて大そん(村)なるが、ここに杉山儀左衛門こそ ハ、凡特高八百石よ、ほか にありかね(有金)六千あまり、当時諸色の高直ゆ へニ、村のこんきう(困窮)あわれであれバ、 近所村々ひんきう人へ、しよぢ(所持)の金 ぎんミなほどこして、今ハぜひなく村一同を、 たく(宅)へあつめてそうだん(相談)いたし、 当時しょこくの商人共が、五こくこゑき(五国交易) するとのことよ、これがつのればわれわれ迄が、 すへハうへじに(飢死)することなれハ、いっそ 是より命ニかけて、あまたもの持ミな打こわし、 諸色下直ニいたさんものと、云々そうだんとりき ハまりて、右の杉山そうたいしょう(総大将)で、 先ニたてたる其おゝはたに、わん(椀)としゃくし (杓子)の扨うちちがい、下ニ世直シ大明神と、 書シはたもてミな一よう(一様)に、凡人ずハ三 千計り、寅(慶応二年)の六月十一日ニ、人ず (人数)そろへてミなくり(繰)出す、きかま竹 やり大のこぎりで、われもわれもとさきがけい たし、あがのやつ(吾野谷)へと打いでまする、 おゝめはんのう(青梅・飯能)はじめといたし、 扇まちや(扇町屋)ニくろす(黒須)の村よ、 其やざいざい(在々)なミ打こハすヤンレへ」

 この「打こわしくどき」は、世直し一揆の終焉 した直後に創作されたものと推定できるが、一揆 の発端が杉山儀左衛門に仮托された豪農指導の 一揆譚として構成されているところに特色がある。 これと同じプロットをもつものは「秩父領飢渇一 揆」がある。その一部を比較してみると、

「秩父領あが野名栗谷(や)つの内、成瀬村にて 字(あざな)杉山大じん儀左衛門と云者頭取の由、 持高五千石余の富家にて……儀左衛門は夫(それ) より我が家へ数ヶ所火を付れば、光々焔々と燃上り て、旧来の大家一時の烟りと成たり。……はや此 里に用はなし、疾(と)く出べし」と云ながら… …、どつと一同鯨波(とき)の声を上たり。 時に惣勢六万余人と聞えたり」

 作者は鴻巣宿の寺子屋師匠である北岡仙左衛門 であるといわれているが、物語としては大変面白 くできているが、それだけにフィクションや誇張 が目立つものである。吾野・名栗谷の内には成瀬 村という村は存在しないし、儀左衛門はもとより 架空の人物である。しかし、大事なことは、なぜ このようなフィクションが創られたかということ である。

 この「武州世直し一揆」では、儀左衛門のよう な豪農層こそが、実は一揆勢の攻撃目標であるに も拘らず、むしろ彼らを義民型の一揆指導者に仕 立てているところに民衆とそれに加担する知識人 の痛烈な逆説が秘められているといえないだろう か。事実、打ちこわしの対象となり、施米・施金、 質地・質物の返還を要求されている豪農が一揆の 指導者に仕立てられている場合もあるのである。

「慶応二丙寅夏打毀国乱之始末武州入間郡飯能 在、鳥居大臣と申人、此度米穀諸色格外高直ニして 山方ならび市中在村々民家一同難渋ニ付き、諸人 助之為右鳥居大臣壱人ニて金子二千両施行ニ差 出し、付いては飯能宿ニて二千両借用致し度き由、 右大臣初メ掛合ニ及候処一円取り合わず断ニ相成、 之により一同立腹致し直様引取六月十三日夜九ツ 時螺貝吹立人足相集メ其勢凡五百人余り其夜之内 飯能河原ニ押出し、……」

 この鳥居大臣というのは、実は、一揆発祥地で ある上名栗村組頭鳥居源左衛門のことであり、彼 は世直し騒動の最中、村内の小前農民層から金 5000両の施金を要求され、一揆解体後には「窮民 救出金」として250両を提供したのである。 もちろん、上名栗村の中でももっとも激しく 「打こわし」勢と対立した一人である。その彼を 一揆発端の指導者に仕立てるという意図は一体何 であろうか。むしろこれは、民衆サイドから打ち こわしの真実を隠蔽し、自分らの本当の指導者を 隠すために豪農を利用したのではないだろうか。

 では、真実の一揆の指導者たちは、だれであった のだろうか。

 蜂起発端の上名栗村には、指導者として捕えられ た百姓紋次郎・同豊五郎がいる。紋次郎は大工で、 豊五郎は桶職人であったという。彼らの持高は 紋次郎が一斗六升一合(反別三畝一五歩)、 豊五郎が六升五合一勺(反別二八歩)という極零 細土地保有者層である。慶応3年8月22日の判決文 によると、紋次郎は死罪、豊五郎は遠島となって いるが、すでに両人共牢死していた。多摩郡下成 木村下分の組頭喜左衛門は、多摩郡の指導者とし て活躍したが、捕えられ、慶応2年8月23日には中 追放(実際は人足寄場へ収監)、田畑屋敷は闕所 処分となった。持高一石一斗七升三合三勺 (反別一反八畝一〇歩)であるが、その持高の七 割強が質入地となっていた。

 「世直し一揆」の真実の指導者は決して義民に はならなかった。この一揆を闘った民衆は、幕藩 軍隊や農兵の砲火の前に潰滅していったのである。 引取手のない無惨な死体が転々とし、それは、
「芋ぴつ之ようの穴をほり所々えほりいけ、大悪 人と申せいさつ(制札)を立候由」
という有様であったのである。今でも、多摩の豪 農の屋敷の一隅には、そのいわれも忘れられた小 さな祠があり、その下には義民にならなかった民 衆の屍が横たわっているのである。


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