2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(6)

百姓一揆とは何か(3)


 油・蝋・紙・木綿・生糸・藍玉などの農民の副業から生ずる製品は商業資本(商人)の手を通して、藩という支配領域を超えて流通する。従って、藩の流通政策に対する農民の闘争も、藩という支配領域を超えた広域闘争となる必然性を持つとともにさらに、商人(都市部)との軋轢・対立あるいはその反対に都市部の被搾取労働者との共闘という可能性も孕んでいただろう。そのような例をみてみよう。

(1) 1764(明和元)年の伝馬騒動
 助郷制とは、宿駅に常備する人馬では不足する場合に、近郊の村々から人馬を徴発する制度である。この年、朝鮮使節の来訪に備えた高額の国役金が賦課されていた。その上幕府は、翌年の日光東照宮での150回忌の法要を理由に、日光道中と中山道筋の助郷役の増強を強いようとした。板橋から和田宿までの上野(こうずけ)、武蔵、信濃の28宿に石高100石につき人足6人、馬3疋という農民にとっては過酷な徴用である。これに反対する農民が、明和元年12月、その免除を要求して蜂起した。この団結した農民に恐れをなした幕府は増助郷計画を撤回したが、川越周辺の69ヵ村の一揆勢は翌年の正月5日まで打ちこわしを続けていた。 12月から1月にかけて20数万人が参加したと言われている。江戸時代最大の一揆である。打ちこわしが江戸近くまで波及しそうな形勢となり、幕府は鎮圧のために大軍を差し向けた。

 一揆鎮圧後は、例にもれず、多数の農民が処罰されている。武州児玉郡関村の名主兵内は発頭人として獄門にかけられ、他に369人が処罰されたという。領内取締り不行届きのかどで、藩主も山形へ転封となっている。

 この一揆は個別領主の収奪ではなく、公儀役(助郷負担)の強化を契機とし、きわめて激しい打ちこわしをともなった広域の大闘争となったわけだが、それはたんなる労役徴発の増加に対する闘争ではなく、その背景には、代金納化の進行にもとづく商人資本による農民支配の強化という新たな搾取が蓄積されていた。それは次の助郷一揆にも通じている。

1804(文化元)年牛久助郷一揆
 水戸街道の牛久宿問屋の麻屋が助郷村の範囲を拡大する趣旨の願書を幕府に提出したのが契機であった。これに対し指定を受ける側の55ヶ村の農民数千人が結集し、麻屋をはじめ牛久宿の問屋宅や阿見村の村役人宅を次々と打ちこわしていった。弾圧にあたった幕府は多くの農民を逮捕したが、そのうち3人が指導者として江戸小伝馬町の牢へ送られた。3人は、翌年、相次いで獄死している。

(3) 1781(天明元)年上州絹一揆
 この一揆は、買人からの運上金を商人資本と結託して吸収しようとする公儀主導の流通支配政策に対する闘争で、支配領域をこえた広域闘争となった。その広域性は、特産物生産地帯の成立など地域的分業の進行による小商品生産の構造的展開がその背景となっている。ここでは 18世紀前半期にみられたような私領と幕領の収奪方向の差異はなくなっているが、「勝手次第商売」要求を基軸とする反専売制一揆と同質の論理が底流している。

(4) 1814(文化11)年越後栃尾郷打ちこわし
 この一揆は、主穀の流通・価格問題を中心とする闘争である。はじめは小商人・小職人層に主導されていたが、のちにその主導権は日雇層に移っている。つまり、この闘争は都市貧民の闘争としての性格を示し、農民闘争との相互波及関係をもつに至っている。ここでは、新しい分業関係・流通関係の展開と在郷町の成長、プロレタリア的貧農、日雇・雑業層の増大、小商人・小職人の輩出という産業構造の変化が背景になっている。

 新しい産業構造の変化にともなって

東上州における都市商人の江戸愁訴
桐生領農民の越訴
西上州農民の改所設置加担者・賛同者を主要対象とする打ちこわし

というような階層的な広がりとともに、 闘争様式の相違が生じている。

 百姓一揆が、村役人だけではなく、城下町へと押し出して 特権商人の打ちこわしをおこなうことがある。このとき都市は、農民にとって御用特権商人の町として一揆に対立する存在である。しかし、言うまでもないことだが、村方と町方が常に対立関係にあったわけではない。

(5) 1747(延享4)年上山藩一揆
 この一揆は町方の米持打ちこわしから始まった。百姓衆は「御町人中に先を越れ候条、残念なる事の由咄し合」って、15ヶ条の要求を掲げて一揆をおこしている。つまり、町民の蜂起が百姓一揆を誘引したことになる。ただし、一揆が城下町へ打ちいると、「町内の者」と「御百姓衆中」との間に対立が生まれている。

(6) 1750(寛延3)年大洲藩一揆
 この一揆は願書の中で、
「町人中へは近来無体の御用銀申し付けられ、 町方においては当分の借用相い成り難く、百姓 一統困窮」
と抗議している。農民は町方からの借金によって再生産を維持していたため、領主の町方に対する御用金賦課が農民経営にまで打撃を与えたのである。百姓一揆が領主の町方収奪とも対立せざるをえないという関係が生じている。

(7) 1761(宝暦11)年上田藩一揆
 ここでは一揆につづき、「城下町人残らず一同」 になって「町方願拾壱ヶ条」をもって町奉行門前へ おしよせ、「拝借米」を要求している。つまり、 百姓一揆が都市の闘争をひきだしている。

 この一揆では、城下町人だけでなく、「御領分寺院方」「御領内大工ども」「御領分桶屋ども」「御領分穢多共」の訴願闘争をもひきおこしている。

(8)1762(宝暦12)年飯田藩一揆
 藩は財政窮乏を千人講設置による会金収益で解決しようとした。これは在・町をつうじた収奪策であったために、 これに対抗する闘争は百姓・町人の連合一揆となった。 百姓と町人の要求は同一でないが、
「弐万石之百姓一統ニ成り、申様ハ、町人残らず一統ニこれ無くニおゐては、町家残らず打破らん」
という村方の強力な主導によって、村方・町方共同の寄合をもって闘いを進めている。この一揆は藩の千人講政策を廃止させている。

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