2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(3)

三叉竹越の明治維新観(2)


 続いて三叉は、徳川幕府250年の支配下における 社会構造の変化や財政の窮迫、それゆえの民衆への 更なる圧政など、封建体制が崩壊へと向かう徴候を 論じた上で次のように続ける。


 封建制度、唯一の関鎖たる威力は巳に冥々の間に 於いて、かくのごとき変化を来たしつつあると共に、 民権の勢力はまた侮るべからざる発達を為さんとし つつありき。もとより幕府の当時に於ては、今日の 意義に於いていう所の民権なる思想は毫も見るべか らざりしといえども、士人の誅求に堪えざるの反動 は、町村都邑の庄屋名主中に幾多平和のハンプデン (注)を出だしたり。そもそも封建制度の下に於いても二 百余年の歳月は自然に一種の地方自治制を生じたり。 これ実に日本国民が水火の圧抑を経てなお今日あ るを得たる大原因なり。


(注)
ジョン・ハムデン(1594-1643)
英国の政治家。クロムウェルの従兄弟。1621年下院 議員に選ばれる。37年、チャールズ一世の議会を 無視した船舶税の課税に反対して投獄される。 42年の内乱では議会軍を指揮。


 吉宗が制定した公事方御定書は1742(寛保2)年 に完成している。それは、農民の反抗以外の罰則を 緩和しているが、農民の反抗に対しては罰則を強化 している。その中に、庄屋・名主と一般農民を分断 するためのあからさまな条文がある。

「地頭に対し強訴其上徒党いたし、逃散の百姓、御 仕置、並に取鎮の事、頭取は死罪、名主は重追放、 組頭田畑取一村々百姓致徒党、騒動強訴或は逃 散の者有之節は名主又は組頭等、押置取鎮候若は 御褒美被下、其身一代帯刀、名字、可為名乗」 (御定書百ヶ条第二十九項)

 名主庄屋をして村民と相干格(かんかく)せしめ んとせるにも係らず、その士人の誅求、代官の暴虐 なるに出逢うや、彼らは牝鶏の翼もて雛鶏を掩うが ごとく、身を以て之に代りて人民を保護するものな りき。(中略)公共のために生命財産を擲(なげう )ちたり。

(中略)

 あるいはいわん人民主的運動はアングロサクソン 人種の歴史のみ、これを以て吾人民の歴史を解釈す べからずと。然れども我歴史より民主の分子を排除 せんと欲するほど大なる誤謬はあらず。

(中略)

 徳川氏の世に至り、二百五十年の泰平打ち続き、民 力漸やく重厚なるを得たれば、気象挙り、覇気鬱勃 (うつぼつ)たるものあり。もし仮すに歳月を以て し、失政いよいよ重なり政府の微弱いよいよ明白な らば、人民豈に久しく黙々たるものならんや。必ら ずや民主的大運動を起こすの日ありしならん。

(中略)

 もしそれ勢究(きわ)まり、情激するに方(あた) っては、豈に一人のグラックスなからんや、豈に またリエンジェたるものなからんや。已に大塩平 八郎を生じたるを以て名誉とする大坂人あり。 封建治下の人民決して愛民家を養うの力なしという べからざりしなり。而してこの反上抗官の事、多く は紀元二千四百年前後に発し、山県大弐、藤井右門 の叛は明和(紀元二千四百二十七年)にあり。有名 なる伏見の文殊九助の控訴、新潟の佐藤佐次兵衛、 五賀野右衛門の強訴、及び溝口元右衛門らの上野 沼田の城主に抗したるもの、皆な天明(紀元二千四 百四十一年)年間にあり。濃州の民が郡上(ぐんじ ょう)の城主に抗したるもの、宝歴年間(紀元二千 四百五十一年)にあれば、慶長五年(紀元二千二百 六十年)、関ケ原の役よりおおよそ百五十年にして、 幕府及び士人の武権衰えて、人民の反抗ここに初ま りしというべき乎。


 ここで三叉竹越が上げている幕藩体制に対する 反権力闘争を改めて年代順に列記してみる。 (三叉は年数を間違っているようだ。あるいは私 があげている事件とは別件だろうか。)

1682(天和2)年 はりつけ茂左衛門
 上州沼田の領主真田信直の極悪非道な暴政で沼田 の領民は、 死を選ぶか夜逃げをするほかないというような惨 状に追い込まれていた。その惨状から領民を救お うと、杉木茂左衛門が江戸に上り、幕府に直訴し た。それは将軍家の取り 上げるところとなり、領主は閉門の上、領地召し上 げとなった。茂左衛門は妻とと もに磔刑に処せられている。また、茂左衛門に頼 まれて訴状を書いた大宝院覚端法印という 僧侶は、すでにそれ以前に、真田信直によって 石子詰という極刑(人を生きながら小石で埋める刑) )に処せられている。

1754(宝暦4)年~ 郡上一揆
 郡上藩(岐阜県)は、藩の財政難を解消するために、 年貢量を増やしたり、情け容赦のない取立てをしようとした。 これに対して、農民たちは団結して一揆を起こした。農民たちの激しい闘いは4年も続いた。この 一揆は、藩主から農民まで、一揆にかかわる人すべ てが処分を受けるという、類のない大事件となった。 百姓一揆が原因で、幕府の首脳部まで処分を受けた のは、江戸時代を通じてこの事件だけである。

1767(明和4)年 明和事件
 山県大弐(やまがただいに)、藤井右門らが、江戸 幕府への謀反の容疑で逮捕・処刑された。この事件に ついては後に詳しく取り上げる予定である。

1768(明和5)年 新潟明和騒動
 越後国新潟町(現新潟県新潟市)において、町民 が藩政に抵抗し、およそ2ヶ月にわたる町民自治を行 なった事件。町人側の代表者の名は涌井藤四郎 (わくいとうしろう)であり、その腹心として須藤 佐次兵衛(すどう さじべえ)という名が残されてい る。この二人は市中引き回しの上斬首されている。
 三叉があげている佐藤佐次兵衛は須藤佐次兵衛 の誤りだろう。また、五賀野右衛門の名は手元の資料にも インターネット上にも見当たらない。

1785(天明5)年 伏見騒動
 伏見元町年寄の文殊九助と丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛 門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛の7 人が、伏見奉行・小堀政方の悪政を直訴した事件。 小堀政方は奉行を罷免されたが、文殊九助ら7人は 獄中で相ついで病死した。

1837(天保6)年 大塩平八郎の乱
 大坂の町奉行所元与力大塩平八郎と門人らが、 天保の大飢饉下の貧民の窮状を救おうとして起 こした江戸幕府に対する叛乱。大塩平八郎は鎮圧 された後、爆薬で自決している。
 この乱後に全国で同様の乱が頻発している。 中でも「生田万の乱」(いくたよろずのらん)が 有名である。生田万が越後国柏崎で貧民救済のた め蜂起した事件である。生田万は柏崎代官所襲撃時 に負傷して自刃。

 三叉があげている「反上抗官の事」は主体者や 本質の違いを考慮していない羅列に終わっているが、 私はこれを大きく、いわゆる「百姓一揆」と 知識人が主導した叛乱とに分けて論を進めようと 思う。どちらの場合も「平民的思想」の発展・深化 の様相を探ることが主とするテーマとなる。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/958-2b96b7d4
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック