2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(7)

村方騒動


 百姓一揆についてはこれほど深入りするつもりはな かったのですが、私の知らなかったことが次々と出て きて関心が高まり、つい長くなってしまいました。 所期のテーマ に入る前の予備知識ということで、あと、村方騒動→ 世直し一揆と進めていきたいと思います。

 幕藩権力との直接的な対立ではなく、一村規模 での農民内部の身分的階層的対立にもとづく闘争 は、一揆とは区別されて村方騒動と呼ばれている。

 百姓一揆には貧農層だけでの蜂起もあったが、 多くは磔・獄門等の極刑を覚悟で「頭取」として 立ち上がった名主庄屋たちの指導によって遂行された。しかし 言うまで もなく、三叉竹越の言葉を借りれば、「牝鶏の翼 もて雛鶏を掩うがごとく」人民を保護するために 「生命財産を擲(なげう)」った名主庄屋は、 全体から見ればごく少数である。圧倒的多数の 名主庄屋は幕藩体制下の末端権力として一 般百姓に相対していた。村方騒動は村役人を介し た村落支配体制の亀裂から噴出した闘争である。

 村方騒動と一揆とは、次の例のように区別さ れにくい闘争である。それは、百姓一揆 には村落レベルの矛盾や対立が根底にあるから であり、時にはその矛盾・対立が一揆の要求項目の 中に明示されることも多かった。

 享保期(18世紀前期)の質地騒動は、領主の政策を 直接の契機にしているが、その対立関係は村方騒 動の性格をもっていた。

 1830(文政13)年宇和島藩一揆の強訴は、 直接には庄屋に対する闘争であった。

 1823(文政6)年紀州藩一揆では、一村内の対立 ではないが、村間の激しい用水争論が、不作と年貢 未納への不安につながり、急速に領主権力に対する 闘争へ転回し、反専売制一揆になっていった。

 さて、村方騒動は、家格・身分をめぐる対立が その土台をなしている。質地地主と小作との関係 や商品流通・金融関係の変化発展などによる農民 階層の分解再編、それにもとづく村内勢力関係の 変動というような経済関係にもとづく矛盾は 村方騒動の基礎ではあるが、多くの場合それは 随伴的現象であって、村方騒動そのものは なによりも村役人の年貢・ 諸役・村入用・村役人特権をめぐる不正・違反に 対する闘争として現われている。

 上のように、村方騒動を第一義的には村請 年貢制と不可分な村役人に対する闘争ととらえる とき、それは村内の騒動ではあっても、同時に幕 藩制国家支配に対する闘争として位置づけること ができる。ただし、農民たちの意識の中にそこまでの 自覚があったがどうかは別問題である。 18世紀後半から19世紀初期の村方騒動を3例みて みよう。それを通して、江戸時代後期の村落構造 をかいま見ることもできよう。

(以下は岩波講座「日本歴史12」所収の岡光夫「農 村の変貌と在郷商人」よりの抜粋です。)

① 備後福山郊外野上村
 山陽筋の綿作地であった福山郊外の野上村では、 身分が低く本百姓と差別されていた「新屋百姓」 が庄屋と対立しいる。

 18世紀中で年代はわからないが、木綿不熟の年 に減免を歎願し、さらに御用捨米の割付け、役目 米の賦課に際しての庄屋の不正、退転百姓の耕地 26町歩余の取扱いの庄屋の不正、井関人足の私的 流用、村入用帳の非公開等を追求し、さらに「古 地百姓」である本百姓と「新屋百姓」の差別撤廃 を要求している。庄屋は最後の点について「新屋百姓」を水呑同 様であるとして、この要求に強く反論しているが、 庄屋の不正を追及する担い手が「新屋百姓」であ り、彼らは差別撤廃を通じて、村政に対する発言 権を確保しようとしている。

 福山周辺においては、18世紀中ごろ(宝暦年間) この種の騒動が多く、支配者側においてもこれを 重要視し、惣百姓あるいは村民の半分が庄屋と争 う場合は、事件が解決しても後に尾を引き、再燃 すれば農業がおろそかとなるから、たとえ無欲な 庄屋であっても庄屋を退役させよと称しており、 騒動側の力に圧倒され後退している。

② 美濃武儀郡山田村
 美濃の村落は農民間に頭百姓と脇百姓の身分階 層が一般的に成立し、しかも身分差別が家格とし て固定し、頭百姓は村役人の地位を独占して、村 落支配をおこない日常的に家作・祭礼・儀式・衣 服における差別を村法として制度化していたが、 18世紀末からの脇百姓の経済的地位の上昇 によって、その村落支配体制に大きな動揺が生じた。

 美濃武儀郡山田村は、郡の南端の水田地帯で、 この村は三家の頭百姓によって支配され、そのう ちの長田家は一般村民と差別される「組下」と称 する十数戸の従属農民を有している。1789(寛政 元)年山田村脇百姓忠兵衛が村役人の年貢勘定を めぐって、第一に帳簿の公開、第二に出作高の賦 課、第三に村政運営の庄屋・年寄の独断専行を批 判し、それを村役人に要求したが拒否されたので、 代官所へ訴訟に及んだが結着つかず、翌年に忠兵 衛は他の14軒の農民と共に「新組」をつくり代官 所の容認により、村落支配は「新組」と「古組」 に分断された。

 このように脇百姓は旧来の村落支配体制をくず し、さらに年貢帳簿の公開も認められることにな った。かかる脇百姓の動きは、身分的に頭百姓に 従属していた家来筋の「組下」農民にも自覚を与 え、1795(寛政7)年、頭百姓の長田家に対して礼 服の着用や「家名」を要求し、さらに1837(天保8) 年には家作の差別廃止をきっかけに、「組下」から の独立を要求し、「新屋敷組」として組頭を立て、 村政に参加することになった。

③ 信濃諏訪郡今井村
 信濃諏訪郡今井村は近世初頭に4軒の役家が名主 2人と年寄2人を交代でつとめ、これを大前百姓と 称し、後に分家を生じ幕末に9軒になった。 これに対し村役人になりえない層を小前百姓と 称していた。

 今井村周辺は18世紀に入り、綿打や製糸、小倉 織の諸産業が勃興することによって、小前百姓が 経済的に上昇し、旧来の階層序列による支配に不 満を抱き、それを打破する小前騒動を起している。

 1794(寛政6)年から翌年にかけて伝馬人足料・ 御薪出役料・年寄入札などを要求し、1800(寛政12) 年には「歩割仕法」の改正要求を出し、当役、古役 と村方85人が対立した。

 1814(文化11)年には年寄 入札に関する村方騒動が起き、年寄跡役にからむ紛 争で村内が東西に分かれ対立し、後には小前方の推 した候補者が名主になることにより、新しい性格の 村役人が輩出してきた。

 1846(弘化3)年には、ついに小前が村役人の被 選挙権を要求したので、大前は反対の口上書を郡 奉行に提出したりしたが、解決は1848(嘉永元) 年まで持越された。小前の要求は全面的に容れら れなかったが、年寄役一名を獲得して村政に参画 することとなった。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/962-af24e571
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック