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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『大日本帝国の痼疾』(14)

「英将秘訣」―その愚民観(1)


 前回、「秘訣」と青年将校・磯部浅一の天皇観の 類似性をみたが、前者に著しく後者にはまったく ないものがある。「愚民観」である。

 2・26事件の青年将校たちの直接行動の動機は窮 乏化した農民大衆の解放・救済であった。彼らには 愚民観は無縁であり、むしろ民衆の美化がみられる。 自分たちの運動が国民を「覚醒」させるにちがいな いという、民衆へのオプチミスティックな期待があ った。一般に、超国家主義者は理想主義者であって、 その民衆観にはとくにその傾向があらわれている。 近藤さんは例として、西田税の手記「民衆の趨向」 (1922年)から、次のような引用をしている。

 政界を始めあらゆる階級あらゆる社会の腐敗堕落 と相伴って一般民衆はかつ迷いかつ動揺した。そし てこれに随従せざるべからざるを強いられて滔々と して無化した。
 道徳破壊、良風破壊。
 すべての堕落より来った結果として一般民衆は良 風を破壊した。生活に非常な脅威を感ずるに至った。 不安となって来た。思想はいちじるしく不良となった。
 労働者と資本家との争斗はここに生じここに進 んだ。不逞浮浪の徒は野を満たした。
 一般は今なお無知である。ゆえにその言動たるや 妄言であり乱動である。これが動く―  国家はいよいよ混乱である。  民衆もこの責は負わねばならぬ。  しかし、彼等は可憐である。引きずられたのであ る。  速かに彼らを匡救しなければ、あるいは恐る、邦 家の大患はここに発せん。
 みずからみずからに火をつけて焼け死ぬるような 惨事を惹起せぬとも限らぬ。
 ああわれらは救わねばならぬ。
 民衆は国家民族の大部を形成する。
 偉大なる底力を有するものはまこと一部少数の 機関にあらずして実に民衆である。
 しかもこの民衆がいまや危険の深淵に臨んでいる のだ。
 救済者なくんば彼らはついに前進してこの危険を 踏まねばならぬ情況におかれてあるのである。
 危いかな、七千余万の海東の民生よ」(「無眼私論」)


 さらに磯部浅一の獄中手記から、看守との交感を 記録した部分を引用している。磯部が看守によって励ま され、銷沈した意気を回復している様子がえががれてい る。

 午後から夜にかけて、看守諸君がしきりにやって 来て話もしないで声を立てて泣いた、皆さんはえら い、たしかに青年将校は日本中の誰よりもえらいと 言って泣いた、必ず世の中がかわります、キット仇 は誰かが討ちますと言って泣いた、中には私の手を にぎって、磯部さん、私たちも日本国民です、貴方 たちの志を無にはしませんと言って、誓言をする者 さえあった、この状態が単に一時の興奮だとは考え られぬ、私は国民の声を看守諸君からきいたのだ、 全日本人の被圧迫階級は、コトゴトクわれわれの味 方だということを知って、力強い心持になった、そ の夜から二日二夜は死人のようになってコンコンと 眠った、死刑判決以後一週間、連日の祈とうと興フ ンに身心綿のごとくにつかれたのだ。

 昭和のウルトラ・ナショナリズムは倫理的である が、「秘訣」には「愛すれば近づき、悪めば去り、 与ふれば嬉ぶは禽獣の様也。人倫亦何の異る処かある」 とあったように、倫理の解体した地平で、その愚民 観はでてきている。そしてそこには民衆憎悪や敵愾 心といった感情的要素はみとめられず、あるのはただ 冷徹な民衆蔑視である。


一、世界の人民、如何にせば鏖殺(みなごろし)に ならんと工夫すべし。胸中に其勢あれば天下に振ふ もの也。

一、世界に撒(ま)き散らしたる人民又は金銀の類、 自在に予が言を聞けば、天下を掌握するの才ありと 知るべし。

一、鳥獣といへども、己を殺さんといふを知れば、 身構えするもの也。如何なる馬鹿者にても打解けざ る内は殼中に入れ難し。是を生捕り侯術他なし、食 色の二つにあり。

一、形を望んでは下賤を見下し心を察しては凡夫と 暁り、動揺せば小蝉の如くと一目の胸中にありたし。

一、蜘蛛は網を乾坤に張りて虫のかゝるを待つ。士 農工商の様凡此虫の如し。

一、人に益を与へて後に策を廻らせば、中人以下は 陥るもの也。

一、愚人ほど郷間には成安きもの也。重賞を用ふる 事専一也。

一、青人草(あおひとぐさ)の食ひて生くべきもの也と勅りし、天照 大神の此語中に眼を晒して人を扱ふべし。

一、民は之によらしむべし、是を知らしむ可らずと 云心ばえ、万事にあるべし。


 すべてこれらの愚民観は、権力志向と表裏一体の 関係をなしている。権力への意志が愚民観を強め、 愚民観が権力への意志を強めるという相乗的な観念 構造をもっている。

 「天下に振ふ」、「天下を掌握する」ための、民 衆はチェスの駒にすぎない。「人民又は金銀の類」 といういいかたにあらわれている民衆の物質化はも とより、「蜘味は網を乾坤に張りて虫のかゝるを待 つ」という表現は、権力の民衆にたいする政治支配 の、ほとんど耽美的といえる暗喩である。 (農工商という被支配階級だけではなく武士階級が そこに含まれていることは、注目すべきかもしれな い)

 一般に民衆が支配の道具にすぎないという見方は、 べつに特殊なものではなく、洋の東西を問わず封建 支配者に共通している。封建諸侯だけではなく、シ ーザーのような古代の専制君主にも、ヘンリー八世 やルイ十四世のような封建から近代への移行期の絶 対君主にも、またヒトラーのような近代ファシスト 的軍事独裁者にも、程度の差こそあれ、そのような 民衆観はみられるはずである。

 日本封建支配者の場合、たとえば秀吉の農民観は
「百姓は生かさぬように、殺さぬように」
というものであったし、江戸幕府のそれは
「百姓は分別もなく末の考もなきもの」
ときめつけていたが、
「年貢さへすまし払得ハ百姓程心易きものハ無之」 (慶安触書)
というように、農民統制はなによりも貢租対象とし て周到をきわめねばならなかったから、それほどろ こつな愚民観は存在しなかったといえる。

 これにたいし「秘訣」にみられる愚民観が徹底して いるのは、書き手が現実に権力をにぎっていないか らである。

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