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《「真説・古代史」拾遺編》(8)

多次元史観 ― 関東王朝(6)


 前回で「関東王朝」を終わる予定だったが、 『日本列島の大王たち』に鉄剣銘文の古田読解の 根拠が詳細に掲載されていたので、それを取り上 げることにする。これによると、定説派論者と古田 さんとの、古代の文物を読解する上での方法論上 の違いが鮮明である。とても参考になる。どちらの読 解が妥当か、私にはもう明らかだが、はたして どうだろうか。(全部読んだ上で記事を書くべきところ、読 みながらの同時進行なので、後から重要事項に気づ くことがある。ご容赦を。)

 定説派論者と古田さんの読解で大きく異なる点を 対比しながら、古田読解の根拠を読んでいこう。 (赤字が古田読解。以下〈フ〉と記す。青字 が定説派論者の読解。〈テ〉略記す。)

(1)
乎の獲居の臣、祖を上(まつ)る。冨比垝 、其の児、多加利足尼と名づく。

オノワケノオミ、上祖名(かみつおやのな)オ オビコ、其の児の名カリノスクネ、

 〈テ〉では「上祖」を「カミツミオヤ」と読んで いるのに対して、〈フ〉では「祖を上る」と読んで いる。

 〈テ〉のように読むと、「乎獲居臣の上祖の名、 意冨比境」にはじまり、「其の児の名」を七回くり かえした上、最後はまた「其の児の名、乎獲居臣」 で終ることになる。つまり、同一人から始まって 同一人に終る文脈が所有格関係で連接されている。 不自然だ。

 〈フ〉では、「平の獲居の臣、祖を上る」と読み、 「意冨比境・其の児、多加利足尼」の〝二祖をまつ る″意としている。

(2)
世々杖刀の人首と為りて奉事来至す。

世々。杖刀人(じょうとうじん)の首 (かしら)と為して奉事(つか)え、今に至る。

 問題点が2点ある。

第一点:「杖刀人首」の読み
 「刀」で区切るか「人」で区切るかの違いだが、 意味は大きく違ってくる。

 〈テ〉ではその後、「杖刀人」を「タチハキ」 と訓じ、「首」を「ヲサ」と訓じている。この場 合の問題点は、何よりもまず、「杖刀人」という 成語は例がないことである。

 ちなみに、古語辞典では「タチハキ」の漢字表記は「帯刀」 であり、「東宮坊を護衛した武者」という意と記さ れている。要するに「門番」である。「門番」でかつ 大王を「左治」する人物とは何者だろう。

 〈フ〉では「杖刀」で区切っている。「杖刀」なら 例があると、古田さんは次のような例をあげている。

羽(関羽)・飛(張飛)、並びに杖刀、立直す。 (山陽公戦記『三国志』萄志、第六巻、裴松之注 引用)

「杖剣」の例はさらに多い。例えば

平(陳平)、身づから間行し、杖剣して亡(に) ぐ。(『史記』陳蒸相世家)

鯨布、杖剣し、以て漢に帰す。(『後漢書』 隗囂(かいごう)伝)

 「杖刀」あるいは「杖剣」とは「刀(剣)を 杖のように突く」ことである。そして上の例では、 いずれも主格は将軍である。門番などではない。

 したがって「杖刀人首」の意味は、「刀を杖の ようについた人首(首長)」、つまり武将のこと である。

第二点:「奉事」とはなにか
 この文言は二回使われている。〈テ〉ではこれを 「大王に事(つか)え奉る」意ととっている。 「獲加多支占(口の中に「九」)」を「ワカタケル」 と読みたいので成り行き上そうせざるを得ない。

 これに対して〈フ〉は、「祖先に事え奉る」意と している。冒頭の「上祖」を「祖を上る」としてい るので、そのような意となるのが自然だ。また、古 田さんは山ノ上碑・金井沢碑(群馬県)の同形式の 碑文

母の為に記し定むる文なり。(山ノ上碑)

七世の父母、現存の父母の為に……是の如く知識 に結びて天地に誓願し仕え奉る石文。(金井沢碑)

をあげて、『ここには〝母をまつり、祖先につか える″という、関東における祭事の伝統が表現さ れているのではあるまいか。』と、一つの仮説を 提出している。

(注:以下、「鹵(口の中に「九」)」という漢字を〈占+九〉 と書くことにする。)

(3)
今、獲(え)て、加多支〈占+九〉大王 ・寺(じ)、斯鬼宮に在り。時に吾左(たす)けて 天下を治(おさ)む。

ワカタケル大王の寺(役所のこと)斯鬼官(しき のみや)に在りし時、吾、天下を左治(さじ)し、

 一番問題のところだ。「獲加多支〈占+九〉大王寺」 を〈テ〉は、「寺」を役所の意に解し、「ワカタケ ル大王の寺」と読んでいる。「獲加多支〈占+九〉」 を「ワカタケル」と読むという結論がまずあって、 他の部分の読解はそれとの整合性に四苦八苦した結果 の観がある。「役所(寺)が宮に在るというのは文脈 上成立しえないのではあるまいか。」というのが 古田さんの批判である。

 〈フ〉の「獲て、加多支〈占+九〉大王・寺」と いう読みの妥当性は何か。

 〈フ〉は、「加多支〈占+九〉」(形代、潟代か)は民族風名 称で「寺」は同一人物の中国風名称と解読している。 そのような形式の名称例をあげている。

烏累単于咸(うるいぜんうかん)(『漢書』匈奴伝下)

 「烏累」は民族風名称、「咸」は中国風名称である。

日十大王年(隅田八幡神社の人物画像鏡)

 古田さんはこれも「日十(ひと)」が民族風名称、 「年」が中国風名称として訓むのが妥当だと言う。

 「寺」については、一案として、「畤」の略画という 説を提出している。意味は「まつりのにわ」=「天 地の神霊を祭る処」。

 さて、ここで取り上げてきたような古代の銘文の 解読は、その銘文の中だけでは、 すべてをキチンと確定できるわけではない。古代史と いう全体の中に置いて、その妥当性が判定されなければ ならない。つづまることろ、その史観が妥当かどうかに 帰着する。ヤマト王権一元史観か多次元史観か。 詭弁・強弁によって構築されてきたヤマト王権一元 史観による古代史のあまたの矛盾・不審・謎が、 多次元史観の観点からはほとんど全てすっきりと 解明されることを、古田古代学によって、私(たち)は縷々と 学んできた。ともに考えたいことが、まだまだ沢山ある。

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