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『続・大日本帝国の痼疾』(5)

百姓一揆とは何か(2)


要求項目から見た百姓一揆の種類

(1) 土地に関する要求

 18世紀前半期の一揆に多く見られるが、大きく 2種類の要求に分けられる。

① 土地所持に関する要求
 小規模の農業を営む農民がその経営を維持して いくためには、往々にして土地を質(しち)にして 借金をすることを余儀なくされた。それは年貢納入 資金のためであったり、営業資金であったり、生活 費であったりしただろう。そして、その質地の一般 化が共同体内の年季質入関係の破綻を呼び、借金の 質であった土地が奪われ、農民は自分の質地の小作 人となるという矛盾へと一般化していった。それに対抗して、質取人か ら耕作権を奪いかえし安定的で自立的な小農経営 を実現しようとする闘いがこの時期の一揆であった。 従って、この時期の一揆は質持小農民によって担 われたと言える。

 1718(享保3)年広島藩一揆の「往年売タル山林田 畠取返サントノ事」という要求をかかげている。 1722(享保7)年出羽幕領質地騒動や1723(享保8) 年越後幕領質地騒動も質地=小作関係というよう な状況を基礎にしておこったものである。前者は 名主の不正を追及する村方騒動の性格をもつもの であった。後者は133ヵ村の質置人が質取人に対し て「耕作支配」を回復しようとする耕地確保闘争 であった。

② 所領支配に関する要求
 所領支配に関する要求も18世紀前半期からみられ るが、一般には所替反対闘争として闘われた。 しかしそれは、実際には単純な「私領農民の公儀 領化」要求の闘争ではなかった。

 1710(宝永7)年村上藩一揆のように、公儀領化要 求とみえる場合も、実は幕領の私領分割に際して の私領化反対という意味での公儀領化要求であった。

 また、1726(享保11)年津山藩一揆では、農民が 公儀領化の虚言を広め、それを私領主に対 抗するための戦略とした公儀領化願望であった。

 18世紀後半期以降も、先納金・御用金返還ある いは安石代・定免制要求と結びついた所替反対一 揆が特徴的であって、のちの1853(嘉永6)年盛岡 藩一揆にみられるような、「公義御領に仰付けられ 下され度く」と、直接の公儀領化要求が一般的であ ったわけではない。

(2) 基本年貢増徴という収奪政策の拒否

 18世紀前半期の幕領では、定免制(じょうめん せい 固定税率)とそれと組みあわされた有毛検 見(ありげけみ 標準課税=石盛を無視し、 毎年の出来に比例して課税)法、田方勝手作仕 (田畑において米以外の木綿・煙草・菜種などの 商品作物の栽培すること)法などによって基本年 貢増徴中心の収奪政策が強行されていた。それが 幕領での一揆高揚の要因であった。1729(享保14) 年信達幕領一揆 や1745(延享2)年畿内幕領一揆は そのような事例である。

 信達幕領一揆では、定免制一般が問題になった というよりは、
「豊年御高免五ヶ年平均之上五厘増御定免に仰せ 付けられ」
たことに抗議したように、増米年季定免方式によ る収奪強化策の矛盾が一揆を激化させた。

 私領における定免制反対の一揆は多くなく、 むしろ18世紀後半期以降に、永(永久)定免制 から検見制あるいは増米年季定免制へ移行させる ことで増徴の成果をあげようとする領主権力に対 して、永定免制維持を要求する一揆として闘われ た。前回あげた郡上藩一揆は、藩が、 「永定免」から「立毛見立免」へ移行しようとし たことに対する闘争であった。また、1821(文政4) 年川越藩前橋分領一揆も「永久御定免」から 「検見」への政策変更に対する闘争であった。

(3) 新規の諸付加税(増徴策)の拒否
 1738(元文3)年平藩一揆では、願書第一条 に「歩役金‥‥御免」とあり、第八条には「万掛 物一切御免」「諸商売諸役御免」とある。これは 基本年貢の増徴にもまして、多様な金納形態の歩 役金問題が一揆を激化させる条件になっていた。

 一揆の直前に平藩が設定した賦課や運上金は次 のようである。

賦課
駒立足役・歩役・小名浜三節句役・清酒造役・濁酒 造役・糀室役・紺屋役・鍛冶役・山年貢・郷士与力 役・鍛冶炭役・炭汁払役・四町目および箱板払役・ 見世店役・捧手振役・質屋役
運上金
茶・繰綿・木綿・麻・たばこ・呉服絹

 これに対して、平藩一揆の要求項目は次のように 多岐にわたっている

歩役金・基本年貢率・貯穀・掛物・検見方法・買物 代金・人足日雇代・貨幣・商売役・雑穀問屋・口籾・ 馬売買・城米駄賃

 この一揆は、小農経営集約化によって発展してき た米作以外の無年貢のさまざまな作物・製品(これら は小農民の安定した経営には不可欠の稼ぎで あった)に対して、藩が問屋制や運上制を通じて新規諸付加税を課 して収奪しようとする増徴策に対して、惣百姓が激 しい打ちこわしをともなう全藩的強訴の闘争形態を もって対決したものである。

 外見は基本年貢問題としてのみ現われる一揆に おいでも、上述のような要求の特徴を認めること ができる。1712(正徳2)年大聖寺藩一揆は、 激しい打ちこわしをともなう画期的な惣百姓一揆 であった。免乞(めんごい)強訴と呼ばれるように、 免乞問題として起こっているが、
「串村茶問屋をば何卒御潰し下されませ、此以後 茶の口銭を立させず、私共の勝手次第に茶の売買 仕るやうに致したし」
「大聖寺の紙問屋をば何とぞ御停止に成り下され」
というような要求に対して、「肝煎長百姓」は
「今晩串村に至り、茶問屋を潰すといふ事もいら ざる儀なり。此事は一先づ指留めてよろしからん。 先づ第一が免の一件なり」
と言っていて、一揆内での対立・矛盾をみせてい る。このことは、諸稼部分への新付加税によって より強い打撃をうけるのは「小百姓ども」であり、 それゆえの対立であったろう。

(4) 「勝手次第商売」の要求
 (3)の平藩一揆にみられる流通政策にたいする要 求は、いばわ零細小商品生産者として成長してきた 農民による要求として歴史的必然性がある。この 流通政策にたいする要求は、18世紀中後半における 百姓一揆の画期的な大変化であった。1795(寛政7) 年八戸藩一揆の訴状には
「塩毎々之通、勝手次第商売仰付けられ下され度き 事」
という要求がある。具体的な契機や内容は一揆により 異なるが、このような「勝手次第商売」の要求は 全国的に一般化していく。

 1771(明和8)年唐津藩一揆願書に、
「諸国売買値段(楮)より下値に仰せ付けられ、 難儀至極に存じ奉り候間、持主勝手売に仕候様願 い上げ奉り候」
とある。この場合は、「諸国売買値段」との比較 による「下値」の不利に対する抗議と結びついてい る。「持主勝手売」要求は価格問題と一体であり、 先の「世上一統之通用並」の要求方法が土台にな っている。

 この要求の前提条件は、一方での小商品生産の 展開と、他方での、国益論に支えられた特産物導 入策をともなう殖産・専売政策の展開である。 しかも、それが全国的な規模で個別藩の政策方向 を規定しはじめたことになる。

 1750(寛延3)年大洲藩一揆訴状では
「御用紙御買い成らされ候時、町並に代銀下さる 可く候」
という要求がある。この場合、町と在をつらぬく 地域的な価格(所相場)が一般的に成立する段階 が想定される。 それを抑圧し混乱させる藩の低価格強制買 上げに対する抵抗が一揆につながっていった。

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