2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(7)

多次元史観 ― 関東王朝(5)


第三点
 稲荷山古墳は、下の図のように、粘土槨と礫床 と二つの墓室がある。つまりそこには二人の人物が 埋葬されている。

稲荷山古墳の構造


 定説派論者たちはこの重要な事実をまったく無視 して立論している。初めに結論(しかも誤った結論) ありで立論するとき、必ず詭弁・強弁を弄せざるを 得なくなる。重要な事実を見て見ぬ振りするのも 詭弁の一種だ。こういうような手法で成り立って いる理論は学問ではない。

 さて、中心の位置にある粘土槨の方はすでに盗掘 されていた。これに対し、側にやや斜め向きの位置 にあった礫床の方は盗掘を免れていた。盗掘者は 脇の方にあるもう一つ墓室を見逃していた。問題の金 文字鉄剣はその礫床の方から出土した。

 以上のことは何を物語っているのか。この稲荷山 古墳の「主」は当然中心の位置にある粘土槨の被葬者で あり、脇の方の礫床の被葬者(乎獲居臣)はその 「主」の従属者である。二つの墓の位置関係はそ のような身分関係を語っている。他に考えようは ない。

 するとどういうことになるか。名文の中にあらわ れている現存(鉄剣作製当時)の人物は「X大王」 と「乎獲居臣」の二人だけである。もし「X大王」 を「ワカタケル=雄略」だとすると、「乎獲居臣」 の「主」が名文中にまったくあらわれていないこと になる。肝心の稲荷山古墳の「主」、粘土槨の人 物は宙に浮いてさまよってしまう。銘文の中の 「X大王」こそこの粘土槨に葬られた「主」であると 考えるのが論理のおもむくところだろう。古田さん の次の推論は説得力がある。定説派論者の反論を 聞きたいものだ。

 この稲荷山古墳のような位置関係の意味するとこ ろ、それは次のようだ。

 まず、粘土槨の人物が死んだ。この稲荷山古墳が 作られた。もちろん、通例通り正常な中央部に その遺骸は葬られ、粘土で木棺のまわりはおおわ れた。この人物をAとしよう。もちろん、Aはこの 地帯の権力者であった。

 そのあと、Bが死んだ。Bは生前、Aを慕っていた。 あるいはAを補佐することを己が生涯のつとめとし てきた。周囲も、それをよく承知していた。そこで Bが死んだとき、彼のために、個別の古墳を作るこ とをせず、Aの古墳(稲荷山古墳)の中に副葬する こととした。あるいはBの死のまぎわの遺言だった かもしれぬ。少なくとも、葬る人々にとって、その ような〝葬り方″は自然であり、Bの遺志にかなう もの。そしてAもまた喜びとするところ、そのよう に考えられたのであろう。

 このように、一つの古墳に二つの遺骸という場合、 両者が「夫婦」であったらしい、そういうケースの あることはよく知られている。しかし、これはそれ ではない。Bは男なのである。とすれば、Aは独身の まま若くして死んだのかもしれぬ。もちろん、その ようなことは一個の想像にすぎないけれど、想像で ない、確かなことは、先にしめした位置関係、その 位置関係のしめす生前の両者の身分関係、そして両 者の〝つながりの濃さ″である。何しろ、死後も 〝身をそばに横たえる″ような間がらなのである から。

 もうおわかりであろう。この金文字の語るところ、 鉄剣を書かしめた人物「乎獲居臣」が「大王」と呼 んで敬慕した人、死後も、その鉄剣をにぎりしめて、 あるいは身のそばにピッタリとつけてはなさなかっ た人、その金文字の指さす人、それは、この「粘土 槨の被葬者」をおいては考えられない。もしも、 そう考えないとしたら、遠い大和の権力者(雄略) にあててしまったとしたら、この稲荷山古墳の主 (粘土櫛の人物)は、ポッカリと空白の中にただよ い、鉄剣の中にあるべき位置がなくなってしまうので ある。つまり、金文字と古墳の内部状況とがまった く相矛盾して収拾がつかないのである。

 岸俊男さんも、やがてこの「矛盾」に気づき、 〝今後の課題″として「保留」された。しかし、 「保留」されたまま、その回答は出ぬままに終っ たのである。

 銘文の「誤」読解を主導した一人、故・岸俊男 京大教授も罪なお方だ。その「誤」読解が大手を 振って教科書(参考書)を闊歩している。

 最後にもう一つ、銘文冒頭の「辛亥年」につい てふれておきたい。定説では471年としているが、 それが本当に正しいのだろうか。古田さんは2003年 度の日本思想史学会の報告レジメ「稲荷山鉄剣銘 文の新展開について」で次のように述べている。

 近年、年輪年代測定や14C放射性炭素年代測定によって、 従来の「考古学編年」が少なくとも「約100年前後」、 さかのぼって「訂正」せられねばならぬ状況となって いる。従って25年前(1978)、この鉄剣銘文の「辛亥」 年を以て、「471」年に当て、倭王武の時代(南朝劉 宋の順帝の昇明2年、478頃)に相当する、としてきた、 そしてこれを大和の雄略天皇に当ててきた従来説は、 (新しい14Cや年輪の年代測定に対応させて)学問的 に再考慮・再検討されねばならぬこと、必然である。 然るに、最近(2003年9月27日(土))の埼玉県の県立 さきたま資料館のシンポジウムでも全くこれが顧慮 されていない。これらは学問的な誠実性を公人とし て欠くものではないか。同時に、大学や高校等の学 校教育上においても、「率直に事実に対面すること を回避せよ。」と、若者たちに教えていることにな らないか。不当である。

 「倭王・武=ワカタケル(雄略)」という誤った「定説」 もいまだに大手を振って闊歩しているようだ。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
古代出雲の考古学
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興
されたとの説になっています。
 そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸で四隅突出墳丘墓
が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と
安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと
考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
 西谷は出雲大社に近く、安来は古事記に記されたイザナミの神陵があるので神話との関係にも興味がわいてきます。
2008/11/05(水) 22:25 | URL | 大和島根 #-[ 編集]
出雲王国
日本の歴史は何かを認めない力が働いている。私は長い間、出雲王国は中国からの渡来人そして大和地区は韓国からの渡来人と思っている。よって聖徳太子は韓国人ということになる。これは奈良時代まで続く。歴史を隠すためか発掘されない古墳の多いこと甚だしい。
2008/12/03(水) 17:17 | URL | 歴史を正す会 #-[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/954-f4b1cfaf
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック