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『大日本帝国の痼疾』(11)

南北朝内乱期と幕末との類似性


 今回は近藤さんの論述をそのまま引用する。

 以上みてきたように「秘訣」における天皇観は、 尊攘激派にふさわしい天皇信仰の内面的解体から 生じた虚無を梃子として、天皇(制)を能動的に 無意味化するというニヒリズムを表現していた。 そのさい価値破壊の対象である伝統的権威を体現 した天皇(制)は、その本来の威力である宗教的 側面において無化されたから、しかもそれに代替 すベき絶対性が流動的な情況そのものから要請さ れたから、その非本来の政治的側面が権力的に強 化されることになつたのである。

 幕末期に、いや近世全般にわたって天皇(制)は なんら公権力としての実体を保有したことはない、 であったからこそ明治「革命」の思想的根処たり えたのだという反論がおこるかもしれないが、天 皇(制)の本質である宗教性の背後で、影のよう につきまとつてきた政治性を看過することは、で きないのである。直接それを掌握しなくとも、現 実に政治権力を行使している支配者(および支配 機構)に間接的に遠隔操作をほどこす、という日 本的政治形態の特殊性は、日本歴史を貫通してき た。天皇「親政」がおこなわれた(7世紀、14世紀 等)時期が短期であつたにせよ、そしてそれが歴 史に逆行したアナクロニズムであつたにせよ.そ れらが歴史的事実であったことは、「王政復古」 に政治思想という現実性をもたらしたのである。  すなわち天皇(制)の常態である宗教的威力は、 政治的権力とべつようにあつかうことのできぬ支 配構造をもっているのではないかということであ る。

 このことは、わたしたちに〈国家〉の〈権力〉 という概念を多面的に考察することを強いている。 言葉遣いの問題だけではなくて〈権力〉という概 念は、政治的にだけではなく、宗教的な権威にも、 風俗習慣の規定力にも、イデオロギーにたいして も通用させねばならないことを示唆している。そ して最後には、ある一定の〈公〉的な位相をもっ た役割が〈世襲〉されるということのなかに、す でに〈権力〉の発生する基盤があるとかんがえる べきであることをおしえている」(吉本隆明)

 ここでの課題にひきよせていえげ、「秘訣」に みる能動的ニヒリズムが、なぜ、天皇(制)の本 来的なありかたである宗教的威力を無化しながら、 なおその政治権力を復元させようとしたかという 問題である。よくしられているように天皇(制) の伝統的権威を利用することは日本的政治権力者 の常套手段であった。

 もちろん「秘訣」の作者もそのことは充分に認 識している。

一、信長は天下の人々高位を望で朝廷の取次をせば、 国中の人我に従ふ決定(けつじよう)を知りたり。

一、太閤は、受嗣ぎて官位を取次ぐ。斯くて取り次 げば家来も同様かく行也。

一、家康は、最早天下は天下に還るフリあり、天子 を以てタヽキて是を矢玉にさへ使はゞ、公の如く吾 天下を自在にすべしといふ事を知りて、行ひたる也。 故に口には忠を云て身には自在を行ひたり。


 この後、近藤さんの論述は「幕末期と南北朝期の 類似性」に及ぶ。それを読むための予備知識を2点、 南北朝の発端となった「両統迭立(りょうとうて つりつ)」と、政治支配の二元的な使い分けという 日本の伝統的な政治形態の最も突出した現象である 「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」について、 確認をしておきたい。さいわい、 『大場佳代の楽しくヒストリー』 というホームページに出会った。そこに、簡潔で 分かりよい解説があったので、それを利用させて いただくことにする。

両統迭立 BR>
 両統迭立とは,鎌倉時代中期に,天皇家が「持明院統」と「大覚寺統」の 2皇統に分裂した際の妥協策で,両統が交互に皇位につくとした原則のこ とです。

 後嵯峨法皇の死後,皇位継承や皇室領をめぐって第3子の「後深草天皇」 と第7子の「亀山天皇」があらそい,天皇家は「後深草系の持明院統」と, 「亀山系の大覚寺統」に分裂しました。

 両統はそれぞれ鎌倉幕府に運動して有利な位置を得ようとしたため,幕府 は『両統迭立』の妥協策をしめし,「後宇多天皇」から「後醍醐天皇」ま での6代が交互に即位しました。

 しかし所領をめぐる争いはこの間も解消せず, 1317年,幕府の仲介で「文保の和談(ぶんぽうのわ だん)」が成立しましたが,全面的な和解にはなり ませんでした。

 そして,この和談で即位した大覚寺統の「後醍 醐天皇」が討幕運動をすすめたため,幕府は持明 院統を支持し,さらに後醍醐の建武の新政の崩壊 後は足利尊氏の支持する持明院統の北朝と後醍醐 の南朝が完全に対立,南北の争乱に発展しました。


観応の擾乱

 観応の擾乱とは,南北朝期におこった『室町幕 府の内部抗争』です。1349年から1352年まで続き ました。

 初期の室町幕府は,将軍である「足利尊氏」と, 弟の「直義(ただよし)」とが権限を分割し,恩賞 の給与や守護職・地頭職などの任免は「尊氏」, 所領関係の裁判は「直義」の権限でした。しかし, この二頭政治が,幕府内に2つの党派を生むこと になります。

 まず,尊氏の執事の「高師直(こうのもろなお)」 と「直義」が激しく対立しました。尊氏の権限を 代行する立場にあった「師直」の勢力拡大に危機 感をもった「直義」は,養子の「直冬(ただふゆ)」 を中国地方へ派遣し,師直の打倒をはかりました。 しかし,師直は,自派の軍勢をひきいて幕府をか こみ,尊氏にせまって直義を引退させたのです。

 先手をとられた直義派は,各地で挙兵し,直義 も「南朝方」について師直討伐を正当化し,京都 を占領し,両派は全面戦争へ突入しました。そし て,両派の主力が摂津で激突,直義派が勝利して 高師直一族は殺されました。また,東北や関東で も直義派が勝利し,尊氏と直義はいったん「和睦」 し,直義は尊氏の子の「義詮(よしあきら)」を後 見するかたちで幕府政治に復帰しました。

 しかし,尊氏と義詮があいついで京都をはなれ, 直義を挟み撃ちする作戦にでたため,直義は,京 都を脱出,自派勢力の強い北陸をへて鎌倉へ逃走 しました。今度は尊氏が「南朝方」について直義 討伐を正当化し,直義派をおって鎌倉へむかい, 直義を降伏に追い込みました。そして,尊氏は鎌 倉にはいり,直義を毒殺しました。

 直義の死で一連の抗争は尊氏の勝利で終わりま した。しかし,直冬ら直義派の反抗はつづき,一 時は南朝方の勢力挽回をもたらすなど,幕府政治 はしばらく不安定な状態が続きました。



 さて、近藤さんの論述に戻る。

 幕府(政治権力)が朝廷(宗教)へ介入する ことはあっても形式的に従属していた幕末期に反 し、「観応の擾乱」においては、幕府が朝廷を 「矢玉」に使うことはいわば朝飯前であり、朝廷 の徹底的な傀儡化がむしろ日常茶飯事のできごと であった。天皇(制)への忠誠心そのものが、そ こには二通りあつたからであり、「両統迭立」と いう皇位継承争奪は、幕府側より朝廷じしんの 側で「万世一系」の価値を下落させ、二つの王朝 が正統と異端をあらそうほどだった。

 上部構造における幕末期と南北朝期との類似性 は、天皇(制)の宗教的威力が地に堕ちていたと いうてんで、前者(とくに尊攘派が天皇の政治手 段化を促進することで倒幕派に転換する慶応年間) は、後者に遠く及ばない。「神皇正統記」ならそ うだろうが、幕権を正当化した「梅松論」などとお なじように北朝正統論の立場にたつ『太平記』が 幕末志士にかなり読まれたことは暗示的だが、 医学者の鈴水重胤が乱臣賊士の入門書の ような『太平記』を高く評価したというエピソー ドは、天皇(制)の合理的解釈を物語っている。

 そして重胤がいわゆる廃帝問題により、かつて 同門であつだ平田派の手にかかつて暗殺されたら しいこと、誤爆をうけた重胤が、維新後明治国家 に名誉回復の贈位をえたことは、平田国学の性格 がリアル・ポリテイクスといかなる関係をもって いたかを物語っている。

 要するに「秘訣」にあらわれている合理主義的 権力観(=天皇観)は、日本政治史のなかにその 前例をもっており、また維新後の明治国家官僚が 身につけていた政治にたいする技術観点に後例を みいだせる程度の、ニヒリズムにすぎない。

 ここで近藤さんが「秘訣」の天皇観をさして、 前例も後例も見出せる程度のニヒリズムに過ぎない、 と断じるのは、それほどの独創性はないという意 だけではあるまい。本当のニヒリズムが志向する 「あらゆる価値の価値転倒」とは、三好十郎の言葉を 再度引けば、「より大きな肯定へ向っての 深い無意識の意志だ。真に尊重さるべきなにもの かを生み出す力を持ったもの」だからである。 つまり、「秘訣」のニヒリズムには、新しいものを 生み出すまでの力が欠けていた。

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