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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(10)

慶応期の一揆・騒動(2)


 都市で火口を切った打ちこわしは同時的多発的に 各地に伝播していった。いくつか拾い出してみる。

武州騒動

 6月13日、武蔵(秩父郡名栗谷・我野谷・成木谷 諸村)で始まった飯能町打ちこわしは、またたく 間に武蔵14郡・上野2郡に拡がり、豪農商450軒を 打ちこわしたが、19日には、諸藩兵と農兵とによって 鎮圧された。武州騒動と呼ばれている。

 武州騒動の主体は、半プロレタリア(日雇取・小作 農民など)を中核に、厄介・召仕・下人、町方の 借家・日雇・職人・無宿・僧侶・神官・浪人等 社会的隷属者たちで構成されていたといわれる。

 いま教科書として利用させてもらっている 佐々木潤之助著「幕末の社会情勢と世直し」は、 この騒動についてのこれまでの研究から留意点を いくつかあげているが、それによると、この騒動の 真相は未だ混沌としている部分があるようだ。 まず確定的に言えることを確認しておこう。


 この騒動は、物価騰貴は横浜貿易がその要因である という判断に基づいて、横浜と横浜と結びついて 貿易流通の脈筋をなしている町・宿と商人に対する 徹底的な打ちこわしを一つの内容としている。

「横浜村商人は大小に限らず、施行に拘わらず、 捨置がたく、打潰し候」


 この騒動は、施金・施米、質物・質地の無償返 還、米穀他の低値放出などを直接の要求としている が、とくに、それらの要求が在町を含む町・宿商人 と周辺農村との関係としてとらえられている。


 この騒動は、領主が暴力的鎮圧にかからない 限り、領主への反抗を主旨としていない。

「凡徒党は窮民救ひのためを趣意とする」

川越藩と対決した時も、
「百姓は百姓だけの趣意にて、世の見せしめに不 仁の者をこらすのみ、敢て人命をそこなふ得物は 持たず、当然の利解に候はゞ、一言の内にも縄を も請て、裁許を待の心得はあれ共、未其人ニ逢は ず、只無法に武器を用ひておどし候共、斯まとま りたる人気、中々以して落入申さず」
と主張している。

 このことは動員令にも貫かれている。

「尤銘々得物之義刀脇差等決して持参 致間敷候、但四ツ子鎌鋸様之もの持参致す可く候」


 この騒動は、そのあとに、各地の村むらに 農民たちの抵抗の芽を生みつけていった。 上名栗村では、15日に帰村した農民たちが、直ち に、施金、質物無償返還、質証文無効、貿流地や 山畑の元金返済による即時返還を求めて村方騒動 を起こしているし、他の村でも同様の動向がひろ まっている。


 この騒動は、前述のように豪農に対する攻撃と ともに、町・宿場への攻撃を一つの目標としている が、その町・宿場においても、下層町人・職人らの 闘争が展開していた。

 さて、最後にこの騒動の性格と頭取につ いての記述だが、この2点についてはその真相は 相当に混沌としている。

 まず、この騒動の性格について、佐々木氏はお およそ次のように記述している。


 この騒動についての現在知りうる記録は四点 ある。それらの記録は、この騒動が「世直し」 関係の旗幟を立てたとしているが、この騒動を 「世直し」一揆とするには疑問がある。その理由は

(1)これらの記録が記す頭取は、すべて不正確ない し誤りである。だから、他の記録もそもままには 受け取れない。
(2)この騒動への農民の参加強制が、「打こわし 一条に付」いての、「打こわし連中」による動員 であるところよりみても、この騒動が「世直し」 を行動規範としたとはいえないものと考えられる。

 上のように述べながらもまた、次のように続けている。

 しかし、同時にこの騒動が、少なくとも、多摩郡 小野路・本宿村や秩父郡大宮郷などでは、「世直し」 としてうけとられていたということも、右の四記 録から明らかである。

 そしてさらに、この騒動を「冷静にみていた者」 (たぶん知識人…管理人注)の多くは「この騒動 を「世直し」とうけとっていた。」として、その 「冷静にみていた者」 たちが記録した文言をいくつは引用している。

「(この騒動は)独り国民ノ罪ト為シ難シ、為政 ノ官吏モ亦罪スル所アラン歟」
「(打ちこわされ た者も)是レ打潰ルへキ悪ノ積ルニ因ルナリ」
「民害ヲ除ヲ以テ政務ト為サハ国家自ラ無事ナル へシ」(伊古田純道)

「鳴呼平常貧民を恤(うれ)えず、一己の利欲を 事とし迷利不仁の奸商共、天道の応報其疾き事芦 葉ニ猛火を嚢(つつみ?)し如く、後来是を以宜 く鑑誡(かんかい)すべし」
「(この騒動は横浜の)奉行所様え罷出国刑を蒙 りたし」
「打毀しいたし候とも食物の外金銀銭は勿論、 外品等決して奪取りまじき、若し相背き候ものは、 仲間内にて斬首致す可きと盟約いたし」 (小島詔斎)

 しかし一方、大方の豪農商にとっては、 一揆が「暴徒」であったことは言うまでもない。 新徴組士でもあった豪農根岸友山は次のように 書き残している。

「(米価は)天の成る所…只今降参いたし村方 のもの先に立って隣村打毀し候節は、後日御公 辺より何様之御咎仰せ付けられ候哉も計り難し、 かつは打毀しいたし候もの共生界之恨後世ニ 至り申伝へニも相成候儀ニ付、是非共防方より 外ニ思案これ無し」
「最早君臣父子上下之差別無き様近かる可き歟 と思われ候」

 次にこの騒動の「頭取」については、先に示した ように佐々木氏は「現在知りうる四点の記録が記す 頭取は、すべて不正確ないし誤りである。」 と言っているが、さらに次のように書いている。


 この騒動の頭取は、名粟村の大工・桶屋である が、諸記録には、この他に諸説がある。この騒動 そのものも多発的多元的であるので、頭取もさま ざまであった。

例えば、上州藤岡に向かった騒動勢には「頭分と 申し候は凡三十人程」であるという。そして、 これらの頭分は、例えば、桶川宿では二人の左官 であり、多摩郡二俣尾村では持高二石で家族十人 を「農間材木伐出し日雇稼」で養なっている百姓 槙太郎らであり、多摩部下成木村では組頭ではあ るが所持する畑四筆のうち三筆を「引当貸地に入 置」いている小作農であった。

(「武州騒動」、次回に続く)

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