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《「真説・古代史」拾遺編》(5)

多次元史観 ― 関東王朝(3)


 稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文の定説となっている 読解は果たして正しいか。定説派学者の読解と古田 さんのそれとを対比してみよう。(赤字が古田さん の読解で、青字は現代語訳)


(表)


辛(亥)の年、七月中の記。
辛亥の年、七月中に記した。

辛亥の年の七月中記す。


乎の獲居の臣(「コノカキノオミ」か)、 祖を上(まつ)る。意冨比垝(「イフヒキ」か)、 其の児、多加利足尼(「タカリノソクニ」か)と 名づく。
わたし、乎の獲居の臣は、先祖(二祖)をまつった。 意冨比垝(「いふひき」か)とその児、第二代多加 利足尼(「たかりの足尼」か)がこれである。

オノワケノオミ、上祖名(かみつおやのな)オ オビコ、其の児の名カリノスクネ、


其の児、弖巳加利獲居(「テイカリノカキ」か) と名づく。其の児、多加披次獲居(「タカヒシ ノカキ」か)と名づく。其の児、多沙鬼獲居 (「タサカノカキ」か)と名づく。其の児、 半弖比(「ハテヒ」か)と名づく。
その児は第三代弖巳加利獲居(「ていかりの獲居」 か)、その児は第四代多加披次獲居(「たかひし の獲居」か)、その児は第五代多沙鬼獲居 (「たさきの獲居」か)、その児は第六代半弖比 (「はてひ」か)、

其の児の名テイカリのワケ、其の児の名タカヒシ のワケ、其の児の名タサキワケ、其の児の名ハテ ヒ

(裏)

 其の児、加恙披余(「カサヒヨ」か)と名づく。 其の児、乎の獲居の臣(「コノカキノオミ」か) と名づく。
その児は第七代加恙披余(「かさひよ」か)、そ の児が第八代のわたし、乎の獲居の臣である。

其の児の名カサヒヨ、其の児の名オノワケノオミ。


世々杖刀の人首と為りて奉事来至す。
世々、杖刀の人首として、先祖に仕えてきた。

世々。杖刀人(じょうとうじん)の首 (かしら)と為して奉事(つか)え、今に至る。


今、獲(え)て、加多支鹵(「カタシロ」か) 大王・寺(じ)、斯鬼宮に在り。時に吾左(たす) けて天下を治(おさ)む。
今、信任をえて、加多支鹵(「かたしろ」か) 大王(名は寺〈じ 畤か〉)が斯鬼(しき)宮に あって統治しておられたとき、わたしはこれをた すけて天下を治めた。

ワカタケル大王の寺(役所のこと)斯鬼官(しき のみや)に在りし時、吾、天下を左治(さじ)し、


此の百錬利刀を作り、吾が奉事の根原を記せ 令(し)むるなり。
この鍛え抜かれた鋭い刀を作り、わたしの先祖に 仕える、その根原を記させたのである。

此の百錬の利刀作らしめ吾、記し奉事するは□□ なり。  (口の二字は未解読)


 古田さんは銘文の解読に際して次の2点に 留意すべきことを強調している。

第一点
 固有名詞の読みはいずれも試案であって、確定的 ではないこと。例えば、魏志倭人伝の「卑弥呼」や 「難升米」は今「ひみこ」・「なしめ」と読み慣わ しているが、それとて「正確な読み」とは直ちに 確定できない。

 銘文中の「大王」名も他の 人名(8名)も読みを確定することができない。 これが原則だ。にもかかわらず、定説派論者は 極力、銘文を「記紀」の王名表(天皇の列名)に合 わせて読もうとする無理を冒している。古田さんは 慎重に( )内に(「 」か)として、その読み が一つの試案にすぎないことを示している。

 くり返していう。王名表に合わせてピタリ。こう いうやり方は危険だ。一元主義(天皇家が唯一 の中心権力者である、との立場)を前提としている。 主観主義の立場である。イデオロギー(天皇家中 心主義)優先の立場だ。わたしたちは人間の歴史 学を欲するならば、これに別れを告げねばならぬ。

第二点
 この銘文には「比鹵」「足尼」「獲居」などの 官職名・称号と思われる文字がある。それらはあ るいは「ヒコ=彦」「スクネ=宿爾」「ワケ=別」 なのかもしれない。しかし、もし仮にそうだとし ても、近畿ヤマト王権の中の同音称号と同じ意味 の称号とは限らない。また、ヤマト王権 内で「ヒコ→スクネ→ワケ」といった形で称号の 時間的変遷があったわけでもない。銘文中の称号 とヤマト王権内の称号とが直ちに〝同類″とみな すのは早計である。

 一元主義でなく、正当な多元主義の立場に 立てば、関東の大王家にはこのような称号が歴史 的に存在していた ― そのように考えるのが正 当だ。わたしにはそう思われる。

 従来の「定説」流の論者は、はじめからこれを 「天皇家の中の官職名」「天皇家の配下の称号」 ときめてかかってきた。

 しかし、考えてみよう。お隣の朝鮮半島。新羅、 百済、高句麗から伽耶(かや)諸国まで、それぞれ独自 の官職や称号をもっていた。それは三国史記や三 国遺事に書かれてあり、それを疑う論者はいない。 とすれば、朝鮮半島よりずっと広い日本列島。ここ には、官職名や称号の「発注所」つまり作製中 心が〝たった一つ″だったといって誰が信じよう。 少なくとも、多元的に存在して当り前、そう考 えてなぜおかしい。おかしいのは、一元主義者の 先入観の方ではないだろうか。

 以上のように考えることが正しいとすれば、 あるいは自然であるとすれば、この鉄剣の金文字 に出てくる官職名や称号についても、近畿の天皇 家の中のそれと強引に結びつけてはならない。それ がすじだ。

(中略)

 現代では、確かに、文化勲章や勲一等の勲章を 授けたりする〝特権″は天皇家に限られているで あろう。少なくとも、この日本列島の中ではそれ は確かだ。だが、そのような現代の特質を古代に もまた、もちこむとしたら、わたしにはそれは正 当とは思われない。

 むしろ、そのような現代人の「固定した視角」 から解放されること、それこそ古代史を探究する 者にとって根本の必要事、わたしにはそのように 思われるのである。

 否、古代史のみならず、科学としての、人間の 歴史を学ぶため、それは基本をなすイロハではな いだろうか。稲荷山古墳出土の鉄剣の金文字、そ れはそのイロハをわたしたちに問いかけ、わたし たちをためす、そのための貴重な試金石だったの である。

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