2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
471 「良心の自由」とは何か(4)
魔女裁判(1)
2006年4月12日(水)


「魔女の秤」
 あらかじめ被疑者の体重を予想する。実際にはかってみて予想体重と一致するか、それ以上の場合は潔白が承認され、それより下の場合は、魔女と認定される。
「水審判」
 女を縛って水に入れ、水中に沈んだら潔白、浮かんだならば魔女として判定される。

 日本の古代には盟神探湯(くがたち)という正邪判定法があった。それと同種であり、どちらかというと古代的観念の所産だ。私たちにはまったくの迷妄としか思えないが、『一般的な「権威ある」魔女判定法とされ、実際の法廷で使用せられていたもの』だという。

 古田さんはもう一つ、つぎのような判定法を紹介している。

「魔女刺し」
 みんなの見ている前で衣服を頭の上にまくしあげて腰まで裸にし、からだに針を刺さすという拷問。
 こした拷問で自己を魔女と認める自白を強要し、しかも自白しないことがまた魔女の証拠であるとする。
 あるいは、拷問で糾問されても「泣かないこと」が魔女の証拠であると同時に「泣くこと」も魔女が自己を魔女でないかのように見せる詐術とした。

 結局は一度「魔女」という嫌疑をかけられたら「魔女」と判定される以外にない。古田さんは『魔女であるかどうかよりも、魔女というレッテルをはられた犠牲者の存在がいかに社会的必要物だったかを示しています。』と指摘している。

 魔女裁判による犠牲者はどのくらいいたのだろうか。

 ドイツの一地方に任命された審問官はさして長くない、自分の任期のうちに、数百人の魔女を発見し、審問し、処刑したことを刻明に冷静に報告してる。

 『魔神崇拝論』の著者ニコラ・レミ(1530~1563年)も大審院で15年の在任中に約900人の魔女に処刑を宣告したと報告している(平均一週間に一人以上)。

 『これらは決して異例ではなく、全ヨーロッパ各地の通例の状況の一例に過ぎない』という。

 ではなぜかくも不条理で残酷な宗教裁判が行われねばならなかったのか。その現実的社会的意義は何だったのか。
 まず第一に考えられるのは『ローマ法王を頂点とする中世的封建的ヒエラルヒーの強制的圧力』『人民を恐怖心でしめつけることによって階級社会を強力に維持する裁判』というとらえ方であろう。この見地は欠くことのできぬ必要な要件であるが、この裁判の歴史的性格を理解するにはこの見地からだけの説明では十分ではない、と古田さんは言い、この見地だけからは説明しきれない魔女裁判の歴史的な経緯を指摘している。

(1)この裁判が中世ヨーロッパ内で地域的に濃淡の存すること、特にスカンジナビア半島ではほとんど皆無に近かった。逆に近世的先進地域イベリア半島で最も盛んであった。
(2)魔女裁判が猖獗を極めたのは、8世紀以前の封建制度形成期や、9~13 世紀の封建制度完成期(10~13世紀が法王極盛期)でなく、13世紀を起点として17世紀に至る近世期にあたっている。
 中で最も大規模な魔女狩りが行われたのは17世紀全期間。1590~1610年、 1625~1635年、1660~1680年の三期にわたり、約10万人の魔女が焼き殺されている。
 魔女裁判による最後の処刑は1781年、完全消滅は1834年。

 このような蒙昧な裁判がつい百数十年前まで行われていたとは、驚きだ。私(たち)は「中世は暗黒時代」という間違った歴史観を刷り込まれている。その先入観が根強いので、魔女裁判のような極悪非道な人権無視の権力行使は中世の出来事だと、つい思いがちだ。中世が一般に言われるような暗黒時代ではなかったことは、たとえば網野善彦さんの諸研究がそれを証明している。

 さらに次のような事実も第一の立場だけでは不十分であることを示している。

 「魔女」に擬せられたのはどのような階層の女性かというと


ヴュルツブルクの司教管区にある被処刑人名簿によると、火刑になった者の身分は「小刀研ぎ師」や「橋門の見張番の女」といった、貧しい階級の者と共に、「洋服屋の太った妻」「パン屋の妻」「収税吏の妻」から「シュルツ博士の幼女」「太った貴族の女」に至るまで各階級に対しはなはだ「博愛的」な一面を有するのも、階級主義的見地のみからは尽くせぬ要素を感じさせます。



 「ところで、魔男」(?)というのはいなかったのか。いたそうだ。ただし全体の10%ぐらいだという。
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