2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(1)

透谷の明治維新観


 「英将秘訣」は、国学の「転倒」した天 皇信仰の論理や、封建制維持装置としての 儒学の道徳律を無化する起爆剤を秘めていた。 つまり、その徹底した愚民観にもかかわらず、 大日本帝国がその屋台骨に据えた「祭政一致」 「一君万民」という「過去の亡霊」をのりこえ る可能性をもっていた。

 しかし、明治維新という大変革をもたらした 原動力は、もともと「勤皇論」ではなかったは ずだ。幕藩体制内での社会的変動と、その中で 成長していった民衆の変革力がその真の要因で はなかったか。今回はこの観点から明治維新を 捉えなおしてみたい。

 『「英将秘訣」論』に次の一節があった。

 フランス革命期の「内乱外寇」の情況が、テロ 至上主義を生んだ。ミシュレは、

「かつては恐怖のために人を殺した。
 いまは衛生のために殺すのだ」

と的確に批評しているが、それは「秘訣」的テロ リスムにまさるともおとらないものだろう。しか しそこにはそれがおそるべき二律背反を結果した とはいえ、やはり近代的自由の理念が前提されて いた。北のいうように「自由」と「専制」とは 双面神なのではなく、まったくべつの概念である。 透谷的にいえば、その自由の内実は
「民権といふ名を以て起りたる個人的精神」 (「明治文学管見」)
なのである。そしてこの精神こそ明治維新に可能 性として含まれていたものだった。

「武断と軍国とは自由に反すといふが如き愚論家 あらば、将にロベスピエールによりて自由の名の 下に断頭台に行かざる可らず」
と北がいうのは、維新以後の現実のアジア (日本)の情況に憑きすぎている。なぜなら透谷 のいうようにその精神は
「吾国の歴史に於て空前絶後なる一主義の萌芽」
だったからである。

 むろん北はその「萌芽」とい う理想を現実のむざんな中国革命の動向のなかで 見失っていったのだ。北の能動的ニヒリズムは 「秘訣」のそれと、質的にひじょうに似ている。 天皇=国体信仰と切れていることはその最大の 共通点だが、しかもなお、北の思想には青年将校 と一命をともにしたように倫理があった。

「仏蘭西革命に恥ぢ、維新革命に恥ぢ、而して後 れたる露西亜革命に恥ぢよ」


 あえなくなった明治維新の可能性、「吾国の歴史 に於て空前絶後なる一主義の萌芽」を、透谷をさか のぼって、幕藩体制下の民衆の直接行動の中に探る のが、今回のテーマである。

 さて、『大日本帝国の痼疾』(3)で紹介したように、 『新日本史』の著者竹越与三郎は1865(慶応元)年 生まれで、『新日本史』の上巻は1891(明治 24)年 に刊行されている。与三郎、26歳。
 北村透谷は1868(明治元)年生まれ、与三郎より 三歳年下。『明治文学管見』は1893(明治26)年 に書かれている。透谷縊死の一年前、25歳であった。

 維新の只中に生まれ、20代半ばの若さで独創の 自論を形成して いたこの二人の青年が交差することがあったのか、 あるいは まったく交渉なくすれ違っていったのか、知る由も ないが、この二人の明治維新観からはじめよう。

 『「英将秘訣」論』で引用されている部分も 含めて、透谷の『明治文学管見』より、その明治 維新観を抜き出してみる。


 吾人は此処に於て平民的思想の変遷を 詳論せず、唯だ読者の記憶を請んとする ことは、 斯の如く発達し来りたる平民的思想は、 人間の精神が自由を追求する一表象にして、その 帰着する処は、倫理と言はず放縦と言はず、実用 と言はず快楽と言はず、最後の目的なる精神の自 由を望んで馳せ出たる最始の思想の自由にして、 遂に思想界の大革命を起すに至らざれば止まざる なり。

 維新の革命は政治の現象界に於て旧習を打破し たること、万目の公認するところなり。然れども 吾人は寧ろ思想の内界に於て、遙かに 偉大なる大革命を成し遂げたるものなることを 信ぜんと欲す。武士と平民とを一団の国民となし たるもの、実に此革命なり、長く東洋の社界組織 に附帯せし階級の繩を切りたる者、此革命なり。 而して思想の歴史を攻究する順序より言はゞ、 吾人は、この大革命を以て単に政治上の活動より 生じたるものと認むる能はず、自然の理法は最大 の勢力なり、 平民は自ら生長して思想上に於ては、 最早旧組織の下に黙従することを得ざる程に進み てありたり、明治の革命は武士の剣鎗にて成りた るが如く見ゆれども、其実は思想の自動多きに 居りたるなり。

 明治文学は斯の如き大革命に伴ひて起れり、其変 化は著るし、其希望や大なり、精神の自由を欲求す るは人性の大法にして、最後に到着すべきところは、 各個人の自由にあるのみ、政治上の組織に於ては、 今日未だ此目的の半を得たるのみ、然れども思想 界には制抑なし、之より日本人民の往かん と欲する希望いづれにかある、 愚なるかな、今日 に於て旧組織の遺物なる忠君愛国などの岐路に迷 ふ学者、請ふ刮目して百年の後を 見ん。

 徳川氏は封建としては、斯の如く完備したる制 度を建設したり。 故に徳川氏の衰亡は、即ち封建 制度の衰亡ならざるべからず。日本民権は、徳川 氏に於て、すべての封建制度の経験を積みたり、 而して徳川氏の失敗に於て、すべての封建政府の 失敗を見たり、天皇御親政は即ち其の結果なり。  徳川氏の天下に臨むや、法制厳密にし て注意極めて精到、之を以て三百年の政権は殆 (ほとんど)王室の尊厳をさへ奪はんとするばか りなりし、然るに 彼の如くもろく仆れた るものは、好し腐敗の大に中に生じたるも のあるにもせよ、吾人は主として之を外交の事に 帰せざるを得ず。 而して外交の事に就きても、 蓋し国民の元気の之に対して悖(ぼつ)として 興起したることを以て、徳川氏の根蔕を抜きたる 第一因とせざるべからず。

 国民の精神は外交の事によつて覚醒したり。 其結果として尊王攘夷論を天下に瀰漫 せしめたり、多数の浪人をして孤剣三尺東西に 漂遊せしめたり。幕府衰亡の顛末は、 桜痴(あうち)居士(管理人注:福地源一郎)の 精細なる叙事にて其実況を 知悉するに足れり。吾人は之を詳論す るの暇なし、唯だ吾人が読者に確かめ置きたき事 は、 斯の如く覚醒したる国民の精神は、啻(たゞ) に徳川氏を仆したるのみならず、従来の組織を砕 折し、従来の制度を撃破し尽くすにあらざれば、 満足すること能はざること之なり。

 吾人の眼球を一転して、吾国の歴史に於て空前絶 後なる一主義の萌芽を観察せしめよ。 即ち民権といふ名を以て起りたる個人的精神、 是なり。この精神を尋ぬる時は、吾人奇 くも其発源を革命の主因たりし精神の発動に帰せ ざるべからざる数多の理由を見出すなり。 渠(かれ)は革命の成功と共に、一たびは沈静した り、然れども此は沈静にあらずして潜伏なりき。 革命の成るまでは、皇室に対し国家に対して起り たる精神の動作なりき。既に此目的を達したる後 は、如何なる形にて、其動作をあらはすべきや。

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